『Intrigue』Vol.2

[ HOME ]
[ 詩の電子図書室 ]
[「Intrigue」Vol.2・目次]

◆すてられないもの◆

  すてられないものはなんですか?
  衣更えのこの季節
  たんすのこやしとにらめっこをしているあなた。
  それはすててもいいものですか?やっぱり、すてられないものですか?
  Intrigueの同人3人が「すてられないもの」についてお話します。

  奥野雅子 ネオンの街のそばにいたころ
  川本真知子 ものさし
  恩地妃呂子 りっすんとう門司弁

ネオンの街のそばにいたころ

                                                        奥野雅子
 捨てたい捨てたくないにかかわらず、二年前に自宅が火事にあった時に、昔 からの私の持ち物はほとんどすべて焼けてしまった。その時、わずかに焼け残 ったもののなかに、高校生のときに着ていた制服のスカートがある。こんなも のいらないよ、という私に、母はそんなこと言わずにひとつぐらい昔のものを とっておきなさい、と言って私の手のなかにおしつけた。そのグレーの制服の スカートは今、私の部屋の押入れにしまってある。         1      おれはよく山へ登った    山にはいろんな花が咲いてゐた    気の遠くなるような深い谷があった    そこでよくねころんだ    そのゆめのあとが    ふいと今のおれの胸に残ってゐて    緑緑ともえてゐた       2    松並木は果てもなかつた    僕はいつもとぼとぼと歩いて行つた    そのやうに海は遠かつた    僕はいつも泣きながら歩いた    歩いても歩いても遠かつた    僕は海の詩をかいて都へ送つた    あれからもう十年は経つて了つた         ─をさなき思ひ出─ 室生犀星  グレーの制服のスカートをはいていた頃、私はよくひとりで夜の街をあるい た。そこにはたくさんの高層ビルが立ちならんでいた。気の遠くなるような長 い高速道路があった。そのときのネオンのあとは今も私の胸に残っていて、ま ぶしくチカチカと瞬いている。  子供は苦労を知らない、と良く言うけれど、そんなのはウソだ。子供のころ はよかった、と言うけれど、そんなのは、そういう気がするだけだ。人間は、 子供のときにすでに人生の深刻な事態に直面している。   私の場合、まだ大人になりきっていなかった高校時代のほうが、今よりも数 十倍も深刻な事態に直面していた。それはけっして誇張でもなんでもない。す っかり大人になってしまったいまのほうが、ずっとずっとあの頃より穏やかで 幸せな毎日をおくっている。  あの頃の私は、週に何度も真夜中の一時・二時まで家を締めだされた。寝て いると、私のうえにものが飛んできて、たたき起こされて追い出されても、私 はどこにも行くあてがなかった。友だちに頼るなんていうことは思いも浮かば なかった。どこにも行くところがないから、泣きながら夜の街をあるいた。自 分でなんとかしなければ、私はいつまでもこんな思いをしつづけなくてはなら ない。そんなのはぜったいイヤだ。そう思ってがんばってきた。  でもふしぎなことに、私はあの頃のことを思い出すと、その思い出のなかに ちりばめられた、赤・青・黄、いろとりどりのネオンの美しさにうっとりとし てしまう。私は、あの頃、たくさんのネオンに守られていたのだ。  泣きながらあるいていて、夜の街でネオンをみつけると、ほんとうにホッと した。まだここに明かりがあった。そしてその中では人が起きて生活してい る。もしあれが都会ではなくて明かりのない田園の夜だったなら、どんなに心 細かっただろう。 けれども私は都会に生まれた。今でも、新宿でたくさんの 明かりをともした高層ビルに向き合うと、心の底から励まされる。ただいま、 かえってきたよ、と心の中でつぶやく。私のことを守りつづけてくれてほんと うにありがとう。   それはきびしい優しさだった。  辛かったからといって、あの頃の思い出すべてを捨ててはしまえない。  ふわりとかるいグレーの制服のスカートを手にとると、むかし見たネオンは 私の胸に今も優しくよみがえる。そして、満天の星空のようにまばゆいネオン にうっとりと見とれてしまう。悲しいことや辛いことがもっといろいろあった はずなのに、私が今もはっきりと思い出すことができるのは、ただただ美しい 都市の夜景なのだ。


[前のページ]  奥野雅子  声
[次のページ]  川本真知子 ものさし
|HOME|
[ 詩の電子図書室 ] [曲腰徒歩新聞] [極点思考] [いろいろなリンク Links] [詩作品 Poems](partially English) [写真 Photos] [フィルム作品 Films](partially English) [エッセイ] [My way of thinking](English) [急性A型肝炎罹病記]

[変更歴] [経歴・作品一覧]