紹介☆北爪満喜著作に「ルナダンス」「アメジスト紀」「虹で濁った水」など。近日、詩集 「暁・少女」刊行予定。詩誌「emmett」主宰。 北爪さんと私が出会ったのは今から約一年半前です。「キリエ・エレイソ ン」という私の詩を読み、北爪さんもおなじ「キリエ」という言葉をタイトル にした詩を書いていたので、私に親近感をおぼえてくださっていたのだそうで す。おなじ言葉をタイトルに詩を書いていたなんて、ほんとうにすごい偶然で した。 それから今にいたるまで、北爪さんとは親しくお付き合いしていただいてい ますが、私は90年代の詩を書く人間で、しかもまだカケダシなのに比べて、 北爪さんは80年代にはすでに活躍されていた詩人です。詩を書く感覚も私と 北爪さんとではだいぶズレがあります。最初、北爪さんの詩は私にとってとて も難解にかんじてしまいました。 でも、理解しようとして何度も読みこんでいくうちに、90年代を表現して いこうとしている自分と変わらない、そのストレートな叙情性に気づかされた のでした。 私は、「キリエ・エレイソン〔ドイツ語で「主よ、憐れみたまえ」という 意)」という詩を、くずれていきそうな自分をたすけるために、祈りの気持ち をこめて書いたのですが、北爪さんの「キリエ」にも、甘いロマンチシズムに 包まれてはいながらも、自分で自分(=キリエ)を必死な気持ちでギリギリの 瀬戸際でたすけようとしている姿が、激しく切ないぐらいリアルに描かれてい ました。 キリエの記憶 は(もうすぐすっかりつつんであげる) ・・中略・・ キリエ 火柱で焼けおちるなら なんどでもかみくだいてあげる 告白へ あまく あつく ふかく ね なんどでもかみくだいてあげる (「キリエ」より) <ないものはあって、そのなくてあるものとは格闘できるほどリアルな位置 に「私」がいるということ。詩を書くときは、この格闘こそを生きたい>と、 自らのシュールリアリズムについて、北爪さんは語ります。 今回の「the mouth of a river」では、詩人・北爪満喜がどのように自らの 感情に切りこんでいこうとしているのか、その格闘を、読者それぞれの眼で見 てもらいたいと思います。 〔奥野雅子) |
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