『芽立ち』についての
帯谷有理とのメールの遣り取り

[ HOME ]

帯谷有理の最初のメール
志郎康の最初の返事
帯谷有理の第二のメール
志郎康の第二の返事
帯谷有理の第三のメール
志郎康の第三の返事

帯谷有理の最初のメール
1998年5月2日
鈴木志郎康様

 毎日、会場でお会いしておりますが、なかなか『芽立ち』
について落ち着いてお話出来なくて困っております。
そこでこのメール

 「この映画は音が芽なんですよね」
 「今回は完全にシンクロする同時録音に挑戦してみました」
...と云うナレーションを聞いた時、私は心の中で拍手を
送ったものでした。と云うのも、有象無象の「映像主義」
作家ばかりのイメージフォーラムで、本当に、“映画における
音の問題”を、明確に問題意識として取り上げた作品が、
私の『厭世フフ』の他に発見できたのですから!

 みんなの作品を拝見してますと、音に関する最低限の考察さえ
見られなくて、その幼稚な「映像主義」意識や、映画の「サウン
ドトラック」を創造に用いることの無自覚的な回避に、大きく
失望させられました。
(中には、かわなかさんや寺島真里のように、創造的な音の使い
方をした作品もありましたが)
 こうした人たちに『厭世フフ』の戦略が今一つ伝わらないのは、
言わば当然のことかも知れませんが、残念なことです。何故なら、
『厭世フフ』は、「音が映像の場所を規定する特殊な映画」だから
です。

そこで、鈴木監督に質問です。

 まず、作品自体が、
「完全にシンクロする同時録音に挑戦」、などと云う単純なことで
いいのか?、という点。それと、「何の為にシンクロさせるのか?」
という点。そして「出来上がったフィルムの映像と音がシンクロして
いる」ことを認めたからといって、一体それが何なのだ?
と云う、非常に単純で根本的な疑問です。
 この疑問の根拠は、『芽立ち』の「サウンドトラック」それ自体が、
「完全にシンクロする同時録音に挑戦」、と云う「大義」とは裏腹に、
殆どナレーションやアフレコ音で出来ているからです。
 本当に、鈴木監督にとって「完全にシンクロする同時録音」が
価値あるものなら、
 「今回は完全にシンクロする同時録音に挑戦してみました」
...と云うナレーションそれ自体も、同録で語るべきじゃあないで
しょうか? 更には、外の風景のコマ撮りや、観葉植物の成長の
コマ撮りに対応させるべき筈の「同録の音」は、どうなったのですか?
(植物を撮るスチール写真のシャッター音は当然、同録ではなく
インチキですね? 笑えたけど...)

 次に問題にしたいのが、フォークシンガーを撮りに宇都宮を訪ねた
例のシーンです。
 この作品が、鈴木監督の独白やナレーションによって主観的に語られ、
鈴木監督の持つカメラの視点が、すなわち監督の主観を成していることは
見ての通りです。従って、あのギターの弾き語りをする青年を「同時録
音で撮る」あのカットの「サウンドトラック」の音は、カメラの視点
に先天的に一致するマイクロフォンの聴き取り点でとらえた、すなわち
「鈴木監督の耳が聞いている」音でなければならない筈ですね。

 問題は(つまり私が疑問に思ったのは)、あのカットが2ショットで
出来ていると云う点です。2ショットで撮られていることそれ自体に
何ら問題はありません。問題はその音の処理なのです。
     
 はじめのショットでは、ギターの人物に対してカメラはやや退いた
位置で撮影していたが、次のショットではその位置はかなり人物に近
づいていますね。従って「鈴木監督の耳が聞いている」音の方も、
須らくカメラが近づいた分、ショットの継ぎ目で急に「近くに聞こえ」
なければならない筈じゃあないですか?
 ところが実際はあのカットでは、音の方と云えば、ショットの継ぎ目
を越えても相変わらず同じ音圧で音(歌とギター)が流れてゆくのです。
どうしてなのですか?
 この作品がモノラル音声で、たとえ1つのスピーカーだけで再生されて
いたとしても、音は現実の深度、キメ、広がりを持っているのは聞いての
通りです。ですから、ショットの継ぎ目で音圧に何の変化もないというのは、
どうしても納得がゆかないのですが、監督はどうお考えなのでしょうか?

 いずれにせよ、“映画における音の問題”や「同時録音で楽器を演奏して
いる人物を撮る」という難問に、私の『厭世フフ』同様、果敢に挑戦してお
られる鈴木監督に是非、お聞きしておきたかったことなのです。

よろしく!


---------------------------------
帯 谷 有 理
---------------------------------
obitani@catnet.ne.jp
http://www.hi-ho.ne.jp/yuuyuk/
(HP移転しました)
---------------------------------



志郎康の最初の返事
1998年5月2日
帯谷有理様

前略 昨日の「厭世フフ」(完全版)は、いろいろ感じさせられたり、考えさせられ
たりで、楽しみました。そのことはまた文章にしてみたいと思います。いろいろと学
ぶことがありました。確かに、映像の表現については、考えを改めないとずれていっ
てしまうように思えて、帯谷さんの映画を、その手ががかりに一つにしようと思って
いるところです。その帯谷さんから、手厳しい批判的質問が来て、慌てているところ
です。
 では、先ず

> 「この映画は音が芽なんですよね」
> 「今回は完全にシンクロする同時録音に挑戦してみました」
>...と云うナレーションを聞いた時、私は心の中で拍手を
>送ったものでした。

拍手は嬉しいですね。でも、「音が芽」とは言っていいますが、「完全にシンクロす
る同時録音に挑戦」というのは、帯谷さんの思い入れの「聞き込み過ぎ」ですね。ホ
ントに「音が芽」だけの作品です。「歌」と「談話」の部分だけがシンクロで、後は
アフレコです。わたしとしては同時録音の意味を考えるところにまで至らず、ただ16
ミリフィルムに自分の手で音を付けることできるというのが嬉しい、というに過ぎま
せん。その「アフレコ」の楽しさがご指摘のユーモアとなったわけです。でもそれが
ご理解戴けただけでも嬉しいです。まあ「音の芽」の人として、これから帯谷さんか
らいろいろと教えていただきたいものです。そうだ、今度帯谷さんにわたしの映画の
中で歌って貰うこともできるかも知れませんね。

>『厭世フフ』は、「音が映像の場所を規定する特殊な映画」だから
>です。

それはよく分かりましたし、そのことで可成り楽しめました。

>「完全にシンクロする同時録音に挑戦」、などと云う単純なことで
>いいのか?、という点。

手元で音を扱えるという楽しみは捨てがたいものです。作る方としては先ずそれ。見
て戴くためには、そこに出来るだけ深い意味が生まれてくるといいと思いますが、難
しいですね。考えましょう。

>それと、「何の為にシンクロさせるのか?」
>という点。そして「出来上がったフィルムの映像と音がシンクロして
>いる」ことを認めたからといって、一体それが何なのだ?

リアリティが問題だからでしょうね。撮影しているときの現実の時間が連続したもの
としてそのまま捕獲されているところに意味があります。それが、ポストプロダク
ションの課程で持つ意味と、上映されたときに生まれる意味へ変化していくという
ことの問題があります。先日の「厭世フフ」の上映の時、中島さんと誰かがあの金
沢の長い車窓カットを問題にしてましたね。実際に電車の乗っているのであれば、
あれくらいの時間は何でもないのに、スクリーンで見ると、あの時間の過ごし方が
分からなくなる人がいるということです。中島さんでさえ、映像から何か与えられ
るものだと思っているのですね。見る覚悟をしたのだから、そこで何が起ころうと
、それに対処していけばいいのですよ。そこですね。わたしの400分の「風の積分」
を耐えられない人が結構多いのです。サイレントに近い映像でも映像が何かを与えて
くれるのを期待する人が多いのですから、音がついたら一層そういう気にさせてしま
います。映像をサービス品と思い込んでいる怠惰な精神を眠らせるのにもっとも強い
力があるというわけです。

>...と云うナレーションそれ自体も、同録で語るべきじゃあないで
>しょうか? 更には、外の風景のコマ撮りや、観葉植物の成長の
>コマ撮りに対応させるべき筈の「同録の音」は、どうなったのですか?

先にもいいましたが、「挑戦」なんていってませんよ。とにかく、スタジオでやらな
きゃならないダビングを家で出来た!という喜びですね。

>(植物を撮るスチール写真のシャッター音は当然、同録ではなく
>インチキですね? 笑えたけど...)

インチキでははなく、わざわざアフレコで重ねたのです。室内の状況音に6秒一齣に
設定したボレックスのタイマーを合わせて、5分間隔で齣撮りした一日分の映像を重
ねた。つまり、絵と音とは違う時間なわけですね。一日が一回のシャッター音になっ
た、あはは、というところです。ボレックスのタイマーは15分の1秒のなのでまるで
スチルカメラのシャッター音と同じになるのです。

> 次に問題にしたいのが、フォークシンガーを撮りに宇都宮を訪ねた
>例のシーンです。
> この作品が、鈴木監督の独白やナレーションによって主観的に語られ、
>鈴木監督の持つカメラの視点が、すなわち監督の主観を成していることは
>見ての通りです。従って、あのギターの弾き語りをする青年を「同時録
>音で撮る」あのカットの「サウンドトラック」の音は、カメラの視点
>に先天的に一致するマイクロフォンの聴き取り点でとらえた、すなわち
>「鈴木監督の耳が聞いている」音でなければならない筈ですね。

ダブルシステムで録音してますから、当然マイクとカメラの位置は異なるわけです。

>従って「鈴木監督の耳が聞いている」音の方も、
>須らくカメラが近づいた分、ショットの継ぎ目で急に「近くに聞こえ」
>なければならない筈じゃあないですか?
> ところが実際はあのカットでは、音の方と云えば、ショットの継ぎ目
>を越えても相変わらず同じ音圧で音(歌とギター)が流れてゆくのです。
>どうしてなのですか?

単純に「「鈴木監督の耳が聞いている」音」とは思っていないからです。ということ
は、撮影の現場というものを、わたしは帯谷監督のように積極的に受け止めていない
からですね。この質問を戴いて、帯谷さんの映像のもつ「意味合い」が少し分かりか
けてきました。

> この作品がモノラル音声で、たとえ1つのスピーカーだけで再生されて
>いたとしても、音は現実の深度、キメ、広がりを持っているのは聞いての
>通りです。ですから、ショットの継ぎ目で音圧に何の変化もないというのは、
>どうしても納得がゆかないのですが、監督はどうお考えなのでしょうか?

そうですね。積極的に受け止めれば、そういう考え方になりますね。いいこと教えて
いただきました。ありがとうございます。次回作品では、もう少し積極的に考えるこ
とが出来るでしょう。今度ゆっくりお会いしてお話ししたいものです。帯谷・斎藤宅
におじゃましてもよろしいでしょうか。
 なお、帯谷さんのメールとこのわたしの返信をわたしのホームページで公開してよ
ろしいでしょうか。よいご返事をお待ちします。ではまた、草々

1998年5月2日           鈴木志郎康


帯谷有理の第二のメール
1998年5月3日
鈴木志郎康様


 鈴木先生もご存知の通り、同時録音の問題や、「何の為
にシンクロさせるのか?」という点、そして「出来上がっ
たフィルムの映像と音がシンクロしていることを認めたから
といって、一体それが何なのだ?」 といった問題は、昔か
ら寧ろ商業劇映画やドキュメンタリー映画のカテゴリーで、
とりわけヨーロッパで活発に議論されてきました。

 ところが、本当にそれを活発に議論すべき筈の、イメージ
フォーラムの作家ような 「実験映画」のカテゴリーにいる人た
ちがこの問題を回避し、ネグレクトし続けていることこそ、問
題にされるべきだ、と私は思います。

 それは、自分たちの「映像実験」や「自己表現」の映像に、リア
ルな音響が付くことによって、その「粗雑さ」や現実感に従属さ
せられることに、彼らが脅え切っているからに他成りません。
 ですから彼らが、作品を全編「サイレント」にしてみたり、全
編BGMを付けてみたり、あるいは映像に写っているものの存
在感に全く関与しない音を付けてみたりするのも、これらすべ
ては、しかしながら、こうした非生産的で、非創造的で、消極
的な手続きを用い、こうした手続きを用いることを恥じること
のない彼らの「美意識」に、如実に反映されているのです。

 彼らにとって音の問題は、「よその場所で議論」されるべき「ゆ
ゆしき問題」としてフタが被されているのです。

 誤解されてはならないのは、何も私は、「すべての映画は、撮
影された映像とその同時録音の音だけで出来ていなければなら
ない」などと云う積もりはありませんし、敢えて「BGMを一切
使うな」とも云う積もりもありません。具体的に、フェスティバ
ルでの、かわなかのぶひろや寺嶋真里のBGMの使い方は、十分
独創的で、感動的でしたし。

 ところが、偏狭な「映像主義」や「光学主義」の作品の問題点は、
「音響が映像に付与された時に一体何が起こるか?」と云う 、 
映画の本質そのものに関わる大きな点を、全く骨抜きにしてし
まうことにあるのです。
 この問題に作品が関わらない限り、「映像作品」はいつまで
たっても“映画”に止揚できないのではないでしょうか。
 映画にとっての音の問題は、けだし映画そのものの弁証法的性
格故に、それに普遍的な真理が存在しない以上、大いに議論の余
地があるのです。

 そこで、同時録音のことですが、

> リアリティが問題だからでしょうね。撮影しているときの現実の
> 時間が連続したものとしてそのまま捕獲されているところに意味
> があります。それが、ポストプロダクションの課程で持つ意味と、
> 上映されたときに生まれる意味へ変化していくということ
> の問題があります。

 と云う鈴木先生のご認識は尤もなもので、且つ大変根本的なこと
しょう。
 「映像にシンクロしているアフレコの音」に対して、生の音、撮影
時の実際の音と云うものは、映像の動きにより密接に連係し、それ
に貼りついてゆき、絶えずそのリアリズムを問題にしているのです
から。

 ただしその分、「同時録音」には危険な綱渡り的な、大きな問題が
あるのも確かです。これは『台湾少年』の撮影や、去年見たストロ
ーブ=ユレイの映画を見た時に顕著に感じたのですが、これについて
話すとかなり長くなるので別の機会にお話させて下さい。(フェス
ティバルで見た『GOSHOGAOKA』のあの同録の音について
も同様です。)


 さてここで昨日にひきつづき『芽立ち』のお話をさせて下さい。
昨日は、いささか性急に作品の予審も不充分のままに先走った文
章を送り付けてご無礼致しました。

 ひつこいようですが、またフォークシンガーを撮りに宇都宮を
訪ねた例のシーンのことです。

> > この作品が、鈴木監督の独白やナレーションによって主観的
> >に語られ鈴木監督の持つカメラの視点が、すなわち監督の主観
> >を成していることは見ての通りです。従って、あのギターの弾
> >き語りをする青年を「同時録音で撮る」あのカットの「サウン
> >ドトラック」の音は、カメラの視点に先天的に一致するマイク
> >ロフォンの聴き取り点でとらえた、すなわち「鈴木監督の耳が
> >聞いている」音でなければならない筈ですね。

...と云う私の問いに対する、鈴木監督の

> ダブルシステムで録音してますから、当然マイクとカメラの位置
> は異なるわけです。

> 単純に「鈴木監督の耳が聞いている音」とは思っていないからで
> す。 

 と云う回答がよく分かりませんでした。と云うのは、私はまさにそ
の、同時録音のカットにおける「視点」と「聴き取り点」の一致の問題を
こそ、お聞きしたかったからです。
 単純に云えば、映像が主観なのに、何故音声がそうではないのか?、
と云うこと。その基本的は不一致の根拠は何か?と云うことなのです。
 あの、フォークシンガーを撮りに宇都宮を訪ねた例のシーンは、こ
の『芽立ち』全体がそうであるように、「主観的に説話」されているの
です。さらにそれを決定的にしているのが、(これは注目に値すること
なのだが)、それが監督本人の手持ちカメラで撮影されていると云うこ
とです(あの弾き語りは「わざわざ」手ぶれ映像で捉えられているのだ)。

 仮にあのカットが、ストローブ=ユレイの映画や『GOSHOGAO
KA』のような、三脚に固定されたカメラによる「客観的な視点」で撮
られた同時録音のカットであるなら、別の言い方をすれば、その画や音
が、特定の誰かの視点、聴き取り点であることの指標をいささかも示さ
ない限りにおいて、
 「ダブルシステムで録音してますから、当然マイクとカメラの位置
  は異なるわけです。」
 「単純に『鈴木監督の耳が聞いている音』とは思っていないからで
 す。」
...と云った詭弁は“有効”となるでしょう。

 ストローブ=ユレイや『GOSHOGAOKA』のような、「客観的な
視点」で撮られた同時録音の映画を見れば分かることですが、その同録
のショットの持続が長ければ長い程、画と音はそれぞれ剥離してゆくの
が分かってしまうし、それはサウンド映画というメディアに対する人間
の知覚の限界故に、先天的に一致していたカメラの視点とマイクロフォ
ンの聴き取り点が、後天的に対立してしまうことに由来しているのです。
 前述の、「同時録音」には危険な綱渡り的な大きな問題がある、と述べ
たもののうちの一つが、まさにこのことなのです。

 しかしながら、幸いにも我々個人映画、実験映画に携わる人間は、古
典的な劇映画で禁じられている「主観カメラ」という手法を手にすること
が出来ます。これだと、観客が「カメラの視点とマイクロフォンの聴き取
り点が先天的に一致している」ことを前提に映画を見るので、「綱渡り的
な危険」は、ずっと少なくなるのです。私は、『芽立ち』がその種の映画
のうちの一つであるべきだと思いたいし、むしろそうした「見方」をした積
もりなのです。
 『厭世フフ』で、長廻しのカットをすべて「主観カメラ」で撮ったのはま
さにそのためなのです。もっとも『厭世フフ』はビデオ故に、予め「カメ
ラの視点とマイクロフォンの聴き取り点が先天的に一致していることが前
提」となっている、同時録音の形式ではありますが。

 では、同時録音を、「主観カメラ」という手法を使って、フィルムで実現
させるにはどうしたらいいのか?
 この作品はモノラル音声だから、「ダブルシステムで録音」し、「当然
マイクとカメラの位置が異なる」ことがそうそう問題にはならない、と
暗に仮定したとしても、例のカットの2ショット目の継ぎ目で、弾き語り
の音声が急に「近くに聞こえ」ないというのは、やはりマズイ。

 あの2ショット目の、「同じ音圧で聞こえてくる」弾き語りの音声は、そ
れまで「主観的な聴き取り」と信じて聞いていた「約束」を、あっさりと裏
切り、だから、その報われなくなった音声は、その出どころである、全く
“芽立つ”ことのない人生を送っているその報われないフォーク歌手と同様、
映画そのものから剥がれ落ちて、勝手に、独自に、放浪をはじめてしまうの
です。

 けだし問題は、それによって「何を信じたらよいか」分からなくなってしま
った、ということだろう。

 『芽立ち』に対する考察はここらへんで止めます。


> 今度ゆっくりお会いしてお話ししたいものです。帯谷・斎藤宅
> におじゃましてもよろしいでしょうか。

大変楽しみにしております。

>  なお、帯谷さんのメールとこのわたしの返信をわたしのホームページ
> で公開してよろしいでしょうか。

ご心配には及びません。これは嬉しいお話です。だったら、きちんとした文章
を打てばよかった、と後悔しています。尚、私の文章の後に、ご足労ではあり
ますが、(文中敬称略)と、入れておいて下さいませ。


---------------------------------
帯 谷 有 理
---------------------------------
obitani@catnet.ne.jp
http://www.hi-ho.ne.jp/yuuyuk/
(HP移転しました)
---------------------------------


志郎康の第二の返事
1998年5月4日

帯谷有理様

前略 早々のご返事どうも。帯谷さんの映像偏重主義に対する批判はよく分かりまし
た。同時にしろアフレコにしろ、音を扱うというのは、映像を扱う以上に技術が普及
してないということもありますが、取り組みがないがしろにされていることは確かで
す。わたしも昨年ようやく「音を扱う」ことに目覚めたのですから。実際、ヤマハの
MD8を買おうと思っても、それが何処に売っているのか分かりませんでした。楽器店
で、初めて機材を買った!のです。映像は8ミリカメラから普及してましたが、録音
してそれを扱うというところでは、プロに独占されてきたわけですよ。映像より送れ
るのは仕方ないとしても、これからは、それを創造的にやっていくのが当たり前にな
るでしょう。帯谷さんはそういう考え方の先行者と言えるでしょうね。音のクリエー
ターと映像のクリエーターが、商業主義の業界を反映して二分されているというわけ
でしょう。それをなんとか破りたいですね。

 ところで、更なるご批判の

> では、同時録音を、「主観カメラ」という手法を使って、フィルムで実現
>させるにはどうしたらいいのか?
> この作品はモノラル音声だから、「ダブルシステムで録音」し、「当然
>マイクとカメラの位置が異なる」ことがそうそう問題にはならない、と
>暗に仮定したとしても、例のカットの2ショット目の継ぎ目で、弾き語り
>の音声が急に「近くに聞こえ」ないというのは、やはりマズイ。

という点ですが、「音を聞く位置」と「カメラの位置」のズレについては、アングル
ということがありますね。カメラのアングルとマイクのアングルとが一致するという
ことはないと思います。近寄ったのだから、音も大きく聞こえなければいけないと
おっしゃいますが、視野としてはもっと近寄りたいという気持ちが表れていたので
すが、その気持ちを単に音の大きさの変化だけで表していいものでしょうか。囁き声
ならともかく、歌っているということでは、歌が主であって、それを聞かせたいとい
う気持ちが問題で、あそこで、わたしが近寄ったということのリアリティは視野の変
化だけで十分と思ったのです。だから、歌い終わった後の爪弾きまで残しているので
す。

>
> あの2ショット目の、「同じ音圧で聞こえてくる」弾き語りの音声は、そ
>れまで「主観的な聴き取り」と信じて聞いていた「約束」を、あっさりと裏
>切り、だから、その報われなくなった音声は、その出どころである、全く
>“芽立つ”ことのない人生を送っているその報われないフォーク歌手と同様、
>映画そのものから剥がれ落ちて、勝手に、独自に、放浪をはじめてしまうの
>です。
>
> けだし問題は、それによって「何を信じたらよいか」分からなくなってしま
>った、ということだろう。

わたしの立場では、この結論は、帯谷さん独特のご自分に引き寄せた飛躍のある結論
と受け止め、承伏しかねますね。
ではまた、草々


帯谷有理の第三のメール
志郎康の第三の返事

「曲腰徒歩新聞」1998年5月5日
「曲腰徒歩新聞」表紙へ戻る

My Email address
クリックして、メールを送って下さい。
srys@m1.catnet.ne.jp


[総目次に戻る to the table]