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極点思考1

「ホーム」の「主」とは何か


 この五月から七月まで急性A型肝炎で入院していて、七月には外泊といって土日は家に帰ってはいたものの、Mailboxを開けてみるのが関の山で、とても「ホームページ」を更新する気にはなれなかった。それまで更新を続けていたから、それが「止まったまま」ということになったわけである。その「止まったまま」というのが、わたしも気になってはいたが、愛読して下さっている人たち中には、「どうしたのか」といぶかしく思う人もいた。中には、わたしが海外旅行に行ったと推測する人もいたようだ。

 こういう場合、「ホームの主は不在」ということになるのだろうか。一度しか開いてみない人にとっては、どうでもよいことだが、何度も開いていて更新されるのを楽しんでいる人には、やはり寂しいことになる。それは「主が不在の寂しさ」ということではないだろうか。退院して、ホームページに更新再開のメッセージを出したとき、インターネット上での知人の大杉利治さんから「おかえりなさい!さきほどホームページを見て、ちょとへんな歓声をあげてしまいました」というEMailを貰ったとき、わたしはすごく嬉しい気持ちになった。それから「急性A型肝炎罹病記」をアップロードしようと、毎食後一時間安静という養生の数日を掛けて書き上げたというわけである。

 書きながら、わたしは自分の個人的な体験が、知人ならともかく、また詩人としてのわたしの読者なら、それなりに好奇心を持っているだろうから、興味を誘うだろうが、そうでない人たちにどんな意味を持つものなのか、考えないではいられなかった。「ホームページ」は、不特定の人たちに対して主張と情報とデータを公開する場だ。わたしは、表現をする者として自分の作品をデータとして、またその情報を、それに自分の考えを「ホームページ」の内容として、発表というよりは出会いを求めて公開してきた。

 「罹病記」はそれとは違って、わたしの個人的なことである。個人的なことというのは、他人にはどうでもよいことで、うんざりさせることだ。だから、「罹病記」を書きながら、それを押しつける、嫌みにならないように気を配ったつもりなのだった。わたし個人のことは、既にネット上で知己を得ている人にとってはいくらか興味の対象になるだろうし、全然知らない人には「急性A型肝炎」という病気についての患者の側からの病状ということで意味を持つだろうと思ったのだが、その実、「罹病記」が、情報として、またデータとしてどんな価値を持つものなのか、わたしにはよく掴めないところがある。

 こうして考えてくると、「ホームページ」の「主」というのは、デジタル化出来る情報とデータと主張をとを持っているいて、インターネットという通信網の中で、それらのことを公開することでそこに新たな価値を生み出そうとしている個人、或いは組織ということになる。問題は、その「新たな価値」というところにある。つまり、「主」はその価値との関係の上に成立するわけである。行政は、情報公開ということによって「隠されたところ」の価値を増大させるであろう。企業は、情報の付加価値を増大させ、商取引のスピード化を進めるであろう。民衆団体は、ネットワークを拡げることによって、その力を増大させて行くであろう。では個人は、どうか。

 わたしは、自分が既に雑誌や書籍によって、また公開上映によって、自分の考えや作品を発表してきたから、「ホームページ」を開くとき、その延長線上に置いて考えた。先ずは、詩と写真を見せよう、それからリンクを付けて、そして自分の考えを発表する、といった経過を辿った。その「ホームページ」の内容はすべてわたし自身のものだし、HTMLファイルも自分で書いた。つまり、もう既にある程度の価値を持っていると認められるものを、インターネットという通信網の中にデータ或いは情報として持ち込み、そこに主張を加えているというわけである。そこで、どんな「新たな価値」が生まれてきたかといえば、カウンターの数値とMailによる幾つかの反響というものに過ぎない。作品の価値が高まったとか、新しく仕事の注文が来たとか、それで収入が増えたとかいうことは全くない。そういうことは、殆ど期待してないが。

 「ホームページ」を開くと、どうしてもそこに「入れ込む」ということになる。何故かといえば、そこでパソコンを使っていろいろと出来るからだし、やったことが蓄積されていき、それが通信網の中で仮想的に他者との関係によって支えられることになるからである。つまり、個人の「主」は「ホームページ」によって自我を拡大していくことが出来る。インターネットという電脳区間では、他のメディアと違って、権威づけられた階層がない。雑誌なら投稿で拒まれるということもあるが、それがない。位置づけが曖昧だから、不安ではあるが、仮想的な関係に支えられて、思いのままに自我を拡張していくことが出来る。個人にとっての「ホームページ」は、そこに魅力があり、ないよりも大きな意味があるのではないだろうか。

 ちなみに、最近わたしのところに送られてくる詩誌を見ていると、詩を書くということや詩誌を出すということが、無自覚なままに自我を拡張することのためにしていると思えるものに、多く出会う。その勢いはかなりのものと感じられるから、それは電脳空間にどんどん拡がっていくことになると思う。そこで、改めて表現ということを考え直してみる必要があるのでないだろうか。
鈴木志郎康



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