詩の包括的シフト
詩についての最近のわたしの考え方
鈴木志郎康
1.]
軽くしなやかで、物事の本質を突いた深みのある文章を書きたい。「である」や
「だ」は止めにしたい。そんなことを、文章を書き始める前に、考えの出発点に置く
のは、最近、わたしは日常的に文章を書くといえば、電子メールとかホームページと
か、電子ネットを介して、ディスプレイ上で人に読んで貰う機会の方が、紙の印刷さ
れる文章を書く場合より多くなったからということによる。
紙の上の文字とディスプレイ上の文字は違う。発光画面の上の浮かぶ文字。意識を
越えて点滅する文字。固定した姿勢を強いられる文字。そこでは、我を忘れて読み耽
るというわけには行かない。従って、そこでは言葉の意味の発現の仕方が、紙の上の
文字とは異なってくる。詩ということに関していえば、作者の恣意に依存するところ
の大きい隠喩が多用されている詩は読みにくい。言葉の「イメージ喚起力」が大きく
制限されるように感じる。そういう場で、言葉によって考えを伝える機会は増えるだ
ろう。そこで通用する言葉の使い方を身につけたい。
物事の在り様を撫でるように軽くしなやかで、それで、指摘されたところを考え併
せると、なるほどと、ディスプレイから身体を離して、これはプリントして読み返し
て見ようという気にならせる文章、それを目指したい。せめて、それくらいのアショ
ンを誘いたいと、キーボードに向かっている。
2.]
次には、この文章の内容。今のところ、詩を書く人間、映像作品を作る人間、ネッ
トワークでコミニュケーションを図ろうとしている人間、そして詩を書くこととか映
像作品を作ることとかについて若い人に教えるという立場にいる人間、そういう側面
を持つ62歳のわたし自身が、何か「考えを生み出す」というところに、力点を置いて
いる。つまり、この文章の内容はその考え。それは、極めて茫漠としている。そし
て、偏っている。だが、それは金儲けをしようという考えではなく、頭を働かせて面
白いことをしようという考え、自分が生きていると感じられる何がしかのことをする
ための考えというわけ。意識の片隅に、一九九八、一九九九、二〇〇〇という年号が
ある。西暦二〇〇〇年、わたしは生きていれば65歳になる。66歳まで生きたいという
気がする。とにかく、わたしは「思いつきの人」で通っている、思いつくのは下らな
いことが多いけど。そして、思いつきは往々にして破綻する。
3.]
「詩について」は、わたしには先ず二つの局面があること。一つは自分が詩を書く
というところ、もう一つは「詩について」語るというところ。詩について語ることと
自分が詩を書くということの往還をここでは書き言葉でやってみることにする。
わたしが詩について語るの場は、大学での講義。一九八二年から九四年まで早稲田
大学文学部で、一九九六年九七年と近畿大学文芸学部で、それぞれ二つの講座を受け
持った。それが、言葉による表現、特に詩という形態での表現はどういうものなのか
を語る「詩の表現」と、いわゆる戦後詩の流れにわたしなりに接近して、ある一つの
筋道を、現代詩をほとんど全く読んだことのない学生に語る「一九四五年以降の詩の
主体と修辞」となっている。先月(1997年12月)、暮れも押し詰まった二十八日ま
で、近大で後の方の講座をほぼ一日5時間の五日間で連続的に語って来た。
講義を始める前に、いつものことながら「知っている詩人の名前をできるだけ沢山
書きなさい」という一項目を含むアンケートを取ったが、60人ほどの学生の回答に
は、一九四五年以降というと、かなりの学生が谷川俊太郎と銀色夏生の名をあげてい
た以外には、茨木のり子、寺山修司、石垣りん、ねじめ正一、新川和江、以倉紘平、
鮎川信夫、安西均といった人たちの名が散発的に書かれているに過ぎなかった。ちな
みにほとんど学生が書いていた詩人は宮沢賢治と高村光太郎だった。
これまでに数年間同じアンケート続けているが、『鳩よ』という雑誌が出ていた当
時を除いて、回答の傾向は変わらない。そこでわたしはいつも、現代詩は大学の講座
で語られるだけのものになったのかとという思いを持つ。ある意味では、それがぴっ
たりなところがある。日常的に接することのできないものとなっているから。ちなみ
に、先日渋谷の新刊の書店でも、古本屋でも、鮎川信夫の詩集を見つけることが出来
なかった。しかし、その現代詩というものを書いてきた「わたし」としては、書いて
いるその時点で「意識としてはアクチュアル」なものと信じていたのではなかったろ
うか。今でも、そう信じている。でなければ、詩は書けない。だから、「ううーん」
と唸りたくなる。
4.]
さて、わたしはどんなふうに詩について「語っている」のかということ。ここに、
そのメモを紹介して、それに従って「講義」の内容を「書いて」みたい。十数年前に
早稲田で講義し始めた頃はともかく、最近の数年間は決して行き当たりばったりでは
なく、最初に「シラバス」という講義全体の概略をメモしたものと、講義に使う詩や
その他の資料を印刷したB4横二段組の二十数ページのテキストを、パソコンで編集し
て、そのコピーを学生たちに配り、それに従って話して行く。
「詩の表現」という講義の概略のメモは次のようなもの。
5.]
「詩の表現」
言葉の表現性ということ
日常の言葉と表現の言葉──ことばの芸術性を何処に求めるか
書き言葉の空間──見て確認してまたその上に書くということ
詩の言葉は書き言葉として高度な芸術的表現であること
言葉の基本
@. 単語レベルでのこと──意味の単位としての単語
(イ)音声(音像)──各言語では、限られた音声の組み合わせ
で、無限に単語が生まれる。音声と意味の結び付きに必然性
はない。
(ロ)言語(language)は、使われて始めて言葉(parole)と
して実現される。(ソシュール)
(ハ)「詞」と「辞」 ─対象と主体(時枝誠記)
(ニ)「指示表出」と「自己表出」(吉本隆明)
(ホ)記号的形態ということ ─表記と音韻
(ヘ)詩の定型ということ ─音韻律、行数、その組み合わせ
(ト)言葉は瞬間的に消えてしまう →つまり言葉は時間を稼
いでいるということ、言葉を使うことが生きている証にな
る。それが書き言葉として永続的になり、作品の時間を
獲得する。
(チ)言葉によって「呼び寄せる」ということ、また「名付け
る」ということ→そこにないものについて話す
A. 文レベルでのこと──単語と単語が規則的に関係づけられて
新たな意味がうまれる。
(イ)話題(主題)と気分
主題は事物・事実・体験を概念化して秩序づける作業であ
る。その作業をするというときの気分が言葉を包んでいる。
真面目に話すとか、冗談を言うとか、ノリで話すとかとい
うこと。
「話を脱線させる」と言葉そのものが姿を現す ─話のな
かから話されている現実の場へ戻る。
白けるか、笑う。
(ロ)気分のこと
気分を共有しないと言葉は通じない。
真面目に怒っているのに、冗談で聞かれては通じない。
詩の場合、この気分の波長が合わなければ、読めない。
詩の言葉のチューニング。
時代の気分。
B. 言葉の場のあれこれ
(イ)会話 音声によるため時間と空間に限定される。
話し手
→ 現実を共有する
聞き手
その現実の場面として、日常生活の場とか、学校とか、勤め
先とか、教場とか、裁判所とか、直接会話者が相対する場と
電話や放送などによってメディアを媒介する場合とがある。
(ロ)書かれたもの
書き手
→ 現実を共有しない
読者
紙の上→書類、雑誌、書物→書式ということ
ディスプレイの上→テレビ、ビデオ、コンピュータ
このメディアの決定的な違いは、そこの言葉がそれぞれメディ
アが持つ時間を含むということである。
(ハ)メデイア→話された言葉、書かれた言葉の両方を持って、
仮想的な現実を作る。
演者 現実 送り手側(少数)
↓
観衆(聴衆) 非現実 受けて側(多数)
マスメディア→特定の価値観による意識の肥大化、自然、身
体を均一化できるという幻想。
電脳メディアによる相対化。
(ニ)映像と言葉の関係
映像は表現という部屋(意識)の壁に開けられた窓
→現実のイメージ
言葉はその壁の上に投影された心的イメージ
C. 言葉の表現性
表現の形態
表現→感覚に訴えなければ、相手に届かない。
物、身体、言葉によってなされる。
(1)物による表現
箱庭 小石→大きな岩
絵画 絵の具の跡→イメージ
彫刻 石、鉄など→イメージを実現
オブジェ
(2)身体的表現
演劇 言葉などを含めた行為によって模倣。
舞踏 行為を記号化することで、内的イメージ。
(3)言語表現
語り 事柄を伝える
散文 書き言葉で伝える
小説 語られたこと→内的イメージ
詩 様式を持って語られる。語られたことを含めて、
言葉の発語の場を実現する。そこに主体の在処が
現れる。
D. 音韻の表現性→音像を内的イメージとする。
(イ)擬音、擬態語
(ロ)語呂合わせ
(ハ)さまざまな音韻の表現性
E. 修辞の表現性 →現実のものを内的イメージに変換する。
(イ)比喩
直喩、提喩、換喩、暗喩(陰喩)
(ロ)場面
(ハ)引用
F. 統合的な表現性→言葉そのものを内的イメージに変換する。
(イ)現実的空間 紙面その他→活字の場をイメージ化する。
(ロ)シンタックスの倒錯 →意味の場をイメージに変換する。
頭の中のこととして現実から断絶する。
(ハ)想像的空間(イメージ) →イメージの叙述。
(ニ)文の型(スタイル) →テキストをイメージに変換する。
(ホ)言語的パラダイム →言葉の蒐集など。
G. 詩を書くことの意義
「詩人」は職業ではない。「小説家」とは違う。
そのことによって、「全体」に対して「個」を自立させ、擁立
する。その「個」を普遍化する。
以上のような項目に即して、それぞれサンプルとなる現代詩や日本のものとは限ら
ない詩作品を挙げて説明を加えて行く。
6.]
この講義の内容について、わたしは反省しているところがある。これでは、詩は言
葉についての概念的な理解とその形態を把握すれば書けるようになる、という誤解を
生んでしまう。そして、肝心の詩を書くことのおもしろさ、また辛さが分からない。
それより、詩を書くのって面白いよ、面白いのは、自分の魂を手にしたような気分に
なれるからだよ、と語った方がいいと思う。
「『全体』に対して『個』を自立させ、擁立する」というようなわたしの考え方
と、言葉を形態的に捉えようとする態度が実は問題。どうしてそういうことになった
のか。詩を書く身上として、詩を書く言葉は日常的に使われる言葉ではなく、という
のは、日常的には言葉はコミュニケーションの道具として使われているが、詩を書く
ときには言葉は単なる道具ではなく、その道具性から解放されたものとして使われ
る、ということを主張したいと思っていたからだ。問題は、その道具性の道筋にある
「伝える」ということより、言葉を素材にして「造る」という方に偏っているところ
にある。実際、そういう考え方の方が現代詩を理解しやすい。「現代詩」が「分から
ない」といわれる根本のところは、言葉に対する日常的な意識でそれを読もうとする
からで、また反対に「すばらしい」と感じ心酔するのも、その言葉が日常からかけ離
れていることによる。現代詩は意識の非日常的な局面を、一つのパラダイムとして切
り開こうとしてしてきた。現実に対する「批評性」も、「官能性」の追求も、思想と
しての「革命性」も、あるいはまた時代や人生に対しての「ルサンチマン」も、そう
いう「言葉の枠組み」の中で個人的な意識の持ち方として実現されてきた。しかし、
「伝える」ということから離れていったため、社会的な「実効」というところから免
除されて、大衆性を失っていったように思える。現代詩は専門化した。そして、その
ことに不満を持つ詩人が現れて、言葉が語る内容だけによるのではなく、自らを見せ
物にするというようなことも行われるようになった。一方では、制度的に「権威」と
して存在を主張する傾向も顕わになっている。非日常的な意識の局面を非日常性のま
まに維持できなくなって来ているわけ。非日常性を言語で実現した現代詩は「専門家
の対象」に押し込められて行っている。それを現状として受け止める。
7.]
さて次にわたしが詩について語るという時のもう一つの講義「一九四五年以降の詩
の主体と修辞」に移ろう。これは、意識の非日常的な局面をどんな言葉遣いで、つま
り言葉の綾のどのような組み立てで、詩人は自分を言葉の使い手である「主体」とし
て擁立してきたか、という話になる。
この講義に即して語るところが、わたしの現代詩にアクセスする一つの道筋とな
る。この文章の大切なところ。具体的に現代詩の詩人と作品について語ってきたの
を、ここで初めて文章にする。一つの道筋として語るのだから、詩人の誰を取りあげ
て誰を取りあげないということがある。取りあげているのは、わたしが一つの筋道と
して語りやすい詩人と作品ということ。つまり、偏っているということ。その他の詩
人を認めないというような、そんな思い上がりはない。わたしの好きな多くの詩人た
ちも、語りにくいということで取りあげてない。
わたしが大学で詩について「講義」をする場合、三十人から六十人ぐらいの学生が
聴講する。教室には床から一段高い教壇というものがある。わたしは、この教壇と学
生の席との関係について必ず一度は言及する。単位取得が主な目的の学生と、わたし
の話をそれなりに聞いてみようと思っている学生がいることを、わたしは教壇の上か
ら見渡して、席の取り方で感じる。以前は出席を取らなかったが、最近は取ることに
している。つまり、「授業」という制度の中で「現代詩」を「理解」と「知識」とい
う枠組みに置き換えて手渡すことを意識的に行う。これは、詩を書く時の心からすれ
ば「悪」といえよう。ここでは、ある時期「詩についての講演」をしていた頃の呑気
さはない。彼らは4単位の取得ということが基本なのだから。切実さはそちらにあっ
て、「現代詩」の方にはない。そういう場で、語るには「ある種の筋」が必要と感じ
て、数年掛けて組み上げた「目録」として「取りあげた詩人と作品」というわけ。大
胆に言い換えると、「『詩人』が困難な『修辞』を巡る冒険物語」。
8.]
ここでのその筋道を述べ方は、メモに従って行くけど、教室で黒板に「主体」とか
「喩」とか「内面」というような文字やそれを結ぶ矢印を書きながら教壇から話して
いたことを、記憶を辿って文章にする。◆印はメモ、○印は作品名。話しているとき
は、その時その時で思いついたことから飛んでしまうこともあるが、書くとなるとそ
れがない。
「一九四五年以降の詩の主体と修辞」
A:詩についてのわたしの考え
◆詩というのは、心の中に起こったこと、感じたり、思ったり、思い出したり、思い
返したり、考えたりしたことなどの中の、その時々の一番大切なもの、または価値が
あるとされるものを、自分以外の人に向かって、時には自分自身に向かって言葉が持
つ意味と形によって、表した作品といえる。誰もが遣う言葉で自分の心の中のことを
表すには、それなりの言葉の形が作る綾を工夫しなければならない。
◆詩には歴史がある。人は昔から詩を書いてきた。また今後も書かれた行くだろう。
その時代時代で、人は心の中に起こる一番大切なものを求め、価値付け、それをもっ
ともふさわしいと考えられた言葉の形で表してきた。従って、詩の歴史というのは、
心の中に起こることで何が一番大切だと考えられてきたか、またそれを表すのにどの
ような言葉の形が考え出されたかを辿ってみるということになる。
◆古代から現代までのそういう詩の歴史を辿れるだけの力をわたしは持ち合わせてい
ない。ここでは、わたしが、若いときから詩を書いてきたその短い時間の中での、わ
たしに見える変化を一つの筋道をつけて辿ってみることにする。
この出だしは、メモとしては一般的な書き方をしているが、話す内容は価値観の基
になる自意識についてと「詩の表現」で話した言葉の形態についての概略を話す。
自意識については、要するにわたしたちは自分が自分の人生を引き受けなければな
らない以上、自意識を持たないわけには行かないということ。そして、「一番大切な
のは自分だ」という袋小路には入り込む。生活の糧を含めて金銭を稼ぐこととやりた
いことが一致すればいいかもしれないが、労働力を売るということになれば、完全に
一致するというわけには行かない。やりたいことは、余暇にやればいい、ということ
か。「詩を書くということ」、それは今の日本の社会では生活を支えるだけの金銭を
稼げるものではない。では、「詩を書くこと」はレジャーの一つなのか。ううー
ん、っと、そうは言えない。詩を読んだり、詩集を蒐集するのはレジャーといえない
ことはないが、でも詩を読むのは生きていく上でもっと本質的なことに関わっている
ところがある。つまり、レジャーと言い切れないところがあるから、「詩を書くこ
と」では金銭を稼げないということにつがっていくように思える。
じゃー、「詩を書くって」どういうこと? 生きていく上で本質的なことに関わっ
ている。人を外側から見ていたのでは見えない心の中の自分を発見する。自意識を自
分に向け、心の中に自分の姿を言葉で創って行く、それが詩を書くということ。感じ
たり、思ったり、考えたりしたことを言葉で述べるというところから始まって、くっ
きりとした言葉の姿に見えるようにする、そこに詩は生まれてくる。たまたま読んで
くれる人がいれば見つけもの、読んでくれる人がいなくても、言葉の工夫をしなけれ
ば、姿は見えてこない。「言葉の姿」が「心の姿」と行きそうだが、微妙なところが
ある。ある意味では、わたしたちが持っている宗教の「原基」となるところが、言葉
を求めるときに働いているように思えるから。大胆な言い方をすれば、詩を書きたい
気持ちは、自分を信じる宗教を目指していると言えないこともない。でもそう言い
切ってしまうと、身も蓋もなくなるけど。
ところが、そういうものを人が求めもするから、競争意識も生まれてくるし、自分
の言葉を支えるために、自分の書いた詩が一番優れているとも思うようになる。ここ
にも別な意味で微妙なところがある。あれがいい、これがいい、と言い合い、その言
い合う言葉をやり取りする場が生まれ、その言葉などを買って読むという次第になっ
た。
詩を読むというのは、単にそこに書かれている事柄を理解すればいいというのでは
ない。意味が多義的でどういう風にも読めるからと、勝手に解釈してすましていたの
では、信じるにはいいが、他人が書いた詩というものを読んだことにはならない。書
いた人がどういうつもりでそんな「言葉の姿」を求めたのかというところまで考えな
ければ、詩は面白くない。実は、書かれていることなんかそう大した違いはない。違
いは、その言葉の求め方の方にあると言っている人もいる。けれど、違いだけを問題
にするのでは、書いた人の心を見失ってしまう。わたしに大切なのは、「その心」と
その心が実現した「言葉の姿」との関係だ。なぜなら、詩を書くわたし自身、その関
係に生きているから。
B:第二次大戦後の詩、いわゆる「戦後詩」のわたしから見た大ざっぱな流れ、一つ
の道筋
◆心の中に起こったことの一番大切なこととして書かれた言葉の「主体」の問題と、
言葉の形としての「喩」(修辞)の流れとして捉える。
◆「主体」の問題
@全体に対する個としての主体 ─鮎川信夫、北村太郎
A言語の主体という自覚 ─吉岡実、入沢康夫
B主体の絶対化 ─吉本隆明、谷川俊太郎
C主体の言語倒錯 ─吉増剛造、天沢退二郎、鈴木志郎康
D主体のルサンチマン ─清水旭
Eメディアに乗る主体 ─荒川洋治
F主体の場面登場 ─松下育夫、ねじめ正一、伊藤比呂美
G主体の拡散化 ─瀬尾育生、建畠晢、辻和人
◆「喩」(修辞)の流れ
@隠喩 ─外部コードと内部コード
A提喩、換喩 ─記号化
B諷諭
C疑似物語
一種の時代に沿ったような配列がなされているが、現実の年代とは関係がないもの
と受け止めてもらいたい。「一九四五年以降」としてはいるが、それは歴史的という
より、わたしの意識の中に想定された筋道の時間軸として限定しているに過ぎない
し、選んだ詩人たちというのも、詩人から抽象した「言語主体」というものと「言語
作品」の関係の展開として語りやすいような存在として選んでいる。従って、歴史に
従って編年的に「詩人と作品」という配列ではない。あるいはまた評価に基づいた選
択でもない。同時代に活躍した多くの詩人を落としている。
講義を始めるとき、現代詩人という存在をほとんど知らない学生を相手にするわけ
であるから、こうした選び方では誤解を生むので、現在日本で詩を書いている人の数
は「現代詩手帖」の年鑑に住所氏名が載っているだけでも五〇〇〇人余りいて、その
中でも「現代詩文庫」に収録されている詩人は一〇〇人を越えている、ということを
必ず話す。読者はその中から自分の気分好み考え方によって自由に選ぶことができる
し、何らかの価値観を持って評価を下すこともできる、ということ。
とは言っても、ここに何人かの詩人を選んだわけであるから、その「語りやすさ」
がどういうものであったのかは述べておきたい。鮎川信夫を選んだのは、「主体」と
いう概念を、現実社会を詩の言葉の対象に据えると主張した個人としての自覚によっ
て説明するため。鮎川信夫は「魂」という言葉を使っているが、わたしは彼を「自己
の内面」というパラダイムを言葉の領域に開いた人と語る。その内面を言葉にして実
現するためには「隠喩」を用いなければならなかった。それも、社会との関わるとこ
ろでの表現であったため、その喩を解くコードが作品の外側に置かれた。つまり、そ
の作品を理解するには作者が生きた時代を知っていなくてはならないことになる。こ
の外部コードによる隠喩の使い方は、それ以後の隠喩を多用する詩人たちの主流をな
すものとなる。鮎川信夫は自己を対象化するところで苦闘する。また北村太郎は「内
面」の不安を克服するために、死と裏腹にある生命体としての自己の意識を言葉に生
かすことに精励する。「外部コードによる隠喩」は、鮎川や北村のような言葉に対す
る厳しい自覚がないで、恣意的に安易に使われると解くことができない謎の言葉の集
合にしか過ぎなくなる。「現代詩は難解、わからない」の誹りは、安易で恣意的な
「外部コードによる隠喩」の乱用によるところが大きい。
「隠喩」はもともと言葉の「イメージ喚起力」に頼って使われる。心の中に喚起さ
れたイメージを、言葉の「主体」の「内面」から切り離し、独立した構成物と見なそ
うとしたところにモダニズムの主張があった。鮎川信夫の主張は、イメージを主体の
内面に取り戻すことだったといえる。それが、その時代を言葉を書いて生き抜けよう
とする者にとっては切実なことだった。彼が「魂の問題」を持ち出しているところ
に、その切実さが表れている。「外部コードの隠喩」が単なる謎に終わらないように
するためには、言葉によって喚起されたイメージが何らかの象徴性を獲得されなけれ
ばならない。鮎川信夫が魂の救済を云々するとき、そうした象徴性の獲得によって、
その作品の普遍化を目指していたとも考えられる。そこではまた詩を書く者の間の現
実的なヘゲモニーも問題になる。
○鮎川信夫(1920〜1986)の詩
「病院船室」詩誌『ゆうとぴあ』5号(1947年2月3日)
「必敗者」詩集『宿恋行』(1978年刊)所収
○北村太郎(1922〜1992)の詩
「朝の鏡」『北村太郎詩集』(1966年刊)所収
「冬猫記」詩集『眠りの祈り』(1976年刊)所収
わたしの話の筋道では、「主体」は更に言葉に対して自由を求めて行くことにな
る。それは言葉が喚起するイメージの持つ意味合いによって、社会的に制度として言
葉が担わされている枠組みを外そうとする試み。「主体」は自らを不自由な現実から
解放しようと、言語によって非現実を実現する。そのためには、現実を秩序づけてい
る言語の制度を解体する必要がある。吉岡実は内的な欲求によって生まれたイメージ
として構成された非現実的な世界を言語で記述するという方法を取る。そこでの
「喩」は作品の内部で解かれる「内部コードによる喩」となる。鮎川信夫とは違っ
て、言葉の意味を現実から切り離して、非現実をイメージとして実現する。これは、
イメージを現実から切り離すとはいえ、言語によって喚起されたイメージを単に構成
するモダニズムの方法とは逆の方法といえる。彼が生み出すイメージは単なるイメー
ジではなく、現実に実現し得ない、つまり現実には生かすことのできない欲求から生
まれて来ている。タブーを犯すことで聖性を獲得しようという強い欲求に裏打ちされ
ているというわけ。
○吉岡実(1919〜1990)の詩
「僧侶」詩集『僧侶』(1958年刊)所収
入沢康夫は、はっきりとは分けられないが、おおよそ二筋の綾を織るようにして、
詩の方法を進めて行く。その一つは、感情を洪水のように横溢させる方法。当然、言
語の意味生成の堤防を乗り越えてしまう。もう一つは言語を極度に形態として限定し
て、言葉の時制と関係性を解体するという方法。これも、吉岡実の場合と同じように
内的な欲求を言語によって非現実的に実現しようとしたことによるといえる。入沢康
夫が抱く感情は近代的な個人という存在を越えている。体内に流れる血脈のうねりと
いうようなものを、個人が受け止めようとする矛盾から生まれてくる感情といえよ
う。主体を個人に限定する近代的な言語意識では、その表出はとても不可能。そこ
で、言葉が書き言葉という言語の体を保とうとすることになれば、否応なしに言語の
制度は内側から解体されてしまう。
○入沢康夫(1931〜 )の詩
「ランゲルハンス氏の島」の抜粋、詩画集『ランゲルハンス氏の島』(1962年刊)所
収
こうした「主体」が言語の制度のもとにあるいうことが自覚され、それを理論的に
成立させたのが吉本隆明だったと考える。『言語にとって美とはなにか』(1965年
刊)がその達成といえよう。それが書かれた頃、谷川俊太郎はおそらく吉本隆明から
ずっと遠い、その姿見えないくらい離れたところにいて、言葉を対象化して、自由に
できるという自覚を得ていたに違いない。「主体の絶対化」として、この二人を上げ
ているのは、吉本隆明が言葉そのものの中に意識を踏み込ませて、そこから言葉の使
い手の言葉に対する絶対的な立場を表出として擁立するのと、谷川俊太郎が作者とし
てどんな言葉でも書けるということを実践して行くのとは、言葉に対する意識の持ち
方としては、孤独に言葉を対象化する作業をしていたというところで、通じて行くよ
うに思えるから。それは、吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』を書いて得た開
放感と自信とは、谷川俊太郎が一つ一つ作品を書いて行くことで得た開放感と自信と
同じということ。多分、鮎川信夫が思っても見なかったような仕方で、近代という
「荒地」にあって両者の魂は救われて行く。ということは、二人の前に言葉を享受す
る大衆が現れたということ。
○谷川俊太郎(1931〜 )の詩
「20億光年の孤独」詩集『20億光年の孤独』(1952年刊)所収
「かっぱ」「ばか」「いるか」詩集『ことばあそびうた』(1973年刊)
吉岡実にしても、入沢康夫にしても、大衆のざわめきを聞きながら、自らの内に
「欲求」や「血脈」の疼きを感じ、それを自覚するところなったいえよう。現実の社
会ではマスメディアを媒介にして頭を持ち上げ、言葉を口にする大衆が徐々に姿を表
してくる。吉岡実や入沢康夫と重なりながら登場してくる天沢退二郎や吉増剛造たち
は(わたし、鈴木志郎康も)言語の「主体」であると同時に自らも言葉というものを
享受する都市の大衆の一人として、大衆に身を曝したところに位置することになる。
マスメディアの発達によって、日常意識の膠着状態は強度を増す。言語の「主体」
は、その膠着状態を、自らの言葉を使うことによって乗り越えようと、一九六〇年か
ら一九七〇年前後までの社会の激しい変化の併せて、押しつけられた均一性に対して
詩として書かれた言葉を投げ返した。そこで、言語とそれを使う主体との関係に於い
て意味の成り立ちの転倒が起こった。つまり、意識の共有と、意味の広がり、普遍性
へと向かう筈の言語の意味のあり方が、使われた言語の固有性を求めて、意識の断
絶、意味の極度の限定、私性へと局限される方向に向かったということ。
天沢退二郎の詩の言葉は、詩人が現実で遭遇した固有な事物を、それを指示する単
語として、日常性の中で死んでいる状態から彼の意識の中で生き返らせように、現実
のものではない秩序の中に関係づけられていく。例えてみれば、現実のある風景を全
体が入るように撮影すれば、そこに何が映っているか、誰でも直ぐに理解するが、見
慣れた風景として何の感銘も与えない、ところが、その同じ風景を部分の大写しの移
動した連続として撮影すると、撮影者の視線の流れとして、そこに事物が連続して現
れ、その風景を見たのとは違った印象を受けて感銘が与えられるところとなる、とい
うのが天沢退二郎の詩が生み出す非現実的なイメージ。それが、ある種の生命感を与
える。
○天沢退二郎(1936〜 )の詩
「わが本生譚の試み」の中の「毛々生れ」「夢生れ」詩集『時間錯誤』(1966年刊)
所収
吉増剛造にとっては、彼が現実で出会う言葉そのものが天沢退二郎が遭遇する事物
と同じように固有なものとして受け止められる。彼が読んだ言葉、街で出会った言
葉、名称、記憶の中に浮かび上がってくる言葉、それらがそれぞれ生命を持った存在
のように受け止められる。吉増剛造は固有な「言葉」に対してアニミスティックな感
性を働かせる。彼の詩は、それらの採集されてきた「言葉」が生き返る場といえる。
大衆となったときの「主体」のあり方は「個」的なものではあり得なくある。そこで
は、民族として受け継がれてきた心性が目を覚ます。吉増剛造の詩には、その日本人
の多神崇拝的な心が息づいているといえるのではないか。
○吉増剛造(1939〜 )の詩
言語の持つ呪術性を引き出して、詩の言葉のパラダイムを個人の内面から外部へと拡
げる。
「渋谷で夜明けまで」詩集『黄金詩篇』(1970年刊)所収
天沢退二郎や吉増剛造のように言語を対象にした「主体」は、自身の心情といった
ものには意味を置かない。しかし、自分が抱く現実的な感情に生きる者にとっては、
それでは済まされない。つまり、自己のルサンチマンを詩として表わすには、そうし
た転倒した意味の表出では出来ないが、だからといって常套的な表現では自己の固有
性を得られない。ということで、表出の固有性としての「修辞」が求められることに
なる。清水旭は自己のルサンチマンの表出を、隠喩によって重層するイメージに実現
している。詩作に於いて言葉のイメージ喚起力に主眼を置くというところでは「荒
地」の詩人たちに通じるが、そのイメージは、「荒地」の詩人たちの場合は象徴性に
向かっていたのとは違って、詩人の固有なスタイルを作るところへと向かっている。
大衆の自己肥大化を体現しながら、詩の言語を自己イメージを実現するためのものと
して行く。これは、別な形での言語の意味生成の転倒といえよう。
○清水昶(1940〜 )の詩
「少年」詩集『少年(1965〜1969)』(1969年刊)所収
荒川洋治はその転倒した言語の有様から、自己を抜き去ることによって、言葉をス
タイルそのものとして一つの様式に還元した。詩をファッションとしたわけ。そうし
たことが可能になったのは、定期刊行物として詩の雑誌の刊行が日常的になり、流通
して、詩が安定したメディアをもつようになったからのこと。つまり、少数対多数の
関係で、詩を小数が多数に見せる姿に限定した。別の言い方をすれば、荒川洋治が詩
に求めたのは、そこに自分の実体がどう現れるかということではなく、自分の書く詩
が多数にどんな姿で映るかということ。勿論、その姿を彩る主調はあって、それは
「親密さ」ということ。荒川洋治の詩が多くの人から支持されたのは、それまではど
ちらかといえば大げさな気分で書かれていた詩を、日常に近い気分で受け止められる
ところに置いたからということと、その詩を読んでちょっと格好を付けた「あだ名」
で呼び合うような親密さに触れられるということによる。これらのことは、メディア
を意識する言語の「主体」によって意識的になされた。詩を書くのに「サービス精
神」を働かせるという点が、荒川洋治をそれ以前詩人たちとはっきりと分けるところ
といえる。だが、詩に言葉から自分の実体を抜き去るということは、その「主体」に
一種の屈折を与えることになる。
○荒川洋治(1949〜 )の詩
「水駅」詩集『水駅』(1975年刊)所収
「払暁」詩集『醜仮廬』(1980年刊)所収
とはいっても、荒川洋治が詩を日常に引き寄せることで開いたパラダイムは、そこ
へ多くの詩の書き手を誘い込むことになる。松下育夫も、ねじめ正一も、伊藤比呂美
も、そこへ誘い込まれた人たちだが、そこは目の前に大衆の姿が見えるところであ
り、素早い反応が返ってくるところでもあって、非常に厳しい場といえよう。気まぐ
れな大衆に向き合うという立場を維持するためには、「主体」自らが行動するという
仕方で、おのれのイメージを現実に展開してなければならない。それが出来たか出来
なかったかということで、詩人の命運が決まってしまうということになる。そして、
書き言葉を抱えた詩人が現実の場へ登場したわけ。松下育夫も、ねじめ正一も、伊藤
比呂美も、最初は「日常の心理」を書いていたが、それらの詩は身につけている衣装
ように気分的な意識の持ち方のスタイル以外ではない。つまり、隠喩が呼び寄せるイ
メージに頼って織られた言葉の綾。ところが、同じ見せるならもっと直接にと、朗読
するようになった途端に、言葉は変容を迫られる。「修辞」としては「隠喩」から
「提喩」もしくは「換喩」への移行がなされる。何のことはない、一種の内面の記述
であった詩が、聴衆に訴える語りになったということ。語りとはいっても、「詩」で
あって「物語」ではないから、そこでは言葉が主役となる。従って、朗読の現場では
「主体」と「言葉」とがせめぎ合う場が生まれてくる。そこで「主体」は言語の主体
としての立場を著しく傷つけられ、その被虐的な官能によって日常を越えるところと
なる。そういう言葉は、意味が抜け落ちたとき「記号」となり、意味が手渡されたと
き人を突き動かす「標語」となる。
○松下育夫(1950〜 )の詩
「ズボン」「川」詩集『榊さんの猫』(1977)所収
○伊藤比呂美(1955〜 )の詩
「草木の空」詩集『草木の空』(1978年刊)所収
「カノコ殺し」詩集『テリトリー論』(1985年刊)所収
○ねじめ正一(1948〜 )の詩
「早朝ソフトボール大会」詩集『ふ』(1980年刊)所収
「ヤマサ醤油」詩集『下駄履き寸劇』(1981年刊)所収
さて、現代詩はとうとう大衆の中に出て行ってしまったが、詩を書く多くの人は部
屋の中で一人で詩集を読み、机の上の紙の上に文字によって詩を書いている。しか
し、そういう人たちにとっても、詩が少数対多数というメディアに置かれてやり取り
されているというところから逃れることは出来ない。しかも、そのメディアの構造は
「自然」ではなく、小さい大きいの関係なく商売を成り立たせる「社会」の流通の
場。否応なしに、詩の作品の「価値」ということが意識され、幾筋もの「価値体系」
が詩として書かれた言葉を線引きする。厄介なのは、詩が「魂の問題」を抱えている
ため、そこから離れて、詩人が「価値」を生み出そうと意識しても、「価値」で詩を
割り切ることは出来ない。とはいっても、少数対多数の構図の中で詩を書いているの
だから、発表の機会を優先的に与えられる小数になりたいという欲望は捨てられな
い。そこで、「価値」と「欲望」が結びついて、その努力を媒介に、詩の言葉の領域
に「権威」というものが形成される。そういう構造が事実として容認されてくると、
その中で生きようとすれば、訳の分からないところに突き落とされ、その中に生きて
いなければ、外にはじき出されてしまう。カリスマを中心に閉ざされる。つまり、詩
人は専門家ということになった。こういう「狭さ」は、何も詩を書く人の間ばかりで
なく、他の「専門家」と称される人たちの間にも起こっていることと言えよう。つま
り、詩の専門家を目指すのでなければ、たとえ詩を書いていても、一般に詩の門外漢
になる。これは、社会全体が激しく流動するような事態にならなければ、その社会の
構造の中にいる以上は、改めようとすることもできないように思う。その激しい流動
はやってくるのか。わたしとしては、現実に直面しているコンピュータのネットワー
クを通じてのコミュニケーションの取り方の変化以外には、その流動のもとになるも
のは考えられない。多分、これが経済の激変をもたらして、更にその上で知的な情報
のやり取りとして、今までとは違ったやり方が生まれて来るに違いないと思う。
さてさて、書斎で詩を書いている人たちの詩の言葉の「主体」はどういうことに
なっているか。大衆社会が成熟して、というか、かなりのところまで来て、それぞれ
が専門化して行くように、「主体」も否応なしに「専門家」の枠の中に押し込められ
るところとなる。ということは、誰もが言葉を使うが、社会のそれぞれの職業的な分
野で自己の生存を賭けて厳密な言葉が要求されるのと同様に、詩人もまた「専門家」
として自己の生存を賭けて厳密な言葉を使わざるを得ない。「主体」は一方で大衆に
身を曝しながら、「詩の言葉」は一方で専門家の言葉として大衆から隔絶される。
「専門家の言葉」になった「詩の言葉」とはどういうものなのか。たとえば、一般に
は一冊の本は作者が書いた文章が活字で印刷されて紙の束として綴じられたものだ
が、編集者という専門家にとっては、どのような文化的また経済的価値があるか、本
の体裁は何ポイントの活字で印刷され、何という紙が使われているということが、語
られる対象となる。一般に言葉についても、言語学者や文法学者は専門的な知識に
よって言葉を対象にして捉えて語る。つまり、専門家はその専門的知識によって、対
象を捉える。従来から詩人はそれなりに専門的に詩を対象化して捉え語ることはして
きたが、それは「詩の言葉」とは別の言葉で行ってきた。ここで問題になるのは「詩
の言葉」自体が「詩」や「詩にまつわる領域」を語るものになったということ。つま
り、「詩」は「メタ詩」になったということ。そうした場合、詩の言葉として語られ
る「詩の言葉」の「主体」は二重、三重ときには更に何重もの存在となり、「主体」
自体が拡散して行く。現在、詩の言葉の「主体」はこうして、拡散状態になっている
と言えよう。
○瀬尾育生(1948〜 )の詩
「絵」詩集『HI-LILI,HI-LOハイリリー・ハイロー 』(1988年刊)所収
「弟子」詩誌『A,T』3号(1996年6月刊)所収
○建畠晢(1947〜 )の詩
「にわかなる庭鰐」「太陽の翻訳」詩集『パトリック世紀』(1996年刊)所収
○辻和人1964〜 の詩
「ぼくの肖像」詩集『クールミント・マニア』(1995年刊)所収
以上の辿ったのが「『詩人』が困難な『修辞』を巡る冒険物語」。しかし、授業で
はこれはそれぞれの詩人の作品を読み、それについて説明を加えながら話して行って
いるわけ。その詩の題名は○印をつけて文章の区切りに挙げて置いた。説明は、たと
えば鮎川信夫の「病院船室」であれば、先ず病院船がどういうものであるかを説明す
る。実際、一九七〇年以降に生まれた学生たちは病院船というものの存在すら知らな
い。傷病兵として戦地から送り返される若い鮎川信夫の絶望的な心境を語り、病院船
室の状況を語っている詩の言葉が、その当時の彼の内面のあり方を「喩」として語っ
ていると説明する。「鍵穴を必死に覗き返しす」若い傷病兵が「脱走したい、──海
よ、母よ」と呟く気持ちに、胎内回帰願望が示唆され、生まれ変わりたい思いになっ
ていたのだろうと話して、鮎川自身も気が付かないで母性崇拝を覗かせていることを
指摘する。ここでは鮎川信夫の内面というものの深度を語る。ということで、何故
「病院船室」が選ばれているかを理解していただけると思う。
もう一つ、吉岡実の「僧侶」については、先ず僧侶について持っている先入観を捨
て、映画を見るときのように、書かれているところをイメージにして素直に受け止め
させる。シュルレアリスティックなモノクロ映画を見ているような感じになるだろ
う。そこで、僧侶たちが演じている事柄について考えてみると、要するに、彼らは禁
じられていることをやっているのに気が付く。そこにこの詩の本質的な意味がある。
タブーを犯すということで、世界の意味体系を作り直そうとしている。「僧侶」の代
わりに「詩人」を入れ替えると、吉岡実が言葉で実現したかったことが分かるのでは
ないか、と。
他の詩も同じように言葉についての説明と詩の内容とを一つ一つ説明して行く。固
有名詞が多く出る吉増剛造の詩などは、その言葉が持つ時代的な意味合いを説明しな
ければ、「ラッキー・ストライク」って何だ、ということになって、詩の中に入るこ
とさえもできなくなる。場合によっては吉増剛造や伊藤比呂美の朗読を聞かせると、
その「詩の言葉」は紙の上の姿とはまるで違う様相を持って立ち上がってくる。
C:時代とともに、また個人の年齢とともに詩の表現は変わる
連続的に講義をしてきて、最後のところで、わたし自身がどんな風に詩を書いてき
たかを、講義の時間の一回をを使って話すことにしている。それは、詩の言葉の「主
体」について話していながら、個々の詩人たちの年を経た変化については話していな
いので、一度世に出てから固定して同じような詩を書き続けていると思われては困る
から。自分がどの辺りに位置しているのか、自分の詩風がどういうように変わってき
たか、またわたし自身が「詩について語る人」になったということなどを語る。そし
てわたしの講座は終わるわけ。
昨年、近畿大学で講義したときは、「詩のメディア構造」という話を加えた。それ
は、学生のアンケートの「将来やりたいこと」という項目の回答に「インターネッ
ト」が出てきたことと、既に「ホームページ」を開いている学生いたので、「紙の上
に印刷される詩」とネットワークで結ばれた「電子メディアの上の詩」との意味合い
の違いを、わたしが現在理解できる範囲内で話した。第一に、書かれた詩が読者に届
く過程に介在する社会性の内実が、両者でははっきりと違うこと。原稿用紙に書い
て、編集して、印刷屋に持って行って、製本して、配本所を経て、本屋でようやく読
者の手に渡る、あるいは作者から直接郵便で読者と目された者に届けられるという過
程と、ディスプレイ上で書いて、HTMLファイルにして、サーバーにアップロードすれ
ば、読者が読めるチャンスが生まれるという過程とはまるで違う。それに加えて、電
子メディアでは「ハイパーテキスト」と呼ばれる文章として書かれれば、その文章の
単語や文が別の文の単語や文に結びつけられて、言葉が四次元的な空間を作り出すこ
とも可能。紙のメディアでは、そこに様々な価値意識が働き、その価値観を共有する
者たちの共同意識が既に形成されているが、電子メディアで働く価値意識のあり方は
まだ不明。二年余りのわたしの短いコンピュータ経験では、読者になった場合、自分
の個人的な興味の持ち方を直接的に働かせてしまう傾向が生じて、読む対象に非常に
厳しくなる。本なら放って置いてまた後で読むということもあるが、手放したらその
場で消えてしまう。詩を発表する立場では、誰が読みに来るのか分からない茫漠とし
たところで、カテゴリーの検索や既にある紙のメディアによる情報を頼ってのアクセ
スの道は開かれているとはいえ、非常に厳しい孤独を耐えなければならないことにな
る。いずれにしろ、今後は両方が共存するところに「詩の言葉」のメディアは開かれ
て行くことであろう。というような話をした。
9.]
こうして、「文章に書くという」ところで「話した内容」を辿ってみると、語っ
てない詩人たちのことが大いに気にかかる。もっと多くの詩人たちについて語るため
には、もっと多くの「話の筋道」が必要だが、今のわたしには出来ないのが残念。
もっと沢山の詩人に付いて、幅広く語れる「話の筋道」の作り方を工夫したい。
一つ考えられることは、現実での詩人の姿を辿るということ。わたしは学生たちに
向かって「詩を書いて食べていくことは出来ない」と話したが、詩の雑誌の編集者や
詩集の出版者となって、いわば詩の関係の仕事をして生活している人もいるのも事
実。詩を書きながら、別に文章を書いたり、コピーを書いたりして、稼いでいる人も
いる。そういう詩人の「言語主体」と「経済」との関係を話の筋道にして「一九四五
年以降の言語主体と経済」を語れば、詩の言葉の別の意味合いが見えてくるのかもし
れない。しかし、そういう詩人の現実生活と詩の言葉とは余り関係がないようにも思
えるし、現実生活で経済的に恵まれていたとか、決意をしたとかということが、詩の
言葉の「主体」として維持できたとも思える。それは面白いかもしれないが、その話
を作るには、わたしの興味と力を越えている。
10.]
わたしの詩を書くという局面に移ろう。言葉の現実感を求める、というのが基本。
そのわたしが「作品」として書く言葉が、読む人とどういう関係で受け取られ、どう
いう場で読まれるのか、ということがその現実感を実現する上で問題になる。わたし
は詩を書き始めて以来ずっと、その詩が紙の上に印刷されて、雑誌か詩集になった紙
面で読まれることを予想して書いてきた。それは、今後も当分変わらないと思う。し
かし、その基本的なところが相対化されてきていることも確か。紙の上で読まれるこ
とを望むなら、商業的に流通している雑誌に発表する機会を持つか、個人的に参加で
きる詩誌を持つか、いきなり詩集にしてしまうか、ということになる。だが、読者に
手渡すのはそういう仕方ばかりでなく、紙とは限らない、ということになった。つま
り、「電子メディア」によるというわけだが、まだそれを発表の主な手段にしようと
いう気にはなれない。それが行き渡っていないこともあってか、何か、心許ない。受
け手のイメージが持てないというわけ。とにかく、現在生きている人に書いて時点で
読んで貰いたい。従って、詩を書こうと思えば、紙も電子メディアも想定したところ
で、詩を書く工夫をしていかなければならないのだろう。実際に、もう詩を書くの
も、文章を書くのも、ディスプレイに向かって書いているのだから、それはそれでい
いことにする。
次には、「詩の言葉」を書くわたしの「主体」の問題。わたしは自分が都市大衆の
一人であることを自覚する。この自覚を徹底して自覚し直していく。それが、今まで
自分が詩を書くことで辿ってきた道だし、これからも辿る道。都市大衆の一人として
生きているということは、地縁的にも血縁的のも、更に家庭でも職場でも、友人関係
にあっても、有りと有らゆるところで空間的にはごく近くにいながら、互いに孤絶し
て生きているということ。その孤絶のあり方を絶えず自覚し直していなければ、生き
ていけなくなる。一九八〇年以前に日本で生まれた人間には、現在の都市大衆の孤絶
状態を見極めるには、かなりの努力が要る。こういう空間を共にしながらの人間の孤
絶状態は、都市の広がりと共に広がっていくと思われる。交通機関のスピードアップ
がそれを助長し、通信網の整備が一層孤絶を深める。既に、ネットワークされた複数
のパソコンを持つ家庭では、親子の間でディスプレイの画面上で書き言葉によって会
話しているという。否応なしに意識は鋭くなり、他者との差異ははっきりしてしま
う。意識化が進行すれば、それだけ自然は見失われ行く。
社会的には分業化が進み、専門の幅は狭くなって、各専門家の数は増えて行く。
「詩」という事柄にあっても、それが免れないのは当然。つまり、「詩の言葉」の
「主体」は、一方では細分化された専門家として特殊な言語形態を発明していくこと
になり、また別の一方では、詩が「魂の問題」を抱えているところから、自己信仰の
安易な披瀝が広がり蔓延っていくことになる。この両方を踏まえたところに「主体」
は立たされているわけ。わたしは、大学で詩についての講義をしているのだから、
「詩の専門家」に違いない。またほとんど自分を中心にしたことばかり書いて、映像
でも自分を中心にした空間を作品にしているのだから、「自己信心者」でもある。こ
う自分を規定すると、始末の悪い存在だあ、とため息が出てくる。 実は、この数
年、自分の存在の始末の悪さにため息をつきながら、手に染め始めたパソコンに引き
込まれ、書かれた詩や詩を書く人たちから遠ざかっていた。そうすると、自分の「詩
というもの」に凭れ掛かっていた姿が見えてきた。詩に対しても、詩人に対しても自
分の思い入れの中で書いたり考えたりしていた。特に詩を書いたり読んだりする自分
自身への思い入れの大きさに驚いた。言ってみれば、詩や詩人や自分自身に対しての
思い入れが肥大していると感じたわけ。その減量のために距離を取る、と課題という
わけではないけど、そういう意識を持った。スリムな意識で詩を書きたい。と思って
も、いきなり全く違った詩が書けるわけはないけど、今は羅針盤で方位を定めて船を
進めようとしているところが、わたしの現在。この孤絶した意識を言葉でどう開いて
行くのか。言葉の主体として、他者に届けるべきものが何であるかを探り出す。先ず
は、この言葉の主体が置かれている事態を、個としての主体が現実との関係を取り戻
す意志を働かせる過程で暴き出して行くことで、他者に通じる道を改めてつけると
ころから始める。
|