自分の声はやなもんだ
重田恵介
自分の声が録音されているデーブを聞く度に、僕はどっと落ち込んでしまう。何時もこんな声で喋っているのか、等と考え出すともうダメだ。今まで喋っていた事が嘘の様に思えて来るし、喋る言葉が本当に他人に伝っているのかが信じられなくなる。しかしどう足掻いてみても声は変らず、自分の骨格を怨むしかない様だ。そんな時に僕の執る方法は、やはリニ十数年間付き合った自分の声感覚に戻る事だった。それに対して鈴木志郎康の映画は逆に自分を堀り起してしまう。そして今回の「15日間」はその中でも量も過激なものだった。
この作品はタイトルの示す通り、十五日間毎日撮影されたものだが、その被写体は作者白身である。同時録音カメラ(オリコン)を三脚に据え、そのカメラからのマイクを手に持って、毎日百フィート分だけレンズの前に立つ。ぼそぼそとその日の事や、今、回っているフィルムについて語る姿は、僕を落ち込ませた録音テープどころの騒ぎではない。前半、作者はカメラに背を向けて座っていて、終りの方になるとフィルムを気にして振リ返るだけになっている。話し声は貫く、「疲れた」と何度か口に出し、その原稿書きで疲れ切った顔こちらに向けるのだ。その顔の凄さを見て、これで作者はこの作品を本当に観て編集したのだろうか?と考える。ただ、自分で作った取リ決めに執念で従っている様なのだ。作者とフィルムがケンカでもするかの様に火花が散リ、両者の擦れ合いになってくる。こうなると僕は”いいファイトを残して欲い”などと思ったりして、傍観者(当リ前かな?)に徹底する事になろた。
しかし、前半のラッシュが現像所から出て来た後は話が違ってくるのだ。(作品の中でも”ラッシュを見た”と言っているのだが)だいたい後向きに座っていたのが正面を向いて喋リ出す。ここからは、自己弁護になるのだ。こうなってくると、さっきの”ちゃんと映画を見て編集したのか?”という疑問も解リ出す。辻褄が合ってくるのだ。これが良い事かどうかは解らないが、あまリファイトという感じではなくなって、”実験映画みたい”なんて思ってしまった。ラッシュを見た時に作者も相当落ち込んだな、などとほくそ笑んでみても始まらないが、少し見方が偏って”もし”という事になるのだ。”もし、作者が途中でラッシュを見なかったら”この映画はわややになったのだろうか?それとも作者のふところはもっと深いのだろうか?しかしこれは、撮影者としての鈴木志郎康を考えていないのかもしれない。後半には作者白身の写っている部分の中に、風景やスナップなどが多く挿まれてくる。ここでバーッとカメラマンである作者である鈴木志郎康が頭に広がる。そして前半のシーンを作者とオーバーラップさせてみる事になるのだ。
いくら僕自身がない頭を絞ってみても、作者のふところの深そうな体形が浮んできえ答えが出ない様だ。自分とは一番近くにあるのに、一番遠くて見えない。鏡に向ってみても、一番良い顔をしている(キモチフルイ)自分が見えて、映画の撮った時と、現像から上った時の時間の差が嬉しく思えたりするのだ。そしてこれを撮って人に見せる事が出来た鈴木志郎康が羨しい様な、次の映画はどうなるのか心配になったリしてしまった。
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