鈴木志郎康の新しい詩

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小説の青空

小説の青空



小説を思いついた。
でも、書かなかった。

小説を書くのではなく、
小説を思いついたというところが、肝心。

「とある私鉄の、各駅停車しか止まらないホーム。
通過する急行をやり過ごして、ホームの直ぐ脇の、大きな葉をつけた桐の木の、
その向こうの窓を、見るとは無しに見たら、暗い部屋の中の全裸の女が目に入った。
女は、ベッドの上で、わたしの方に身体を向けて、動かない。わたしと目があった
が、動かない。わたしの方が慌てて目を逸らした。わたしは自分の動悸が激しくなる
のを感じた。視線を戻すと、女はポーズを変えて、やはり身体をこちらに向けてい
る。その時、電車が来てドアが開いた。わたしは乗ろうとしたが、やめて、振り返っ
た。窓の中の、ベッドの上にはもう女の姿はなかった。」

ここまで。
この空想を楽しんだ。

時には、自分の空想に性欲を刺激されて、
六〇歳を過ぎると、こういうことにもなるのかねえ、と自嘲した。

自嘲する自分の勢いで、
「改札を出て、そのアパートの表にまわると、

雨に曝された木製のドアの脇に、
芙蓉の花が二輪、かすかな風に揺れていた。」

空想の中で、その「わたし」はこの先どうするんだろう。
途切れたまま、その「わたし」は立ちつくしたままこの夏が終わる。

小説として書かなかったことの意味が、これ、
空想の先を途切れさせたということ。

その地平線を閉じた。難しい言い方だな。
空想の中の、駅のホームという場での不特定の、

誰でもいい「わたし」は誰でもいいわたしのまま、
去った電車の後には、背後に夏の青空が広がっている。

そうか。女が裸体を向けていたのは、青空だ。
誰でもいいわたしの背後の青空。

言うまでもなく、「小説の青空」、持て余すなあ。
ドアの前には、芙蓉の花が二輪、涼しげに揺れていた。



「詩学」1998年10月号掲載
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