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若い人たちの個人的な映像表現 ─映像の比喩的表現
(「日経新聞」1997年6月15日掲載)
「映像」というものの持つ意味合いが、時代の流れの中で激しく変わって行くのを、誰しもが日常生活の中で感じていることと思う。パソコンのディスプレイの上で文字を読み、映像を見るというのが日常になって、その意味合いはますます変わりつつある。映像がただ見て受け止めるだけのものだったのが、個人的に記録に留めるものになり、さらに個人の間でやり取りするものに変わってきた。日常生活の中で「映像」が「言葉」と同じような役割を担うようになってきたというわけだ。映像は、単にものを示すイメージではなくなり、そこに写っているものとは別の意味がつけ加えられて、使われるということが、日常化してきているということだ。
インターネットの個人のホームページに、自分の写真や家族の写真、それにペットの写真を載せたりする人が多い。家族を思う気持ちやペットを可愛がる気持ちの表れだが、その思いは、ただ写真を載せるだけでなく、工夫しないと伝わらない。「言葉」が独自な意味を生み出すには単語の組み合わせに工夫が必要なように、「映像」も意味を生み出すには、それなりの工夫が必要なのだ。
その映像が意味を生み出すための工夫というのが、これまでは映画とかテレビとか新聞とかで、つまりマスコミ媒体の中でのみ考えられてきた。ところが、映像のやり取りが、個人の間で日常化してくると、そこでの映像の意味の生まれ方は、マスメディアでの場合と違うところが出てくる。そこで、現在、若い人が映像で表現しようとするとき、従来の映像の表現の仕方とは違う表現の工夫が求められることになる。当人たちもマスメディアとは違う表現の仕方をしなければ、表現をしたという気持ちになれない。
では、そういう若い人たちの映像表現というのはどういうものなのか。「映像」だから「言葉」では曰く言いがたいものだが、端的に言い切ってしまえば、映像を比喩として繰り広げるというところに工夫を凝らしているといえよう。例えば、『耳プール』という作品がある。暗い部屋に白い布を掛けたテーブルが置いてあり、その脇で若い一人の男が、短波放送のノイズを聞いている。テーブルの反対側にはスッポンを入れた水槽がある。作品は、この男を中心に展開していく。男はラジオのアンテナを歯でくわえて伸ばしたり、アンテナで耳を擦ったり、セロテープを耳に貼り付けたりしているが、いつのまにか耳朶に鎖をつて、その先に模型の救急車を結び、無線操縦で引っ張らせたりする。そして、男は無線装置のアンテナの先の鎖にスッポンを結わえ付けて、季節外れの苔の浮いたプールの中でスッポンを泳がせ、スッポンに引きずられて行く。その途中に、男がアパートのベランダで、子供用のビニールのプールで仰向けに陶然としているカットが挿入される。部屋では、男の耳が模型の救急車に引き抜かれて、テーブルの白い布の上に血の跡を残しながら引きずられている。最後に、その耳が独りでに動きだし、氷とコーラの入ったコップの中に飛び込んで、身を沈め、「もっとよく、、」と書かれた耳の絵で作品は終わる。全体は、電波ノイズの音、電話の信号音、救急車のサイレンで包まれている。これは、多摩美大二部に在学する坪田義史君の十分程の作品である。
作品が語ろうとしているのは、登場する若い男の生活でないことははっきりしている。暗い部屋で、電波ノイズを聞いているというのは、一見、現実の若い男の姿と受け止められるが、歯でアンテナをくわえたり、アンテナで耳を擦るとなると、現実を逸脱し始め、耳に鎖を付けて模型の救急車で引っ張らせるところに至って、映像は作者の内面を語る比喩となってしまっている。模型の救急車、スッポン、苔の浮いた季節外れのプールの水中、子供用のビニールプール、小動物のように動き廻る引き抜かれた耳、それらのものが不安や焦燥、また幼児期の至福感への憧憬を語る比喩となって、緊迫感を持って語られているのだ。全体を覆っているノイズは、心を引きずり込む空洞を暗示して、それにあらがうように引き抜かれた耳をコーラのコップに沈めて癒すことで、軽く身をかわしているといえよう。見終わると、現実感を失って音の空洞に浮遊する若い人の心を感じさせられる。
若い人の作品が、こうしたイメージを主としたものばかりではなく、ストーリーを主軸にした作品もあるが、しかしそのストーリーもそれ自体に比喩的な意味合いを持たせるというように展開する。作者が個人的な内面を語ろうとすれば、比喩的に語ることは止む得ないことだと思う。この傾向はますます盛んになり、映像機器の普及とともに、洗練の度合いを増していくことだろう。
ところが、ここに問題がある。それは、こういう若い人の映像表現がマスメディアとは異なる文脈を持っているために、世間の多くの人の目に触れる機会が少ないということ。また、その作品の多くに、一般には既に忘れ去られている8ミリフィルム、16ミリフィルムが制作に使われてことである。彼らはビデオも使うが、ビデオとは違うフィルムの持つ特性を感じ分け、彼らの比喩的表現にマッチしたものとして使っているのだ。8ミリフィルムは、現在、富士フィルムが細々ではあるが製造販売を続けて、若い映像作家たちの制作を支えている。その8ミリフィルムの存亡が大袈裟ではなく、彼らの作品制作の存亡にかかっているわけである。
上映も、近頃では各地の美術館や、「イメージフォーラム・フェスティバル」などで、その機会は増えてきているが、彼らの作品の存在さえ世間の人には知られていないのが現状だ。しかし、その作品は、現在この社会で個人個人が生きて感じ考え悩んでいる若い人たちの表現として存在しているものである以上、一般の人がそれを享受する機会が更に多くなることが望ましいと思う。
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