ハードディスクがクラッシュした。
PC-98につないでいたハードディスクが、とうとうと言うか、遂にと言うか、突然と言うか、破損してしまった。デスクの上で、ウィーンウィーン、カラカラカラッ、カッシャと異常な音を発して使えなくなったというわけです。このことに関しては、後で詳しい報告を、「パソコンの話は人になかなかつたえられない」にして書きましたので、そこで読んで下さい。わたし以外のパソコンユーザーには全く参考にならないと思いますけど。
新しい詩集『石の風』が出来た。
一昨々日の24日に書肆山田の鈴木一民さんから電話があり、新しい詩集が出来たという知らせがあった。一昨日は、多摩美の学生の卒業制作のシナリオを読んだり、講義を二つもしたりで、忙しくて取りに行けず、昨日、取りに行った。その出来に満足。店頭に並べるサイン入りの本として、40冊にサインする。
書肆山田の鈴木一民さん、装幀者でもある大泉史世さんと、近くの小さなフランス料理屋で食事してから、家の帰り、麻理に見せる。内容はともかく、装幀はいいわね、という。麻理も気に入ってよかった。贈呈する人たちの住所をシール印刷した後、最初から読んでみる。
歳に追われながらも、何とか生きている男がそこにいる。自分のイメージでは、もっと透明な印象を与えるつもりが、けっこう濁っているので、いささかがっかり。老いるということを、やはり、重く受け止めているのがよくない。でも、懸命にやってるじゃないの、自分で自分を支えて眠りにつく。
この詩集は、数えてみると、わたしの、絵本詩集を含めて、単行詩集としては22冊目になる。1992年の春から今年1996年の夏までに書いて発表した17篇の詩をまとめた。それらの詩は、同人誌「飾粽」終刊後、意識的に詩人たちと顔を合わせる機会を少なくして詩を書くという態度を取って、書かれた。それは、それまでの書く意識とは違う意味合いがある。
その間にパソコンを始めて、どんどん深入りして来た。コンピュータを相手にするのは、まさに言葉を使うということ以外ではないのだが、詩の言葉が如何にして正当に曖昧さの領域を拡げていくかということを問題にするとは対照的に、コンピュータの言葉は、厳密な論理展開を組み立てるということによって、曖昧さを克服するという方向に進んでいくということなのだ。そこから、人間の曖昧さは身体性にあるという問題意識が浮かび上がってくる。
朝顔と菊の友咲き。
朝、起きて来て、庭を見たら朝顔と菊が一緒に咲いていた。10月も半ばを過ぎたのに、まだ朝顔が咲いている。そして菊も咲き始めた。夏と秋の深いオーヴァーラップ。深い記憶の重なり。今年は、夏まで病院生活をしていて、秋はまだ体力が充分に回復しているとは言えず、からだの上に病気の名残が残っている。その思いが、花に映る。
Edweard Muybridgeの写真からGIFアニメを作ってみる。
Muybridgeは19世紀末のアメリカの写真家。連続写真を撮影する装置を考え出して、人間や動物の身体の動きを分解写真にした。その後の、さまざまな芸術表現に多大な影響を与えた。この写真は『Muybridge's Compplete Human and Animal Locomotion』Volume(Dover Publication,INC.)から引用しました。