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鈴木志郎康作品『風の積分』
(102分 全420分)1989年 8ミリフィルム カラー
『風の積分』の紹介
この作品は、1988年7月1日から1989年6月30日までの1年間の空の様子を昼夜コマ撮りで撮影したもの。初めは、隣の家が壊され、立て替えられることになったので、その家が出来るまでをコマ撮りで撮ってみるか、という思いつきから出発。ところが、撮り始めてみると、雲の動きが見事で、それを捉える方に気が向く。9月に昭和天皇が発病して危篤が伝えられ、「昭和の最後の空」を記録しようという気になる。翌年の1月、天皇崩御。そこでまた、ここまで撮ったのだから、1年間撮ってしまおうと、1989年6月30日まで撮影した。昼間は20秒置き、夜は2分間露光で自動的にシャッターを切るようにセットした。撮影中の5月、隣の家が出来上がるまでの102分を「イメージフォーラムフェスティバル」で公開。全部撮り終わって、ギャラリー「Mole」での写真展で全420分を公開した。その後、9月に開くわたしの写真展で毎年公開している。制作1989年。作者、54歳。
今年も、写真展会場の「Mole」で
1999年9月4日(土)前編 13:00〜16:30 後編 17:00〜21:00
の予定で上映します。
夜も撮影 |
電気シャベルが入り、地下工事 |
指を写して日を数える |
夕暮れの空 |
クレーンで柱の組立 |
一日でたちまち組み上がる |
9月、完成間近 |
月 |
撮影・構成・編集:鈴木志郎康
使用カメラ
LEICINA SPECIAL (SUPER8) |
DOCUMENT
京都精華大学針畑生活資料研究会編「新しい映像の可能性をさぐる ’89」
パンフレットから転載
鈴木志郎康の『風の積分』についての覚書
野田真吉
(1)
鈴木志郎康の『風の積分』は8ミリのカラーフィルムに撮った一時間四〇分の作品である。この作品はその後、六時間近くもあるという。それはそれとして、私のみた『風の積分』はまことに彼の詩人らしい特色が今までになく鮮明にでていた。と同時に、映画作家としての彼の独自なアプローチと先鋭であり、繊細、しかも的確な表現力に感銘した。私は今まで見てきた彼の作品のなかでも群を抜いた秀作であると思った。そして、彼の秀作であるともに、近来の映画作品のなかでも屈指の傑出した新鮮な作品の一つだと思った。
この作品は全編、魚眼レンズをもちい、彼の家の小窓から(一定点から)の同一アングルによる微速度(コマ落とし)撮影である。昨年八八年の七月一日から、毎日、昼間二〇秒、夜間六〇秒間隔の割合にコマ落し撮影装置をセツトして、夜明げ前から翌朝まで、小窓から見える前の空地が整地され、住宅が建っていく過程を日録的に微速度撮影で撮りつづけたものである。彼は全体で、八九年六月三〇日まで撮っているが、私の見た同作品はその四分の一にあたる七月一日から九月一四日までの映画記録をまとめたものであるのは前述のとうりである。
さて、彼の作品は小窓からとらえられる広い空、その明暗の色あい、時々刻々、無限に変化、流動する雲の移ろう空と、前面の空地の整地から住宅が建築されていく過程とを同一画面内に上下対照的に描きだし、しかも日録的な作品の構成をおこなっている。技法的にいえば魚眼レンズ、微速度、同一アングル(定点撮影)を駆使して、時間と空間を圧縮集約した映画表現を活用しているのである。
もう少し、この作品を見て、私が感じたことを述べると、彼が魚眼レンズをフルに拡げて、画面を魚眼レンズによって円形に仕立ていることである。つまり、円形に近いフレームに画面を変形している。こうした従来から矩形に規制されてきた映画のフレームに対して彼が円形のフレームにして、彼
の表現内容を効果的にうちだし、たかめているのに私は注目した。というのは私もかねてから、矩形フレームにしばしば違和感をいだ<ことがあり、それをこわして自由に表現してみたいという衝動にかられたものだった。
六〇年代のころ、『フレームの破壊』というエッセイを書いた。そのなかで私は前世紀末から今世紀こかけて、めざましく発展した機械文明、とりもなおさず大量生産、大量版売の娯楽商品として、また、新しいマスコミ媒体として生まれ、成育した映画の歴史のなかに映画フレームの成立の経緯をみながら映画の自由な表現とフレームの変革の夢を語ろうとした。そんな思いを私がもっていた故か、鈴木がそれを見事に内容に即し、対象に応じて表現していたのに、私は大変、その点からも心惹れた。
何か、このようにいうと、裏を返えせぼ彼はキャメラの機能に依存した、その辺の機能至上主藝、技術主義、形式主議はないかと思われるかもしれないが、どうして、どうしてうではない。彼はキャメラの機能、さらにいえば映画表現の独自性を自家薬籠中のものにしている。いいおくれたが『風の積分』は、彼個人の製作、監督、撮影よって仕上げた作品である。個人的に映画製作することは現状では幾多の困難が一般の商業映画の製作より山積みしている。だが、彼はこうした個人による自主映画制作上の諸マイナス面を逆手にとって、現在のような商業主義映画一辺倒では生まれえない未踏の映画表現の分野に挑んで『風の積分』をつくった。そこには、映画表現のかざりない可能性と表現の自由への彼の熱情がにじみでている。
前置きが結論めいて、突っ足しってしまったようである。では、以下、彼が『風に積分』で表現しようとしている彼の心を私なりにみてみることにする。
(2)
私は一映画作家であるから表現媒体である映画の機能と作家の表現意図、表現内容とのからみを通じて『風の積分』を見ていこうと思う。
前章でもふれたように鈴木は『風の積分』で、彼の思いをキャメラの機能(魚眼レンズの使用、一定点、同アングル、微速度撮影)を駆使し、日録風に毎日毎日、三六五日間、対象を記録し、表現して、その総体を一つの作品にしている。そこにはアクチュアリティにみちた時空の移ろいの詩があり、彼の内心がまことに鮮明に表現されていると思う。
映画は小窓から見る風景一フレームの上半分が風の流れにのって現われ、消えさり、また、迫ってきて過ぎ去って行く、一躍たりとも同じでない、さまざまな雲が往来する空である。フレームの下半分は手前にある空地で、魚眼レンズによって広がって見え、画面のスペースを大きく占めている.その後
方に住宅が並んでいる街区の一部が点景のように遠く小さく見える。
この小窓から見る風景を舞台として『風の積分』ははじまる。空地にパワーシャベルが登場して忙しく土を掘りだす。トラックが残土を運んでいく。数名の作業員たちが現われ、簡単な作業小屋が一隅にたちまち建つ。これらの建設現場の風景はまるでミニチュアのように速く小さくみえる。云うまでもなく、こうした情景や空の移ろいは彼の表現意図にもとづいた対象に対して設計、設定した、一定点、同アングル、魚眼レンズの使用、微速度撮影などの表現効果の発揮が総合的にもたらしているものに外ならない。
さて、整地作業の進行する日々の画面に、鈴木は彼自身の声で、彼のコメントをいれている。大意は(大空を去来する雲の動き、その湧きたつような姿を毎朝、見ていると、ちょうど、昔から冬の祭りにおこなわれた湯立神楽の湧きたつ湯気の姿を思う。湯立の湯を笹の葉に移した湯花で身を清め、生まれかわる冬の祭りの心のような思いに、毎朝ながめる空の気配を見ると、身も心もあらたまり、清まり、生まれかわうな気持をよびおこす)という意味のコメントをいれている。この彼の言葉は『風の積分』における作者の自然に対する感性の、そして想念の原基を述べていると思う。
雲が走る。住宅街の灯が消える。住宅工事現場の人々の仕事が忙しくはじまる。昼がすぎ、夕暮になる。工事場の動きがなくなる。
夕闇が迫り、街の灯が次々とともされる。すべては夜の帳に包まれる。家々の灯だげがいくつか、面に点々と残る。
次の日の朝がくる。空地の整地基礎工事はすすむ。……夏の工事現場の移り変りと夏空に流動する雲のたたずまいとを彼は同ポジション、同アングル、同サイズで微速度撮影を毎日毎日、同じようにつづけ、ワンカット、ワンシーンの画面を日を追いながら積み重ねていく。その日々の画面は、日々の眺めは晴れた日、雨の目、晴天の日、雨の日がある。雨の日には作業場に人影もない。堀りだされた黒い土くれが雨にらされている。ただ、空をおおう雲だけが重く、暗く団塊になって流れていく。やがて、また、大空を夏雲が燃えたち、去来する日々が明け暮れる。だが風景は一躍たりとも同じでない。建築工事現場は基礎工事を了え、材木などの建材搬入がはじまる。
このころまでの画面の風景はまだ、風の流れ雲の飛ぶ大空が面面のバランスを視覚的に圧倒して、広く、大きく、動的にとらえられている。工事場の方の動きは大空(大自然)のもとで、あくせくと働く
、豆人形のような小さな人間の営をみるようである。二つのものの動きは関係があるようでないような、一見、並行的にみえ、それでいて何くれと深くかかわっている。
鈴木は以上のような面面に、コメントをいれる。毎朝、彼の生気をよみがえらせる風と雲、大空のたたずまいが千変万化しつづける動態に、果てしない逞しい力を感じるとともに深い恐れをさえ、いだくと述懐する。
だが、空地にいよいよ家がたてられはじめると、面面ま一変しはじめる。棟上げのあと、外壁がたちまちはられると画画の前景に、家が大き<立はだかるように出現する。画面の構図のバランスは以前とちがって視覚的な比重が面面の下半部に移ってくる.家の姿が大きいスペースをとって君臨する。そうした画面の変化は家の内外装が進むと鮮明感をますます増してくる。以前の整地作業の人々がミニチュアのように見えたが、今や、内外装作業をする人べの出入する姿は近く、大きく立ちふるまって見える。空地いっぱいに建てられた二階建の家は今までの面面に占めていた空のスペースをおしあげ、狭めている。これは魚眼レンズの極度な屈折率による遠近感によって強調されている。そうした窓からの風景が刻々と変ってい<。
鈴木の日記を読む声がオフで、画面に淡々と流れてくる。彼が読む日記は主として彼の文筆の仕事関係のもので、事務的な覚え書きであり、各項に若干の感想を付言している。彼の日誌の朗読ま彼の日々の活力源であった窓外の風景が、急速に進行している現境の変化を見せつける画面に、彼の日々の変らない生業の姿を静かに拮抗させて、自然を失なっていく人間的現境の悪化への抗議のように、私には聞こえた。さらに、画面は日々、風が流れ、夏空が飛びかう空の下に、ドッカと大きい家が立ちはだかっている。そうした小窓からの眺めは彼を襲い、彼に迫ってくる。彼の視野を圧迫し、塞ぐ思いをつのらすようである。
夏も終りに近づくと空の雲の去来はあわただしくなり、暴風雨の接近を知らせるかのように烈しく、重く飛来する.鈴木の四度目の声がオフで、画面にかさなる。(人間は自然の中にあって、時代々のかかわりあいによって文明の歴史をつくってきたように思う。)という意味の述懐を彼はする。彼は文明の歴史の功罪については言及しない。しかし、彼はそれまでの映画の展開、表現のなかに、自然界の一生物的存在としての人間の営為がなんであるか、あったかについて、自分の心象を対象化しながら日常の眺めをとおして表現している思う。私は文明の歴史、ことに現代文明の歴史が人聞の思いいあがった放埒な野望の歯止めを失い、自然を忘れ、自然を破壊していき、自らの生きる存在基盤を自ら喪失させてしまいつつある自家撞着の歴史であるように思っているが、彼は『風の積分』のラストシーケンスにおいて、彼の答えを映像表現によって提示している。
空には嵐を呼ぶ無気味な黒雲の群れが絶えまなく襲来する。小窓から眺める風景の前景を制圧している建築中の家の上空におしよせてくるように、くりかえし、<りかえし風にのって暗い雲が湧きたつように空を駆けぬけ、怒濤さながらに襲いかってくる。このクライマックス的なシーンの積み重ねは作者の生きる心を毎朝触発し、生気をよみがえらせた空の眺めが失なわれていく悔しさ、憤りを内にひめた批評がこめられているイメージではなかろうか。
私はそう思え、そう思えてきた.悲痛な彼の心象を象徴しているイメージのように感じとったのである。
『風の積分』に見られる風景の消長は大都会の一隅、市井のなかに、空を忘れ、自然を忘れて生きている私たちが日常的に見ている、起生しつづけている現象である。作者はそうした現時代に生きている私たちが当面している、我執とうらはらな無関心のなかに産みだし続けている現象を、映像表現手段の駆使を通じて見つめることによって、そうした現象を見事に濃縮、集約し、異化形象している作品であると思う。いいかれば、彼は日常性の世界を非日常性の世界としてとらえ、非日常性の世界が日常性の世界であることを映画表現によるアクチュアリティ(記録性)にみちたドラマを現前させている。同時に、彼の心の原基である自然のなか生きる人間の心のひだの明暗、屈折、反転、律動を映画詩として、つまり生きるということの深い思いを『風の積分』は私たちに提示し、提起している近来の秀でた作品の一つであるとわたしは思う。
(一九八九・一〇・一五 記)
(京都精華大学針畑生活資料研究会編「新しい映像の可能性をさぐる ’89」掲載)
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