「PC MACLAN」によって
MacOS8とWindows95でファイル共有に成功。
ネットワークコンピュータの中の PowerMac7500 |
LANを張ろうとして、めちゃくちゃになったWindows95を新しいディスクに新規インストールして、デスクトップにちゃんと「ネットワークコンピュータ」のアイコンが現れたのを見て、ホッとした。聞くところによると、始めから「スタンドアローン・マシン」と設定して売っているものには「ネットワークコンピュータ」アイコンは無いのだというとことだ。わたしが中古で買ったBREZZAはネットワークはしない家庭用ということだったのだろう。その場合は、後からインストールすればいいと言うことなのに、何故、東芝さんはそれを教えてくれなかったのだろう。でも、要らないソフトを捨てられたのだから、それもいいか。
それはとにかく、わたしの中古BREZZAはネットワークが可能になったわけ。そこで、PowerMac7500とEthernetケーブルを繋いで、起動してみた。本によるとWindows95の「ネットワークコンピュータ」の中の「ネットワーク全体」の中に、PowerMac7500が出てこなければいけないのに、出てこないのだ。95のEthernetアダプターを調べたが、ちゃんと作動している。そうか、AppleTalkが働いていないからかと、「PC MACLAN」をインストールし、それを起動して置いてから、Macのコントロールパネル内の「AppleTalk」を「プリンターポート」から「Ethernet」に切り替えてみた。それで、Windows95の「ネットワーク全体」の中に、Macのアイコンが現れる筈だった。ところが、設定して置いた自分自身の「Toshiba」グループの「BREZZA」のアイコンは現れたが、肝心のMacのアイコンは現れないのだった。どうしてこうすんなりと行かないのかと、いくらかへこたれた。
Macのデスクトップに出た Windows95のフォルダー |
そのアイコン |
いろいろとやっているうちに分かったのだが、実は、「AppleTalk」で「Ethernet」に切り替えたとき、そのウインドウを消すと、「現在使用中のAppleTalkサービスを中断します」と出て、それまで「プリターポート」を使っていた「AppleTalk」が終わって、「Ethernet」の「AppleTalk」に切り替わるという仕掛けになってるのだった。Ethernetケーブルを繋いでも、ハブの電源を入れてないと、「AppleTalk」は自動的にプリンターポートの「AppleTalk」になってしまう。それに気が付いたのは、諦め掛けて、「AppleTalk」を閉じようとしたときだった。「なんだ!なんだ!なんだ!」である。いやはや、警告の文が、余りにも、論理的に過ぎるよ。まあ、ようやく「AppleTalk」がEthernet使用に切り替わったというので、五、六歩のところにあるWindowsマシンのBREZAに飛んでいったら、デスクトップの「ネットワーク全体」の中にPowerMac7500のアイコンが出ていた。
それをクリックすると、「ファイル共有」にしたフォルダーがあり、その中のMacにテキストファイルをWindows95のMicrosoftWordで開くことが出来た。これで、WindowsマシンでMacの中を覗くことが出来るようになったわけ。そこで、「PC MACLAN」のサーバーを起動すると、PowerMac7500のデスクトップに、Windows95の共有設定した二つのフォルダーが現れた。一つにはテキストファイルが入っていたので、それは、Macの「NisusWriter」で開いた。もう一つのフォルダーにはjpegの画像ファイルが入っていたので、それは、「Photoshop」で開いた。
テキストも、画像も、共有を設定したフォルダーに入れれば、全く同じOSの同じコンピュータの上のファイルと同じように扱える。本で読んだり、話に聞いていたけど、こんなにもスムーズに行くものかと、今更ながらの驚きだった。
「AppleTalk」で成功したから、今度は「TCP/IP」を使ってみようと考えた。先ず、Macのコントロールパネルの「TCP/IP」の設定方法の「手動入力」を選んで、IPアドレスを「192.168.0.3」と設定、サブネットアドレスを「255.255.255.0」と設定してから、同じコントロールパネルの「Web共有」を開いて、「開始」をクリックする。それで、MacがWebサーバーになる。そして、htmlファイルが入っているフォルダーに共有設定をして置いて、それを「Webフォルダー」として選択した。
そうして置いて、Windows95マシンのWebブラウザーを起動して、URLとして「http://192.168.0.3」を指定してみた。すると、Windows95のインターネットエクスプローラーにMacのhtmlファイルが入ったフォルダーの中身が出て、htmlファイルをクリックすると、そのファイルが閲覧できた。MacをサーバーにしたTCP/IPのイントラネットが成功したというわけだ。Windows95にWebサーバーを起動すれば、お互いのhtmlファイルを読むことが出来る。そうすれば、CGIを家の中で試すことも出来る。楽しみが増えてきた。しかし、今までは、一台ずつ起動していれば良かったマシンを、今度は同時に起動しておかなければならなくなった。キーボードやマウスを切り替えて使っていたのが、それが出来なくなる。また、LinuxとかFreeBSDをスカジーディスクで起動していたが、イントラネットにするためには、それぞれマシンを必要とするわけで、わたしの趣味のパソコン構成も変わらざるをえなくなるなあ、と思っているところ。
暫くぶりで、パソコン泥沼。
蓋を取り外したBREZZA |
暫くぶりで、パソコン泥沼に落ちた。キーボードを叩き、マウスをクリックすればするほど、身動きならぬ深みに落ち込んでいくというやつ。中古で買ったDOS/Vの東芝BREZZAのWindows95が遂に起動できなくなった。Ethernet Cardを取り付けて、ケーブルを繋ぎ、さて設定という段から話は始まるのです。4年前に、MacintoshLC575を始めて購入したときにも、電源入れると爆弾マーク、再起動すると爆弾マークという事態に陥ったこと、次に2年前にPC-98に初めてのPC-UNIXのFreeBSDをインストールして、なにやらやっているうちにハードディスクがクラッシュしてしまったこと、そして今回の、LANを始めようとしてのWindows95の起動不能と、新しいことをやり始めると必ず落ちる泥沼、これで三度目。
そもそも、ことの始まりは、10BaseTケーブルで繋いだBREZZAのWindows95とPowerMac7500のMacOS8.01に、Microsoftのサイトからダウンロードしてきた「Personal Web Server」というソフトをインストールして、IPアドレスを設定して、互いのHTMLファイルをブラウザで見ようとしたら、全然交信が出来なかったこと。全然ダメということは、原因の追及の仕方も分からないということ。それで、ウエブ・サーバというものはよく分からないと諦めて、今度はWindowsを主体にMacとAppleTalkで交信できるという「PC MACLAN for Windows95」というソフトをインストールした。本によると、「PC MACLAN」を起動すれば、95のデスクトップにある「ネットワークコンピュータ」を開くとMacが表示されているはずだ、という。
ところがどうしたことだ!わたしのBREZZAのデスクトップには、その「ネットワークコンピュータ」のアイコンがない。そして、「コントロールパネル」のネットワークをクリックして開いたウインドウにも、有るべき筈の「ユーザー情報」と「アクセス権の管理」のタブがない。これでは、ネットワークが設定できない、と汗が出てくる。パソコンを使っていて、予想以外のことが起こるのは、本当に心臓に悪い。血圧も上がるし。
その無いタブの回復の仕方など、どの本を見ても出てない。慌てて、このBREZZAのWindows95はどうなってるんだ、「ネットワークコンピュータ」はどうやったら出てくるの、と東芝さんに電話。有料のせいか、親切に応対はしてくれたけど、結局分からない。じゃあ、Windows95を再インストールするか、と思ったのが浅はかだった。このBREZZAは「駅スパート」やら「ゴルフ何とか」やら、結構沢山のアプリケーションが、いわゆるオールインワンというやつでプレインストールされている。そういう場合は、「リカバリーディス」と「プロダクトリカバリーCD-ROM」で再インストールしなければならないというのだ。しかも、再インストールすると、データは消えるからバックアップが必要。
IDEディスク接続図 |
バックアップをいちいち取るのも面倒だし、もう運賃も変わってしまって役立たない「駅スパート」など、要らないものをインストールするのは厭だ。そこで、先日買ってきた増設用のIDEディスクを付けて、その真っ新なところに、先ずWindows95だけをインストールしようと考えた。マニュアルには、IDEのコネクタは二つある。もう一つの「セカンダリー」を使えば、いいと思ったわけ。
ところが、パソコンの蓋を開けてみると、「セカンダリー」のコネクタは、CD-ROMが使っていた。そうすると、現在使っている「プライマリー」のコネクタに付いているIDEディスクに並列して繋げなければならない。IDEディスクは一つのコネクタには二つまで繋げる。その場合、その二つのディスクは「マスター」と「スレーブ」の関係になる。そして、「スレーブ」からではOSが起動できないという。
本当にややこしいね。パソコンの中に「ご主人様」と「奴隷」があるなんて知らなかった。そうなんだ!コンピュータの中は厳しい階級制が支配しているんだ。「TREE構造」とか、「TPC/IP階層構造」とか。民主主義!が一番、と思い込んでるわたしは、どうも階級制に疑問を感じる、なんていっても始まらない。そんなこと言っているから、パソコンの泥沼に落ちることになる。
わたしは、このAT互換機上でFreeBSDとLinuxといういろいろなOSの起動をサポートしているので、その起動を切り替えるために、そのスイッチの役をする「System Commander」というブートマネイジャーのソフトをインストールしている。これがあるから、「奴隷」のディスクからでも起動できるのではないかと素人判断をした。マニュアルをいい加減に読んでいたから、こんな素人判断になるので、「System Commander」といえども、DOSの階級制度を超えることは出来ないのだった。この階級を無視した間違った考えが、自分を泥沼に突き落とすことになった。
CD-ROMドライブの下のIDEディスク |
さて、コンピュータの蓋を開けて、暑さと緊張で汗を噴き出させながら、スカジーボードを外し、その下に隠れていたディスクのケーブルのコネクタを確認し、ディスクのジャンパースイッチを切り替えて、「マスター」と「スレーブ」の関係を確立して、ケーブルを差し込む。どういうわけか、コンピュータの蓋を開けるのは緊張する。緊張するから汗が出る。汗をボードの上に垂らしたら大変と思い、余計に汗が出る。つまり、10センチ×15センチほどの小さなハードディスク一つ増設するのに、汗まみれに仕事になった。
ケーブルを繋いでしまうと、スペースとして空いているCD-ROMの下には、とても押し込むことが出来ない。下に入れるなら、パソコンのフロントパネルを外す必要がある。汗まみれで、そんなことする余裕が無くて、CD-ROMと電源ボックスの間の僅かな隙間に斜めに押し込んで、蓋をした。何だか、臭い物には蓋、という感じで作業を終えた。しかし翌日、多摩美の村穂さんから、そんなハードディスクを斜めに入れるなんて、ハードディスクの回転軸に負担が掛かって、破損の原因になるからいけない、とたしなめられて、面倒くさいけど、前のパネルを外して、そこからハードディスクを入れて、ネジ孔は一本しか合わなかったけれど、とにかくネジで固定することになった。いつもこんな具合に、二度手間をやるというのが、わたしの性格らしい。
いよいよ、Windows95のインストール。現在のWindows95の「DOSプロンプト」でインストール用の一枚目のフロッピーからSetupを実行すると、まず「プログラムをインストールするためにはハードディスクのメモリが足らない」、と返された。今まであるハードディスクはCドライブ、新しく付けたハードディスクはDドライブ。Cドライブには、起動している「95」を始め、要らないアプリケーションがたくさん入っていて、空きがないが、Dドライブは2GBの真っ新。
その真っ新のDドライブにインストールしたいのに、Cドライブのメモリが足らないと言う。話が通じない。そこで、Windows95の「スタート」の「ファイル名を指定して実行」からSetupを実行すると、こちらはすんなり立ち上がって、インストールするディレクトリの指定まで来た。
ところが、そこでDドライブを指定すると、C以外のドライブにインストールするには、「DOSプロンプト」から実行しろ、と言うのだ。「DOSプロンプト」に行くと、「メモリが足らない」と言われる。まるで、たちの悪い窓口役人に弄ばれている気持ちになってくるのだった。現在このコンピュータを支配しているWindows95は、内部の階級制度をしっかりと守って、「奴隷」の領域には「OS」を持ち込ませないという魂胆だ。
この意地の悪いたらい回し抜けるには、「いっそのこと、Cドライブの現在のWindows95を上書きしてしまえ!」と思ってしまった。腐敗した役人どもの総取り替えだ。上書きは、スムーズに行った。あまりスムーズだったので、「何だ、最初からWindows95だけ上書きすれば、それで良かったんだよね」と嬉しくなったが、それもつかの間、インストールし終わって、再起動を掛けたら、「レジストりー000000_____00000」とわけ分からないことが書いてあるウインドウが出て、分からないから「OK」をクリックしていくと、最後にまた再起動となり、クリックしていくとまた再起動、クリックしては再起動と、終了も出来なくなって、電源を切るほか無くなってしまった次第。新たに導入された役人どもが机と椅子の奪い合いを際限なく続けることになってしまったというわけ。それが、夜中の2時だった。
翌日、大学の技術センターの村穂さんにどうしたものかと相談。村穂さんは事も無げに、「マスターとスレーブを切り替えて、真っ新なのをマスターにして、そこにインストールすればいいんですよ」と一言。無理矢理に「奴隷」にご主人様の役をやらせようとしたのが、間違いだった。「奴隷」だった奴も、正式に「ご主人様」にすればその役をやり通すことになるというわけだ。
家に帰って、またまた汗を流しながら、パソコンの蓋を開けて、先細のペンチでIDEディスクのディップスイッチを切り替え、その「ご主人様」になった真っ新のディスクにWindows95をインストールした。何の抵抗もなく終了。今度は、ちゃんとデスクトップに「ネットワークコンピュータ」のアイコンがある。要らないものが無いからか、起動も少し速くなった感じ。しかし、内蔵ディスクを一つ増やしたため、ディスクドライブの関係が変わってしまって、外付けのディスクにあるFreeBSDも、Linuxも起動できなくなった。さあ、Ethernet Cardを付けての、インストールフェチの再出発だ。
雨の中、秋葉原パソコンショップ巡り。
今年の家の庭の紫陽花は、花数が少ない。昨年の暮れの枝の切り方が悪かったのだろう。去年、多すぎた花が重なり、雪が積もったようになったのが気に入らなくて、枝をばさばさ切ってしまったのだった。少ないのは少ないで風情があると思いながら、やはり寂しい気もする。庭の植物への思い入れが強くなってきている。人間より植物に興味が強くなるは「年を取った証拠」と言われるね。
先日、田中勲さんが編集する「えきまえ」という詩誌が送られてきて、編集後記に
●鈴木志郎康氏の新しい詩論をインターネットで読むことが出来た。『詩の包括的シフト」ー詩についての最近のわたしの考え方というタイトルがつけられていて大学の講義録のようでもある●この文章には長尾高弘氏の批判的な感想文を同じによむことになった。鈴木氏はここでは「詩の言葉」を書くわたしの「主体」についてずっとこだわり統けていることがわかる。詩を書くことの目的を問いつめながら自意識の問題をくぐり宗教に近いところに結論を見いだそうとする箇所があって私にはあれ!という感じがした●これは六十年代から鈴木氏が発言していることとそれほど変わっていないことに気づく●詩の現在からの後退現象ではないか(これらの文章の行間からは詩のひとっの側面である「魂を癒す」という意識が以前より強く求められている)鈴木氏は詩人という自らの主体にこだわり続けることの意志表示としてこの詩論を書かれたのだと読む●詩も詩人も死んだのではなかったのか●
とあった。インターネットで読んで貰えた感想というので嬉しかったが、「●詩の現在からの後退現象ではないか」「●詩も詩人も死んだのではなかったのか」というところが気になった。メールのアドレスがあったので、早速礼状を出した。そこには、「意識的に詩壇から引っ込んでいるわたしとしては、「なるほど」と思いました」と書いた。
最近は詩の雑誌に限らず、原稿を書くということが少なくなったから、活字メディアの世界では「詩人・鈴木志郎康」の姿は見えなくなっているのだろう、という思いが「なるほど」という言葉に込められている。先日も、「読売新聞」の「街に聞く」という6月9日東京版の特集記事で麻生秀顕さんが「電脳詩人」として紹介されていたが、その記事にわたしのことが触れられていて、「多摩美術大学教授でH氏賞受賞者の鈴木志郎康さん(63)(渋谷区)は二年半前、ホームページを開いた」とあった。こんな風に書かれると、「俺はもうちょっと違うよ」と言いたくなる気持ちが働く。この(63)が、わたしには「効いた」ね。他人が抱く「志郎康イメージ」と自分が抱く「志郎康イメージ」のズレを否応なしに感じてしまう。せいぜいこの「曲腰徒歩新聞」でそのズレを埋めていくことにしましょう。とにかく、ズレというのは気持ちの収まり悪い。
すももとさくんぼ。
夕方、神南のヨコシネへ16ミリフィルムのラッシュプリントを取りに行った。先週の金曜日に、女子学生の一人が父親と喧嘩したことを語るのを撮影した。夕食のとき、激しく言い争って、外へ出て、公園で泣いていたら、中学生の女の子たちがやってきて、花火をして騒いでいるのを見て、中学生はいいなあ、と思ったと語っていた。いい話だと思って撮影したが、神戸地震のニュースを背景のスクリーンプロセスに映写することに気を取られて、露出を絞り忘れた。4ステップ以上のオーバー、それを何とかしてと、ヨコシネに頼んでいたのだ。
顔に感じるくらいの小雨の中、自転車を走らせながら、3年前に入院していたときは、よく夏みかんを手をびしょびしょにして食べたのを思い出した。急に夏みかんが食べたくなって、帰りに、何軒か八百屋を覗いたが売ってなかった。家の近くのスーパーに行ったら、夏みかんは無くて、さくらんぼが目に入ったので、高かったけど買った。さくらんぼを買ったら、隣にパックを並べていたすももも欲しくなって買った。先ず、色に見ほれて、それから食べてみた。今年始めてのさくらんぼとすもも。
6月10日
ところで、ISDNでTAを使っての、昼間の接続が出来なかったのは、プロバイダーが午前6時から午後8時まで「128kマルチリンクppp」に設定してあって、それに合わせて、TAのマニュアルに書いてあった「初期設定コマンド”ATQ0V1X3$N11=1&D1”」をコントロールパネル内のpppに設定しなければいけなかったのだ。
わたしは、これまでOpen Transport/ppp J-1.0.1を使っていて、そんなATコマンドの設定などやったことがなかったので、プロバイダーが「ATコマンドを打ち込んで下さい」という意味が理解できなかったわけ。そこで、プロバイダーが推奨する「FreePPP2.6.2」をダウンロードして来て、設定をやってみると、「FreePPP Modem Configuration」のウインドウの「Modem init strings setting」と書いてある下に「USE:」という欄があるではないか、プロバイダーはこのことを言っていたのか、とようやく理解できた次第。設定して接続を試みる。現在午前11時、昨日繋がらなかったアクセスポイントに、今日はすんなり繋がる。「オープン、セサミ!」。それにしても、この指先で唱える「ATQ0V1X3$N11=1&D1」なる呪文は、一体なんだ!
今を盛りの美容柳。
びようやななぎはわたしの好きな花の一つ。気高さを感じさせる花なのに、公園とか道ばたの低いところに咲き乱れているのもいいと思う。長い雌しべが宮廷の舞姫の冠を思わせる。黄色い花弁がはらはらと、濡れた地面に散っている。空は曇って雨催い、決して会うことのない人が恋しい、と言った気分。
ところで、先週、電話をISDNに切り替えた。もっと速くやりたかったのだが、わたしの家の内線電話の事情でそのままにしてあった。というのは、内線電話の工事をしたのが今から20年前で、19本もピンのあるコネクターが使われていた。およそ10年前に、子どもが小さい頃、コネクターを抜いたりして悪戯して、そのピンの一本を折ってしまったことがあった。秋葉原にそれと同じコネクター探しに行ったら、そんな古い物はもうないといわれ、空いているピンを使って接続させていた。
それから5年ほど経て、Faxとパソコンのモデムを取り付けるとき、自分で電話機を分解して、その中の切り替え用のリレーの配線を辿って、モジュラーを取り付ける接点を見つけ出し、電話機に穴を開けて、取り出し口を付けたりしたのだった。当時は新しいといわれた器械も年を経ると、だんだんと手に負えない物になってくる。しかし、取り替えるとなると大変だ、とそのままにしていた。ところが、ついに先月の中頃、かけるとき、つながったり切れたりして、相手からの電話はお話中になってしまうという事態になった。電話屋さんに見て貰ったら、古くてもう寿命と言うこと。電話機を換えるとなると、4台ある内線の電話機を全部換えなきゃならないということになった。それなら、いっそISDNにしてしまおういうわけだった。
TAと切り替えスイッチ |
壁の中を通っている電線を全部引き抜いて交換する工事は、結構手間が掛かって、わたしが出かけた後、夕方まで掛かる一日仕事だったようだ。配線はDSUから制御主装置とTA用の分け、主装置から据え置き2台、無線2台の電話機とFaxを繋いで貰った。夜、わたしは帰宅してから、買ってきて置いたTAのAtermIT65Proを自分で繋ぎ、電話回線に繋いだモデムとの切り替えスイッチを付けて、Macに接続した。Webにアクセスしてみると、なるほどと頷くくらいに、64kは速く感じた。
ところが、翌日、電話とFaxのテストしようと、まず近くの公衆電話まで自転車で行って、電話してみると、家の者が受話器を取ると、「ただ今呼び出しております」という女の声が聞こえて、しばらくして「呼び出しいたしましたが近くにおりません。ファクシミリご利用の方はピーという音のあとに送信して下さい」と言って、Faxに切り替わってしまう。其処にいるはずの家のものが出ない。何度やっても同じ。慌てて自転車を飛ばしてかえって聞くと、受話器を取ると切れたというのだった。つまり、Faxが先に横取りしてしまうのだ。今のところ、Faxの電源を切っておかなければならない。それから、インターネットの接続を試みると、いったんは繋がるらしいけど、直ぐに「データセツダン 016 10円」となってしまう。しかし、電話回線のモデムで接続するとつながる。これはどうしたわけかと、プロバイダーに問い合わせると、ATコマンドちゃんと打ってないからでは、という。ATコマンドをMacでどうやって打つの?と質問してやったよ。
ところが、昨日の夜もISDN回線でちゃんと繋がったのに、今日の昼間は繋がらなかった。そして、夜の21時を過ぎた現在、ISDN回線は繋がっている。そんな昼間だからつながらないということはない、とプロバイダーは言っているが、妙なこともあるものだ。Faxの方は、どうやらFax用の電話番号を貰って、DSUにB1、B2と分けて互いに遣り取りするという設定をする事が必要のようだ。116へ明日電話することにする。TAとか、DSUとか、B1、B2なんて、さも知ったように書いているが、実は十日ほど前にはこういったことは何も知らなかった。今の時代って、こういうことなんだと、改めてため息を吐く。
西村君、川添さんの引っ越し。
今年の5月は、最後の日になって、文句なしの爽やかな五月晴れとなった。次回の16ミリ映画作品に出演して貰うことになっている西村君と川添さんが引っ越すとというので、それを撮影しに行った。わたしの家の近所の小学校も運動会だったが、かれらのアパートの近くの小学校でも運動会をやっていた。爽やかな風に浮き立つ気分を、運動会の音楽に乗せて歩いて行った。
川添さんが大学に入って以来住んでいるアパートに、西村君が転がり込んで、二人で暮らすには狭くなったので、引っ越すことになったという。ワンルームのアパートに入っていた荷物は少なく、既にボール箱に入れてあったので、一時間も掛からないで、借りてきた2トントラックに積み込んでしまった。積み込みを始める前に、不動産屋のおやじが来た。何か、友達みたいな口付きでずかずかと部屋に入ってきたので、わたしは始め、かれらにこんな年輩の知り合いがいるのか、と思ってしまった。目つきの鋭さから、不動産屋だと直ぐに判ったが。実に20年振りで、引っ越しというものに立ち会ったのを実感した。
引っ越し先は、マンションの2階の1DKの角部屋。川添さんの言うことには、場所も間取りもいいけど、なにか「ときめき」がないという。住む家には「ときめき」がないといけないと言うことだ。なるほど、今まで、わたしはそういうことは意識してなかったけど、それはある、と納得する。荷物を運び終わって、ビールを飲みながら、友達たちから変形のダイニングキッチンが面白い空間で「いい部屋だ」と言われて、川添さんは「だんだん、ときめいてきた」といっていた。
それにしても、自分で2トントラックをレンタルしてきて、数人の友達に手伝って貰って、引っ越しをやってしまうという若さはうらやましい。わたしは足腰が弱って、とても重い物は持てないから、せいぜいランチ天丼を御馳走するくらいのことしか出来なかった。西村君は、前に引っ越し専門の運送屋でアルバイトしてたから、トラックの積み込みは手慣れていた。「引っ越しは面白いですよ」といって、16ミリフィルムで作品にしたことがあった。その彼の引っ越しを、今日は16ミリで撮影したというわけ。