かの極私性

      波多野哲朗







 鈴木志郎康さんは、また危ない映画を作った。私はこの危なさゆえに、彼の映画のファンになった。『十五日間』という映画は、十五日のあいだ一日一回自分に向けてカメラを回しただけの映画である。自分の前にカメラを据えて、というよりはカメラの前に自分を据えて、ほとんどそれ以外のものは写さずに一本の映画を作ってしまった。
 彼がなぜ十五日間と決めたのか、その理由はわからない。映画を観ている私にとって、それは先験的に決定づけられた宿命のようなものだった。作者だけが知っている「十五日間」、だからここでの彼は私にとって閉ざされた存在であった。しかし一日また一日と、やがては合計十五日間になるであろうフィルムの中の「彼」を見ていると、その閉ざされたすがたが徐々に開かれてくるのだった。カメラに背を向けていた「彼」は少しずつこちらに向きなおり、次第に雄弁になり一種の快活きを表現しはじめる。かってこの作者は、他者によって制度化され尽きれそうになる自分の視線にさからって、どれだ け極私的な視線を獲得できるかという問いとともに、『草の影を刈る』という映画を作った。それはちょうど作者である「彼」が、NHKのカメラマンをやめようとしている時だった。自分のアパートの一室から眺められる風景だけを執拗に禁欲的に撮リ続けることで、ともすれば自分とかかわりのない対象世界の変化だけで成立してしまう映画を拒否しようとしたのだった。そしてより微細なみずからの意識と、それによってこそ成り立つ視線のドラマを見事に演じてみせたのであった。
 こんどの映画は、この『草の影を刈る』の延長上に作られている。カメラを彼の居住空間からさらに彼自身へと向けることで、対象をより限定することになったのである。それはさきに追求したモチーフを、一段と厳しく問いつめようとするものだろう。
 しかし一方で『十五日間』は、前作と向き合いつつ対極的な位置を占めているとも思えるのだった。私たちは、スクリーンに現われる「彼」が映画の作り手である鈴木志郎康であることを映画によって知らされており、この事実が映画の決定的な意義である以上は、スクリーンの「彼」を完全な映画的対象一般として措定することができない。であれば、映画『十五日間』は、前作の延長上にありながらも、互いに対立的に向き合う関係にもおかれているともいえるのである。そういえば映画の後半に、鏡に映る自分を撮すというシーンがあった。その映像は、はじめのうちは対象である「彼」のように見え たのであるが、やがてカメラがズームパックすると、「彼」を撮ろうとしてファインダーをのぞいているもう一人の彼であったことに気付くのである。このとき、スクリーンは透明なガラス板となって私を置き去りにするのだった。
 合わせ鏡の構造は、作者と「彼」との間で視線を交わすことで完結し、その意味を他者に対して開示することがない。もっとも作者はこのことに十分自覚的であって、「彼」の背後の風景を少しずつ変化させることで完結を回避する。カメラは本だなの間で見上げるように放置されたり、家のなかのあちこちに据えられるようになる、正直なところ、このことで私はずい分救われたように思えるのだった。また彼が時おりさしはさむ外の景色が、かなりくつろいだ気分を与えるのだった。このことは、作者が自分自身へとカメラを向けつつも、自意識といった核的なものへ向かうのではなく、逆にみずからを開係へと開いていこうとする姿勢として読みとれ、好感をもってかの極私性に参加することが出来たのだった。
 しかしこの合わせ鏡が十全に開かれていたとはやはりいえないだろう。私はスクリーンの不透明さのゆえに起る抵抗感をもっと欲しがっているようだ。なぜなら、そうした抵抗感こそが、観客である私をして映画の「現在」に立ち合わせてくれるものだからである。
 この映画で視線よともすれぱスクリーンを透過してしまうのであるが、視線はカメラに写らない。たとえぱときどき映画にあらわれるネジ釘や金具などの意味が、私にはもう一つわからないところだ。そういえば前作にもこうした光かがやく物体が執拗に写し出されていた。作者はガラス状の光を放つ物体が好きなようだ。しかしあれは「もの」ではなく、まなざしの表現だろうか?そしてこうした表現に聞しては、私は前作『草の影を刈る』のほうがよく理解できたのだった。あそこには写し出された世界と、写し出される以前の世界との関係が、もっと執拗に問いつめられていたように思う。そのわずかなずれに、私は強い緊張を覚えたものであった。
 しかしこうしたいくつかの困難をかかえながらも、けっして観念の力によってではなく、あくまで具体的なものの姿のなかにより微細な緊張を発見し、その集結によって映画を作ろうとしている鈴木志郎康さんの映画にはやはり魅せられてしまう。なぜなら彼は、いつもこうした危険を冒しながら、その果てに辛うじてみずからを解き放っているからである。



 

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