『Intrigue』Vol.3

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特集 ◆ ココロにのこる台詞

特集 ◆ ココロにのこる台詞

映画「ニューシネマ・パラダイス」のなかで
映写技師のおじいさんはトト少年に
映画のなかの多くの名台詞を言いのこします

そんなにたくさんではなくても
だれにでもひとつやふたつは
ココロのなかに温めている
大好きな台詞があるとおもうのです

今回の特集ではわたしたち3人の大好きな台詞を
エッセイにしてみました


「道化者のゆううつ」ザ・ストリート・スライダーズ
                    /恩地妃呂子


  悲しい夢なら 今すぐ起こしてよ
  やさしい夢なら このまま寝かせてよ

 むなしく回るオルゴールのようなギターフレーズで始まるこの歌を、初めて聴いたのは十六才になったばかりの春だったと思う。
あの頃も今も 私は、申し訳ないほど幸せに暮らしている。
 夢もある。
夢?希望・・・眠っているとき見るもの・・・はかないもの・・・。
“悲しい夢”“やさしい夢” しゃがれ声で歌っている彼が見ている夢は どれだろう? この歌を聴くたび、涙が溢れてきて―― 私は恵まれとるのに なんでこんなひどく落ちこむんやろう―― 暗い部屋で膝を抱えてしまう。歌われている内容は、私の体験と かけ離れている。でも 悲しくてしかたがない。
 例えば映画を観て泣くことがある。そんな歌なのだ、これは。 いや、そうじゃない。夢の中で泣くことがある。本当に悲しくて泣いている。自分が物語に入りこむのではなく、自分の物語の悲しみが溢れてくるというか・・・。「道化者のゆううつ」は、心の奥の重い塊をとかし出してくれる。ぼんやりと悲しい詞とメロディ。幸せであっても、なぜか孤独感がたまってしまう私は、この歌に救われている。
 「俺1人でいる時より、2人でいる時の方が淋しいんだよね。」―― スファイダーズのギタリスト、蘭丸がインタビューで言っていた。―― そうなのだ。1人の孤独は耐えられる。趣味や遊びに没頭していれば、まぎれるから。けれども相手を想い信じて待つのは難しい。だんだん気が狂いそうになってくる・・・。でもやっぱり誰かと一緒にいたいのは、ほんの少しのやさしさでも ふれれば暖かいけ、やろね。



「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」サリンジャー/ 奥野雅子



  エズミ、本当の眠気をおぼえる人間はだね、
  いいか、
  もとのような、あらゆる機――あらゆるキ―ノ―ウがだ、
  無傷のままの人間に戻る可能性を
  かならず持っているからね。


 眠れない、というのはつらいことです。眠れなければ起きていて好きなことやってればいい、という人もいるかもしれないけど、たいてい眠れないときはストレスで眠れなくなるので、起きているとその日あったイヤなことがグルグル頭のなかで旋回してしまう。そういう日々がつづくと不眠症になる。
 「エズミに捧ぐ」の作者サリンジャーは、不眠症になったことがあるのでないだろうか。

 「エズミに捧ぐ」は、アメリカ人の若いインテリが主人公になっている。彼は、ノルマンディ上陸作戦の部隊に加わるため町を発つ直前、その町で、両親を亡くした幼い姉弟に出会う。
 頭のよい姉エズミと、イタズラ好きの弟チャールズ。エズミは、なぜ初対面の彼に話しかけたかということについて、「わたしがあなたのところへ参りましたのはね、ただもう、あなたが、とーっても淋しそうだなあって、そう思ったからですわ。」と言う。エズミは、お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように、と言って彼と別れる。
 その後、ノルマンディ上陸作戦を経て、彼は、強度の神経衰弱に陥ってしまう。小説家なのに満足に手紙すら書けない。もらった手紙もなかなか最後まで読みとおせない。そんな彼は、ふと偶然に、エズミからの手紙を手にとる。
 その手紙には、エズミの宝物だったエズミの死んだ父親の形見の時計が同封されていた。
 「あなたのご意向をうかがいもしないで、私の腕時計を同封いたしますけれど、戦争の続きます間、お手もとにお置きくださいませ。(中略)こんな非常時には、私などより、あなたにお使いいただいた方がはるかにお役に立ちますことにきまっていますし、あなたも幸運のお守りとして、きっとお納め下さるものと信じます。
 チャールズが、じぶんからもひとこと付けくわえたいと申します。いま私は、彼に読み書きを教えているのですけれど、 初心者にしてはすごく聡明な子だと存じます。」


  こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは
  こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは
       アイとセップンをおくります チャルズ

 彼は送られてくる途中でこわれてしまったエズミの時計を手にしたまま、下に置くこともできないで、長い間黙ってすわっていた。
 そのうちに、彼はほんとうに思いがけなく、気持ちのいい眠気にひきこまれていく。

 “エズミ、ほんとうの眠気をおぼえる人間はだね、いいか、もとのような、あらゆる機―あらゆるキ―ノ―ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性をかならず持っているからね。”

 子供のころは、両親のそばであんなに安心して眠っていたのに、いったいいつから、それができなくなってしまったのだろう。気がついてみると、いつも追いつめられたようなくるしい不安をかかえている。どうしたら、とおい昔のようになにも考えずにただ今夜みる夢のことだけ考えて、安心して眠れるようになるのだろう。
 いくら人からガンバレとか立ちなおれとか励まされても、どんなに自分で自分を励ましても、どうにもならないという時がある。よく夢のなかで走ろうとしても走れないように、立ちなおろうとしても立ちなおれない。そんな時、手のとどかない心の奥深くをケガしているのだと思う。
 私の場合、心をケガしたことで身体まで眠れなくなってしまった。眠れないと体力が落ちるし、眼がかすむし、長時間立っていられなくなる。私は仕事が忙しい時、次の日の仕事のことを考えると、どうしよう、次の日立っていられなくなってしまう、寝なくちゃ、と、それがプレッシャーになってしまって、よけいに眠れなくなってしまった。
 時計の音が心臓の音にかさなって頭にひびき、起きあがってふとつけた蛍光灯の光にもクラクラしてしまう。よく「胸が痛くなる」というけれど、心が苦しいと慣用句でなくほんとうに胸が痛くなることに私はびっくりした。
 それでも、その傷は、いろいろなことがキッカケになって、私の心の中で雪が溶けていくように、自然にすこしずつ癒されていった。
 立ちなおることができたキッカケは、いっぱいあるけれど、まとめるとこういうことになると思う。
 まず、そういう体験を詩のネタにできてしまう余裕をじぶん自身でもてたこと。私は不眠症になった時のことを「のどの渇く夢を見た」「春春」「映画の中」という三篇の詩のなかでネタとしてしっかり使ってしまいました。詩のネタに使えるということは、どんな状況でも、その状況を楽しめる余裕がある、ということだ。
 つぎに、じぶんは人に愛される人間なんだという自信をもてたこと。
 「エズミに捧ぐ」の主人公とおなじく、私も、ある人のくれた手紙に救われた気がしました。それは、その手紙のなかに私への愛情が感じられたからです。
 その手紙をくれた人は、アルバイトで知り合った私よりも二十才も年上の女の人ですが、美人でとても素敵な人です。その人は、「その経験は、ぜったいムダではないですよ」と私に言ってくれました。
 「きっと子どもが出来ても気持ちがよくわかって良いおかあさんになれると思います。人の痛みのわからない人はぜんぜんダメです。そういう人、多いでしょ?幸せすぎていろんな経験してない人達ですよね。そんな人にはなって欲しくないのです。今は辛くて大変かもしれないけど、明けない夜はないし、春の来ない冬もないのですよ。人生の山登りは色々な登り方があると思うのです。パッと登っちゃう人もいるし、遠回りしたり迷ったり、でもその分、頂上についた時は喜びも大きいと思うのです。今はその時がいつかはわからないけど、その時を楽しみにしています。」
 その時を楽しみに待ってみようか、と、私は手紙を読んでいてそういう気持ちになった。明けない夜はないし、春の来ない冬もない。
 私も、「あらゆる機能が無傷のままの人間に戻る可能性」をちゃんと持っていたのだ。



「沈黙」マリアン ムーア/川本真知子


  いや、沈黙ではなく、慎みだ。


 毎日が、カルチャーショック。私の職場 (外国企業の東京支店)は、イギリス人やアメリカ人、インド人に、はたまたイタリア人、それに日本人の寄り合い所帯だ。やっぱりカレーのインド人、じゃがいも大好きのイギリス人、というように食べ物の好みなどに、それぞれのお国柄を感じることもいっぱいある。慣れないころは外国人の自己主張を、(まったく王様みたいにわがままなんだから)と思ったりもした。
 けれども、ちがうちがうと思い込んでいたからか、それでいて共通点も案外多いことに自然と気づいていくのだった。たとえば同じ冗談を笑いあったりする。あの歌いい歌だよね、とか。たまに同じ気持ちを共有できるとほっとする。ささやかだけどうれしいものだ。そういえばチームの彼らは人を誘うことに気さくでありながら、思いの外、「もしよかったら」を連発して他人に気をくばる。「日本人っぽく」謙遜する。よく目を凝らせば、何でもかんでも主張しているのではなく、彼等なりによりよいものを求めて希望を伝えようとしてるんだなと思う。一人ひとりを見つめてみるとステレオタイプはあまりにもろく、型通りの人なんてめったにお目にかかることはない。外人だから、ではなく、自分以外の誰かと接しているから、毎日がカルチャーショックなのだろう。
 マリアン・ムーアの「沈黙」は、私が外国人にたいして手前勝手に抱きつつあったイメージ「自分の意思主張をはっきりとおす人」を打ち砕いてくれた詩でもある。

    父はよくこう言った。
    「りっぱな人間は、よそに長居をして、
    ロングフェローの墓や、ハーバードの
    グラス・フラワーなどに案内させたりはしないものだ。
    (中略)
    猫のように、自分だけを頼りにして、
    時には孤独を楽しみ、
    嬉しい言葉に出逢ったときは、
    言葉を失うこともある。
    奥深い感情は、つねに沈黙となって表われる―
    いや、沈黙ではなく、慎みだ。」
    (後略)   (亀井俊介他編「アメリカ名詩選」岩波文庫より)

 こんな「間のある人」っていいな。
 慎み深くあることはとてもたいへんなことだろう。だって、もし友達がアメリカに住んでいて、訪ねる機会があったら、やっぱりあちこちつれていってもらいたいと思ってしまうもの。相手の気持ちや状況を考えれば考えるほど、めったなことでは人を訪ねなくなり、言葉すらもときに無用に思うようになってくるのだろうか。「沈黙」を読むたびに私は、その凛とした静かさに、憧れる。



写真:奥野雅子



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