山北ヤマキタ作業所サギョウショ」ナレーション
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シーン 時間ジカン ナレーション    
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山北ヤマキタ作業所サギョウショ最初サイショ 0:50  (1-1)この作品サクヒンでは海老塚エビヅカさんの彫刻チョウコク制作セイサクメグって、「彫刻チョウコクとはナニか」ということをカンガえていきます。

 (1-2)彫刻チョウコクがどこからハジまるか、そのということが問題モンダイになります。
   
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(ハナシアト山北ヤマキタ作業所サギョウショ作業所サギョウショ俯瞰フカンウラヤママドハチ海老塚エビヅカさんのハナシまで 4:47  (2-1)この山北ヤマキタ作業所サギョウショは、神奈川県カナガワケン一番イチバン西ニシにある山北ヤマキタで、東名トウメイ高速コウソクから谷川タニガワ沿って、クルマで15フンくらいヤマナカハイったところにあります。ハチ角形カッケイけの作業所サギョウショは、海老塚エビヅカさんが自分ジブン設計セッケイしたということです。電動式デンドウシキのグラインダーやノコギリや、溶接機ヨウセツキなどがソロっていて、一般イッパンテキ想像ソウゾウする芸術家ゲイジュツカのアトリエというより、町工場マチコウバという印象インショウです。そこで、海老塚エビヅカさんはヤスむことなく、ツギからツギへと作業サギョウをこなしていくのです。

 (2-2)このトキは、制作中セイサクチュウの「浮遊する水-風との対話T」と「U」 がほぼ出来上デキアがって、素材ソザイ配置ハイチめているところでした。この作品サクヒン大阪オオサカ明治メイジ生命セイメイビルのエレベーターホールに設置セッチされることになっていて、地下チカ一階イッカイカベにアゾベとかケヤキでとか鉄板テッパンツクった彫刻チョウコク取付トリツけ、2カイから12カイまでの、ソトるドアにガラス作品サクヒンめるという、全体で、作品が地下から上の方の階までビルを貫くという巨大キョダイ構想コウソウになっているわけです。

 (2-3)ここをタズねたのは、4ガツの初めでした。途中トチュウサクラ満開マンカイだったんですね。。
   
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(ハナシアトモクカイ海老塚エビヅカさん 7:15  (3-1)海老塚さんは制作セイサクするとき自分ジブン結界ケッカイにいるようなもの」とってましたが、そのハナシをわたしなりにめると、日常的ニチジョウテキカンガえたりカンじたりしてきている海老塚エビヅカ自身ジシンさんが、素材ソザイとなるモノ出会デアって、日常ニチジョウえてく、そいうつこと、それが、表現ヒョウゲンすること、そういうふうにオモえたのでした。この海老塚エビヅカさんが使ツカった「結界ケッカイ」という言葉コトバ印象的インショウテキでしたね。

 
(3-2)海老塚エビヅカさんは作品サクヒン素材ソザイに、欅とか、アフリカのアゾベとか、銀杏とか、鉄板とか、カタいものを使ツカいます。カタモノだとそれだけ抵抗テイコウがある。それだけ身体カラダチカラめてハタラきかけなければならない。海老塚エビヅカさんにとってはその行為コウイ意味イミがあるというわけなのでしょうね。シタガって、られたカタチはその行為コウイ痕跡コンセキということになるわけです。彫刻チョウコク基本キホンとして、その痕跡コンセキモノ感性カンセイウッタえかけてくる、ということです。
   
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ウラ鉄板テッパンから、谷川タニガワ鉄板テッパン射水イミズける 4:18  (4-1){最初サイショアト作業所サギョウショが、モノ自分ジブンの「結界ケッカイ」だという言葉コトバ意識イシキしながら、ソトて、そのになっていろいろなものをると、いてある鉄板テッパンも、それからクサも、裏山ウラヤマも、谷川タニガワも、そこをナガれるミズも、そういう自然シゼンもすべてが意味イミのありカタえて、なんかチガうものにえてくるようながしました。

(4-2)(高木タカギアト作業所サギョウショナカソロえてあるもの、それはそういった素材ソザイとなるモノハタラきかけて、アラたな意味イミ道具ドウグというわけですね。
 
(4-3)(海老塚エビヅカさんのがミズく)鉄板テッパンミズければ、その表面ヒョウメン風景フウケイウツり、サラ時間ジカンてばテツびてくるわけです。テツ姿スガタえるということですね。そこに日常ニチジョウえたものがアラワれてくる、というわけです。
   
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車内シャナイムカシ作品サクヒン「連関作用/地下の眼差-白州より」、
 庭野ニワノさんの工房コウボウ、ガラスの作品サクヒン「詩人の風景より-風T〜]T」
11:26 (5-1)(わせのアトガツスエには、ガラス作品サクヒン最後サイゴ仕上シアげをするために、ガラスの細工サイクをする庭野ニワノさんの山梨県の工房コウボウタズねました。

 
(5-2)小淵沢コブチザワこぶちざわでりて、庭野ニワノさんの工房コウボウ途中トチュウに、8ネンマエツクった海老塚エビヅカさんの彫刻チョウコクがあって、まあ、そこにってみたんですど、作品サクヒン使ツカわれた木材モクザイはもうかっていたんですけれど、甲斐カイ駒ヶ岳コマガタケった作者サクシャココロがいまだに起立キリツしたままのようにカンじられたんです。なんか、いいなあというカンじでした。

 (5-3)(庭野ニワノさんがシツからてくるところ)庭野ニワノさんは、海老塚エビヅカさんのデザインを、アツいガラスイタコマかい粒子リュウシけてるのです。海老塚エビヅカさんは自分ジブンってない技術ギジュツ専門家センモンカタノむ、ということでした。

 
(5-4)(表面ヒョウメンのビニールをはがしたアト海老塚エビヅカさんから)この庭野ニワノさんのエッチンググラスという技法は、一般イッパンテキにはフネとかハナとかリュウ技術ギジュツなのですが、海老塚エビヅカさんのデザインでは、もっぱらヒカリ屈折クッセツが、なめらかで複雑フクザツ曲線キョクセンエガいてき、それは、ガラスにヒカリ言葉コトバカタらせる、というフウカンじられました。題名ダイメイを「詩人シジン風景フウケイより─カゼ」としているのは、そのヒカリ言葉コトバにリズムをたせようとしているのではないかとオモったのです。

   
5b (34:45)      (5-5)(3人で立てるのスコマエこのガラス作品は、ビルの2階から12階までの、エレベータホールから外へ出るドアに填められることになっているのです。外からの光がガラスの図柄を浮き上がらせるというわけです。作品全体では、地下と1階のカベ取付トリツけられる彫刻チョウコク作品が、鉄板と堅くて重い木の塊で作られた「浮遊する水─風との対話」。それが上の階に行くと、「詩人の風景─風」になります。この素材が違う、二つの部分からなる作品は、ビルの中心に位置するエレベーターホールで、ビルをシタからウエへ貫いて、水が蒸発して光の言葉を語る風となる、そういう物語を実現しているということなのでしょう。    
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「浮遊する水-風との対話T」 の集荷シュウカ 8:28 (6-1)(運送ウンソウするヒトたちのマエ作品サクヒン全景ゼンケイから)作品サクヒン出来上デキアがると、いよいよ設置セッチされる場所バショハコばれることになります。それを「集荷シュウカ」、というそうです。運送屋ウンソウヤさんが荷物ニモツアツめにるというわけです。タシかにトラックにんでハコぶのですから、彫刻チョウコクといえども、荷物ニモツにはがチガいありません。しかし、作品サクヒン表現ヒョウゲンというところに、わたしは思い入オモイイれをしているので、そういうカタには違和感イワカンオボえるわけですね。どうしてもタンなる荷物ニモツではない、というがするのです。でも、ハコヒトにとっては荷物ニモツ荷物ニモツでしかないのですけどもね。

 (6-2)(ったあとヨコショット)作品サクヒンとしててられて、物質ブッシツというところからハナれたものなっていた素材ソザイが、荷造ニヅクりするところで、フタタ素材ソザイそのものにモドり、ネジで固定コテイされてくのをていると、海老塚エビヅカさんが「結界ケッカイ」といっていた領域リョウイキがここではほどけていくようにカンじられるのでした。

   
6b (42:10)      (6-3)(海老塚さんが寝ころんで一度力を入れた後)力を入れてネジを締めるという作業は、作品を制作するというとは違って、日常に戻って、製品を製造しているのと同じことなわけですよ。どの芸術的表現でも、物として形を整えることが要求されるわけですから、製品を製造するという面は必ずあるわけです。それをおろそかにすれば、たちまち形は崩れてしまう。作品を作品として維持するためには形というは凄く大切なことだと思うのです。だが、その形を支えるところには誰でも参加できる。大勢の人が力を添えるわけです。ところが、作品を鑑賞するという段になると、なんか、人を寄せ付けないような力が働いて、そこが忘れられてしまうのですね。そこが見えないから、作品はもっぱら作る人だけのものと受け止められてしまいます。いろいろな人が参加して、その作品を支えている見えない部分、それは彫刻ですと、この運びが出すところや、作品を設置する現場となるわけで、作品は運ばれて設置の現場へと引き継がれて行くのです。

(6-4)(トラックのアト掃除ソウジへ)作品サクヒンオクしたアトは、一区切ヒトクギオワったという開放感カイホウカンがありましたね。
   
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大阪オオサカ明治メイジ生命セイメイビルに、作品サクヒン設置セッチ 12:34 (7-1)(ガラスをハコんできてパンしたところ)ガラス作品「詩人の風景より─風」は5ガツスエに、彫刻チョウコク浮遊フユウするミズカゼとの対話タイワ」は6ガツ初旬ショジュンに、大阪オオサカ御堂筋ミドウスジ出来デキ大阪オオサカ明治メイジ生命セイメイカン設置セッチされました。

 
(7-2)(1カイ作品サクヒン持上モチアげるところ)作品サクヒン設置セッチ緊張キンチョウです。作者サクシャにとっては、作品サクヒンのイメージは完璧カンペキ出来上デキアがっています。ところが、設置セッチする人々ヒトビトにはそのイメージがマッタくないのです。すべてをっているヒトと、ナニらないで、手探テサグりでモノサワヒトが、気持キモちをわせて精密セイミツ仕事シゴトをしなければならい、ということですね。そこでの設置セッチ条件ジョウケンチガっていたり、手違テチガいがこると、大喧嘩オオゲンカのなることもあるのです。作者サクシャからすれば、設置セッチワルければ作品サクヒン台無ダイナしになってなってしまうわけですし、それで評価ヒョウカされてしまうのですから、タマったものではありません。作者サクシャにとって、作品サクヒン作品サクヒンとして存在ソンザイするためには、設置セッチ万全バンゼンでなくてはならい。その万全バンゼン作者サクシャではない他人タニン手探テサグりで実現ジツゲンしていくのですから、現場ゲンバ緊張キンチョウせざるをえません。

 (7-3)(ヨル、ローラーでハコぶところ)この彫刻チョウコク作品サクヒンは、オオきくてオモいから取付トリツけに手間テマかって1ニチではすまなかったようです。ハタからていると、時間ジカンばかりがっていくようですが、重力ジュウリョク集中シュウチュウする手先テサキ微妙ビミョウウゴきが作品サクヒン印象インショウ決定ケッテイしてしまうので、緊張キンチョウナカ作業サギョウススめられてくというわけです。

   
7b (55:50)     (7-4)(出来上デキアがりに)設置セッチされた彫刻チョウコクは、ずっしりとした存在ソンザイカンじさせて、堂々ドウドウとしていました。

(7-5)(海老塚さん、笑う)(ここから、約2分)やはり、出来上がった作品を見る海老塚さんは嬉しそうですね。このビルは、エレベータホールの同じ壁面を海老塚さんの彫刻とガラス作品が貫いているわけですね。その二つの作品を合わせると巨大な空間を占めていることになります。想像の中で、ビルの建物を消して、作品だけ思い浮かべると、垂直な巨大な作品が浮かび上がってきます。それは木材とか鉄板とかガラスとかの素材が、シタからウエくにシタガって気化してくようにカンじられます。木材や鉄などが気化していくところ、そこに彫刻というものの本質があるのではないかと思えるのです。
   
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山北ヤマキタ作業所サギョウショ海老塚エビヅカさんがテーブルにコーヒーをいていく 1:26 (8-1)彫刻チョウコクモノであることはタシかです。しかし、タンなるモノではありません。そのモノは、彫刻家チョウコクカした意味イミそのものとってもいいとオモいますよ。その彫刻チョウコク作品サクヒン鑑賞カンショウするということは、人間ニンゲンが、その意味イミホウかって、物からどんどんトオざかってくということなんですね。また作家サッカホウは、それとは反対ハンタイに、ひとたびまれてしまった意味イミからまたモノホウかっていくことなるようです。そのために、モノとの出会デアいを次々ツギツギモトくことになるというわけです。    
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海老塚エビヅカさんのハナ 3:27 生産セイサンですよ」から、障害ショウガイツクえる、ノコすことに興味キョウミはない    
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作業所サギョウショナイ溶接ヨウセツする海老塚エビヅカさん 2:29 (10-1)(ドアからハイったアトこうに海老塚エビヅカさん)出来上デキアがったモノとしての作品サクヒンにはこだわらないという海老塚エビヅカさん。制作セイサクアソびだという海老塚エビヅカさん。

 
(10-2)(溶接ヨウセツする海老塚エビヅカさん)この作業所サギョウショで、アルミの溶接ヨウセツココロみていましたが、なんかその火花ヒバナらす姿スガタが、海老塚エビヅカさんの精神セイシンモノ出会デアって火花ヒバナらしているというようにえたのでした。
   
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ウラ作品サクヒン「水と風の領分V」とクサった木材モクザイ(ムカシ作品サクヒン 1:50 (11-1)(テツカタマリからパンしてところ)作業所サギョウショウラてみると、鉄板テッパン使ツカったツギ作品サクヒン「水と風の領分」がきれいにサビかせていました。

(11-2)(つづけて) そのワキには、以前イゼン作品サクヒン使ツカわれた木材モクザイクサってままかれているんですね。時間ジカンカンじさせられます。

(11-3)(ツヅけて) 時間ジカンカンじるということ、そこにツヨきつけられる。きている人間ニンゲン時間ジカンからノガれられない。そして時間ジカンワスれるところにヨロコびがある。彫刻チョウコクっていうモノは、モノヒロがりと、モノける時間ジカンの、両方リョウホウを、アラタめてヒトカンじさせ、きていくウエで、それをえるだてを教えてくれるものとえないでしょうか。結論ケツロンとして、彫刻チョウコクは「モノ」でツクられているけど、ジツは「モノ」ではない。というような言葉コトバオモいつきました。

 (11-4)この自分ジブンオモいついた言葉コトバが、わたしはとてもったのでした。
   
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作業所サギョウショ居間イマ海老塚エビヅカさん、作業所サギョウショ全景ゼンケイオワ 0:40 (12-1)(シバラくして)モノでないものをつかまえるために、モノんでいる、というのが彫刻家チョウコクカなんですね。    
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オワタイトル