鈴木志郎康の新しい詩

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16ミリ三昧

16ミリ三昧


ここに登場したのは、
映像作家のわたしです。
時間を創ると言っては何ですが、縛られているというか、織る、
幾筋も流れているやつを、16ミリ幅のフィルム乗せて、
こうして、ああする、うーん。
意識が焦点を結んでくる、我を忘れる結構な時間。

日の当たる部屋で、わたしが足の爪を切っているとき、
同い年のその人は息を引き取ったということ。
知らなかった。
あとで、新聞で見て、
同じ時だった。で、
人の死が、「足の爪」という言葉を、
持ってきた。こういうことって、いいのかなあ。

フィルムの小さなコマを、
目を皿にして見てると肩の凝ること。
10ミリ×7ミリの枠の中に朝顔の芽が写ってる。
初冬の鉢に芽生えた朝顔、
一齣5分置きに二ヶ月撮影して、
よく見ると、もう
芽ではない葉。
ついた蕾は既に立ち枯れている。
小さな枠の中の小さな枯れた蕾。
目の皿に乗せる。
この植物のイメージ。

フィルムとテープを合わせてスタート。
タチバナ君が、「いつでも、どこでも、胃がイーターイー」
と歌っている。それでも、カメラが廻っているから、
乗ってる。「胃袋、ぽっかり穴が空いてる、
無産空間、とっても、胃袋、胃液で充満してるし、
手品師、帽子、写真やカメラ、胃袋、部屋から鳩は出ないぜ」
頭を振り振り、タチバナ君はギターを抱いて滑っていく。
フィルム停止。タチバナ君は歌ったままコマの中で止まる。
わたしは、タチバナ君を止めたまま、昼飯だ。
この人間のイメージ。

昼飯の後は昼寝。
目をつぶって、芽や、若い人たちに
時間を重ねたがっている自分を思う。
微妙な回転のむらが歌う声を揺らせるのが気になる。
「あのワウを何とかしたい」
という言葉がたちまち自分の生きる時間の比喩になる。
「このほてりと心悸昂進を何とかしたい」
これだから、足元がふらつく老人になるって厭だよ。
人生を比喩で組み立てて、
感謝感謝で死んでいく幸せ、ふふ。
この足の爪のイメージ。

この映画、びしょびしょの濡れ雑巾が、
ぐしゃぐしゃに丸められたまま乾いていくところで
終わらせたいな。
タチバナ君が胃を歌ってて、朝顔の芽が伸びないで、
空を雲が流れて行き、そして野村君が寒い川を優しく歌い、
濡れ雑巾、何だい、こりゃ。25分間の
比喩ですよ、比喩、あくまで比喩です。
このイメージのイメージ。

撮影していて、間違いなくわたしは荒い息をしていた。
真冬でも、汗を流した。
息とか、汗とか。
生きてるのを強調するための
能なし映像作家の常套手段。
そこに落ち着く「わたし」。
ビュワーのランプを消すと、
イメージは消えて、見るまでもなく、
乳白色の磨りガラス。

「ユリイカ」1998年4月号掲載
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