カメラまでの距離

      和田辛子







  『十五目間』は最高にしんどい映画だった。とことん疲れて、腹が立つ程だった。それを私は、二回見てしまった。見ている間、自分の映画の事ばかリ者えてしまった。つきつけられている様に感じた。見終った後、自分の映画との違いからか、単純に良い映画だとは云えなかった。げと、冗談じゃない映画だと思った。
 鈴木志郎康さんの映画は、「映画=日常の実験」だと思った。日常内の実験ということではなく、自分の日常そのものを実験材料にしてしまうという事だ。だから鈴木志郎康さんの使う、「極私的」という言葉は、私的とか私情とか私怨とかからは、最も裏腹な距離にあって、それは私ではなく「私」として語る事なのだろうと思う。カッコ付きの「私」というのは、共通項として提出された”とある私”の事。だから鈴木志郎康さんの映画は、実験材料としての「私」と、実験する人としての私とが、カメラをはさんで三角関係を形作っている。げと、何故三角関係で悶着が起らないのか、疑問を感じてしまう。私と「私」が交錯しないでいられるというのが、私は不思議で、不満で、鈴木志郎康さんの凄い所なのではないかと思う。
 とにかく映画の話。『胸をめぐった』は暖色の映画だった様に記憶している。とても前に見たので、うまく言えない。やはり日記映画。そう思っているだけかもしれないが。札幌の雪景色。暖かい部屋の中。奥さんの裸の胸をめぐるカメラ。日常を語るナレーション。局部的な暖さの映画だった様な印象が残っている。好きな映画だと思った。『日没の印象』はシネコダックという16ミリカメラを買った所から始まる。マリさんやまだ赤坊の草名君を撮る。とても初々しい映画だと思った。山があるから登るのだ方式で、カメラがあるから撮るのだという動機が、とてもはっきりしていた。けれど何故これがホーム・ムービーではなくて日記映画なのかと云うと、それが鈴木志郎康さんの作品となっていたからだ。というのは抽象的すぎる。ホーム・ムービーの曖昧さや、対象が主体になる、という所がなく、主体があくまでカメラにそそられて撮影する鈴木志郎康にあり、そうして撮ってしまう「私」というものをはっきリと提出していたから。こうなると味もソッケもなくて、映画の事を語っていなくなってしまう。しかし、映画の事を語るのには、見てもらわないと仕方なくて、私は、説明をする気はないから見て下さいと二言云って終ってしまう。そうすると映画評など書く意味がないのではないかという風に思考が進んで来て、書いている私は、どうしたら良いんだろう?結局映画評というのは、書く人がどう感 じたかなのだというアキラメ方をして、十一行前にもどることにしよう。で、印象に残ったのは、映像の初々しさと、日没の風景というより光景の、匂い。モノクロで撮られた日没の風景というのは、カラーの赤の夕焼けよりも、もっと強烈に日没の光景になるのだなっと思った。
 『夏休みに鬼気里へ行った』という映画は、タイトル通りの映画。屋根の反射とか、草がキラキラして揺れる様とかが、とても強烈な日射しを感じさせた。ロングショットで捉えた、林の中の屋根に夕立ちが煙る様は、裏のムッとする匂いがした。ここでもモノクロの画面は、リアルだと感じた。しかしこの映画は、ホーム・ムービーに近い様に思った。というのは、曖昧だからだ。何が曖昧がというと、この映画には、カメラを回す鈴木志郎康さんは居ても、映画の中には、「私」が提出されでないからだ。こんな風にキメツけて良い物だろうか? ”からだと思った”と”からだ”と言い切る事に、結局はたいした差はなくて、見かけがキメツケがキツクなるだけで、この文章全体が、”だと思う”の上に乗っかっているのだから、言い切る形は、やっていい事なのだと思う。で、ここまで省いて来て、ホーム・ムービーと日記映画どの区別に、自分がこだわっているのが、変な気がしてきた。私は名称をくっつけたいのだろうか? いやそうではなくて、考え方の違いを区別したいのだ。区別というのはイヤラシイ事なのだけど、映画評を書くというのはそういう事なのではないだろうかと思うから区別する。まず、ホーム・ムービーと云うのは私にとってはダメな映画の一つの方法である。いや、私は方法の否定はしない事にしているから、これは変だ。しかし、ホーム・ムービーをホーム・ムービーとして撮ってる人はそれでマル。映画評を書く対象にはならない。だから、映画評をかく対象とて、”ホーム・ムービーになっている”というのは、ケナシ言葉として使用するという事だ。何故ダメかというと、作者の作品に対する態度が曖昧であること。対象に依存していて、作者が顔を見せない。勝手に満足していて、見る人との映画での共通項というのを見難している。これは個人映画としてはダメだという事で、映画としてダメかというと、もしかしたらホーム・ムービーの大傑作というのがあるかもしれないという余地を残している。だから、『夏休みに鬼宗里へ行った』という映画は、画面の情感が好きなのだが、ちょっとここでは対象外にはずすことにする。
 『極私的魚眼抜け』というのは残念ながら見ていないので書けない。『景色を過ぎて』は、何故か印象の薄い映画だった。考えていると、『草の影を刈る』の画面に繋がってしまう。仕事で行った沖縄の風景とか、遊びに行った京都の夏とか、公園とか、そういったものが綴られている日記的映画で、家の窓からの景色は、何故か飽きないといった様なナレーションで終るように記憶している。『日没の印象』の初々しさは当然ないのだが、喜々として撮られた画面に見える。それは旅先で出会う新しい風景にそそられて撮っているからだろう。しかしそれもだんだん新鮮ではなくなり、家の窓からの景色に狭められてゆく。そうした過程の映画なのだけれど、それはまだはっきリとした印象がなく、かえって枝 葉の部分、例えば回流れしてしまったフィルムに回流れも美しいと思ったというナレーションがついていたリする所が、印象に残っている。『草の影を刈る』は、そうして狭められていく対象を、明確にしていった映画。毎日撮影することにしたのは良いが、だんだん撮るものがなくなってゆく。そそられて撮るという事がなくなってしまう。で、一端投げ出してしまうのだけど、もう一度意議的に毎日撮ることを設定する。そうして鈴木志郎康さんの人体実験が始まる。こーでもないあーでもないとやってるうちに、自分の撮る位置が決まってしまっていることに気づき、何も撮れなくなってしまう。で、NHKをやめた所で映画が終る。日記映画というよりは、人体実験映画である。以前にこの映画について、撮った人と見た自分の問に距離を感じ、生々しい臭いがないという様な事を書いた。しかしそれは、この映 画が人体実験映画である事を考えないために出てきた感想だろうと思う。見た直後は良い映画とは思わなかったが、流れとして考えると、凄い映画だと思った。
 『写さない夜』は嫌いいだ。何故嫌いかと云うと、映画に成リ上リ過きているから。というのは、映画の中に収まっている、というのも曖昧過る。つまり単純に云って、伝わって来ない。撮る動機がなくなって、写せなくなっているという「私」の情況を、他人に撮らせた映画。これも人体実験映画なの かもしれないが、進行しない。他人が撮った為か、画面はキレイ.で、一つ一つに意味がない。意味を持たないという事に意味があるのかもしれないが、『草の影を刈る』の意味のなさない画面とは、まったく違うものになっている。つまり「私」とカメラとの間の距離が長く、映画に成る事で終っている。 こういう距離のとり方は嫌いだ。”嫌いだ”という云い方をしてはいけないのだろうか。好き嫌いではなく、良い悪い、あるいは正しい誤っている、という云い方てなければ、ものを云うというのは成り立たないのだろうか。げと自分の中では、良い悪いより、好き嫌いの方が先に来る。良いと好きとはいっしょにならない。『夏休みに鬼無里へ行った』は、良い映画だとは思わないが好きだ。で、『写さない夜』は良いとは思わないし嫌いだ。何故良いと思わないかというと、”嫌い”と同じ理由。それと、実験が進行せずに、づまり「私」は試みられてはいない。他人に「私」を振らせるという実験では「私」は追い込められずに終っている。というのが、カメラと「私」の距離になっている。これは良くない。 ”好き嫌い”というのは、やはり逃げの姿勢なのだ。それは自分一人の事として安全圏に入っている。やはり良い悪いで云わなければならないのだろう。
 『十五日間』は、人体実験を始めから意識して作られた映画だ。十五日間毎日「私」を撮るということで、自分を追い込んだらどうなるか、という実験である。前半は、「私」と私が困惑してて、ある種の境界みたいなものを踏み越えてしまった感じがする。撮っている私が、「私」を客観視できないでいる。だから、映画は、他人の本当になって、観客は写っている鈴木さんの格好がお可笑くなる。だから私も笑ってしまった。げと、後半になると、「私」とカメラの距離が離れて行く。すると他人の本当ではなく、実感として感じられてくる。話している内容はほとんど記憶にない。それは私に頭がなくて、ほとんど理解できなかったせいもあるだろうが、たいした事としては受けなかったからだと思う。たいした事というのは、カメラと「私」との距離が急速に広がって行く方にあった。つまり、カメラ「私」との距離を縮める試み、惑いは”極私”に近づく試 みは失敗した事になるのではないだろうか。しかしそれだからこそ映画は成功していると云える。これは良いのか悪いのか解らない。しかし非常にショ ッキングな映画だった。だからそういう意味では良い映画なのだろう。
 鈴木志郎康さんの映画は、いつもカメラと「私」との距離の中にある様に思える。近づけば近づく程良い映画になるかというと、そういうものでもなくて、ある境を越すと他人の本当になって、失敗作と感じさせる。げと私は近づけば近づく程好きだという指向を持っているらしく、『十五日間』の前半や『鬼無里』を好きだと感じる。『鬼無里』に関して云えば、ホーム・ムービーの曖昧さの中で、他人の本当というよりも他人のアルバムになってしまっているから、扱い方が解らない。もしかしたら、”極私”地点はホーム・ムービー的要素を含んでいるのかもしれない。『十五目間』の前半は、ホーム・ムービーとは対照的な所にあって、しかもカメラと「私」が密接だった。私は見ていて、このまま行ったら失敗作だな、と期待しながら見ていた。他人の本当を越してしまう程に、カメラと「私」と私が密接につながってしまう映画が、在り得るのかどうか、そういう映画が見たい思いに駆られた。しかしやっぱり、離れて行った。私はガッカリした。
 鈴木志郎康さんは、その境をわきまえている人の様な気がしてならない。というのは良い映画を作れる人という事だ。本当だから、他人には嘘っぽいというのが、どうしても在ってしまうのだから、その境はわきまえなけれぱならないのかもしれない。しかしそれが”極私”という事なのかというと、やはり疑問が残ってしまう。
 鈴木志郎康さんの映画は、カメラと私と「私」の距離をわきまえつつ、ギリギリの所に向かう緊迫感や、センチメンタルなんぞを完全に排除した自分のつき離し方、それらが疑問を起しつつも、だから同時にショッキングに問いつめて来る映画だと思った。



 

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