『Intrigue』Vol.2

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ものさし

ものさし

                         川本真知子

  祖母の引っ越しを手伝った。祖母は荷物より一足先に日常に必要なもの、
洗面用具や、少しの着替え、そしてこまごまとした紙の 、を袋につめこん
で、大阪の親類の家に越したあとなので、残ったものを私と母とで送り届ける
という作業だった。そこでたどりついた一つの答えは、すてられないものなん
てそうそうないということだ。私たちはひたすらゴミ袋の口を結んでいった
し、大阪に送る段ボール箱には延々とすててもいいようなものばかりが詰め込
まれていった。あとに残ったものはといえば、写真や本、絵。そのいずれもが
思い出の「引きがね」となるものばかり。
  小さな帳面があった。ただ日付と数字の並ぶそのノートは、祖母の血圧の
記録だ。彼女はかなりの高血圧で、日によっては、上260、下160なんて
迫力のある血圧の日もあった。普通の人ならとっくに倒れているだろう血圧。
薬で一時期、血圧を落としたけれど、かえって薬の副作用の方が大きかった。
おかしな言い方かもしれないが、祖母の体質にとっては、むしろこの高血圧の
方が「普通」の状態だったのだ。それでも医師や看護婦は、血圧計の数字ばか
りとにらめっこで執拗に薬を勧めた。そのことで母や私はかなしい思いをだい
ぶした。
  そんなとき祖母の弟、つまり私の大叔父、がひょっこりお見舞いにやって
きた。イギリス紳士みたいな帽子をかぶってその場にやけにしっくりなじんで
みえるけれど、その人とはみんな実に十年ぶりの再会だった。あいさつもそこ
そこに、祖母の血圧がいかに高く大変な事態であるか説明はじめた私たちに、
にこにこ寡黙にうなずいてその人は「なあに一つのものさしではかろうとする
からいけないんだよ。なにもかも平均通りの人なんていないよ。ほら僕だっ
て」とその場に居合わせた看護婦さんに血圧を測ってもらった。すると差し出
した腕に巻かれた血圧計の目盛りは、私たちの目の間で祖母と同じくらいに
(さすが兄弟!)、ぐんぐんと高く伸びていった。「一つのものさし」。そう
いえば私もついつい平均というものにこだわり、気にする毎日だったなと思
う。ひとつの尺度をすべてにあてはめようとしてしまうのは、むしろ無理のあ
る不自然なことなのかもしれない。「ほら。でも僕こんなシャンとしてるでし
ょ。だから心配しないで」と大叔父は優しくわらった。
  そのあと私たちは、おみやげのブッシュドノエルや、メロンをほおばりな
がらしばらく談笑した。 



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