詩集「公会堂の階段に坐って」

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風の家

風の家







廊下に敷きつめられていたうすべりが剥がされ、板が剥き出しになると、古
い家の真ん中を貫通する廊下が急に新しいものになった。長い間覆われてい
た板には艶がなく、足のうらに触れる感じがよくないので、子供たちは雑巾
で乾拭きをさせられた。両手で布ぎれをおしつけて走る。廊下のいっぽうは
土間をひかえた台所の前で終わっていて暗く、その方向へ走るのはまるでト
ンネルヘ入っていくようだった。反対方向は、南側の庭に面した縁側になっ
ていて、木々を通した光線で明るい。長いながい廊下だった。
縁側の床板に大きな節があった。その芯を指で押したり、棒切れの先で突っ
付いたりしているうちに三ミリ五ミリと落ち込んで、すっぽりと抜け落ちた。
ある日、その節穴に目を当てて床下を眺めると、薄暗い地面に光るものが見
えた。昔の銀貨でこつぶといわれるものだった。えんどう豆のような粒で、
表面には刻印がある。しばらく前に、大阪の堺のひいお祖母さんか誰かが亡
くなって、そこからこの家に運んできた古い物のうちの、袋に入っていた貨
幣のうちの一個だった。値打ちのあるものだから大事にしまっておこう、と
大人たちが言ったことは忘れられて、銀貨や穴の開いた銅貨は玩具になった。
小さい弟が縁側に寝そべり、節穴を通るものかどうか試したりなんかしてい
るうちに落ちてしまったのだろう。しばらく前から目につかなくなっていた。
堺からもってこられた物のうちには、天井に届きそうな程背の高い本箱があ
った。ガラス戸を開けて、一番下の段に入りこみ、大きな本を背にしてうず
くまり、この間そのあたりにじっとしていた大きな蜘蛛を恐ろしいと思って
いると、ガタガタとガラスの戸が鳴り、大風が家の中を吹き抜けた。裏庭の
物置も鳴っていた。そこには堺の家の紋のついた黒い箱や長持ちがしまって
ある。箱の中にはもう誰も着ることのないような着物が畳まれて重なってい
る。家をたたんだのだ。見分けのつかないくらいよく似たお祖母さんが三人
も坐っていた家だったが、誰も生きた人間が居なくなったので、残された物
は貨車に積まれ、東海道線の駅から荷車でこの家に運びこまれた。
桜の木の皮、非常に目の細かな鋸、鉛のとんかちは釘を打つことも出来ない、
そんな物が運ばれた物のがらくたの中に混じっていた。ひいお祖父さんが細
工物、趣味だった小さな篩づくりに使った道具だった。出来上がった篩もあ
った。直径の順にいれこに重なっていたが、それらは庭に持ち出されて子供
の玩具代わりとなり、網は破れ、庭のどこかに捨てられていた。
強い風が細かい土を吹き積もらせたのだろう。床下の銀貨を隠してしまった。
見えなくなった物は忘れ去られる。
巣箱の兎のように本箱のガラス戸の中でなにもすることのない午後を過ごす。
ガラスを透かしてみる部屋や庭は見慣れない歪みの中にある。
金属音をたてて艦載機が降下してくる。極端に速度を落としたF4Uコルセ
アは甲板に着く瞬間に機体が振れて、逆ガル型の主翼の片方の端が甲板であ
る廊下を擦りそうになった。二つの車輪を床板の板目や隙間にとられること
もなくほんの短い滑走をすると、ぶじに停止した。キャノピーが開いて操縦
士が上半身を浮かせた。突然飛来して着陸するものを受け入れる準備が出来
てなかった。まだまだ後のことだから、そのうちに支度に取りかかればいい
と思っていたのだ。突然の飛来は連絡が何もなかった。何の任務があるのか
知らないのだから放っておけばよいと思ういっぽう、出迎えに出ていったほ
うがという気持ちで急に落ちつかたくなってしまった。
エンジンの音が止んだ家の中では再び風が鳴っていた。逆光で黒く見える機
体から人影は消えていた。操縦士はどこへ行ってしまったのか。あの操縦士
ではなかったのか。背中がよりかかっている本の中に操縦士に預けなくては
ならないはずの豆粒ほどの小さな本が嵌めこまれているはずだった。いちど
父が開いてみせてくれた時には、その頁には蟻の足跡よりも細かい点々が刷
りこまれているようにしか見えなかった。なんでも堺の老婆の誰かが渡米し
た誰かに宛てた手紙のようなものということだった。本箱の中で身体の向き
を変えて、その本を開く。本当は中を覗きたくはなかった。ところどころ厚
紙の頁があって、そこには色刷りの絵が貼りつけられている。どれもが薄気
味悪い絵で、ことにその中の一枚は、銀色の馬を走らせる騎士の背後にとり
ついた骸骨の死神が、マントを靡かせ、骨の指で行く手を指している絵で、
騎士は兜のしたでがっくり顔をおとしているというものだった。小さな本は
その絵の次の頁あたりの切込みに嵌め込まれているのだった。風だ。大きな
波のようなゆったりした揺れが家に入ってきた。かがんだままの窮屈な恰好
で本を抱えて足を踏ん張った。操縦士が見えなくなっていたから、今あわて
て本を取り出さなくてもいい。それよりも目の前のガラスを割ったりしない
よう、ここは次から次へ押し寄せる大揺れに耐えなくてはならないのだ。彼
方では、艦載機が傾くたびに、庭の青桐の葉の緑の反射が空の銀色と交互に
翼を染めてちらちらしている。
庭の木戸が開いて弟が駆け込んできた。「表に、ジープが来てるよ。中尉が乗
ってる」貰ってきたチョコレートを見せる。その拍子に片方の手に握ってい
た銀貨も見える。縁側の床下に落ちていたはずの刻印のあるこつぶだった。
ジープもアメリカ人もここからは見えない。板塀のうえに突き出したジープ
のアンテナが風に撓っている。





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