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橋本文雄・上野昂志著『ええ音やないか』評


(「週間読書人」1996年10月18日掲載)

「映画」の肉体に目が開かれる

 映画というものについて、目を開かれる本だ。映画館でみているだけの人にとっては勿論のこと、多少、制作現場を知っている者にとっても、映画について改めて目を開かれる。読んでいて、映画が人の集まりによって作られ、そこでの関係がスリリングに繰り広げられて、人々が持ち寄ったものが一つになって映画が実現される、その過程に立ち会っているような気持ちにさせられてしまう。殆どが、橋本文雄氏と上野昂志氏との対談で成立しているこの本は、気持ちが引き込まれる小説を読んでいるように、面白い。そして、646ページという分厚さだから、結構楽しめる。  橋本文雄氏は、日活開設から今日に至るまで録音技師として活躍してきた人。上野昂志氏は、時代の表現というところに目が行き届いた映画評論家。一方は、スタッフとして映画の中にいて、現場と仕上げの両方に身を置いて創造していく立場から、作品の全体を常に考えているところの鋭い批評眼の持ち主。他方は、映画の外にいて、映画を愛して止まない身の上でありながら、歴史意識のまな板に作品を乗せて、細かく腑分けが出来る技量の持ち主。この二人の対談が、橋本氏が手がけた作品を篇年的に辿りながら、極めて具体的に「録音理論」「サウンド論」「映画音楽家論」「映画監督論」「俳優論」とそれぞれ立派な映画理論を形成していくのだ。単なる体験談でなく、理論にまで高められて行くところが、読んでいて、知的に興奮させられるところだ。  橋本文雄氏の「サウンド論」は、観客が映画を見ていて「本当」と感じる音を創り出すということに要約される。その観客に感じさせる「本当」の追求が「日活アクション映画」の時代の変遷とともに変化していったということが、具体的に録音のテクニックを絡めて語られている。それは、例えていえば女優の肉体の盛衰を語れるような具合に、映画の肉体の盛衰が語られるということになる。  その橋本氏の飽くなきサウンドの追求を軸に、先ずは中平康監督の演出の仕方が詳しく語られ、現場での監督の身体の動きが見えてくるような気持ちさせられる。それは、監督が作品として何を実現しようとしていたかという作品の深いところまで入り込んでの批評となる。スクリーン上に実現された映像の意味を読みとるといった視点からの監督論ではなく、映画を作る人間として見た所での監督論なるわけである。本の後半では、橋本氏がフリーになってからつき合った、澤井信一郎、坂本順治、鈴木清順、森田芳光のそれぞれの監督論として語られている。同じようにして、監督ほど詳しくはないが、映画音楽家について、また俳優について語られる。その語る対象となる人に対して愛情が込められているので、気持ちがいい。  最後に、橋本さんの最近の録音の現場についての言葉から、映画の様式の一時代が終わったという印象を受けた。その意味からも、この本は次の時代の映画の創造に向けて、貴重な存在と言えよう。



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