イメージフォーラム付属映像研究所第23期卒業制作展作品評

かわなかのぶひろ


このページは執筆者の好意で掲載してます。

 かわなかのぶひろさんはイメージフォーラム付属映像研究所の先生。卒展上映が始まると直ぐにプログラムを見始めて、88本すべての作品を見て、この「全作品評」を卒業式で生徒たちに手渡すために、毎夜執筆した。3月26日の卒業式のコンパの後、「いやー、一週間ぶりでビールを飲みましよ」といって笑った。この溢れるばかりの愛情の籠もった文章。作品を見て無くても、イメージフォーラム付属映像研究所の生徒がどういう作品を作っているかが分かるばかりでなく、読んでいて、暖かい気持ちにさせられるところが素晴らしい。(志郎康)
 23期はかつてない豊作だった!〜IF卒業制作展を終えて〜・金井 勝

2000年第23期卒業制作展作品リスト
1999年第22期卒業制作展作品リスト
1999年第22期卒業制作展全作品評・かわなかのぶひろ

●プログラムA

★子供の領分   森田有未/8ミリ/10分
白と黒の衣装をつけた女性がコンクリートの路面にタイトルを書く。子供の遊びのようにチョークで書いていく俯瞰のショットがいい。これがあればトップに置かれたタイトルはいらないでしょう。白衣と黒衣の二人はつづらのような黒い大きな箱を運びだす。見る側は、いったい中身は何だろう意外なものであって欲しいなと期待する。ところが林の奥の竹林で蓋を開くと中は舌切り雀もビックリ。真っ暗闇なのだ。それはないよ!。後半に出てくる芋虫であってもいいし、ぎっしりと絵日記が詰まっていてもいい。なんか欲しかったね。作者はいつもこうなのだ。幻想的なイマジネーションを持ちながら、すんでのところで逃してしまう。再編集しよう。

★Happy Birthday, My Replica   久保健介/8ミリ/4分
タイトルからすると冒頭に描かれるさとるくんの誕生ケーキは、後に登場する紙製レプリカのさとるくんのケーキということになるのかな。この作品は、随所にさまざまな工夫が凝らされているが、それらのアイディアが作品の中でどうも噛みあってこない。スチールを使った顔のクロスワードなど秀逸なアイディアなのに、作品のあちこちにとっ散らかしているので効果が半減どころかマイナスに作用してしまっている。主人公のレプリカをキチンとつくる熱意があるのだから、編集の段階でその効果を生かしてやれば、イメージはもっともっと強まるに違いありません。えぇい、こうなったらアフターサービスだ。↑の森田とアトリエで編集授業だい。

★きずな   松田綾子/8ミリ/10分
1996年6月5日に亡くなった父親を、なんとかイメージとして捉えようと試みた作品。冒頭、亡くなった父のクロニクルを写真でつぎつぎと重ねてゆく。なかなかの好男子だ。学生時代。母親と知りあった頃。結婚してから。子供ができて…。当事者の娘としては、やはりこういう写真を見てしまうと客観的になれないよなぁ。現実の父ではなく、友人の父の写真でイメージを捏造すれば「作品」というスタンスがもう少し広がったかも…。作者は自分に扮した俳優というクッションを設けている。けれど、思い出の場所を歩く道筋に父の遺品が落ちているとなると、現実の遺品にこだわるよなぁ…。まあ、パスカルもいっている。これも無駄ではない。

★「ワタシ」   小糸英樹/8ミリ/6分
この作者は歩く。これまでの作品でもずいぶんアチコチ歩いている。今回はその空間が絞られて少年時代の自分というところにどうやら着地したようだ。アチコチ撮っていた被写体もぐっと絞られてきた。構造はシンプルである。自分の足下を主観で撮ったショットと、少年時代の記憶なのだろう、団地とそのグラウンドが描かれるだけである。歩く足下を捉えたショットが素晴らしい。ほとんど禁欲的に足下の流れる地面を撮り続ける。そのスピードが映画の進行と同時に、次第に早まっていく。もう一つの要素は団地。こちらはしばしば倒立像で描かれる。歩くスピードが酩酊状態に高まると倒立像はかざしたルーペで正像に補正される。いい視点だ。

  ★たね   なるみあきこ/8ミリ/6分
いやぁ撮り直しましたね。講評段階では露出やピントの過不足がずいぶん目立っていたんです。ピントが合ってもても、あなたのメルヘンチックな人形アニメの世界を初めて見る人にとっては?かな。繭玉人形のようなキャラクターのかえる(かえるとクレジットされている)が壜をもって船に乗り、少年の家へやってくる。少年は「発芽する種」と「発芽しやすい種」の研究をしている。かえると発芽の関係はわからないが、ふくろうは「遊ぶ種」を運んでくる。などと物語りを書いてみても、こんぐらがってしまう。作者には曲げられないコンセプトがあるようだがそれが客席に伝わらないもどかしさ。ま、いいか。ピカソだってそういわれたんだから。

●氣化せり華   中山珠子/8ミリ/17分
これも人形だがこちらはアニメではない。人形をつくる女性にまつわる幻想譚だ。「彼女は忽然とぼくの前から姿を消した」と不在の主人公が紹介される。「コツゼン」なんて書き言葉が映画の中で使われるとふてくさりたくなる。冷水をあびせられた気分。「ショウコは鳥とともに飛翔した」ケッ!勝手にさらせ。かなり気取りまくったナレーションを別にすれば、コレはなかなか幻想的なお話である。消えたショウコ(文脈からいうと翔子でしょうナ)がコツゼンとベッドの中に現れたり、なぜかキツネの面をつけて忽然と登場したり、ラストなんて凄いぞ、ベッドの上に羽毛が少しだけ舞い落ちるんだから…。自主留年してもう一年つき合わないか?

  ★僕はあなたじゃない   須藤梨枝子/ビデオ/30分
二十四歳兄、早稲田大学政経学部四年、鬱病である。妹である作者は、そんな兄を被写体に作品を手がけているが、途中で兄の撮影拒否に遭遇する。しかし作者は、兄にカメラを持たせることによってなんとか継続を試みる。撮る側と撮られる側を逆転してみるという発想がいい。けれども兄は、そんなことに誤魔化されはしない。「お兄ちゃんの不安定な心を作品という形にして、不安定な人達が見て考えられる映画にしたい」とタテマエを並べても「オレにどんなメリットがある?」とキリかえされてしまう。しかし作者はしたたかである。なんだかんだと言いながら作品というかたちに仕上げていく。兄と妹の本音のぶつかり合いがじつに清々しい。


●プログラムB


★スピード感覚と知覚   矢野哲/8ミリ/2分
断片化されたさまざまな映像がトップにどどどっと並んでいる。こういう編集は、編集する根拠を掴めなかったことの表れ。イキオイで迫ってやろうというあたりか。はっきり言ってこれは作品になっていない。しかし、である。作品になっていないのは、作品にしようと編集で小細工したからにほかならない。コマ撮りで捉えられた日没や、とりわけ塀のところでクルクル回転する少女を捉えた俯瞰のショットなどは、ファインダーを覗いている作者の心臓の鼓動が聞こえてくる。素晴らしいショットだ。スカートを翻す風も味方してるよね。このシーンとダンクシュートするショット。そしてラストの鮮烈な飛び込みを加えれば、これでキマリだね。

★昭和ショウ   恩田香/ビデオ/3分
町を走ってくる男。彼方を指さして「ショウワッ!」(「シュワッチ!」かも)と一声。こういう場合、観客は大胸、もとい。おおむね主人公と認識します。この作品では作者のコト。あれ、ぼくには男に見えたけど、女性だったのかなぁ…。主人公は作者。この作品は作者の自分史の試み。「昭和51年生まれ」というナレーションとともに誕生記念の写真が映し出される。昭和56年には兄を亡くした作者。ひとつのショットが短いので記憶が追いつかないけど、ある年はネコを拾い、ある年は机を買い、また、ある年は手に傷をつける。プライベートな自分にぐっとひきつけたところが親しみを感じさせる。多少つっこめばもっと生きるんだけど…。 

★灯   吉沢俊一/8ミリ/10分
河岸で待ち合わせ、海をめざす二人の男。画面は河岸の鳩からスタートする。カメラは河にパンニングして釣り人を捉える。突然、小便をする男。トイレから出て河へ向かう。河では男が待っている。すまんという仕草で手を合わせる。ふたりは待ち合わせていたのだ。なぜのんびりトイレなんかに入っていたのだろう。遅れて謝るよりも先に駆けつけたほうがイイと思うのだが…。作者の解説によると「何を表現し他のかって子とは監督本人しかわからないことだ」(原文のママ)とあるので、そうなのかと納得せざるを得ないのだが。河を下るという単純なことが妙に複雑化されていて判然としない。せめて上るのか下るのか位ははっきりして欲しい。

★僕は空が大好きだった   澤木創/8ミリ/18分
十三年前に病死した父親について知ろうとする作者。祖父に聞こうとするが、病に倒れて入院 中の祖父は、呼びかけても応えることができない。母の話によると、父は開頭手術を受けて管につながれていたので子供には見せられなかった「ドアをいくつもいくつも越えていく集中治療室へ連れてはいけなかった」と説明する。まるで祖父のようだと思う作者。それでも作者は祖父の病室へ同録カメラを持ち込む。人工呼吸器をむしりとる祖父に「だめだよだめだよ」といいながらも撮り続ける作者。残された写真と近親へのインタビューで構成されたこの作品は 切ない。編集は過不足だらけであるが、作者の思いと事実の重みがずっしりと伝わってくる。

★トリオップス   佐藤かさね/8ミリ/5分
白く塗られた釘でかたちづくられたタイトル、とてもチャーミングです。石をにぎる手に音楽がかぶさり、電車の先頭車両からの前進主観。金筒状の鏡面に手が映り込む。石には「→」が書いてあり、主人公の女性はその「→」石のコレクターのようだ。スチールショットを短く重ねたり、多重露光でイメージをオーバーラップさせたり、スローモーションを採り入れたりと撮影には工夫が凝らされている。しかし、この作品もイメージの過不足が激しい。とりわけ電車の先頭車両から捉えたショットを繰り返し使うのはどうかと思う。氷に閉ざされた石が、掌の中で次第に溶けていく美しいショットを生かすために、無駄なショットを省くことも必要。

★YELLOW TRIP   徳本直之/ビデオ/12分
タイトルがスタートする。作品のタイトルが車のナンバープレートに書かれていて、映画の開始と同時に文字通り走り出すのだ。こういう凝りかたは嬉しい。作者の気合いを感じる。それにしてもこの作品の凝りようはじつに周到である。まず、ダイアローグが全編シリトリになっていて、それぞれのコトバに該当する映像がキチンと撮られている。一度見ただけではうまく伝えられないが、たとえば「テイシ」というコトバでは、ちゃんと横断歩道の停止位置で立ち止まるのである。撮影・編集のシミュレーションにかなり苦労したことだろう。なにしろこのシリトリはモノばかりかヒトの演技にもかかわってくるのだ。その芝居がまた絶妙なんですね。

★阿片譚   倉重哲二/8ミリ/13分
人形アニメである。ランタンに灯がともる。ここはうらぶれた一室。粗末なベッドに老人が横たわって唯一の愉しみである阿片を吸引している。傍らには鳥篭があり、中には得体の知れない生き物(そう見える)が蠢いている。セピアの色調に統一されたセット。キャラクターもじつにいい雰囲気を出している。動かない時でも表情を感じさせる。六章にわたる物語りの章タイトルの工夫、各章の魔術的な展開も素晴らしい。何日君再来など音楽の選択も適確である。ブラザース・クェイ以来、このジャンルは人気だがクエイを超える作品には出会えない。けれども、この作品はそこに挑み、肉迫している。クエイを超えないまでも遅れはとっていない。


●プログラムC


★awra(「冬の陽射しと脳皮質」改題)   相澤崇生/8ミリ/8分
建物というのは不思議なものだ。いつも見ていた風景が建物の消滅とともに記憶の中だけのものになってしまう。この作品もそんな風景への哀惜を感じさせる。何もないがらんどうの部屋の窓。カメラは室内から窓へ、窓から室内へと何度も何度もパンニングを繰り返す。やがて窓の外の情景に固定される。そこからは隣の家のベランダが見える。隣の奥さんが無心に洗濯物を干す姿が覗ける。何だかいけないことをしているような気分だ。その奥のアパートの壁にはしごが掛けられ、ペンキ塗りがはじまる。コマ撮りになり、やがてアパートは塀だけ残した空き地になる。隣の奥さんはもう見えない。目出し帽の男が塀に嵌め込まれた鏡の中をよぎる。

★風をあつめて   加藤穂波/8ミリ/5分
「空コレクターになりました」という作者の宣言から始まるこの作品は、文字通りさまざまな空をつぎつぎと映し出す。枯れ木の向こうの空、電信柱を抱えた空、ガラスに反射した空、換気口に映った空、作者の眼鏡越しに見える二つの空…。たんたんと描かれるさまざまな空の表情、といいたいところだが、いかんせん素材に乏しい。ほとんど一日で撮ってしまったような印象だ。来る日も来る日も空を撮り続けていたら、この作品はきっと作者が言葉で考えていたイメージをヴィジュアライズできたでしょう。鏡のかけらに映った空、車のボディに映る空、 瞳の中だって…。登場人物の表情すらキチンと撮っていないんだから。手抜きはイケマセン。

★やさしい一日   岡部留美/8ミリ/8分
窓辺の花、グラスに瀝る水滴、からっぽの冷蔵庫、干してあるセンタクモノ。棚の上の一眼レフ…。フェードイン、フェードアウトの連続で室内のモノたちがたんたんと綴られる。「この部屋から彼が出ていった」というナレーション。出ていってから三日もそのことに気づかなかったうかつな主人公。彼がいない部屋で水槽の魚を見る。夏を思い出して浮輪で遊んでみる。やがて室内は海になる。愉しかった日々のように…。室内と海辺をオーバーラップで描いた美しいラストがいくぶんくどいせいなのか、すっきり収まらない。まあ、こいう感傷って男のものだから、ラストは別の設定にしましょうね。チェーホフのオーレンカのように可愛くいこうよ。

★そらがわれるひ   森岳大/8ミリ/15分
カチッとしたタイトルと、青空に手をかざして木の葉を二つに引き裂くくっきりした映像。印象的なスタートだ。しかし、この作品は映像のニュアンスを見せるためにあるのではない。作者は冒頭で「これはコンセプチュアル・フィルムである」と高らかに宣告するのである。どう コンセプチュアルであるかを説明すると長くなるので割愛したい。ようするにイメージフォーラムのディレクターである映像作家・中島崇はじつは女だったということを力業でもって説き伏せる試みである。part2では観客を巻き込み、part3では撮影現場からのレポートにオチを潜ませる。ま、これは見ないことには伝わらない。昨今マレになった緻密な計略といえよう。

★妄想癖   永田裕恵/8ミリ/4分
イヌやネコが妄想に耽る、なんて話は聞いたことがないけれど、ニンゲンというイキモノはしばしば妄想のトリコになる。かくいうワタシなど…、んなことどーでもいいか。作品はシンプルな線描きアニメーション。少女がお絵かきしていると、母親のところへ新聞の集金人がやって来る。はぁい、と財布をとりドアを開けるお母さん。ここは実写である。少女が見るとお母さんは集金のおじさんとキスをしている。キスどころか、××××を××××××して×××でいるのだ。ああ、もう、こんなイヤラシイことこれ以上書けません。アニメーションでなければ××けない×××なのです。欲をいえばもっともっと×××に××××して欲しかった。

★Y舌キャット   小沼普徳/8ミリ/12分
室内。すらりと伸びた脚、スレンダーなボディ、下着姿で煙草をふかしている女性。アッ!股 もとい、また妄想モードに…。この作品のタイトルはじつにそんなムードをもっている。女性は、ひとり紙でつくった蝶(と思うけど蛾かもしれない)を飛ばしている。タタミの上に落ちている一本の髪の毛。指で捩じり、つまみ上げて、火をつける。作者はこいう細部の観察にスルドイものを持っている。部屋もバックを布で覆い日常の生活感をたくみに隠す。白い壁のようなものにカミソリがあてられる。壁に見えたのはシェービングクリーム。彼女が剃っているのだ。そして上体を揺らしはじめる。その振幅が次第に大きくなりやがて激しいリズムに…。

★連帯ぱぺっと 山口俊昭/8ミリ/20分
カメラを凝視して観客に語りかける女性「皆さんはいま私を見ている」「私はこのときカメラを見ていた」「スクリーンに写る私は皆さんを見ている」。この作品で作者は、女性から「あの太った男」と呼ばれ「あの太った男に与えられたセリフを私は喋っている」と作品の舞台裏が明らかになる。観る側と観られる側の関係の提示だ。商業映画の世界ではまずあり得ない。観客を暗やみに閉じこめて一方的に物語を押し付けるたぐいの面白さとは別の面白さ、つまり演劇におけるブレヒトのようなメディア体験がこの作品の狙いなのだろう。作品のラストは秀逸。裸の女性の肩から上を画面は捉える「監督は私の裸を見せたいようだが、私は見せない」


●プログラムD


筋肉とバランス   高橋俊治/8ミリ/18分
作品のなかでの作者の述懐によると、8ミリを撮り始めたのはモテたかったからという。なかなかもって健全な動機である。しかし作者は、これではいけないと山に入る。正しい映像作家 を目指して修業に励む。映像界の大山倍達である。地面に密着して一歩ずつたしかめながら撮り進む修業に励んでいると、なんと同じように地面を這いずっている女がいるではないか。君子豹変、直ちに女の後を追う作者。ローアングルで女の尻を撮り始める。なんとも馬鹿馬鹿しい設定であるが、こんなシンプルな設定で作品を作ってしまう作者はエライ。まさに筋肉がカメラであるように間断なく揺れながら、地面スレスレに匍匐前進する映像がとても魅力的だ。

★遠い声、近い声   大庭勇樹/8ミリ/6分
ロウソクの光に泛ぶタイトル。富士山が見える海にすっくと立つ脚。「一生かけても巡りあえない恋もあれば、一瞬のうちに巡りあう恋もある」というこの作品テーマが示されたのち、一瞬にして恋に落ちたカップルが登場する。何だか月並みだけれど恋人たちの登場のし方に工夫が凝らされているので、まあ許せる。このカップルはフレームの中のフレームとして登場するのである。8ミリでフレームの中にフレームを真っ直ぐに合成するのはパララックスの関係で至難の業といっていいが、作者はこれを見事にやりきっている。しかし、突然の交通事故で彼女が死んでしまうシーンの血に模したケチャップはバレバレです。撮り直して再編集しよう。

★事務員ミチヲの秘かな楽しみ   たけうち由佳/8ミリ/8分
山上たつひこのマンガに「喜劇新思想大系」という絶品カルト・シリーズがあるけれど、この作品はあのナンセンスなノリなんですね。それはそれは美人のOLが、終業後同僚の誘いを振り切って家に帰る。彼女には秘密の遊びがあるのだ。帰宅途中の魚屋でイワシを買って、押し入れの行李から取り出した骸骨と夜な夜な戯れるという秘密。まず艶やかな和服に着替え、細い指で髑髏に粘土で肉づけをしてゆく。肉付けが終わると服を着せて股間にイワシを装着し…。イワシの頭が紅唇にぬらりと吸い込まれる模様には鬼気迫るものがある。技術的にはまだ拙いけれどこんな発想をマジにするヒトってコワイ。つぎはイカ・タコの軟体系でやって欲しい。

★種子   あきばみきお/8ミリ/9分
つながった二つの手。その背後に無数の手がまるで絵模様のように配されている。パソコンで手がけられたグラフィックスと思っていると、動画になって動き出す。伊藤高志の「SPACY」のように写真の中の写真の中の写真、と連鎖してゆく。印象的なトップシーンだ。この路線でラストまで引っ張ればかなりの作品になったと思うのだが、どうやらそこまでの根気はないようだ。おぼろな光や陽光、風に揺られるカーテンといった日常の視点に転換してしまう。作品のラストはとても長いワン・ショットだ。それは軒先の雨垂れなのだが、クローズアップで捉えられているため何だか判然としない。センスはわかるけどこの長さ反則ですね。

★まっているとたどりつく   鈴木啓史/ビデオ/5分
ビデオ作品というと決まって登場する定番とでもいおうか。スタイルを気にする初心者がはまる罠のひとつ。少年の顔、ボクシングの試合、軍隊の行進などの映像がリピートされる。ボクシングの試合にはfightの文字がかぶさったりする。同じ表現を何度見たことだろう。軍隊というと決まってナチスドイツであるところまで一緒なのだ。その昔、実験映画というと「砂浜を」「白いドレスの女が」「走る」「スローモーションで」という表現がなぜか多かった。ということは、これは表現者が辿る宿命なのかもしれない。フィルムの世界ではファンド・フッテージという手法で知られているコラージュもアリモノに頼るときはほどほど工夫しなきゃあ。

★母はまるで母のようだ   須藤裕美子/8ミリ/18分
親はおおむね親を演じる。子も、親の前ではいつまでも子供を演じる。微妙なニュアンスの上に親子関係は成り立っている。作者は、その調和した関係にとりあえず満足しているようだ。カメラ前の母と娘。娘(作者)は子供の頃に撮った写真をカメラ前にかかげる。驚くほど若い母と驚くほど幼い娘。時間の驚異を目の当たりにするかのようなショットだ。娘は母に問う「父さんのこと好き?」母答える「ちょっと微妙な感じ…」「私、家出したらどうする?」 「まだ早い」親子関係にゆらぎを入れようとする作者のもくろみも、演じる母には通じない。 そんな満ち足りた関係を作者は、たんたんと映像で描いている。こういう平穏も、まぁいいか?。


●プログラムE


★モ・ジ・バ・ケ   安藤夏海/8ミリ/10分
主人公は極度の文字中毒者である。彼女の部屋の中は文字で埋めつくされている。部屋ばかりか、身体の中まで文字でいっぱい。ウンコも鼻水もみんな文字になって出てくる。食べるものももちろん文字。英字クッキーを焼くのだが、動物クッキーのそれとは異なりすこぶる堅い。パジャマは新聞でできているし、足跡だってペタペタと文字が打ち出される…。なんともユニークな設定だが、これをマジに撮影するとなるとかなり大変である。大変だから最初は、壁面のディスプレイだけで済ませていた。しかし欲がでた。何度も撮り直し、完璧とは言えないまでもその都度、新たなアイディアが加わってここまでこぎつけた。この経験は素敵な財産ですぞ。

★ムカデのじんましん   長橋佑司/8ミリ/8分
この作品は、まごうかたなきムカデのじんましんである。「言い得て妙」というコトバはこれのためにあるようだ。奇妙味のてんこ盛りなのである。最初は男の顔のフリッカーからスタートし、夜の街をピアスの男が走るスチールアニメになり、それが細菌アニメを経由して、いくらアニメへと発展する。といっても分かる訳ないか。細菌アニメは細菌状のアメーバーが増殖するもの。いくらアニメは、いくらがもぞもぞ蠢くケッタイなアニメ。あげくオーバーラップして、キャビアのように黒くなる。砂の中から砂肝が湧いてきたり、冷蔵庫からは肉のカタマリが尺取り虫よろしく這い出てくる。その肉がハリガネミミズの大群に…。うっ!おぞましい。

★気持ち500円   古俣健治/ビデオ/30分
99年9月30日、作者は交差点の雑踏を見て「この中に何人けちな人がいるか」と考えて、一日500円で生活することを決意する。こんにち500円でどこまで暮らしていけるのか日記スタイルで挑戦するコンセプトがとてもいい。と思いつつ見ていると、トホホである。話しは恋人とのうすら寒い恋愛カンケイになり、唐突に実家の親が撮った8ミリフィルムが引用され、さらに北川さんというアーチストの探訪記にワープする。だらだらめりはりなく流される映像に、チェックをかけることができない卒業制作展はつらい。途中退場できない立場もつらい。義務というか意地というか、こいうことを書く身もつらい。作者に自覚をうながしたい。

★gaze   本杉淳悟/8ミリ/15分
映写機のスイッチが入れられて夜景の街が映す出される。ヘッドライトとテールランプの光がゆるやかに流れる。やがてその光が多重露光によって増殖し、光の洪水になってゆく。光のあいまにタイトルが切り込まれて…。この作品には古ビルで光を映写する人間が登場する。以前の作品の使い回しなのだが、作者はよほど愛着があるのだろう。しかし、うまく溶け合ってはくれない。この作品にはもうひとつ素晴らしいシーンがある。横断歩道を多重露光したところだ。歩道のストライプがゆらめくこのショットはじつに印象的だ。光の増殖をばらけずに、横断歩道と組み合わせたらよりシンプルな視覚的作品になるだろう。この作者ならそれができる。

★カメラについて   真鍋香里/8ミリ/28分
この作品は作者と被写体が「作者と被写体」という関係ではなく「作者=被写体」という認識のもとに手がけられている。という説明を作者から受けた。けれど、完成された作品を見て、やはりどうも釈然としない。マニキュアを塗る作者の爪先からスタートし、指先をカミソリで切って「どうやら私は生きているらしい」と述懐する作者と、生きていくことのさまざまな局面を語る友人は、作者の思いの内では同一かも知れないが、客観的にはやはり溶け合わない。撮影は流石にしっかりと腰が据わっている。何を撮ろうとしているのかを心の中でつねに確定しながら撮っているのだろう。それだけに、構成上の作者の思い込みが惜しまれてならない。


●プログラムF


★一本杉の大きな手   宇佐美誉子/8ミリ/29分
トップシーンは弓道場。作法に乗取って弓を射る作者…。作者の祖父は弓道家である。自分の道場を持つ夢を実現し祖母と弓道場を経営している。そんな祖父の半生が写真と実写で綴られる。作者は昔気質で真っ直ぐな祖父に可愛がられて育った。8ミリカメラを買ったときは最初に祖父を撮ろうと考えた。昨年5月3日にカメラを買い、7日に祖父を撮り、翌8日に祖父は亡くなってしまう。日付、時間入りで淡々と綴られるクロニクルが祖父への愛の深さを物語る。しかしこの作品は単なる祖父への追憶に終わらない。5年前に全身脱毛症という病に侵された作者の苦悩と、それを唯一邪念なく受け止めてくれた祖父との心の交流へと展開してゆく。

★売店すぐそこ 8×76/sec.    鯨田敏行/8ミリ/3分
画廊らしい。8ミリのフィルムが展示されている。1秒から切り売りするという案内が見える。 フレームの中のイメージは、カメラを横倒しにして撮られている。横一文字に展示されたフィルムに写し取られた人影…。なるほど、こういうインスタレーションを手がけている作家なんだ。展示フィルムのひとつに「子供の頃見上げた屋根」というイメージがあった。それらしい映像が1秒だけ流れる。とてもいいセンスだ。卒業制作展でもこれをやって欲しかった。「子供の頃喉につっかえた骨」とか「胸に刺さった折れ釘」なんて映像見てみたい。作品の後半は、プラスチックボトルに明滅する光で占められている。これもライブで欲しかったなぁ。

★かけがえのないもの-OREZOTENIN-  吉川義盛/8ミリ/8分3秒
ビルの屋上でタイトルをかざす。信号や太陽や日の出が綴られ、CG初期のエクササイズめいたアニメーション。このあたりの展開は良くわからない。習作を無理やり押し込んだ印象。ところがところが、屋上の写真が届いて、その屋上へ主人公がやってくるところからが俄然いい。目出し帽をかぶった男が、マジシャンよろしくコートを脱いで振るとあら不思議、コートはテーブルになり、次にビール。ズボンを脱げばおつまみに変わり、ジャケットは花瓶に、花が花火に…。撮影中のカメラをいったん止めて、被写体を入れ替えるというメリエス以来の単純なトリック撮影だ。最後は目出し帽を脱ぐと女性に変身する主人公。ここで終っても良かったね。

★そんな気持ちのままで   平澤龍弘/ビデオ/10分
女性がひとり部屋でマニキュアを塗っている。クローズアップでその指先。目。横顔。室内の椅子、ボールペン、ノート、スピーカー。おいおいまた独り暮らしの女性かよ、と思うとさにあらず。月並みなスタートではあるが、外で裸男に抱きつかれる幻想インサートから転調する。カメラの側から手が伸びて女性に触れたり、女性もカメラの存在を意識したり、予想を裏切る展開を見せるのだ。部屋の薔薇と野原のタンポポを交換するあたりの設定も、さしたる根拠はないけれど巧みな展開といえよう。作品のラスト、野原の薔薇に水をやっている女性の頭に水が落ちてくるシーンは圧巻だ。しかもそれが、室内からシャワールームへと連続するのである。

★指切り   米津裕子/8ミリ/14分
タイトルがリンゴの皮に刻まれている。ただ文字だけではないアプローチが嬉しい。主人公は若い女性。かつて会社の上司だった中年男性フジタさんから勝手に送られてくるメールに興味を持つ。彼は親娘ほども年の離れた若い女性とラブラブである。好奇心を刺激されて偵察にでかける主人公。フジタさんは愛すべきおデブちゃんといった感じの素敵キャラクターだ。けれども作者は、中年、デブ、オタクに対する世間の評価をフジタさんにあてはめてしまう。そんなにモテるわけないという設定にしたところが勿体ない。世間的な価値基準など商業映画に任せておけばよい。不徹底に終わった幻想シーンよりも、ここは思いきり破天荒でいきたかった。


●プログラムG


★だいだいいろ 「笑私〜ショウシ〜」改題  鈴木陽子/8ミリ/8分
風が吹く窓にワンピースが揺れている。「亡くなるはずのないものが亡くなった…」というナレーション。この作品は、若くして亡くなった母へのオマージュである。カメラは母が残していったワンピース、化粧品、カメラなどを捉える。なぜか風景を捉えた写真が多い。残されたコンパクトを愛しげに取り上げ、母が撮った写真を床の上につぎつぎと並べていく作者。肉親の死というものはアクチュアル過ぎてなかなか作品になりかねる。そこのところは承知していてか、作者は廊下を転がるビー玉や、母から受け継いだホクロにカメラを向けて、なんとか第三者にも伝わる作品にしようと苦闘する。そんな切なさが画面からひしひしと伝わってくる。

★しのびがえし   椎名隆司/8ミリ/17分
ある日アパートに帰ったら知らない女が住みついていた。内鍵をかけてしまっているので、そもそもの住人であるボクは中に入れない。何が何だかわからないけど、付合っていた恋人からは釈明を要求されるし、別れると脅される。という巧みなシチュエーションを持ちながら、やがて女はボクが起こした交通事故の被害者であったり、なぜか一緒に海へいったり、きわめて月並みなドラマへと展開する。月並みだけなら我慢もできるがハナシのスジがコワレてくるので困惑させられる。こうなったらいっそのことコワレるだけコワしてしまえ。ひょいと脚をあげて見えを切るところや、ポンと背中に飛び乗る女性の秀逸なショットが多々あるのだから。

★水溶性   大津麻智子/ビデオ/5分
誰もいない畳の間。「みないで」という字幕。一瞬、大きな魚の目玉。「こっちみないで」でバスタブの水の中でゆらぐ布。「みないで」畳の上に巨大な魚がゴロンと転がっている!。畳の間というのは何かが棲みついているようなイメージがある。この作品では巨大魚が棲みついている。じっさいの魚はそんなに巨きくはない。もちろんこの畳の間に棲み付いているわけでもない。作者が手配したものである。しかし、スクリーンに描かれたイメージは鮮烈に印象に残る。映像の魔術である。もう一つのイメージは、バスタブの中で着衣のまま漂っている女性のイメージ。これもへんてつない場所なのだが…。非日常のイメージを見事に捉えましたね。

★36.8℃   川村尚子/8ミリ/17分
部屋のカーテンを捉えた長いながいワン・ショット。その長さは、このまま終わりまでひっぱるのでは、と不安にさせる程である。色盲検査をしているような長いフィックスが終わると、風でカーテンがめくれて外の風景が一瞬見える。長いショットの後ではまるで視覚に風が吹き込むような解放感を覚える。次いで指のホクロや団地の情景、缶詰めの蜜柑の果肉、ピーチの果肉のみずみずしい映像がクローズアップで捉えられる。緩急の絶妙な呼吸である。この作者の腰の座り方はなかなかだ。後半のアドバルーンを捉えた長いショットでも、じれてきたころにヒコウキ雲がアクセントをつける。日常の風景を自分の世界にひきこむ力を持った作家だ。


●プログラムH


★ぐるぐるふつふつ...    原菜穂子/ビデオ/11分
魚フェチの青年と、その魚に嫉妬する女性のおはなし。この長さでそういうハナシというと先が見えるようだが、さにあらず。この作品の魅力はお話よりも映像のつくりにある。偏愛していた魚に死なれた青年は、林の中に魚を埋葬する。それを樹陰から見ている女性。半身になったその表情がぞっとするぐらいいい。埋葬された魚を暴いて家に持ち帰った女性は、その紅い唇からとりだした針を魚のからだにブスリと突き刺す。針の山になった魚のイメージにもぞっとさせられる。不気味さを際立たせるのはそのシーンの間に鳴り響く鳥の鳴き声である。キイキイ、カアカアという鳴き声に急かされるように、今度は鋏みでジョキジョキ…。おおコワ。

★Covered with a Surface(「光景」改題) 南部隆一/ビデオ/9分
窓硝子、フェンスの金網が映っている。窓、カーテンがかかった窓。小さい窓、大きい窓。さまざまな窓の累積…。電線が硝子に反射した窓に、人影が見える。この作品の主人公の窓だ。窓辺に立つ青年が窓硝子を押すと、映り込んでいた電線がゆらりと揺れる。半開きのカーテンが見える窓。団地の、無数に並んだ窓。ビルの窓。主人公がふたたび窓を叩く。揺れる電線。硝子を叩くとそこに映り込んだ風景が揺れる、という作者の発見がこの作品に精彩を与えている。単調な窓の連続が硝子のゆらぎによって映像に思いがけない振幅をもたらすのだ。窓という名詞が動詞に変化するのである。それだけでいい。青年が笑ったり喋ったりしないほうが。

★「カワノオワリ」    ヤマモトカオリ/8ミリ/20分
ビデオの再撮影らしい、歩く人波を捉えた映像がやけに暗い。ビデオの再撮はずいぶん沢山の作者が手がけているけれど、どうすればこの作品の映像のような暗さを出せるんだろう?。データをミスったら撮り直せばよい。作品の上手下手は苦にならないが、こういう無神経な作品には腹が立つ。一事が万事というものか、作品の内容もかなりおざなり。撮影も手抜きが甚だしい。タケシとユウコは恋人同士。ある日、自転車の二人乗りで川伝いに海まで行こうと走り出す。どっかで聞いたようなこのストーリーには目をつぶるとしても、田舎に帰ったまま戻ってこないタケシを思いながらの回想とは、あまりにも月並みではありませんか?プンプンプン。

★誉めよ、誉め讃えよ   秋浜瑞紀/8ミリ/25分
大作である。しかも最後までまったくダレない。構成および映像表現に工夫が凝らされているせいだろう。前の作品で席を立った観客はたいへんな見逃しをしたことになる。この作品の映像はほとんど水中で撮られたように、間断なくゆらめいている。そのことが少女時代を回想する設定からスタートする作品に独特の輪郭を与えている。いったいどうやって撮影したのだろう。スチールと実写を巧みにないまぜた構成も奏功している。物語は少女から大人になるまでの猫にまつわるさまざまな出来事を語りながら、終盤になると、ふいに大人になった少女の恋人の視点に展開する。じつに鮮やかな転調だ。全盛期の早大シネ研を彷彿させられた。ブラボー!


●プログラムI


★RooooooooM   tomoyo nomura/ビデオ/15分
レンジのスイッチを入れた瞬間、短いショットで食事の献立が綴られる。冷蔵庫を開けるところから始まり、ご飯、煮物、吸い物、大根おろし、イチゴ、クルミ、お茶などのメニューが目にもとまらぬスピードでつぎつぎと描かれ、そのスピードは次第に加速されてくる。さらに、それにともなって映像の並び順が入れ替わり、それぞれの映像についている音声も、カットを重ねるごとにずれてくる。ビデオならではのコンセプトといえよう。このまま終わればなかなかの秀作なのだが、作品の後半に、これらの献立をつくるプロセスがダラダラと綴られる。もしも準備段階を入れたいとしたら、作品のイントロダクションにメリハリつけて加えたら?。

★接触の温度   栗山和久/8ミリ/7分
この作品、講評段階と較べるとグッと良くなりました。パチパチ。講評時に指摘されたいくつかのショットをキチンと撮り直したんですね。こういう態度、好きっ。青空に手が広がる。その手がクルリと反転すると、鏡の中の映像であることがわかる。あるいは、女性がコンクリートの地面に耳を付ける。と、男性がコンクリートを舐めながらやってくる。言葉で書いても伝わらないが、緊張感のみなぎる映像の連鎖が見る側の視線を掴んで離さない。それがこの作品のきわだった魅力である。喩えていうならばマヤ・デレンの「午後の網目」といったところ。キッチリ選ばれたフレーミング、コントロールされた動作の演出。次回作を楽しみにしてます。

★カラーサークル   西内麻衣子/8ミリ/4分
カラーで彩色された等高線のようなストライプの色彩の中を、千鳥を思わせる鳥のアニメーションが渡っていく。高く、低く飛翔する鳥の下で、等高線の色彩がつぎつぎと変化していく。やがて、ひときわ高い山の上で、鳥たちは円陣を組んでグルグルまわりはじめる。アニメーションの動きはスムーズだが、鳥の造形はいくぶんおざなりであるし、色彩の変化もさして緻密とは言えない。作者はこの作品のコンセプトを仏教の輪廻転生に求めたというが、映像でそれを描くためにはもっと、もっと、もっと緻密な作業をしなければ無理でしょう。まあ、忙しかったんでしょうね。講評時にも指摘した筈です。創造は自分のためですから…。再挑戦しよう。

★束縛   梶原理英/8ミリ/11分
いきなり目のクローズアップ。「あなたに触れたい」「あなたを知りたい」という囁きとともに、カメラを持つ作者の手が、ジャケットのジッパーを引き下げ、シャツのボタンを外し、ズボンのファスナーを下ろしていく。やがて剥き出しとなった男性の裸体を指先でまさぐっていく。乳首が、へそが、皮膚のくぼみが「あなたを知りたい」という呪文のような囁きとともに超クローズアップで描かれていく。「あなたの心に触れたい」とペニスの触れ、「あなたを縛りたい」では、比喩ではなくマジに縄で体を縛る。と書くとアブナイ作品のようだが、やがて男女の束縛と開放というテーマに収束してゆく。視覚的アイロニーを大胆に描いた力作である。

★Nothing`s Gonna Channn...ge!!   吉良竜太/ビデオ/11分
2000年1月1日の日の出からこの作品はスタートする。ナレーションによると作者はいま流行の”ヒキコモリ”にとりつかれているという。神社の境内でマイク片手に、自分の症状について率直に語る。作品のための設定なのだろうと誰もが考えるけれど、続く画面では精神科医のカウンセリングになる。おいおいマジなんだよ。だからといって評価に手心は加えない。まあ、カウンセリングを自己紹介にちゃっかり使うほどの作家ダマシイだから、精神はタフだろう。鬱病の診断を受け、薬を服んでいながら、作品のほうはじつにパワフルだ。短いショットを畳みかけるようにビュンビュン重ねていく。前作とは異なるがこのアップテンポも好き。


●プログラムJ


★Switch   秀島謙二郎/8ミリ/7分
風に吹かれるような勢いのあるタイトルがいい。しかし、本編になるとなぜかトーンダウンしてしまうんですね。シンプルな線描きのアニメーションで、一本の線がロボットになり、そのロボットがビルの上から鉢を投げ下ろす。投げられた鉢は地上に届く間に巨大化して、通りかかったヒトを押しつぶす(でよかったのかな?)。あるいは、ベルトコンベアーの上のロボットがつぎつぎとヒトに成型されていくさまが、くりかえし描かれる。こういうシンプルな作品でくりかえしを頻繁にやると、手を抜いていることを宣伝しているようなもの。つつしんで欲しい。それにしても手抜きは明らか。Bプロ「阿片譚」の爪の垢をセールしてもらいなさい。

★そんな、27mm   横田豊子/8ミリ/14分
タイトルの意味は8ミリと35ミリの差、つまり35ミリマイナス8ミリ、イコール27ミリというわけ。そんな‥!。荒れた粒子の8ミリ画面、作者の祖母である。その祖母が亡くなったという知らせを受ける。留守電を聞いて故郷へ駆けつける作者。車窓よりビデオを撮りはじめ、スチール写真の風景をつぎつぎと重ねていく。作者は8ミリと35ミリおよびビデオを手がけているのだ。その機材を駆使して亡くなった祖母を記録する。ばあば、ばあばと呼びかけながら祖母をスチールで、ビデオで、8ミリで撮影する作者。人の死という厳粛な場が作品制作の場に変貌するのを見るのはつらい。死んだ祖母はともかく作品としてなんとも品がないね。

★サムライダイゴ   平畑玄洋/ビデオ/29分
タイトルは、タイで活躍する日本人キック・ボクサーのリング・ネーム。作者の友人である。本名菱田慶文 からサムライダイゴに至るいきさつが、本人および友人へのインタビューを通じて明らかになる構成だ。作者は何度となくタイに飛び、試合を撮影し、現地のテレビで放映された映像を素材として使いながら、この愉快なキャラクターに肉迫する。八百長試合を組まれた裏話や、日本でも知られているオカマのボクサーとの戦いの模様、殴り合うというコミュニケーションについてなど、なかなか盛りだくさんだ。膨大にあった素材をよくここまで詰めたものである。欲を言えば友人という立場からの突っ込みと、作者自身を押し出したかった。

★眺める愉しみ   山岸玲音/8ミリ/25分
街のスナップがオーバーラップの連続でフワフワと描かれる冒頭の呼吸が素晴らしい。短いオーバーラップをこんなに正確にコントロールできる技術をマスターした努力に乾杯!。とはいうものの、被写体の選択に多少の配慮が欲しい。見た目で撮った被写体ではなく、カメラの視点を考慮したかったね。夢を見ているようなOLの連続から一転すると、暗黒の室内で裸体の男女が動き廻るシーン。ここでも裸体でぐるぐる廻る演出がいくぶん平版なところが悔やまれる。廻る全身に廻るアップの顔をOLしたら空間はもう少し緻密になったでしょう。このパフォーマンスはアダムとイブなんでしょうね。部分のアップで押して全身を想像させて欲しかった。

★稲荷之陰嚢-いなりのふぐリ-   秋山直人/8ミリ/20分
「稲荷寿司揚げを剥いだら米ばかり」なんて諧謔からスタートするこの作品、なかなかもって曲者だ。タイトルからしてイメージフォーラムのロゴを踏襲しているし、何気ないショットにもさまざまな工夫が凝らされている。フェードイン・フェードアウトの連続やコマ撮り、さらには稲荷にまつわる神話の世界を、銅版画を思わせるアニメーションで描くのである。しかも稲荷を題材にした理由は、作者の実家にお稲荷さんの巨大な鳥居があったことから発展したという。作品を手がける根拠というと、おおむね肉親や自己史ということになるけれど、こういうアプローチもあるのだ。恣意的なフィクションではなく根拠をもったフィクションである。


●プログラムK


★砂の写本   桑原正彦/8ミリ/23分
青い海、白い波、前景に広がる砂浜に深紅のコートを着た少女が座っている。少女の背後の海の中から赤い腰布の怪異な男が現れる。男は顔に赤い布を巻きつけ、両手を拡げた奇妙なポーズでやってくる。渚の彼方からは黒衣の青年がトボトボと歩いてくる。無彩色の砂と強烈な色彩のコントラスト。晴天の砂丘で撮影した作者の狙いが画面にくっきりと刻まれている。登場するのはこの三人と流れる砂だけ。伝えるようなストーリーはない。互いに交差することのない三人が描く、ちょっと不気味な映像詩だ。現実社会の寓意として描かれたのではないところが作者らしい。われわれの現実原則とは別の美意識にもとづく作品世界を作者は慈しんでいる。

★note(「間違ってて 正しくて 」改題)  迫田公介/8ミリ/30分
街に出てカメラをまわすと風景しか撮ることができないという作者。この作品はそんな作者のいわば居直り日記である。カメラは街に出ていく。雑踏の中で撮影するけれど通行人の顔を捉えることはまったくない。「モノだったらいくらでも近づけるのに」と述懐しながら人波を離れた遠くから撮り続ける。そもそも生き物には安全距離というものがあって、人間ならば電車の向かい側に座っている人を撮影するのをためらうようなもの。猫でも5メートル以内に近づかなければ逃げはしない。だれしも感じているその自然な反応を、作者は撮影することを通じて確認し、作者ならではの撮り方を会得してゆく。人は人と同じにならなくてもいいのだ。

★全然 青い花から   江川摩利子/8ミリ/12分
意味は不明だが、何となく雰囲気が伝わってくるようなタイトル。作品内容もまた、あらすじや意味とは無縁の不思議な情感を伝えてくれる。開巻、白い百合の花に水滴がしたたる。と、百合の白にうっすらと青い色彩が被さってくる。透明感のある深い海の底で捉えたような色彩だ。ブルーに染まった百合の花弁。見つめる目のクローズアップ。別のところでは路地に植えられた百合の花が、多重露光によって次第に増殖してゆく。これらのイメージに赤や黒のセーターを着た女性がオーバーラップされる。作者の色彩に対するこだわりが印象的だ。ラストは百合の砕片のような細かな雪が空から降りてきて、それが室内へも降りかかる。UPがいいね。

★金魚の糞   中澤智恵/8ミリ/15分
生きるということに確たる理由を見いだせずに毎日漂っている状態を「金魚の糞」と呼ぶ作者は、ワンピースを着て水の中を漂う女性と水槽の金魚をダブルイメージで捉えることによって そんな毎日を映像という形にしようと試みる。オーバーラップによって女性の顔が石膏像みたいにのっぺらぼうになるイメージ。水の中から半分顔を出してブクブクと呟くショット。「なんとなく定期を使いきる」ために電車に乗る様子などを描いて、あてもなく漂う焦燥感を顕そうとしているのだろう。多重露光を描き方の中心に据えたところはデカシタが、ほとんど全編にわたるアウト・オブ・フォーカスはいただけない。再撮影も含めてもう一度再編集しようね。

★神様のいうとおり   遠藤淑恵/8ミリ/20分
この作品の主人公は優柔不断な性格で、今日も友人との待ち合わせに向かう途中で、自販機のジュースに迷い、横断歩道の信号でまごつき、結局待ち合わせに遅れてしまう。友人達とレストランに行ってもミックスサンドを頼むつもりがチャーシュー麺を注文して顰蹙を買う。そんな主人公にまたひとつ妄想癖という厄介な問題が加わった。というナンセンスなドラマなのだが、全編にまたがる技術的な失敗が難点。露出の計測を誤ったのかほとんどのシーンがオーバーなのである。しかもフォーカスも怪しい。作者みずから主演して、ドジなキャラクターをトボケタ味で怪演して(じぶんを嘲笑の的にする根性はエライ)いるのだが…。カメラマン謝れ!

★キル   小倉智里/8ミリ/9分
色彩と光線の明滅の中で鋏がジョキジョキ蠢いている。主人公の女性はモノを見ると何でも截りたくなるキャラクター。空をジョキジョキ、高原の花をジョキジョキ、草も、樹も、目に入るモノなら何でも鋏みを入れてしまう。ベッドに寝そべって鋏を愛撫しながらジョキジョキと空気を截るまがまがしいイメージ。結構コワイですよ。ディライトのフィルムで撮影したのだろうか、鋏をふるう女性の肌の発色が素晴らしい。截るものを求めて彼女は自分が着ているドレスにも鋏を入れてしまう。ラストはそれを上映しているフィルムにも鋏をいれる。映像が切り裂かれ、フィルムがストップして燃えはじ…。実際に截るモノをもっと工夫したかったね。


●プログラムL


★以毒制毒宴    二宮正樹/8ミリ/30分
カメラの前に立つ作者。なにか幸せなものを撮りたいと呟くが、やはりそんなものは撮れなかった99年の夏。そんなイントロダクションからスタートするこの作品は、撮れない理由は自分と自分の家族にあることを明らかにしていく。少年時代の幸せな家族の写真から、やがて兄の暴力、借金、作者自身の退学といった問題が語られていく。作者は「ぼくとぼくの家族のごくありふれたドキュメンタリー」というが、兄の借金の返済のために三つの職場をかけ持つ母の姿や、鬼火のように路上で燃え上がる炎にかぶせられた家庭内暴力の音声を聞くと慄然とさせられる。作者はこれを、自分と兄が立ち直るための足がかりとして手がけたという。エライ!

★Q   朝重彰/8ミリ/12分
日記なんだろうか、心象風景なんだろうか? 朝起きて立ち上がるまでの動作が何度も繰り返される中に、空港や葬儀(らしい)やビリヤードや(なぜか)エフェクトがかけられた人物などが描かれる。どうも判然としない。水玉模様がテレビのバーチカルのように痙攣的に落下したり、多重露光で回転を見せてもさっぱり伝わらない。アブストラクトなイメージを狙っているとしたら、冒頭の耳の超クローズアップは邪魔になるし、ストレートに撮影されたシーンもアングルに工夫が欲しい。プープーと間断なく鳴る水中低音のようなサウンドがいつまでも耳の底にこびりついて印象的なんですが…。映像は説明じゃない。けれどももちっとなんとか…。

★銀の器   井上企代子/8ミリ/5分
タイトルがボケていましたね。映写技師がピントを合わせられないと折角のイメージが台無しになります。とりわけこの作品のようなデリケートなニュアンスの場合は。撮り直しましょうね。光る水面、水の中をくぐる手。ぼうっと泛ぶ水の中の身体…。色彩の発色がとてもデリケートで画面の中に引き込まれるようです。赤い手、青い裸体。硝子越しの手のイメージも、硝子が水のフィルターみたいに作用して、なかなか効果的でした。硝子の向こうでkissをする男女のショットは、いくぶん説明的すぎると思います。ヌレーエフのバレーみたいに抽象的に描いたらもっと印象的だったでしょう。スタイリッシュな画面にギターの音がとても素敵でした。

★水の染み   渡辺雅代/8ミリ/5分
バスタブの中に沈む顔。水滴がオーバーラップの連続でつぎつぎと滴り、まるでゴム風船のように膨らんで伸びていく。あれはホントにゴム風船だったのですか?。その中から涙滴のような青いしずくがとびだして、目鼻がついて動き出す(ここはアニメーション)。主人公の女性の胸にドアが付いて開かれると、そこから涙坊主がつぎつぎとこぼれ落ちる(ここは写真とアニメーションの合成)。手の込んだつくりである。アニメのセルがバレてるあたりはご愛嬌。実写はもちろんのことスチール・アニメやセルアニメまで動員して、描きたいイメージに肉迫していくパワーは貴重です。OLもとても鮮やかでした。次は失恋じゃないテーマでいこうね。

★生まれるはずの...    藤井由貴/ビデオ/18分
大正時代のつくりのような古い倉庫。その中で展開するヌードの男女のパフォーマンス。一面に敷き詰められた玉子を踏み付ける足。魚の目玉。クローズアップで蠢くタコの吸盤が裸体に 重なって…。不思議な雰囲気の空間で描かれるエキセントリックなイメージとは別に、ここには8ミリカメラで女性を撮っている作者の映像が加わってくる。廃線の鉄橋を歩く女性や、森の中に横たわる女性のイメージ。が、どうもうまく溶け合わない。どちらのイメージも魅力的なのに反発しあっている。なぜだろう。もしかすると作者は、場所に惹かれて人につれないせいかもしれない。そういえば登場人物の印象がとても希薄なのだ。この作品再編集しようね。

★ホームへ帰る(「たぷたぷ母乳三昧」改題) 木村文昭/8ミリ/20分
野球である。作者は少年時代に母から野球を仕込まれる。野球はホームを目指すゲームであるというのが母の深謀遠慮なのだ。だけど長嶋茂雄と撮った写真もある。母も優しい。作者の作品には、毎回ホンモノの母親が登場する。存在感のあるキャラクターだ。そんな母に対抗するかのように作者はデタラメさをエスカレートさせていく。今回は、女性に踏まれ、嬲られ、鞭打たれた失意の作者が、母のもとに駆け込んで甘えるようとする物語。癒しを求めて「こんなボクにだってイイとこあるよね」と聞く作者。「ない」一言でしりぞける母。やがてカラオケに懸ける母の人生と、映画に賭ける作者の人生が激突する。虚実混交のナンセンス人生編だ。


●プログラムM


★壜の中の時間   伊藤あらた/8ミリ/12分
カメラの前の1本の壜からズームを引くと1軒のアパート。写真によるアニメーションでアパートを探検するカメラ。スチール・アニメーションでは多々ある方法だが、作者はそこにとどまらない。アパートの前で主人公の靴紐が解ける。コマ撮りによる撮影で靴ばかりかズボンもシャツも脱がされアレヨアレヨという間にすっ裸で、くだんの瓶の中へ閉じこめられてしまう。これだけでも結構だが、ここからさらにイメージはふくらむ。アパート前を通りかかったカップルが壜を見つけて拾い上げると、カップルはダンス衣装にオーバーラップ、踊り始める…。作者は早くから撮り始めた。撮り直した。この作品の高度な技術と表現のゆえんはそこにある。

★水の中   カンタキコ/8ミリ/10分
冒頭、赤い光の中に黒い魚影が浮かび上がる。ゆらゆら揺らぐ金魚の尾ひれと白い指先がダブルエクスポジュアで描かれる。風にざわめく森の木々。蒼ざめた裸体。ゆらぐ黒髪…。赤と沈んだブルーの鮮やかな色彩感覚。多重露光されたその映像は、あたかも人と魚が共生しているかのようだ。いつ、どこで、だれが、といった現実原則を離れて夢幻へと誘うようなこの映像は、クローズアップで描かれているからにほかならない。作品の後半になると、その関係がいくぶん怪しくなってくる。森の中の女性と、そこにからんでくる男性の描き方が世間一般の男女関係を踏襲しているかのように見えてしまう。現実原則よりも映像の魅力でいきましょう。

★摘み草   扇田未知彦/8ミリ/20分
いってしまえば美しい女性のポートレートなのだが、この作品の映像はなかなかもって強靱である。朝目覚め、薬罐に火を入れ、お茶を淹れて、爪を切り、顔を洗う女性。なんでもない一日の始まりがこの作者の手にかかると、とても緊張感のある映像に変貌する。たとえば爪を切る女性をアップで捉えたショットでは、膝小僧の上に斜めにかしげた顔を乗せて、爪を切らせるのだ。爪を切るという行為を絵解きするのではなく、爪を切る動作そのものがひとつのイメージとなるように、周到にフレーミングされているのである。こうした映像とカットバックされる草原。「ワタシノヌケガラ」と部屋いっぱいに拡げられてゆく衣類…。映像の力がちがう。

★説教芸術家    西崎博人/8ミリ/20分
「みなさん、山窩という言葉を聞いたことがありますか?」という呼びかけでスタートするこの作品は、作者の父親とその土地にまつわる追憶を映像化しようという試みである。山窩というのは村落共同体に属さず、定住することなく、山から山へと渡り歩いた少数民族のこと。社会の構成人員外という意味では芸術家も似たようなものである。作者の父は山窩の流れを汲む人というところから、作者は幼少時に過ごしたその土地を訪ねるのだが、廃屋と山林だけではなんとも映像になりかねる。ぼくも経験したことだが、記憶を撮るために記憶の場所へ行っても記憶が撮れるとはかぎらない。この作品の失敗もそこにある。つぎは別の場所で試みよう。


●プログラムN


★RESET    平嶋圭/8ミリ/30分
夏期作品として手がけられたものに撮り足しを加えて完成したドラマ。ここには三人の男が登場する。ひとりは全国指名手配を受けている空き巣。もうひとりは、他人と入れ替わることができるRESETなる薬を持つブローカー。三人目はとってもトンデル殺人者。この三人の因果がめぐるわけだが、あらすじはさておき。夏期作品はショットに無駄が多く、技術的にもアラが目立ったけれど、リテークと再編集を加えたこれは、見違えるほどテンポが良くなっている。登場人物の描きわけがキチンとしてきたせいか、俳優の魅力がグッと増してきたようだ。よくぞ投げないで完成してくれました。このプロセスは作者にとって貴重な経験だったでしょう。

★階段小路   越河美波/8ミリ/7分
猫。陽射しの下で身繕いをしている。カメラは階段のある路地の風物や住人たちを克明に記録してゆく。作者はたぶん何度もこの場所へ通ったのだろう、階段の途中で立ち止まったおばあさんがカメラに話しかける。コインランドリーの入り口ではおじいさんがじっとカメラを凝視している。そのまなざしは他所者に対するものではない。身内に対する暖かさが感じられる。ここまで辿り着くのにずいぶん時間がかかったろう。その時間は作者に撮るものを発見させる時間でもあったようだ。何に使うのか、木のポールに打ち付けられた錆びフック。忘れ去られたような牛乳箱。石の隙間に堆積する色褪せた紅葉…。これらもやがて消えてしまうのだろう。

★千葉 窓 虹   カサイセイ/8ミリ/41分
入院した父親を見舞いに山梨から千葉へ毎週通っていた。「愛しているのか憎んでいるのかわからず、向き合うと言葉が出ないのでカメラで撮る」というスタンスで8ミリと写真を撮り続けた。作者はいったい何時間電車に乗って通っていたのだろうか。作品の大半は往き帰りの車中から撮られた風景である。「チバ、マド、ミチ、ヒカリ、ヒカリ」繰り返し呪文のように呟きながら車窓からの風景を撮り続ける作者。家を出た父との乏しい、しかし鮮明な記憶がナレーションされる(録音状態がきわめて悪いので、折角のナレーションが聞き苦しい)。病室のショットを写真にしたとこが奏功してます。後半の車窓と弟の長いショットは摘みましょう。

★Three minuites out   田端志津子/8ミリ/3分
傑作が誕生した。実写のコマ撮りによる作品であるが、これは単なるコマ撮りではない。画面は、赤い太鼓橋からスタートする。印象的なこの橋の手前に写真を掲げた作者が立つ。写真の中にはサッカーグラウンドが写っている。その写真が掲げる作者の手の中で動きはじめるのだ!。ボールを追う選手とともに右から左へPANするのである。つまり、作者は連続写真として撮られたものを、一枚づつチェンジしながら太鼓橋の前でコマ撮りを敢行したのである。異様な光景だったろう。それだけではない。この作品の次のショットはサッカーグラウンドを背景に海の写真を、海を背景に動物園の写真、動物園を背景に、と続き、元の太鼓橋へ戻るのである。


●プログラムO


★さよなら。   鳥浜浩/8ミリ/74分
大作である。しかも74分間まったく飽きさせない。娯楽として飽きさせないというのではない。作品を手がける作者の姿勢と情熱が最後まで惹きつける。冒頭、コピーされた粗い粒子の女性達が作者に呼びかける「ねえ、生きようとするから人は生きていられるのよ」。作者は作品をつくりながらその問いに応える。最初のパートは住宅街の路地に立つ作者が、自分と、自分が作品を手がける意味をカメラに向かって語るところから、たとえば第三のパートではカメラの機能を実証して見せたりする。自分で自分を撮るその手続きの実験が、期せずして作者の生きる哲学になっている(いささか韜晦的ではあるが)。真摯に映像に取り組む姿勢に拍手。

★EVEN IF   小島正浩/8ミリ/7分
小さな爪まで生えていた男の子を流産してしまった母の話を聞いて、不在の兄のイメージをフイルムに捉えようと苦闘する作者。坂道をスローモーションで上ってくる男のフル・ショットに顔のアップがオーバ−ラップされたり、町の子供達を捉えて、不在の兄に見立てたりするけれど、残念ながら成功していない。流産された兄について直線的に語ろうとしたからなのだろう。事実であっても、あるいはフィクションであっても、こういうアクチュアルな話はツイストを利かせないと難しい。そこを何とか映像として表現しようと赤ちゃんの手まで借りて手を尽くす作者の努力は貴重である。流産した兄(になる予定の人物)をオブジェにしたら如何。

★HIGH-VOLT   佐藤健/ビデオ/16分
街灯が揺れ、かしがり、流れて電線につながるトップから、コマ撮りの電柱をぐるぐる廻りながら(なんと!)外国まで行ってしまうこの作品は、撮影手続きを知る人間にとってはその苦労をねぎらってあげたい思いにかられる。街角をハイアングルで撮影したショットなど、いったいどんな撮影をしているのか興味深い。けれども、心を鬼にしていってしまえば、この作品のさまざまなパートがどうもカッチリ噛み合わない印象なのだ。電線というメインのイメージと町のコマ撮りがスムースに流れない。とりわけ途中で挿入されるクロミなどは、イメージの流れを中断するほうにしか機能していない。素材は素晴らしいのでもう一度編集し直そうね。


●プログラムP


★明かりの中の会話   神山千恵/8ミリ/5分
闇の中のステージに明かりが入る。ゆくりと舞台中央に歩み出る女性。小さな人形を腕に抱いている。舞台袖では照明係りの人形が、モーターのスィッチを入れる。自動人形のようにギクシャクと動き始める女性。スィッチを入れ替えるとその動きが次第に加速されてゆく。まるで人間と人形の役割が入れ替わったようだ。動きが最高潮に達したところでストップモーション。今度は等身大の人形が女性の動きをこだまのようになぞってゆく。人間と人形の共演である。と、言葉で書くのは簡単だが、人間と人形の動きのタイミングを合わせるのは大変な作業だったに違いない。ステージを使っての撮影ならびに照明も完璧。何度も撮り直した努力に拍手。

★凝視/瞬き   小林寛学/8ミリ/8分
人口呼吸器の管に繋がれた男の顔。死の床に就いているかのような蒼ざめた肌。肌ばかりではない、画面全体が色彩を失ったように沈んでいる。8ミリフィルムでこのような色彩を演出するのは難しい。フィルターを使うと色が重くなってしまう。作者はこの色調を演出するために、ビデオの画面を再撮影するという方法を採っている。再撮影にビデオを使う方法はこのところ急速に増えているけれど、この作品のように内容と不可欠に噛みあう表現は多くない。作品では、このショットのほかにも左右相似形の女性が立ち上がるシーンなどに効果を発揮している。画面のクォリティもそれほど損なわれないこの方法は、エフェクトの新しい展開といえよう。

★ダイアローグ1999   井上朗子/8ミリ/40分
大きな排水溝がある。雪がちらついている。その中に入る作者。「色んなことが解らなくなってしまったので色んな人に話を聞きに行きました」というところからスタートするこの作品は老若男女16人(だったと思う)の話を聞くいわばインタビュー集である。雪かきをしながら、若いころ結婚を考えた女性について語る男性。作者の父である。西安で知りあった女性の「再見」という単語にまつわる思い出。あるいは恋の話。星が降った話。北朝鮮に帰国した友人について。いろんな出会いと別れが語られていく。インタビューは作者の人柄を反映する。とても素直で美しい話ばかりだ。背景に流れる折々の風景も素晴らしいアクセントになっている。

★エル   山本貴政/ビデオ/20分
友人と徹夜で話して朝になり、もっと話したい気持ちを抱きながら家路に就く…。そんな朝の情景を作者はたんたんと描いている(という設定)。朝焼けに染まる空。消え残った月。電線、運河。ネギ畑がある。トマト畑もある…。見たものをほとんど反射的に捉えたような映像がいくつもいくつも重ねられる。撮影した本人は気分いいだろう。しかし、その時間を共有できなかった観客にとっては拷問に等しい。タイトルの意味はLifeのLという。前後の脈絡を欠いているのでどんなLifeなのかさっぱり伝わらない。これでいいの? 後半になるといきなりクローズアップの目とレコードのターンテーブルがカットバックされる。これ唐突ですよね。

★男のサービスエリア   樋渡麻実子/8ミリ/40分
とても含みのあるタイトル。見る前はこの作者のことだから奇妙味の作品だろうと思ったが、さにあらず。サービスエリアで亡くなった父と、初めて会う異母兄に関するドキュメンタリーなのである。三年前の冬に自殺した父には腹違いの兄がいた。そのことを知った作者は、兄と対面するために旅行を計画する。父が死んだ場所を訪れるのだ。肉親の死を描くとき人はしばしば感傷に陥る。事実の重みに引きずられてしまう。しかしこの作品は、じつに周到な計算のもとに事実の中から「作品」を掴みだしてくる。あまり周到なのでフィクションと見紛うばかりだ。たまたま偶然ということもあるだろうが、それを必然に転化したのは作者の力である。


●プログラムQ


★残影残像   岩本勝/8ミリ/30分
モノクロの粗い粒子が際立つ画面。アイスキャンデー売りがいる。着物姿の女性がいる。曳き船が通過する。橋の上から捉えたその視点が素晴らしい。風にはためく掻き氷の幟、花屋敷の乗り物、鳩に餌をやる老人、ソフトクリームを持ったままコケる少女。決定的瞬間だ。昭和初期と見紛うばかりのこんな映像素材をいったいどこで手に入れたのだろう、と思いつつ見ていると、山手線が通る。現在の車両だ。じつはこの作品、すべて現在の街を捉えたものだった。この作品はモノクロのフィルム・ストックを自家現像して制作したものだったのだ。オヌシデキル!。しかし作品の後半、いささか羅列的になってしまったところは残念というほかない。

★sky-word   安藤直人/8ミリ/8分
作品の冒頭、塀と階段だけを残して廃虚となった家へ帰ってくる主人公がいい。家は石塀と玄関に続く石段を残すのみである。家の中に入る、と中は当然の闇。その闇の中に男が蹲っている。アップでゆっくりと躯の部分を捉えるカメラ。この室内のシーンはよく分からないが、続くパイプにまたがって自転車を漕ぐような足の動きを捉えたショットは凄い。宙ぶらりんで泳ぐ足を仰角で捉えたこのショットは、妙にエロティックでもある。ここからラストへ向かう映像の捉え方はじつに印象深かった。干上がった運河のひび割れた土をすっぽりと引き抜くアクション。運河を背景に立つ顔ギレのショット。全編こういうパフォーマンスでもよかったね。

★W氏の一日   前田幸矢/8ミリ/8分
真っ赤な画面に黒い影が蠢く。印象的なすべり出し。ところが、である。色と影がつくりだすイメージと対照的に、主人公の人形がストレートすぎるんですね。人形がかざす蝋燭はいい。時計の針の回転もイマジネーションを刺激してくれる。なのに肝心の人形がイメージをふくらませてくれない。コレってキャラクターの造形ミスなのでは…。おじさん人形にしたあたりがブレーキになっているようだ。とりわけペニスをしごいてミルクを噴出するリアルな設定はいただけません(気持ちは分かるけど…)。動きも少々粗っぽいし…。人形アニメの場合は思いきりリアルでいくか、あるいはメいっぱいデフォルメするかなんですね。次作を期待します。

★私に   宗形忍/ビデオ/19分
この作品は私(作者)のために手がけられていることが冒頭で伝えられる。次いで、精神科の医師にカウンセリングを受ける作者が据えっぱなしのカメラで長々と映し出される。この長さは観客を意識したものではない。けれどもここで退場したら損をする。いい加減な医師のアドバイスにも診察後の病院玄関で、晴れ晴れとした表情を見せる作者。次いでカメラは日記のように自分を映し出す。映像の勉強をするために福島から四谷まで通っていること、コーヒーの販売員をしていること、気持ちを偽れないことなどが語られる。作品の最後は、自閉していた作者が街に出て、見知らぬ人につぎつぎと語りかける。撮ることがリハビリになっているのだ。

★塵   みやしたちとせ/8ミリ/4分
偽・植物図鑑とでも命名したくなるような作品だ。黒いペディキュアを塗った足先に、木の葉に擬態した昆虫を思わせる物体が散らばっている。その破片がひくひくと脈動して、時にはバクテリア状の模様に、時には芋虫状の物体に変貌する。その正体がなにかは判然としない。あるときは泳ぐキクラゲだったり、あるときは海クラゲの様だったり、ドテカボチャや甲殻類を思わせる形態になったり変幻自在にその姿を変える。目には見えるけれどもその正体が定かではないものに、人はいわれのない畏怖を抱くものだ。この作品はそんな奇妙な魅力を持っている。作者がそのことに自覚的ならば、もう少し長い作品ができるのだが…。音の効果は最悪。

★絵ビラ   山縣太一/ビデオ/10分
のべつまくなし開店祝いをやっているパチンコ屋。その店頭で見かける祝花。あの花の下で化粧まわしのようにはためいているビラのことを絵ビラというそうだ。作者の祖父が横浜で外人のパーティー用に描いたのが発祥という。ホントかしら。実家はその絵ビラ屋である。作品に出演している両親も絵ビラのように賑やかなキャラクター。この作品のユニークなところはそんな両親を仲間に引き入れたところ。さらにユニークなのは公園の松の木に捲いてある藁に目を惹かれた作者が、その藁を両親の腹に巻かせ走らせているところ。この理不尽なナンセンス感覚は作者ならではのものである。作品に駆り出されて踊り狂う母に、息切れした父に乾杯。

★貝沢町1179-1    山口伊豆子/8ミリ/10分
廊下の窓ガラス、脱ぎ捨てられたサンダル、庭の草木と庭石、レースのカーテンに溢れる陽射し…。鳥の餌なのだろう二つ割りのミカンがこの家の性格を象徴しているようだ。そんな何でもない日常を作者は淡々と捉えていく。「今日は昨日と違うことが、と期待しながら、昨日と変わらない毎日に満足していることのほうがずっと馬鹿かも…」と呟きながら「なんてことない日常」にカメラを向ける作者のまなざしは限りなく穏やかだ。昼寝の父に呼びかける「ねえ、目を閉じると何が見えるの?」波乱万丈の日々であっても平穏な日々であっても、庭で死んだ小鳥のようにいつかは別れが訪れる。そんな思いを抱かせる作品。ちょいと枯れすぎですねぇ。

★YoU-GooD   武藤浩志/8ミリ/4分
いやはや、まあ、よくぞここまでヤルモンダ! 真冬の河に現れた下着姿の男達。河の中ほどにある岩の上に宿ったり、雪の駅に駆け込んできたり、はたまた公園の遊具と戯れたり、なんともナンセンスな遊びを展開する。ただ遊ぶパフォーマンスならまだしも、彼らはすべてコマ撮りで動くのだ。ジャングルジムの上でバレリーナーよろしく華麗なダンスを披露したり、ブリッジ状の遊具をエビゾリながら次々と渡ったり、過酷なパフォーマンスが満載。やらせるほうもやらせるほうだが、やるほうもよくぞ応えたもんだ。その努力と忍耐に、ただただ脱帽。公園のグラウンドを泳ぎながら穴の中へ蛇のように入るところは全員でやって欲しかったね。



くイメージフォーラム付属映像研究所第23期・卒業製作展全講評を終えて>


 ふう、終わった。
 ともかく終わった、疲れた、眠い…。42宇7行。まるで何かの呪縛のようにこのフォーマットに身体を押し込めて1週間を過ごしての正直な実感である。42×7に理由があったわけではない。これより短いと作品を見ていない人に意味が伝わらないし、これ以上長いと卒展最終日までに終わらない。作品によってはバスしたいものや、もっとふれたいものがあるけれど、まあ、ともかく均等にやってみようと発作的に考えた結果にほかならない。

 作品全体に関していえば、例年よりものレベルが高いという印象だった。これは、それぞれの作者の努力もさることながら、講師陣の要求もまた過去の経験をフィードバッグしつつレベルアップしているからにほかならない。
 上映期間中、かつてイメージフォーラムに在籍していたことがある映画監音の望月六郎が観客としてやってきた。見終わったあと「なかなかいい作品もありますね」と感想を述べてくれたのだが、ぼくの印象ではそのプログラムはいくぶん低調だった。「ロクよ、おまえの時代はこれで良かったかも知れないが、きょうびIFはこんな程度じゃないぜ」と、いってやりたかった。
 そう、かつてから考えると作品のレベルは年々アップしている。それは、ここにはほどほどのところで手を打とうという発想がないせいである。そんな発想を誰一人として持たない。そこがこの研究所のきわだった特質といえる。したがって研究生にとってはキツイ。しかしキツイことはすでに入所時に伝達してある。シンドければ脱落すればいい。そのほうがお互いの人生のためになる(笑い)。
 かつてニューヨーク大学の実験映画コースをのぞいたとき、教授を囲んで卒業制作の講評が行われていた。学生の作品を上映した後、ディスカッションに入るのだが、教授は褒めることしか言わない。ベタ甘い言葉しか使わないのだ。あそこをこうすればもっと良くなるのに、ここをこうすれば、と切歯扼腕したものである。褒めるのは容易い。講師にとっても生徒にとっても楽しい。人生そんなにややこしくしたくないというブレーキもはたらく。けれども批評のないところから優れた作品は生まれない。創造の世界に世辞を持ち込んだらビジネスと同じになってしまう。
 今年も過酷な講評に耐え抜いて、入所時のおおよそ半数あまりの生徒が卒業制作まで完走した。いい作品もあれば失敗した作品もあった。悪い作品も、今年は例年より少なかったとはいうものの、いくつか見受けられた。作品に優劣はつげがたい。失敗した作品だって、今後手を加えればいい作品になるだろう。しかし、悪い作品、つまリ創造に対して真剣に取る組む意志を欠いた作品のことだが、これは手を入れてもどうにもならない。そういう作者は他の真剣に取り組んだ作品を見て恥じるといい。

 さて、これからはこうした苦言を聞くこともなくなる。作品を手がけても、甘言以外、だれも真摯な発言をしてくれなくなるのだ。そうなると自分で自分を批評しなければならない。これはまた別の意味で過酷な世界である。モ・れ以前に、仲間と別れてひとリになると、作リ読ける意志の持続が難しくなる。それでも作リ続けるつもりの作者たち、こんどは劇場で会おう。

200O年3月。
                      かわなかのぶひろ
 

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