鈴木志郎康の新しい詩

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冷たく、通り過ぎるわたし

冷たく、通り過ぎるわたし



ちゃわんのかけら、
一つ拾って、
破片の中に、しゃがんで、
泣いている女。
形が失われている。
どっと、「意味」が胸を塞ぐ。
人は、姿を見ないで、こんにゃく状の「意味」に目線の管を差す。
形を無くしたちゃわんから「意味」を吸い込む。
わたしは、遠くから、冷たく、女の姿を見ていた。

実は、先週、若い連中の視線の前に立って、向い対し、
わたしは、
「人って自分の姿は見えないわけだから、
その存在の仕方って、実は、
『穴』なんじゃない」、と言って、
「自分という存在は、周囲のものを吸い込む『穴』なんじゃない、
まったくリアルな『穴』だよ、
その穴に吸い込んだものを抱えて生きてる」、
とかなんとか言ったら、
連中は、耳を傾けたね。
その話を、今度は、カツ丼を食べてる川添さんにしたら、
彼女、「こわい」と言った。
「お腹も一杯で、なにもする気が起こらないときって、
あたし、こわいの。自分の空っぽが。
だから、そういう時って、焦る。」
わたしは、ざるそばを食べながら、若い彼女の丼を持つ手つき見る。
「穴は空洞なんだ。」
空洞の管がビニールホースのように絡み合ってるという概念が、
わたしの意識の中でイメージに変わり掛けたが、
それは、たまたまそば屋で話すことになった川添さんには、
言わなかった。

もう「意味」は充分でしょう。
言葉がないと、人は姿を見ないから、
ちょっと、自分の姿に言葉を付けて、
意味ありげに気を引く。
若い連中も、川添さんも、そのありげの言葉に引っかかって、
意味に掴まろうと、わたしを見てる。
わたし自身は、自分の姿が見えないから、自分が気になる。
鏡を見たり、写真や映画に撮ったり。
みんな、どういう姿とわたしを見てるか。
そのわたしのイメージは、わたしの知らないわたしの姿。
そのことは、はっきりしてる。

地下鉄の車内が難関。
見るものが無くて人の姿を見る。
見られる。
窓ガラスに映る自分の姿は、
まるで自分とは思えない。
肩から掛けた鞄の革ひもが上着の襟を、
くしゃくしゃに歪めて、
髪の毛は適度に乱れて、
ネクタイをしてない柄物のシャツが、
定年後の無職の気楽さを語っている様子。
この姿は、コンピュータショップの店頭で、
「人に聞けない質問」をするのに似合っている。
世の流れに乗って行こうとしている
「爺さん」だよね。

流れる水を見たい、という思いの訪れ。
川原に立って、
足元の小石を見る。
一つ二つと数えても、五つ六つと数えられない、足元の石、
目移りして。
しゃがんで、一個、急いで拾って、
上着のポケットに入れる、重く、暖かい。
土手の遠くに、自転車が行くが、男か女か分からない。
河原から身を振り切るように、
家々の間を抜けて、その路地を曲がったら、
女が泣いていた。
ちゃわんのかけら、一つ拾って。

遠くから、冷たく、わたしは見る。
見知らぬ、行きずりの女の姿。
上の窓と下の女との数メートルの空間の空気が、
プラスティック状の塊になってる。
「ここを立ち去ろう」と意識する。
ポケットの中の石に、指で触る。
そして、足早に、
女の脇を、冷たく通り過ぎた。



「早稲田文学」1998年8月号掲載
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