鈴木志郎康の新しい詩

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当たり前の思考

当たり前の思考






わたしは消滅する。
確かなこととして意識に上ってくる。
でも、死と言うと、
曖昧になり、
確かに死ぬことは死ぬけど、
ちょっと違うなあ、って思う。
生きてるものが死と言うと、存在を主張し過ぎる。
それは嫌だ。

床を転がっていたたばこの灰
能瀬大助君のフィルムの中で転がっていた灰滓
灰滓を愛でた16ミリフィルム作品「日日日常」はいい。
会う人ごとに宣伝する。
でも、人は分からない顔。
「16ミリフィルムは高い、
1分撮影するのに5000円かかる、
時給920円のアルバイトをしている僕は
そのために、5時間半、働かなければならない」
と映画の中で能瀬君は語りながら、
水道の蛇口から水を流して、
お玉で受けて拡がる水幕を撮影する。
撮影を繰り返す。
無償が実現されている。
わたしは感動する。
天井の煤に輪ゴムを飛ばす。
部屋一面に一円玉を敷き詰める。
敷き詰めたところで、一昼夜の光の移動。
たばこの灰を床に転がして遊ぶ。
フィルムはその上まだまだ、
無償が堆積されて行く。
「日日日常」は、
能瀬君の遠慮がちの言葉では、
「僕の日常は『とりあえず』という『コペルニクス的転換』にも似た言葉で支えられている」というわけ。
そうだ、とりあえず生きてるんだなあ、
と胸が熱くなる。
能瀬君からフィルムを借りてビデオテープに変換した。
そして繰り返し見る。
そのわたしの行為が、また能瀬君には分からない。

わたしは比喩でなく行為として
デッキのスイッチを押して切る。
押す指先
切れる電流
装置が生む無関係な関係の成立に思いやる。
自分は生きている仕組まれた無関係の関係。
能瀬君は床の上の灰を転がそうと息吹きかけて、
息吹きかけて、
「コペルニクス的転換」をやり遂げる。
比喩を避けて、そのまま言葉を書くと既に比喩になっている。
ややこしい。

わたしはやがて消滅する。
ああ、軽く行きたい。


「ユリイカ」1999年8月号に掲載
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