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Image Forum Festival 1999『内面のお話』上映


鈴木志郎康作品『内面のお話』(53分)1999





『内面のお話』の紹介


 この作品を「ハイブリッド映画」と称しています。つまり、異なる種類の映像を寄せ集めて全体を構成しています。この場合、「異なる種類」といっても、CGとかアニメーションとかというようなものではなく、「語り」のシーンの種類の違いということです。全体を、昨年、多摩美のわたしの前期のゼミで、「最終遊戯」と称して、学生の文平裕子さんや山本遊子さんたちに「嘘の話」をスクリーンプロセスの前で語って貰ったシーンと、多摩美の卒業生の西村太郎君にわたしが費用を出して一本の16ミリ作品「誰かのオレンジ」を作って貰ったシーンと、更に、帯谷有理さんに語ったり歌ったりしてして貰ったシーンを、「人間は嘘を付く動物、それは内面があるから」というテーマで構成しましたが、甘いあんこ入りの饅頭というものなりました。団子の後のお饅頭、如何でしょうか。

ないめんのおはなし
 『内面のお話』
 鈴木志郎康作品
 1999年/50分/カラー/サウンド/16ミリ
 A TALE OF INNER TALKINGS                             

■スタッフ・キャスト
 監督・撮影・編集・録音:鈴木志郎康 
 音楽:帯谷有理
 出演:山本遊子、帯谷有理、荒牧亮子、文平裕子、
     水谷美穂、  菅沼蔵人、木村有理子、小沢和史
   
 映画内映画「誰かのオレンジ」
 監督:西村太郎
 出演:川添亜紀子、浜尾武、西村太郎、田口朋毅
 撮影:西村太郎、小沢和史
 協力:脇坂光和、千葉由希
 曲・ピアノ:帯谷有理
 制作:鈴木志郎康


『内面のお話』についての考え


制作の経過
この作品についての考え

 この作品の制作動機について、わたしは1999年2月1日の「曲腰徒歩新聞」に次のように書いた。
「「内面」というテーマの出所は二つ、一つに、実は長尾さんがわたしの「詩の包括的シフト」について書いた『詩的日乗』の文章「鈴木志郎康「詩の包括的シフト」を読む」を読んで、自分の考えがちゃんと書けてないと感じたこと、またもう一つ、西村君が2年前に作った映画「エロタブ」で、わたしが講義で使った「内面」という言葉をそのまま「内面君」という名前の人物にしていたこと。わたしは、当たり前のように、詩を書くにしても、映画を作るにしても、それが直接的に作品の内容になるかは別として、その創作の根拠は作者の内面にあると思っていた。そして、今でも創作の動機として「自分=内面」という考え方を取っている。しかし、二人の反応では、その内面というところで、わたしが思っているところとズレがある。それを「一つの領域」として踏み込んでみたい、というのが、今度制作映画の動機になってる。 」

 これを書いたのは、これからフィルムを撮り足したりして、編集して、作品として仕上げようと思っているときだった。もう既に、ゼミの「最終遊戯」での撮影も済んでいたし、西村君の「誰かのオレンジ」も出来上がっていた。つまり、そういう断片を作品全体の流れの中でどういう風に位置づけるかを考える矢先のことだった。そこで考えたのが、内面ということは、実はよく分からないから、「人間には内面がある」と仮定して、その仮定を実証するという流れを作ろうということにした。つまり、人物たちが話しているのも、歌っているのも、作品という形を取ったものも、内面の証であって、その内面が人の存在を支えているということがこの作品全体で語り出されるようにしようと考えた。言ってみれば、内面から人生を提起しようというわけだ。

 普通の考え方だと、作品は作者の内面を語るものだ、ということになるが、この場合は、その筋の立て方から言うと、内面ということを語る内面が語られている、ということになる。つまり、ここに「自分=内面」という式をはめると、創作の動機を問題提起しているということになる。つまり、他者と自己を分けているところを内面に固定して求めるなんていうことは、本当のことなんですか、というわけ。でも、わたしにしたところで、そうじゃないよ、とは言い切れない。やっかい。

 やっかいだから、細かく考えるのは後にして、考えのランダムなところを述べてみる。実は、人間は個体意識の発生と同時に、内面の孤絶を避けるために貨幣を生んだのではないか。直接的な関係では個体意識は生まれてこないが、関係が間接的になると個体意識が生まれてくる。全体が内化され、言語的に秩序付けられる。そこで、言語化された関係は閉じる。他者を必要としない。だが、全体というものによって支えられている個は、それでは存在できない。そこで、存在を持続させるために、言語化された関係を開こうと、貨幣が考え出されたというわけ。つまり、貨幣は内化された全体の投影といえよう。結論として、貨幣が流通しているところでは、人は内面を持つというわけ。問題提起は、その貨幣がカードやら電子マネーとやらの数値的単位となりつつあるところでの内面とはどいうものか、ということ。なんだが。


[批評Document]
■<今日(こんにち)の芸術 >
文責:忘れっぽい天使
第1回 「内面」の底を探る―鈴木志郎康「内面のお話」
1999.05.15.

 毎年恒例の自主制作映画の祭典「イメージフォーラム・フェスティバル」に今年も出かけた。仕事の都合上、日本作品のプログラム5つしか見られなかったことが残念だったが、心に残った作品がいくつかあった。特に鈴木志 郎康の「内面のお話」と荒牧亮子の「鎖骨の下の」は刺激的だった。自主制作映画を観ることは楽しい体験だ。経済的な見返りを求めないそれらの作品 は何よりも表現者の「好き」を伝えてくれるから。「今日の芸術」初回は、その鈴木志郎康作品の感想から始めよう。鈴木志郎康は1935年生まれの 詩人・写真家・映像作家。多摩美術大学の教授も務めている。詩集に「石の風」「遠い人の声に振り向く」(書肆山田)、映像作品に「15日間」「風の積分」などがある。「極私」という言葉を発明し、身辺の様子を独自な視 点で捉え直す作風が主だったが、今回は少し勝手が違っている。

 「内面のお話」は複雑な構成を持っている。まず作者が登場して十年前に友人から貰ったという枇杷を見せる。瓶の中のそれは十年という年月のために変色し、とても枇杷とは思えない。作者は「自己」というものも知らないうちに変化を遂げて以前とは別の存在になってしまっているのではないだろうかと指摘する。そこから人間を支える「内面」という不確かさな存在に話が及び、「人間は内面があるから嘘をつく」という仮説を語る。だが、そこで更に作者が取って置きの「内面論」をぶつ訳ではない。この後は幾つもの異なる発話の場面の映像が配置される形で作品は進行していき、作者が自説をこれ以上開陳することはない。観客はそれらの映像を見て各々自分なりの「内面」像を導き出さなければならない。つまり自明と思われていた人間の「内面」のあり方について疑問を覚えた作者と同じ次元に、いきなり観客は突き落とされてしまうのだ。観客は作者とともに手探りで「内面」の概念を巡る暗がりを歩まなければならない。
 但し、ここで映し出される映像は特に理屈っぽいものでも何でもない。作者が教師を務める美大の学生たちに嘘話をさせた映像、卒業生の西村君が作った映画まるまる一本の作品内上映(鰻屋でバイトしながら映画を作っている自分の胸のうちを明かすというもの)、最後に映像作家帯谷有理が「映画を作るのは歴史に名を残したいから」と語り、ギターを片手に歌う映像(自作の子守り歌が美しい)など。これら互いに無関係な映像が寄り集められ、「内面とは何か」という作者の関心の下に再構成されていく。
 中でも印象的なのが、山本さんという学生の女の子が、喧嘩ばかりしていたお父さんが亡くなった後、その存在の大きさについて語る場面だ。編集者をしていたという山本さんのお父さんは、「人は一人で生きるのではなく、人と人との関係の中で生きるものなのだ」と少女だった山本さんに教え諭し、そのことが今でも心に残っているということだ。また、日がたつにつれてお父さんの死のショックから立ち直れてしまう自分を、初めて自立した存在になれたと感じたという。彼女はこの「内面のお話」という映画がなければ、関係の中で生きる自分の存在についてこれほど考えることはなかっただろうし、また自分を自立した孤独な「個」として突き放して自覚することもなかっただろう。そう、「内面」があると、突如「自分」というものは突き放す対象になったりするのである。
 この映画に出演した人たちは皆、「もう一人の自分」をきらきら発散させている。全くの軽い嘘話から重い内容の実話まで、人が物を語るのはまさに「物語を作る」ということであり、本音というものは「内面」が促す煌く虚構なのではないかと思わせる。あるいは、「内面」というものはもともと「もう一人の自分」なのであり、自己と決定的な関わりを持つ対象に出会った時(現実の場でも観念の場でも)、「もう一人の自分」が自分に取って代わり、対象と激しく切り結ぼうとするのではないか、そんなことも考えさせてくれる。
 逆に言えば、「自分」というものは実は(独特の偏向性を持った)空洞、つまり、通り過ぎる幾多の人や事物を受け止めていく空ろな受け皿であり関係の結節点に過ぎないのであるが、その結節点において引かれ合う要素同士が衝突し、激しい化学反応のような現象を起こすことがある。その時「空洞」は「空洞」であることを越えようとし、その運動が、「主体」と呼ばれ「内面」と呼ばれるのではないか。関係に対して受け身であった空ろな存在が突如として関係の外に立つ「もう一人の自分」への転身を遂げるのである。西村君が鰻の配達に行った先のビルの高い階で、夜景を示しながら、「ここが東京タワーが一番美しく見える場所」「こういう場を見つけるためにぼくはこの仕事をしている」(少し違ってたかな?)としみじみ語るシーンのことを想い起こしてみよう。東京に住んでいれば特にどうということのない夜景が、アルバイト生活に人生なるものを見出そうとしている西村君から彼の「もう一人の自分」を誘い出す様子は感動的だ。それは山本さんがお父さんの死に出会って、初めて自分という存在を深く省みることと照応する。関係の摩擦熱が、空洞としての自己の存在を乗り越えさせてくれ、「もう一人の自分」を生み出させていく、ということなのだろう。
 そしてこの映画全体が、敢えて自分を曝け出すことをしていない作者・鈴木志郎康の「内面」であり「もう一人の自分」になっていると、ぼくは考える。「極私」という言葉を発明し、自身の日常生活のあれこれを描き続けてきた鈴木志郎康が、遂に狭義の「私の生活」を突き抜け、他者との関係の中に自己を見出すようになった。その姿勢は、人間は関係の産物だと諭した、編集者だった山本さんのお父さんの姿と微妙に重なり合う。ただ、山本さんの話だと山本さんのお父さんは「関係の中で生きる」ことがだんだん苦しくなってきたということだが、鈴木志郎康の方は、「愛情を傾けた対象が自己を語ることを記録するという行為」自体に作者としての「もう一人の自分」、つまり「内面」を見出すことで、空洞としての自己の存在の空しさを乗り越えようとしているようだ。更に、こうした映画が可能になったということは、情報化社会の進化に伴い人が属する共同体の中に安定した自己の確認をしにくくなり、様々な関係を独自に横断する視点を持つことによってようやく自己の存在を確かめられる時代になったということを示すことのようにも思われてくるのである。

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今日(こんにち)の芸術 <バックナンバー一覧
毎月15日号に掲載。
今日(こんにち)、「芸術」という言葉は死語になりつつあるような気がします。好きなことをひたすらやってるな、と感じさせられた表現物に対する感想を記していこうと思っております。
文責:忘れっぽい天使
【編集部からの著者紹介】
プロのアーティストにして書店員。著作がTVで取り上げられたこともある実力派。


フェスティバルでの鈴木志郎康作品『内面のお話』の上映。
Bプログラム
東京・パークタワーホール:4月25日(日)5時、4月30日(金)12時、5月2日(日)5時
横浜・横浜美術館レクチャーホール:5月4日(火)4時30分
大阪・キリンプラザ大阪:5月8日(土)7時、5月11日(火)11時30分


フェスティバルの詳しい内容は
IMAGE FORUM FESTIVAL 1999
でご覧下さい。


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