[ HOME ]
[ 「にぎやかな街へ」の目次 ]

  血のしずく


24号館の四階のベランダの手摺りにとりついて、ひとりの男が刷毛でペンキを手摺りに塗って
 いるのが、ぼくの室の窓越し真正面に眺められる。
赤いペンキ。丹念に動かされる刷毛。
24号館と25号館のあいだを風が東から西へ吹きぬけている。芝生がそよぎ、風がかすかに
 鳴る。朝には朝のすばやい風。夜には夜の激しい風。土は絶えず微動しているだろう。
あッ。
女が声あげて立木の下を走っていく。
赤いスカート。
赤い襞。
深夜の街でぼくを狂わせた多量のウイスキーも、明け方から、抑えがたい性欲をともなって
 消えつつある。
昂進する性欲。
新宿の深夜は寂しい獣たちがほっつき歩き、街はきたなかった。
明け方の、昂進する性欲。
明け方の、透きとおった性欲。
明け方の、風のなかの性欲。
ぼくは窓際に突っ立ち、今日最初のハイライトを吸う。
まだ熟い舌。
絶え間ない煙。
おお、 フィルター。
木の下を通過する女の声。
朝の八時遇ぎ。
風のなかの走る赤い襞。
赤い刷毛の男とぼくとの距離は四十メートルもないだろう。
蒼い土の波動。
空気は澄んでいて、陽を背にあびた男の作業がとても近く近く感じられる。四十メートル
 の距離を支えるのは、吹きぬけていく風と記憶のなかの時間のうねりだ。
東から西ヘ。
風のなかの昂進する性欲。
四十メートルの大氷河。
24号館のさらにむこうに23号館。そのあいだを風はやはり正確に東から西へ吹きぬけてい
 るだろう。
すべてが正確な朝。
23号館の彼方にテニスコート。
朝のテニスコート。
木蔭の水飲場。
野球場。
巨大なバックネット。
スコアボールド。
吹きぬけていく朝の風。
果てしない上空を徐々に移動する朝。
 
 *

古びた公団住宅の各階ごとに設置されている手摺りに、赤いペンキを塗るとはどういうこ
 となのか……。
赤。
丹念な刷毛。
各棟、各階、各室ごとの時間と生活。夫婦茶碗とプラスチックの玩具。プラスチック製の
 時間と生活。
一様に塗られる赤いペンキ。
一様に塗られる赤いペンキ。
赤いペンキ。
赤いペンキ。
赤いペンキ。
赤。
赤。
………。
男の生活。
男は公団住宅のすべての手摺りを赤く塗りつぶすために、何日を費さなければならないの
 だろうか。
武蔵野の全手摺りを赤いペンキで包め!
〈ベランダを包囲せよ!〉という声。
〈朝を包囲せよ!〉
〈緑を包囲せよ!〉
〈プラスチックを包囲せよ!〉
〈言葉を包囲せよ!〉
〈ピアノを包囲せよ!〉
〈ピアノとピアニストを梱包せよ!〉
今まさに刷毛は男にとってまぎれもない生活の尖端なのだ。風景と生活には美が必要不可
 欠なのだな? 美には垢や塵や罅や黴やシミや埃が不可欠なのだ。紙きれと鉛筆と煙草
 と頭脳と、そして雄弁とウィスキーによる未来都市像。
泥の上の未来都市。
海と陸との激しい交合。
すてきじゃないか。
とても日の丸よ。
とても日本列島またはアジアよ。
とても未来よ、都市よ。
とても赤い赤い実よ。
とても赤よ。

 *

赤いペンキ。
男の作業は営々とつづけられる。
性欲の昂進。
耳に残る女の声。
スカートは不思議だ。
転倒するか、襞。
磨きあげられた窓ガラス。
朝の一本のハイライト。
フィルター。
ひょいと気がついて、机の隅に投げ出されたままの新聞を手にとってみる。

"ことば"本来の力を回復させるには

と、大きなゴチック活字が目に躍りこんでくる。積みあげられるゴチック活字。新聞紙は  たちまち茶色に変ってしまうから用心しろ。 それから活字が崩れ、最後に言葉が腐る。 言葉の狭間を覆う大氷河(クレパス)。 24号館。 赤い刷毛。 赤い大氷河(クレパス)。 男の作業はさらにつづけられるだろう。男は傲慢にも九月の世界に背を向けたふりをし  て、自分の時間のへりを刷毛でなぞっていく。 赤いスカート。 おびただしい野犬の群れが公団住宅のあらゆる道を風にさからいながら、入り乱れ、走り  ぬけていくにちがいない‐。 サニークーペ。 九月の大氷河(クレパス)に迷いこんで凍りつくサニークーペ。 二階から五階までの各階のダストシュートの投入ロには「使用禁止」とマジックインクで  書かれた紙きれが、いつまでもセロテーブで貼りつけられたままになっている。 汚れた紙きれ。 ダストシュート内部の筒状の闇。 棒立ちの闇。 赤い闇。 野菜や魚や果物の屑や血のしずくや髪の毛を詰めたビニール袋をぶらさげた女たちが、毎  朝毎夕パタパタ階段を駆けおりる。 ダストシュート。 女たちの赤い闇。 ダストシュート。 女たちの呼吸。 ダストシュート。 女たち。 女たちのビニール袋。 女たちの血のしずく。 清潔な水道の蛇口。壁のなかに張りめぐらされている水道管とガス管。水とガスに囲まれ  た生活。 プラスチックの血のしずく。 女の声と赤いスカートをあざやかに想いおこす。 走る襞。 転倒するか、血のしずく。  * 男の作業は正確につづけられるだろう。 ぼくには出勤時間が迫っている。 芝生を踏んで。交差点をわたって。大好きな関東バスに乗って。カナリヤ色の総武線に乗  って。歩いて。歩きつづけて。坂道をのぼって。出勤。 24号館の、なぜ、九月の、男の、赤いペンキなのか。 男は自分で塗りあげた手摺りの赤さに眩んで足を踏みはずし、ベランダから落下するかも  しれない。いや、男は今朝もうすでに刷毛を握って何回も落下しているのかもしれな  い。そういえば、24号館の下の芝生が何箇所か真っ蒼に染まっている。 寂しい獣たちの赤い大氷河(クレパス)。 何と残酷で、すがすがしい朝なのだ! 朝、九月。 女たちの、ビニール袋のなかの血のしずく。 スカートを伝わり落ちる血のしずく。 風を伝わり落ちる血のしずく。 ドアを伝わり落ちる血のしずく。 関東バスを伝わり落ちる血のしずく。 武蔵野の朝を伝わり落ちる血のしずく。 九月を伝わり落ちる血のしずく。 ピアニストの指先を伝わり落ちる血のしずく。  * 風のなかの野犬の群れと女の声。 赤い刷毛の男に対し、ぼくのなかに猛烈な嫉妬がわいてくる。ぼくは卑怯にも、作業する  男を25号館の四階の窓ガラス越しにながめていて、しかも、四十メートルたらずの距た  りと吹きぬけていく風はどうしようもない。 すばやく窓をあけよ。 九月の大氷河(クレパス)が輝く。 壁のなかの静かな朝。 黒く焼けた少女たちが、なまぐさい足どりで海から還ってくるのは、きまってこんな朝の  ことではなかったか。 朝の血のしずく。 世界は 九月のとばくちであえいでいる。 ぼくは関東バスに乗り、朝の風に揺られて出勤しなければならない。 窓をあけよ。 ドアをあけよ。 ガリッガリッと 赤い大氷河(クレパス)をすべる性欲。 赤いペンキの男。 転倒するか、走る襞。 朝の大氷河(クレパス)。 男は赤いペンキにまみれて、ベランダから声もなく四回も五回もまっさかさまに落下する  にちがいない。 残酷ですがすがしい朝。 血のしずく。 関東バス。 関東バス。 関東バス。 蒼い血まみれの芝生。 九月の血のしずく。 血まみれの、朝の、血のしずくだ。


前のページ・西船橋へ!
次のページ・グラフィック2

|HOME|
[詩の電子図書室]
[曲腰徒歩新聞] [極点思考] [いろいろなリンク Links] [詩作品 Poems](partially English) [写真 Photos] [フィルム作品 Films](partially English) [エッセイ] [My way of thinking](English) [急性A型肝炎罹病記]

[変更歴] [経歴・作品一覧]