鈴木志郎康の新しい詩

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暗いそこに、アクセス失敗

暗いそこに、アクセス失敗




サンドイッチ。
女の細い指がつまんだ野菜サンド。事物。
彼女らはわたしの真正面で、サンドイッチを頬張っては咀嚼する。
地下鉄の中だぜ。
空いていたから、わたしに見せているようなもの。
でも、彼女らにとって、わたしという存在は無かったんだ。人間。
まあ、いいけど。
おかげでわたしは、存分に、若い女の咀嚼する肉体を見ることが出来た。生き物。
その女たちを見ているわたし自身の顔を、
彼女らの背後の暗い車窓のガラスに見つけて、ちょっとはにかんで、
その窓ガラスの暗さが、内村君と甲斐君が作ったビデオ作品へと想念を導いた。
暗さ。
暗さ、ということ。想念の拠り所。
一週間前、スクリーンに投影されていたのは、
町外れの神社の境内の水たまりでばちゃばちゃ足踏みしている子供。
暗い画面で、延々と数分間
調子に乗って、おちんちんを丸出しにして踊りまくるその子供。
暗い画面で、延々と数分間。
コンクリートの上に猫のように寝そべっているその子供。
晴れてるのに、暗い画面で、延々と数分間。
この子供を、内村君と甲斐君は「バカガキ」と名付けた。
二人は、明るい日差しの中でこのバカガキ君を掴まえて、
虫かごに入れるように、暗い画面の中に閉じこめた。
地下鉄の車窓を見慣れたわたしは、
その暗さが気に入った。
暗いねえ。いいねえ。
「液晶ですよ」と内村君。
あんなに晴れているのに、暗いんだねえ。
「再撮ですよ」と甲斐君。
そうか、イメージをイメージに押し込んだメタメタの暗さっていうわけね。
(再撮は、テクニカルタームってことで言うと、ビデオカメラで撮影した子供を
液晶画面に再生して、それをまたビデオカメラで撮る。その映像はイメージの深
度を深めて、現実からどんどん遠のいて行く。イメージを比喩化する技法だ。)
地下鉄の窓に通じていく、その暗さ。
地下鉄の窓に通じていく、その比喩。
影となって、暗くはしゃいでいる子供。
咀嚼する女を眺めている車窓のガラスの中の暗い影のわたし。
わたしはわたし自身が既に比喩として存在しているのを自覚する。
車内の目前の女がまた一つサンドイッチの袋を開けたというのは異常じゃないか。
食い気が止まらない。影だから。
買い気が止まらない。影だから。
昨日、わたしはウルトラワイドスカジーボードを買ってしまった。
ウルトラワイドスカジー対応ハードディスクも買ってしまった。
この関心の拡張に、そのフェイズに、わたしは、
欲望じゃないぞ、と言ってはみたものの。行数が尽きた。

「midnight press」2号1999年1月掲載
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