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ラプソディによせて
奥野雅子
最近ほとんど大抵のことでは驚かなくなってしまている。このあいだ道を歩いていて車に轢かれそうになったときも、ぶつかって少しとばされたのに、一瞬ぼうぜんとしたけれど、ケガはなかったので一晩寝るとまたいつもの平静な状態に戻っていた。アタマにきたので次の日みんなにこのことを言いふらしたけれど・・・・。人間って弱いようでけっこう強い。詩を書くほどセンチメンタルなこの私でさえ。
たとえば私の住むこの東京で大地震が起きたって、何年かすればまた淡々と毎日を生活しているんだろうなあ。なんだかそんな気がしてならない。
けれども、そんな私にもビックリしてしまうことがあった。それは、気がついたら自分が詩人になっていたということだ。(世間的にはぜんぜん詩人だとは認められていないのだけど。)
最近の私はいつも詩のネタを考えている。そして、○月×日の同人誌の締切りに原稿をまにあわせなくちゃ、と筆をアセっている。アセりながらも部屋の本棚を眺めれば、二百冊もいかない蔵書のうちの十冊以上、文庫も入れれば二十冊も詩集がしめている。しかも、本棚のなかのこの詩誌の数の多さはなんだ。気がつくと、まわりには詩を書く人がやたら多いし・・・・。これじゃ、なんだか私、詩人みたいだ。
これは、このあいだ車に轢かれそうになってそのうえボヤボヤすんなと怒
鳴られてしまったことより、驚きの事実だった。
イヤなことはぜったいやらないし、飽きたらなんでもやめられる。だから、ここまで詩をやってきて、しかもこれからも詩をやる気なのは、そうとう自分にとって詩を書くことが快適なのだろうと思う。ここまできたら詩を書くことをもう一生やめることができない。
『一生』というところまで考えがたどりつくと、私は急に気が遠くなってしまう。行きあたりばったりでどこまでも生きていこうと思ってたけど、それでもやっぱり少しずつは、自分の進んでいく方向が規定されていくのだと感じる。
でも、その方向は、とても私の夢に近いものだと思う。
私は何歳になっても、ドラマチックなことへの憧れを捨てたくない。そして、詩を書くということは、とてもドラマチックな作業なのだ。詩を書いていると、詩を書いていなかったら決してかたちになんてならなかった空想が、つぎつぎとイメージに結晶されて、詩というスクリーンに映しだされてゆく。つぎは何が見えてくるのかわからない。ドキドキする。
楽しいことは、まだ終わらない。
敬愛する白石公子さんの詩(抜粋)ー
『遠ざかる手紙の返事を書く
元気です 元気です
残念ながら
私は詩人には成れません
だって
この通り 毎日の生活が楽しいもの』
「詩人には成れません」とうたった白石さんも、まだ詩を書きつづけてい
る。楽しい日常の底にラプソディのように流れる悲哀をこめて。
そして、私もやっぱり、詩を書くことをやめられません。
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