[ HOME ]
[「ボートを漕ぐおばさんの肖像」・目次に戻る]

おばさんとぼくと私──或はおばさんの出現と消滅




 生まれは東京の下町だけれど、小学生のときの三年間、伊豆七島の一つ、三宅島で暮らした。父が島の何代目かの支庁長として赴任したのである。濃紺のダブルなど着込み、髪をオールバックにした父はなかなかの支庁長ぶりだったと思うが、年齢はようやく三十代の後半になったところだったろう。まだ観光客などはまったく来ない時代のことで、風と椿の花と、いくつかの古い火口と、二つの湖とホル・スタインの島だった。東京との交通は東海汽船の何百トンだかの船が、週に一度の割りで来てた。

 私はそこで、毬栗頭の、明るい敏捷な子供だった。海辺の何十メートルも連なる大小の岩の上を、はだしで駆け廻り、飛魚を満載して浜に帰ってきた漁船の舶先かは、大きな石を抱えて海にとびこんだりもした。そうすると、一瞬後には海底にいて、下からゆっくりと船を見上げることができるのである。いつも友だちと一緒で、四季を通じて手足はあちこちと擦り剥き、着ているものは毎日土と埃にまみれた。東京からきた若い男の先生が、つくづくと私を見て、「ユキオは何が楽しくていつもそんなにニコニコしているのだろう!」といったのは私が何年生のときだったろう。村の半分は浅沼という姓だったから、だれもが名前で呼びあうのである。ヒデトシ君、ミッル君、 アンチャン。 タミヨさん、ミチコさん、レイコさん――。

 けれど、正月になると世界は一変した。家には大人の客が引きも切らず(元且には百人くらい来ただろうか)、放歌高吟乱酔を続けているのに、道に出るとだれもいない。向こうの角、またもう一つ向こうの角まで走って見渡しても、子供の姿はまったく見えない。昨日までのたくさんの友だちは、どこへ行ってしまうのだろう。

 一昨年(一九九○年)の暮、私はある出版社から、五篇の詩を依頼されていた「新暮らしの実用百科」という刊行物の、 春夏秋冬に新年を加えた、各季節の扉のための詩である。このようにテーマを決められている作品を、私は殆ど書いていないが、この依頼のときは即座に承諾した。依頼者のUさんは、しばらく前に東池袋の地下鉄のホームで知りあったひとなのである(Uさんは後に、私のためにユングとその周辺の書物のリストを作ってくれたりもした)。それに何の腹案もなく自信もなくて、二、三日あるいは四、五日考えさせてくださいといったとしても、四、五日後には作品自体が九分どおりできているかも知れない。そういうことも、何度か経験している。

 私は第一篇目の「新年」の作品を、間もなくやってくる一九九一年の元且に書こうと思った。それまでは何も書かない。書きはじめたら、春から冬までも一気に書く。

 そして書きはじめたのが、「ボートを潜ぐ不思議なおばさん」である。私の正月のイメージは、どうしてもあの風と熔岩の島のだれもいない道であり、そこにぽつんと立っている子供なのだ。私はその子供の姿だけを頼りに、この作品を書きはじめたのだったが、後半にさしかかったとき、思いがけず不思議なおばさんが現れた。それはまったく予期しないことだったが、私には詩はどこかで予期しないことが起こらないとつまらない。そして次の〈予期しないこと〉は、数力月後に起こるのだが、それはせっかく現れたおばさんに大きな負担をかけ、ついにはおばさんを沈黙に追いこんで行くのである。

 私の前に、正確にいえば私の内なる少年の前におばさんが現れたとき、私は久しぶりに、前途にやわらかな空問がひろがるのを感じた。私はおばさんの導きによって、もういちど少年時代を辿りなおすことができるのではないだろうか。克明に、ゆるやかに辿りなおしながら、私は思いがけない世界に入って行きたい。

 これはまことに楽しい空想であって、一九九一年の一月と二月、私はおばさんと対話しながら八篇の作品を書いた。しかし当初考えたゆるやかさはここまでであって、この年の春が終る頃から、私は余裕というものを徐々に失って行くのである。そして気が付いたとき、おばさんの声を間き取ろうと耳を澄ませ、おばさんに、どうしたらいいのだろうと日夜間いかけているのは、私の中の少年ではなく、作者である生身の私であった。

 これはおばさんの方からいえば、途方もない驚きであったろう。もともとおばさんは、十一、 二歳の少年のために現れたひとであった。少年と対話し、彼を導き、彼とともに想像の赴くまま、幾多の世界を通歴しようと豊かな肉体とあたたかい抱擁力を持って現れたひとであった。それが対話をはじめていくらもたたぬうちに、少年は押しのけられ、おばさんの前には奇怪な「作者」が立っていたのである。おばさんは疲労の度を加え、しだいに黙りがちになって行った。そして私は、おばさんがついに私に背を向け、力尽きて道に倒れている姿を見るようになった。実際に倒れていたのは、作者である私であったが。

 一九九一年。この年、私のそばにはたしかにおばさんがいた。私がもしおばさんが現れた年のはじめのように、あるいは春先までのように、ずっと気持の余裕を保っていたら、おばさんと少年はいまも、かれらのささやかな遍歴をのびのびと続けていただろう。そうなっていれば、私は長短さまざまな詩によって構成される、一冊のメルヘンを持つことができた筈だが、私の辛抱が足りなかったために、おばさんはたった一年の滞在で、早々に故郷へ帰ってしまったのである。

 おばさんの故郷って、どこにあるのだろう。

     (webpage制作者註 原文の段落には行間の空きはありませんが、ディスプレイ上で読みよいように、一行開けました。)


前のページ・遠い花火
次のページ・初出・奥付
 

|HOME|
[詩の電子図書室」 [曲腰徒歩新聞] [極点思考] [いろいろなリンク Links] [詩作品 Poems](partially English) [写真 Photos] [フィルム作品 Films](partially English) [エッセイ] [My way of thinking](English) [急性A型肝炎罹病記]

[変更歴] [経歴・作品一覧]