「山北作業所」ナレーション | ||||||
カット NO. |
シーン | 時間 | ナレーション | |||
1 | (00:21) 5 |
山北作業所、最初 | 0:50 | (1-1)この作品では海老塚さんの彫刻の制作を巡って、「彫刻とは何か」ということを考えていきます。 (1-2)先ず彫刻がどこから始まるか、その場ということが問題になります。 |
||
2 | (05:51) 8、 9, 10, 11, 12, 13 |
(話の後)山北作業所、作業所俯瞰、裏の山、窓の蜂、海老塚さんの話まで | 4:47 | (2-1)この山北作業所は、神奈川県の一番西にある山北で、東名高速から谷川に沿って、車で15分くらい山の中に入ったところにあります。八角形の吹き抜けの作業所は、海老塚さんが自分で設計したということです。電動式のグラインダーやノコギリや、溶接機などが揃っていて、一般的に想像する芸術家のアトリエというより、町工場という印象です。そこで、海老塚さんは休むことなく、次から次へと作業をこなしていくのです。 (2-2)この時は、制作中の「浮遊する水-風との対話T」と「U」 がほぼ出来上がって、素材の配置を決めているところでした。この作品は大阪の明治生命ビルのエレベーターホールに設置されることになっていて、地下と一階の壁にアゾベとかケヤキでとか鉄板で作った彫刻を取付け、2階から12階までの、外に出るドアにガラス作品を填めるという、全体で、作品が地下から上の方の階までビルを貫くという巨大な構想になっているわけです。 (2-3)ここを訪ねたのは、四月の初めでした。来る途中、桜が満開だったんですね。。 |
||
3 | (19:08) 16. 17. 18. 19. 20 |
(話の後)木塊を掘る海老塚さん | 7:15 | (3-1)海老塚さんは「制作するとき自分は結界にいるようなもの」と言ってましたが、その話をわたしなりに受け止めると、日常的に考えたり感じたりして生きている海老塚自身さんが、素材となる物と出会って、日常を超えて行く、そいう場を持つこと、それが、表現すること、そういうふうに思えたのでした。この海老塚さんが使った「結界」という言葉が印象的でしたね。 (3-2)海老塚さんは作品の素材に、欅とか、アフリカのアゾベとか、銀杏とか、鉄板とか、堅いものを使います。堅い物だとそれだけ抵抗がある。それだけ身体に力を込めて働きかけなければならない。海老塚さんにとってはその行為に意味があるというわけなのでしょうね。従って、掘られた形はその行為の痕跡ということになるわけです。彫刻の基本として、その痕跡が見る者の感性に訴えかけてくる、ということです。 |
||
4 | (22:05) 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28 |
裏の鉄板から、谷川、鉄板射水を掛ける | 4:18 | (4-1){最初に芽が出た後}作業所が、物と自分の「結界」だという言葉を意識しながら、外に出て、その気になっていろいろなものを見ると、置いてある鉄板も、それから草の芽も、裏山の木も、谷川も、そこを流れる水も、そういう自然もすべてが意味のあり方を変えて、なんか違うものに見えてくるような気がしました。 (4-2)(高木の後)作業所の中に揃えてあるもの、それはそういった素材となる物に働きかけて、新たな意味を生む道具というわけですね。 (4-3)(海老塚さんのが水を撒く)鉄板に水を掛ければ、その表面に風景が映り、更に時間が経てば鉄は錆びてくるわけです。鉄が姿を変えるということですね。そこに日常を超えたものが現れてくる、というわけです。 |
||
5a | (26:23) 29.30. 31.32. 33.34. 35.36 37.38. 39.40. 41.42 43.44. 45.46. 47.48. 49.50 |
車内、昔の作品「連関作用/地下の眼差-白州より」、 庭野さんの工房、ガラスの作品「詩人の風景より-風T〜]T」 |
11:26 | (5-1)(打ち合わせの後)4月の末には、ガラス作品の最後の仕上げをするために、ガラスの細工をする庭野さんの山梨県の工房を訪ねました。 (5-2)小淵沢こぶちざわで降りて、庭野さんの工房に行く途中に、8年前に作った海老塚さんの彫刻があって、まあ、そこに立ち寄ってみたんですど、作品に使われた木材はもう朽ち掛かっていたんですけれど、甲斐駒ヶ岳に向き会った作者の心がいまだに起立したままのように感じられたんです。なんか、いいなあという感じでした。 (5-3)(庭野さんが吹き付け室から出てくるところ)庭野さんは、海老塚さんのデザインを、厚いガラス板に細かい粒子を吹き付けて掘るのです。海老塚さんは自分が持ってない技術は専門家に頼む、ということでした。 (5-4)(表面のビニールをはがした後、見る海老塚さんから)この庭野さんのエッチンググラスという技法は、一般的には船とか花とか龍を掘る技術なのですが、海老塚さんのデザインでは、もっぱら光の屈折が、なめらかで複雑な曲線を描いて行き、それは、ガラスに光の言葉を語らせる、という風に感じられました。題名を「詩人の風景より─風」としているのは、その光の言葉にリズムを持たせようとしているのではないかと思ったのです。 |
||
5b | (34:45) | (5-5)(3人で立てるの少し前)このガラス作品は、ビルの2階から12階までの、エレベータホールから外へ出るドアに填められることになっているのです。外からの光がガラスの図柄を浮き上がらせるというわけです。作品全体では、地下と1階の壁に取付けられる彫刻作品が、鉄板と堅くて重い木の塊で作られた「浮遊する水─風との対話」。それが上の階に行くと、「詩人の風景─風」になります。この素材が違う、二つの部分からなる作品は、ビルの中心に位置するエレベーターホールで、ビルを下から上へ貫いて、水が蒸発して光の言葉を語る風となる、そういう物語を実現しているということなのでしょう。 | ||||
6a | (38:04) 51.52. 53.54. 55.56. 57.58. 59.60. 61.62. 63.64. 65.66. 67.68. 69.70. 71.72. 73.74. 75.76. 77.78. 79.80. 81.82. 83.84. 85. |
「浮遊する水-風との対話T」 の集荷 | 8:28 | (6-1)(運送する人たちの前、作品全景から)作品が出来上がると、いよいよ設置される場所に運ばれることになります。それを「集荷」、というそうです。運送屋さんが荷物を集めに来るというわけです。確かにトラックに積んで運ぶのですから、彫刻といえども、荷物にはが違いありません。しかし、作品の表現というところに、わたしは思い入れをしているので、そういう言い方には違和感を覚えるわけですね。どうしても単なる荷物ではない、という気がするのです。でも、運ぶ人にとっては荷物は荷物でしかないのですけどもね。 (6-2)(受け取ったあと横ショット)作品として組み立てられて、物質というところから離れたものなっていた素材が、荷造りするところで、再び素材そのものに戻り、ネジで固定されて行くのを見ていると、海老塚さんが「結界」といっていた領域がここではほどけていくように感じられるのでした。 |
||
6b | (42:10) | (6-3)(海老塚さんが寝ころんで一度力を入れた後)力を入れてネジを締めるという作業は、作品を制作するというとは違って、日常に戻って、製品を製造しているのと同じことなわけですよ。どの芸術的表現でも、物として形を整えることが要求されるわけですから、製品を製造するという面は必ずあるわけです。それをおろそかにすれば、たちまち形は崩れてしまう。作品を作品として維持するためには形というは凄く大切なことだと思うのです。だが、その形を支えるところには誰でも参加できる。大勢の人が力を添えるわけです。ところが、作品を鑑賞するという段になると、なんか、人を寄せ付けないような力が働いて、そこが忘れられてしまうのですね。そこが見えないから、作品はもっぱら作る人だけのものと受け止められてしまいます。いろいろな人が参加して、その作品を支えている見えない部分、それは彫刻ですと、この運びが出すところや、作品を設置する現場となるわけで、作品は運ばれて設置の現場へと引き継がれて行くのです。 (6-4)(トラックの後、掃除へ)作品を送り出した後は、一区切り終ったという開放感がありましたね。 |
||||
7a | (47:08) 86.87. 88.89. 90.91. 92.93. 94.95. 96.97. 98.99. 100.101. 102.103. 104.105. 106.107. 108.109 110.111. 112.113. 114.115. 116.117. 118.119.. 120.121 12.1.123. 124.125. 126.127. 128. . |
大阪明治生命ビルに、作品設置 | 12:34 | (7-1)(ガラスを運んできてパンしたところ)ガラス作品「詩人の風景より─風」は五月の末に、彫刻「浮遊する水─風との対話」は六月の初旬に、大阪の御堂筋に出来た大阪明治生命館に設置されました。 (7-2)(1階の作品の持上げるところ)作品の設置は緊張の場です。作者にとっては、作品のイメージは完璧に出来上がっています。ところが、設置する人々にはそのイメージが全くないのです。すべてを知っている人と、何も知らないで、手探りで物に触る人が、気持ちを合わせて精密な仕事をしなければならい、ということですね。そこでの設置の条件が違っていたり、手違いが起こると、大喧嘩のなることもあるのです。作者からすれば、設置が悪ければ作品が台無しになってなってしまうわけですし、それで評価されてしまうのですから、堪ったものではありません。作者にとって、作品が作品として存在するためには、設置が万全でなくてはならい。その万全を作者ではない他人が手探りで実現していくのですから、現場は緊張せざるをえません。 (7-3)(夜、ローラーで運ぶところ)この彫刻作品は、大きくて重いから取付けに手間が掛かって一日ではすまなかったようです。端から見ていると、時間ばかりが経っていくようですが、重力が集中する手先の微妙な動きが作品の印象を決定してしまうので、緊張の中で作業が進められて行くというわけです。 |
||
7b | (55:50) | (7-4)(出来上がりに)設置された彫刻は、ずっしりとした存在を感じさせて、堂々としていました。 (7-5)(海老塚さん、笑う)(ここから、約2分)やはり、出来上がった作品を見る海老塚さんは嬉しそうですね。このビルは、エレベータホールの同じ壁面を海老塚さんの彫刻とガラス作品が貫いているわけですね。その二つの作品を合わせると巨大な空間を占めていることになります。想像の中で、ビルの建物を消して、作品だけ思い浮かべると、垂直な巨大な作品が浮かび上がってきます。それは木材とか鉄板とかガラスとかの素材が、下から上に行くに従って気化して行くように感じられます。木材や鉄などが気化していくところ、そこに彫刻というものの本質があるのではないかと思えるのです。 |
||||
8 | (59:11) 129.130 |
山北作業所、海老塚さんがテーブルにコーヒーを置いていく | 1:26 | (8-1)彫刻が物であることは確かです。しかし、単なる物ではありません。その物は、彫刻家が生み出した意味そのものと言ってもいいと思いますよ。その彫刻の作品を鑑賞するということは、見る人間が、その意味の方へ向かって、物からどんどん遠ざかって行くということなんですね。また作家の方は、それとは反対に、ひとたび生まれてしまった意味からまた物の方へ向かっていくことなるようです。そのために、物との出会いを次々に求め行くことになるというわけです。 | ||
9 | (60:37) 131.132. 133.134 |
海老塚さんの話。 | 3:27 | 「生産ですよ」から、障害を作り乗り越える、残すことに興味はない | ||
10 | (64:04) 135.136. 137.138. 139. |
作業所内、溶接する海老塚さん | 2:29 | (10-1)(ドアから入った後、向こうに海老塚さん)出来上がった物としての作品にはこだわらないという海老塚さん。制作は遊びだという海老塚さん。 (10-2)(溶接する海老塚さん)この日は作業所で、アルミの溶接を試みていましたが、なんかその火花を散らす姿が、海老塚さんの精神が物と出会って火花を散らしているというように見えたのでした。 |
||
11 | (66:33) 140、141、 142、 |
裏の作品「水と風の領分V」と腐った木材(昔の作品 | 1:50 | (11-1)(鉄の塊からパンしてところ)作業所の裏に出てみると、鉄板を使った次の作品「水と風の領分」がきれいに錆を浮かせていました。 (11-2)(つづけて) その脇には、以前の作品に使われた木材が腐ってまま置かれているんですね。時間を感じさせられます。 (11-3)(続けて) 時間を感じるということ、そこに強く引きつけられる。生きている人間は時間から逃れられない。そして時間を忘れるところに喜びがある。彫刻っていう物は、物の持つ広がりと、物が引き受ける時間の、両方を、改めて人に感じさせ、生きていく上で、それを超える手だてを教えてくれるものと言えないでしょうか。結論として、彫刻は「物」で作られているけど、実は「物」ではない。というような言葉を思いつきました。 (11-4)この自分が思いついた言葉が、わたしはとても気に入ったのでした。 |
||
12 | (68:32) 143.144. |
作業所の居間の海老塚さん、作業所全景で終る | 0:40 | (12-1)(暫くして)物でないものをつかまえるために、物と取り組んでいる、というのが彫刻家なんですね。 | ||
(69:03) 145、146 |
終タイトル | |||||