かわなかのぶひろ・萩原朔美『映像書簡』の上映
28日の午後、横浜桜木町の横浜美術館に、16ミリ映画『映像書簡』を見に行った。『映像書簡』は、かわなかのぶひろさんと萩原朔美さんが16ミリフィルムの映像をやり取りする形式で一本の作品にまとめるという仕方で作られた映画で、1979年から今回上映までに7作品が作られた。今回は、今まで作られた6作品と新作の7作目が上映された。昨日は、映画評論家の西嶋憲生氏の司会で、お二人のトークショーもあった。
かわなかさんが、「21世紀まで生きたくない」といえば、萩原さんは「21世紀になると、平均寿命が130歳になるといわれているから、『映像書簡』を作り続けたら、大変なことになるね」といっていた。
『映像書簡7』は、「電気は何処から来るの」という幼い娘の質問に答えるために、住んでいる都会から発電所まで電線を辿って旅をするという父親と娘の話を主軸に展開する萩原さんの映像に対して、かわなかさんは家の前とか、フェンス前とか、ダムサイト前とか、いろいろなところに立つ若い女性の姿から喚起される旅への憧憬を語り出すというような作品になっていた。
同時に見た『映像書簡5、6』は、作者である自分たちの肉体の衰えに感じる不安から、身近な人たちの死が語られるといった作品だったが、今度の作品はフィクショナルな地平を開いていこう気持ちが濃厚に出ていると感じられた。
『映像書簡』という作品は、日本の実験映画を先導してきた二人の創作意識がダイレクトに語り出されるところが面白いわけだが、『5、6』で成熟して、この『7』で新たな地平を開いたように感じられた。
朝顔の種
9月22日の台風のあと、庭の物干し綱に補助線でつないだ朝顔の葉が殆ど落ちてしまった。薦田愛さんが病気見舞いに送ってくれた、浅草の朝顔市の朝顔だ。蔓がよく延びたから、花もよく咲いた。二ヶ月たった9月の末の今でも、毎朝、咲いている。昨日今日と三つも四つも花を付けている。葉の色が黄色くなって、残り短い季節のうちに咲かせてしまおうと、先を急いでいるよう感じられる。それでいて、始めに咲いた花の種はもう実った。
わたしは、咲いた花も好きだが、散った花びらも好きだ。野ぼたんの、土の上に散った、大きな紫の花びらにはどきどきさせられてしまう。散らずに枯れる花には、それなりの風情がある。チューリップの枯れた姿は印象的だ。「ああ、もうどうしようもない」と両手を上げた年増の美女という風情である。花は、つぼみで生まれて咲いて、かならず姿を消滅させる。そして、あとに種を残すものと残さないもの。この朝顔の種を、来年の春には撒いてみよう。芽が出れば、嬉しい。
『曲腰徒歩新聞』創刊の辞
『徒歩新聞』をインターネットに復活させようと思いついた。
ホームページは、訪れる人と時間を共有するところがある。
その時間の共有とは、変化にある。
日々とまで行かなくても、とにかく変化しなくては面白くない。
何でもかまわないから、わたしが出会ったことを書き込んで変化を示そう。
『徒歩新聞』は、個人が出会った物事や人物を書き記した極小メディアだった。
今、わたしは腰が曲がりかけていきた。
そこで、『曲腰徒歩新聞』の創刊となった。
腰が曲がっても、キーボードは叩ける。
腰が曲がっても、生きている。
「創刊の辞」には、次のように書かれている。
「トボトボ歩いている。これは非常にいいことです。散歩ではありません。散歩は気分を変えるとか、健康のためにとかいろいろ利益を目録んでのことですが、トボトボ歩きは全く違います。それしかない。暇だけしかないところの歩行です。本当は凝っと坐っていればいいのだし、それに越したことはないのですが、残念ながら、そうしているとすぐに飽きてしまうので、歩き出すという奴です。トボトボ歩いていると、人間は自然とものを見て、もの思いに入ります。この二つのことが紙の上に移されたのが、この徒歩新聞です。」
この創刊の辞を、毎号だいたいそのまま一ページ目に載せて、後は中華そば屋のメニュとか、街で配られている広告とか、普通の人のこととか、町の様子とか、その他諸々の雑報を載せていた。定価は最初五十円で、後に二百円になったが、発行部数は忘れてしまったが二百部ぐらいだったから、儲けるというようようなものではなく、全くの遊びにしか過ぎなかったが、当時わたしはNHKという巨大マスメディアに勤めている身分にいて、そこから踏み外したい心情を表すものとして、わたしにはそれなりの意味があった。
この「トボトボ歩いている」という言葉は、今でもわたしの心の中に生きている。世の中には、毎日のように式典に出席して、祝辞を述べてたり、弔辞を読んだりして、それが好きな人もいるが、そういう人とは反対に、わたしはそれが苦手である。晴れがましいところにでは、身体が固まってしまう。それが厭だ。ひとりで勝手にしていたい。歩いていて、見つけたものに夢中なる。時には、結構、興奮もする。こちらからの勝手な出会いが好きなのだ。そんな、他人には無意味な出会いの集積が、わたしの人生とも言えよう。