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Hard disk

パソコンの話はなかな人に伝えられない
     ハードディスクトラブル記



 コンピュータの上で起こったことは、他人に話してもなかなか伝わらない、いや自分でも容易に把握できない、ということを、最近のわたしのパソコンのハードディスクがクラッシュしたという経験をもとに考えてみます。多分、コンピュータが働く電磁空間について使われている「仮想」ということについて、考える上で参考になると思います。

 パソコンをやってない人の傍らで、パソコンをやっている者同士で話していると、もつで外国語を話されているようだ、と不愉快な顔をされることがよくあります。パソコンをやっていない人は、全くその会話に入れないからです。他のスポーツとかゲームとか趣味についてはどうでしょうか。

 「そのアントラーズって、そんなに強いの」とか、「おれもその磯釣りに一緒に行きたいね」とか、話の話題になっていることに、自分も参加してみたい気持ちになるのではないでしょうか。パソコンの場合はなかなかそうはなりません。何も知らなくても、サッカーを見ることは出来るし、釣り道具を貸して貰えば、釣れるか釣れないかは別に、釣りをすることは出来きます。パソコンはそんな具合には行かないです。「本体」「ディスプレイ」「キーボード」を買ってきて、たとえその接続が直ぐに出来たとしても、「パソコンをやる」ことは出来ないのです。

 電源を入れて、OSが起動して、画面にデスクトップが現れたとしても、キーボードとマウスの扱い方を知らなければ、何をどうすればよいかわかりません。ゲームを見に行く場合や、釣りに行く場合とは違って、入門書も読まず、人からも聞かずで、キーボードやマウスの使い方をまったく知らなければ、ただやたらにキーボードを叩いたり、マウスを動かしたりして、かなりの試行錯誤を繰り返さなければ、「パソコンをやれる」ようにはなりません。実際、試行錯誤だけで、パソコンのインターフェースをすっかり把握することは出来ないでしょう。ましてや、コンピュータと人間の関係が、他の道具とは違って「人間の命令と器械の実行」ということであるのを理解するところまでには、とうてい至ることはできないと思います。

 そもそも、パソコンの話は、今度出たOSはどうだとか、処理能力が速いとか遅いとか、またアプリケーションのことなど、要するに「人間の命令を器械がどんな具合に実行するか」に尽きるのです。「命令の出し方」「器械が行う実行の筋道」ということが、パソコンユーザーの主要な問題意識なのです。わたしは、パソコンを始めてから、その問題の解決を次々に追いかけて、コンピュータ使いの深みに嵌まって行っていると言えます。つまり、命令を出せなければ、コンピュータを扱うことはできないのです。

 現実の世界では、やりたいと思ったことをやるには、それなりの手順を踏むということはあっても、先ずは、身体を動かす、あるいは言葉にするというところから始まるわけですが、コンピュータ相手では、そのやりたいという意志を、コンピュータが理解する言葉の命令に置き換えなければならないのです。ここに、「仮想」の出発点があると思います。コンピュータの話のわからなさは、この「コンピュータが理解する言葉の命令に置き換える」ということの「仮想性」にあるのだと思います。「ファイルを開く」といっても、紙を手に持つではなく、指先のクリックです。

 そこで、「デスクトップ」などいう比喩が使われ、机の上が仮想されることになるなるのです。もっともAmigaだと、「フォルダー」の代わりに「引き出し」ですから、こちらは仕事場か書斎が仮想されているということになります。実は、それはコンピュータの言葉の上では、厳密な論理的関係なのですね。フォルダーは入れ物ではなくて、名前の配列のようです。いくつもの名前を包摂する名前というわけです。そういう論理関係を、身体的な空間の比喩に置き換えることで、取り付きやすくなる代わりに、話としては分かり難くなってくるわけです。

 新聞などのパソコンに関する記事に、パソコンのマニュアルや解説本の分かり難さに対する批判を見かけることがよくあります。わたしも、パソコンを始めた頃、その分かり難さに腹を立てたことがしばしばありました。そのうちに、一つのアプリケーションを使えるようになるには、マニュアルと他に解説本を一冊か二冊読まなければ駄目だと気が付きました。マニュアルは、「命令の実行」の記述にしか過ぎません。解説本は、ひとりの人間のその命令の行為の筋道が書いてあるわけです。それを二つ以上読むと、コンピュータの中の「命令に実行」の「仮想の現場」が想像の中に見えてくるように感じられる分けです。そして、この「仮想の現場」を把握してしまえば、論理関係が動作の道筋として掴めて、マニュアルだけで充分ということにもなるのでしょう。わたしは、とうていそこまで行っていませんが。

 今度の、わたしのハードディスクのトラブルは、まさにその仮想の現場に踏み迷うという体験でした。

 わたしのコンピュータ経歴は、足掛け三年にしかなりませんが、Macintoshから始めて、一年後にはWindows3.1のPC-98を買い、そのMS-DOS ver6.2でアセンブリ語少々やり、Windows95にアップグレードし、インターネットに接続して、更にPowerMacを買い、とうとう、コンピュータの共通語のようになっているUNIXをやって見ようと、わたしのコンピュータの病はますます高じてきているわけです。そして、ついに先日、わたしのPC-98でも使える「UNIX PC-98版FreeBSD入門キット」を本屋で見つけて、買って来て、さらに新たに540MBのハードディスクを用意し、そこへインストールすることにしたのでした。

 ところが、その本に付いているCD-ROMからインストールしようと、UNIXのインストラーboot用のフロッピーを作り、それで起動したところ、PC-98内蔵のCD-ROMドライブを認識しないのでした。そのUNIXには、同じPC-98でも、わたしの器械のCD-ROMデバイス・ファイルがないということですね。つまり、論理関係として、「俺の辞書にはそんな単語はないから、知らん」というわけです。

 そういう場合は、CD-ROMからその中身を「関係が成立している」DOSのハードディスクにコピーして、そこからインストールするようにと書いてありましたが、それがわたしにはよく理解でず、異なるOS同士を関係させるのが恐くて、以前買って余っていたCD-ROMドライブをSCSIに接続してみたら、それはうまく認識されたので、新しいハードディスクのパーティションの切り方などで失敗を重ねた末に、何とかインストールすることは出来たのでした。一安心、嬉しや、と思い、「Hello,BSD!」とC言語で打ち出して見たりもしたわけです。ところが問題のハードディスクのクラッシュは、この後に起こったのです。

 話はくどくなりますが、その後、PC-98のA:ドライブ(内蔵ハードディスク)のWindows3.1も、C:ドライブ(内蔵ハードディスク)のWindows95も起動できて、何事もなく使っていたのですが、そのCD-ROMドライブをSCSIに接続する時に使用したした、A:ドライブのとは別のWindows3.1が入れてあるD:ドライブの2GBのハードディスク(SCSI外付け)の回転がおかしくなり、遂に他のドライブのWindowsは全部起動出来なくなってしまいました。起動する途中の読み込みのところで止まってしまうのです。

 こういう話のなると、同じパソコンを使っている人でも、Macのユーザーにはドライブって何、とか、そんないくつものハードディスクに何で別々にいろんな起動ディスクを置いているの?とかという疑問を持たれ、わたしのマニアックなやり方はとても理解してはもらえなくなるでしょうね。それは、まあ、いいんです。いろいろなOSを使うといういうのが、わたしには面白いのですから。

 起動が止まってしまったとき、その止まった画面を見ると、Microsoftの旗と「Windows95」のロゴ表示が出る前の、読み込むべきファイルが読み込めなくなっているらしいのです。どうやら、CD-ROMドライブを接続するためにD:ドライブにインストールしたユーティリティソフトのファイルが、それぞれのCONFIG.SYSやAUTOEXEC.BATに書き込まれていて、それが読み込めないために起動できないのだと分かったのです。

 要するに、コンピュータが「起動の実行」の過程で、論理的な破綻が起こっていることです。「存在しない言葉」(ファイルがないということ)を見つけられなくて、そこで止まってしまうというわけです。当然、それぞれの記述を削除し、D:ドライブを切り放してみると、Windowsは起動することが出来ました。しかし、またD:ドライブのハードディスクをつなぐと、どのWindowsも起動しません。

 ところで、D:ドライブのハードディスクを切り放すと、今度はせっかくインストールに成功したFreBSD(UNIX)が起動の途中で止まってしまうのです。そのハードディスクをつなげば、FreBSDはちゃんと起動します。

 さて、ここが問題なのです。何故、Windowsは起動しないのに、FreeBSDは起動するのか。また、D:ドライブのハードディスクを外すとWindowsは起動するのに、FreeBSDが起動しなくなるのは、何故か、ということです。

 D:ドライブにはWindows3.1があり、つまり、MS-DOSの領域で、そこで作業したデータファイルがあるのですが、Windowsが起動できなければ、それを取り出すことが出来なくなってしまったということです。まあ、酔狂でやっているわたしのファイルなので、大したものはないのですが、でも、そこにはビデオから取り込んだムービーファイルが幾つかありますし、それはWindows上でのわたしのムービーの処理を学んだ経歴があるわけです。残念といえば、残念です。何とか生かしたい、という思いがあります。

 Windowsを起動して、読み込めないと表示に出た「言葉」は「CONFIG.SYSに誤りがあります」とか「準備が出来ていません」という日本語だったので、理解出来て、それなりの処置を取ったつもりですが、FreeBSDの方は、次のような、UNIXについて知識のないわたしにとっては呪文のようなものだったので、理解できませんでした。

 そのFreeBSDの起動画面は(ずっとチェックが続いてきて、CD-ROMのチェックが終わったところで、)
 
 
  ・・・・
  ・・・・
  ・・・・
  aic0 not found at 0x1840
      zp0  not found at 0x300
      npx0 on pc98
      npx : EXPECTATION 16 INTERFACE
     Changing root device to sd0a
     Swapon: /dev/sd1s1b: Device not configurated
     Automatic veboot in progress....
     Can't open /dev/rsd1a: Device not configurated
     /dev/rsd1a: Can't check File System
     /dev/rsd1a: UNEXPECTED INCONSISTENCY; Run fsck Manually
     Automatic file system check failed.....help!
     Enter pathname of shell or Return for sh
と出たので、とにかくリターンキーを押せということだから、リターンキーを押すと
  #
になったので、
  #halt
と打って、終了したのでした。UNIXはいきなりスイッチを切ってはいけない、rootでログインして、haltで終了してからスイッチを切るようにと、マニュアルに出ていたからです。

 一体、このハードディスクはどうなってしまったのか。ハードディスクの状態を調べるために、Windowsを起動しようにも駄目なので、B:ドライブにあるMS-DOS ver6.2を起動してみると、これは起動できたので、「FORMAT」コマンドで調べると、「システム管理域が不正です」と出ました。データを生かしたまま、その「不正」をただす方法をコンピュータは教えてくれません。わたしにもその知識はないのです。マニュアルにも載っていません。

 もうデータは捨てても、フォーマットし直して、ハードディスクそのものを生かす以外にないのかと考えて、もう一度、MS-DOSを起動して、フォーマットしようとしたら、もうD:ドライブのハードディスクを認識しなくなっていました。

 そこで、MS-DOSが認知しなくても、別のOSなら認知するのだから、FreeBSDでフォーマットして、更にDOSに取って無縁になったディスクとして、ももう一度DOSでフォーマットし直せばいいのではないかと考えたのです。しかし、わたしのUNIX入門書では、ハードディスクをフォーマットするUNIXのコマンドを見つけることが出来ませんでした。

 それなら、FreeBSDは再インストールして、ハードウエアの初期設定をし直すことにして、全く別のOSであるMacintoshでフォーマットしようと思いつき、そのハードディスクをSCSIに接続して、「Hard Disk ToolKit」でFORMATを始めたのでした。2時間ぐらい掛かるなどという表示も出て、始めのうちはスムーズにフォーマットをして行ったのでしたが、途中で突然カラカラという音と共に停止して、アラートボックスに
「Comannd:Format Unit
SCSI ERROR:Check Condition
SENSE KEY:HardWare error
Additional Sense Data:Track following error」
と出たのです。さらにFormatすると
「Medium error ID CRC or ECC error」
と出ました。更にまたフォーマットをかけると、「Testing」が始まり、途中で音がし始めてテストが終わらなくなり、つまりHDT Primerが暴走してしまい、止まらなくなったというわけです。

 さて、HDT Primerが返してきた言葉の意味はどういう意味なのでしょうか。いろいろ調べて解釈してみると「フォーマットコマンドに対して、SCSIの検査状況にエラーがあり、読みとることが出来たところでは、ハードウエアーのエラーで、追加周辺装置の状態に、トラックを追うことが出来ないエラーが起こっている」ということなのでしょう。

 それに、なおもフォーマットするように命じたところ、「媒体がエラーを起こしている」とはっきり言ってきたわけで、何だかよく分からないけど、「CRC」(巡回冗長検査)か、「ECC」(エラー検査・訂正)のエラーがあるということなのです。コンピュータ辞典で調べると、どちらもデータ転送のエラーを検査するやり方で、要するに、検査もできないということなのでしょう。

 その上で、更にフォーマットしろ命じたのですから、検査に当たっていた「HDT Primer」さんは自暴自棄になって暴走してしまったとしても、それは仕方ないことですね。そんなことを命じたわたしが悪いのですから。しかし、「Medium Error」と出てしまっては、もうこのハードディスクはオシャカということだと思いました。どうして、それほどのダメージが起こったのか、それは遂に、わたしの力では解明することは出来ませんでした。

 メーカーに持って行って、そのメーカーが希有なサービスをするところなら、治らないことはないかも知れません。しかし、コンピュータ会社を始め、ソフト会社、周辺装置製造会社の不親切には慣れているわたしとしては、ハードディスク一個で神経をすり減らすより、日頃から密閉されたハードディスクの内部を覗きたいという好奇心を満たす方が、はるかに有益なことだと考えたのです。

 ハードディスクの分解は3時間ぐらいで出来ました。先ず、カバーを取って開けてみると、50本のケイブルで繋がれた幾つかのICが乗ったボードとディスク本体、それに電源部のボードがありました。それらのボードを外して、アルミの厚いカバーで固められた本体を取り出し、そのネジをゆるめようとしたが、これがきつく締めてあって、アルミのカバーの一部をヤスリで削って、万力で挟んでゆるめなければならなりませんでした。ネジを抜いても、軸受けのネジが取れず、結局、ドライバーでこじ開けるということになったわけです。


 軸受けをもぎ取るようにして、カバーを剥がすと、4枚の鏡のようなプラターがヘッドを付けたアームで挟まれていた。データが記録されるディスクがまさに鏡だったということには、心がいささか震えたのでした。コンピュータのデータは、この薄い鏡の表面に記憶されるのか、と思ったからです。わたしは自分の手を映して見ました。そして、ハードディスクのトラブルから、このディスクそのものの鏡の表面に到ったことを思いめぐらせて、不思議な気がしたのです。





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