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[ 鈴木志郎康映像個展 ]


鈴木志郎康作品『日没の印象』


(24分)1975年 16ミリフィルム




『日没の印象』の紹介


 この『日没の印象』は、わたしの個人的な映画表現の出発点になった作品。1971年から東京造形大学に非常勤講師として行くようになり、学生たちに詩の話をしたり、ゼミで映画を作らせたりしているうちに、既に8ミリで映画の真似事をしていたので、自分なりの映像表現をしたいという気持ちが募ってきた。そして、中古カメラ店のウインドウに「CINEKODAK K」を見つけて、それを使って個人で映画を作ることをはっきりと自覚した。一方で、NHKの映画カメラマンとして働いていたから、マスメディアの何たるかをそれなりに知っていて、それらの作品とは全く違うパラダイムを開くということを考えた。マスメディアが一般性という抽象的な方向に向いているの対して、あくまでも個人の固有性に目を向けた具体的なイメージの意味を問うという方向に向かった。これが、やがて『景色を過ぎて』『草の影を刈る』『15日間』へと展開して行くことになる。音楽は、アルゼンチンタンゴのアルバムから借りた。 制作1975年。作者、40歳。



 Cinekodak k

 ラベル

 レンズ

 麻理と草多

 造形大の研究室で、大辻さん

 近くの亀戸天神の境内で



撮影・構成・編集:鈴木志郎康
登場する人たち:鈴木麻理、鈴木草多、大辻清司さんたち造形大の研究室の人々、石川くんなど造形大のわたしのゼミの学生たち

使用カメラ

CINEKODAK-K

BOLEX R16

DOCUMENT


あわなかのぶひろ著『映画・日常の実験』1975年フィルムアート社刊
「プライベートなまな差し」から抜粋
(P202〜P206)

 鈴木志郎康の『日没の印象』(七五年)は、(この作家のものならこれにかぎらたいのだが)いまま で見た日記映画の中では、もっともプライベートな視点から制作された作品である。というよりも、 フィルムで綴られた日記と言ったほうが正鵠を射ているかも知れない。
 詩人としてはすでに著名なこの作家が、ずいぶん前から8ミリによる日記をっけていることはあまり知られていないようだ。もちろん、あらかじめ公開するという見通しのもとにつけられた日記ではたいせいもあるだろう。ほとんど作品の公開はされていないようである。ぼくもかって一度だけ、画廊で上映されたこの作家の作品につき合ったきり。この時はたしか“旅”のフィルムだった。
 今回、ある雑誌の編集部で偶然見せてもらったこの作品は、16ミリではあるが、8ミリの作品とほとんど同じラフたスタイルを持っていた。
 16ミリで作品を作るとなると、8ミリではラフなスタイルで撮影している作家でも、たいがいグッと構えがちである。が、この作家にかぎっては、どうやら8ミリも16ミリも大差ないらしい。あるいはこの作家が、テレビ局のカメラマンという職業を持っているせいかも知れない。セオリー通りに毎日撮影することに対するうっぷんばらしなのだろうか、いわゆる職業的なうまさをまったく感じさせないそれは、さしずめ普段着の映像だ。もっとも、日記を作法通りに書く人もいないだろうが、……。この作品は、作者が一台の16ミリ・カメラをカメラ屋の店頭で見つけたところから始まる。一台の旧式コダック・カメラに惹かれて、それを買いとり、レンズやボディーをなめるように撮影する最初のシーンは、アリフレックスやらオーリコソを毎日使っているこの作家の職業を考えると、なんとも奇妙だ。
 やがて、このカメラにフィルムを装填し、自分の住居と家族を撮影した映像が、作者自身のナレーションとともに、次々と映し出される。古いタイプのカメラだから写らないのではないかという不安と、思ったよりも良く撮れている断片的な映像が、まるでカメラ・テストの現場に立ち合っているかのようなリアリティを作り出す。気を良くした作者は、次にこのカメラの存在を吹聴したくなって、カメラと一緒に街へ出る。それにつれて画面も、途中の街並や、駅のプラットホームや、電車の窓から流れる風景などが、とりとめもなく続く。
 このカメラの最初の観客(?)は、作者が映画を教えている東京造形大学の生徒だった。画面に学生の顔が映る。次の観客は、同校の映像研究室の教師たち。まったく偶然だが、ぼくもこのカメラのデビューに立ち合った。たまたま出校日が同じだったのだが、まさかあの時に自慢していたカメラが、このよう作品になるとは想像もつかなかった。したがってぼくは、このカメラの最初の観客のひとりであると同時に、このカメラで制作された映画の最初の観客でもあるという奇妙な光栄に浴したのである。
 私事はともあれ、こうしてデビューを終えたカメラは、作者の私事へとどんどん潜り込む。この作者の言葉をかりるなら、「極私的ホーム・ムービー潜り」とでも言おうか。妻や子供や窓の外の景色が、ほとんど無作為に、数カ月にわたって記録されている。ラストは作者の家の窓から見た夕焼の町が、ゆっくりと流れる。
 のちに聞いたところ、このまま撮影を続けるとエンエンと終わらないし、終わるキッカケがつかめないまま半ば途方にくれていたそうである。そんなある日、かって見たこともない美しい夕焼けを窓の外に見つけて「ああ、これで映画が完成した」と直感したという。
 薄明の街がとっぷり暮れるまで、何度も何度も夕焼け空をナメる画面が、そんな作者の興奮をそっくり伝えている。感動的なラストだ。
 この作品は、ナレーションもタイトルも(お世辞にも上手とは言えないが)すべて作者ひとりの手で作られている。また、フィルムも撮影時そのまま、編集個所は100フィート毎のつなぎ目だけである。フィルム・エンドの光線ビキもそっくり作品の中に収まっている。この作家の“極私的”なまなざしが、まさしく躍如としている作品だ。


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