鈴木志郎康の映像作品について



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「商品にしたくない自分=鈴木志郎康」


                   かわなかのぶひろ

 その昔、自分の人生を決定づけることになるかも知れないほど恋心を抱いていた女性の 書棚に、「純粋桃色大衆鈴木志郎康評論集」なる書物があった。妙にけばい装丁のその 書物は、周囲のシックな背表紙から敢然と突出していたので、彼女の部屋を訪れる度につ い拾い読みをするようになった。300ぺ一ジ足らずのその書物の、たしか終わり近かった と思うが、ジャン=リュック・ゴダールについて書かれた文章があった。
 映画を「表現」として論じたその文章には、ゴダールの作品分析だけではおさまらない 何かがとぐろを巻いていた。著者の映画への情熱とゴダールの作品が、激しくスパークし 交尾しているような、そんな文章だったのだ。
 今日でこそ、画家が絵を描くように詩人が詩を書くように「個人」の「表現」として映 画を手がけることはあたりまえになったけれど、当時、ゴダールのように純粋に、個人の 表現として映画をつくるということはほとんど不可能だった。映画に激しい憧憬を抱きな がらも、現実原則の前で無力感に苛まれる著者の焦燥は、そのまま当時のぼくの気持ちを 代弁するものでもあった。
 とはいっても、鈴木志郎康はこのときすでにH氏賞受賞の著名な詩人であったし、NH Kの映画カメラマンとして制作現場にも立っていた(それ以前から8ミリによる映画制作も 手がけていたことも後に知った)。なんて恵まれた人なのだろうという羨望感のほうがは るかに強かったことは否めない。しかしこの書物でなによりも印象的だったのは、「自分 の内面には決して商品にしたくない部分があり、それを保ち続けることこそ真性の自分に ほかならない」と書かれた一節だった。現実原則に搦めとられまいとする著者のこの決意 から、後に16氓ノよる『日没の印象』をはじめとする一連の作品が生まれ、日本の実験映 面史に「日記映画」という新しいジャンルをもたらし、NHKという安穏なバックグラウ ンドを飛び出してから、やがて目分を被写体にした『15日間』というなみはずれて異色の 作品が生まれるのである。
 鈴木志郎康が生み出す映画は無造作である。一見そうみえる、しかし騙されてはならな い。いわゆるプロのカメラマンが描く商品としての美学とは切り離したところでのみ、そ の表現は屹立しているのである。
 今回は上映されないようだが、1960年代の半ばごろに手がけられた『EKO series』など は、カール=テホ・ドライヤーばりのアングル・ショットで女性が捉えられ、プロの業と 美学を堪能させるものだった。けれども75年の『日没の印象』以降の作品は、映画におけ るありていの美学や完成度とは明らかに別の表現をめざすようになり、文字通り日記をつ けるように自分の周辺を撮り始めている。「商品にしたくない真性の目分」が映画をつく ることの意味を、哲学的ともいえる深度で矢継ぎ早に問い始めるのだ。その作業は、やが て77年の200分におよぶ『草の影を刈る』に到達し、さらに15日間にわたる独白を捉えた 80年の『15日間』で頂点に到達する。これは「個人」で「映画」を手がけるということの 意味を問い続けた作者が、必然的に招いた映画の極北といえよう。
 しかし、鈴木志郎康の映画への問いかけは終わらない。翌81年からは、正津勉や伊藤比 呂美、ねじめ正一や吉増剛造、中沢新一や飯田善国、福間健二や福間患子といった他者と の関係の中で自らを捉える試み。さらには、窓からの風景を年間にわたって撮り続けた 7時間半にもおよぶ『風の積分』を89年に完成する。「私」をつきつめ「極私」へ到り、 「他者」へと広がり「風景」へと絞りこむ。その凝縮と解放のプロセスは、いままた、作 品の中に他者のフッテージを取り込むという奇妙にあけっぴろげな新作『内面のお話』を 生み出した。
 この油断ならない作家は、いったい映画をどこまで更新するっもりなのだろう。

詩人が映画を作るということ


                     鈴木志郎康

 「個人映画」と呼ばれる映像表現を1963年から、現在に至るまで36年間継続して行っている。それは自分の身近な物事、情景、人物を映画カメラで撮影して、表現として形式を持った構成をして、見る人と共感を持とうという映像表現だ。わたしの場合は、現実に生きている時間を映像が再現する時間に置き換えたとき、どのような意味が生まれてくるかを探ること、またカメラに対するフェチッシュな嗜好を満足させるということを軸に表現を展開してきた。それは、「個人映画」の可能性を探るということでもあった。
 ではなぜ個人的な映像表現をを始めたのか。当時、わたしはNHKにテレビの映画カメラマンとして勤務していた。そこで映画の撮影や編集の技法を学んだ。それと同時に映像の社会的なコミュニケーションということの意味合いも学んだ。マスメディアの中では、そこで働く者には個人的な表現は許されない。わたしは詩を書く人間でもあるので、詩人として映像によって自分の表現をしたいと思った。そして自分の映画を作った。
 ところで、いざ、個人的に「映像表現」をしようと思っても、16ミリフィルムでは莫大な費用がかかる。そこで、当時流行し始めた8ミリフィルムで『EKO Series』などを作った。一方でプロのカメラマンでもあったので、8ミリでは画質が不満になった。その時、30数年前にアメリカで売られていたアマチュア向けの16ミリカメラ「シネコダック」を手に入れた。そのカメラで、わたしの映像表現の原点となる日記映画『日没の印象』を1975年に制作した。これを、荻窪の清水画廊で公開してから16ミリでの映画作りに本腰を入れるようになって、他の事情も重なったが、200分に及ぶ『草の影を刈る』を1977年に制作してNHKを退職した。
 これまでに、1963年の8ミリ映画『EKO Series』から数えて、1999年の『内面のお話』までで45作品を制作した。制作に当たっては、二,三の人に手伝って貰いながら、自分で撮影して自分で編集する。カメラは最近では主にゼンマイ巻きのBOLEXと、音声とシンクロできるモーター回転のBOLEXを使っている。昨年、20年前にテレビ局が使っていたという古いシネコーダーと音声とシンクロさせて編集できるステンベックとを購入して、編集と音付けを一人で出来るようになった。
 詩を書くというときは、もっぱら自分の想念が相手になるが、映像作品を作るとなると、想念から始まるには違いないが、たとえ自分自身を撮影しても、対象との関わりが出てくる。詩だと自分の頭の中だけで終始するが、映像作品だと人や物とつき合えるから、制作過程が開けてくる。つまり、現実の空間や時間が作品の中に入ってくる。詩を書き、同時に映像作品も作っていると、現実の固有性と言葉の抽象性を抱え込むことになり、「意味」が絶えず揺れ動いて、なかなか人には理解されないかもしれないが、自転車のペダルを漕ぐように、ある種の確信を得ながら先へと進んで行くことができる。今回、長編の日記映画『草の影を刈る』を見返したが、同じ頃の書いた『家族の日溜まり』(1977)や『日々涙滴』(1977)の詩との重なりが面白かった。その映画の中では、40歳を過ぎて人生の転機を迎え、少々暗い気分になっているのに、画面に差し込む日差しは明るい。日差しの明るさはカメラが捉えたもので、それに向かって作者が心の窓を開いていくように見えた。それは、言葉だけでは出来ない表現だと思う。詩と映像のそういう関係が面白い。


極私から極北へ


                        かわなかのぶひろ

 志郎康さんの映像作品は.日本の実験映画の中で、最初から、ちょっとちがった顕われかたをしてい た。
 いっとう最初に見せてもらったのは、『日没の印象』という、75年に手がけられた25分の作品だった。カメラ店のウインドで見かけた古いムービー・カメラを買うところから撮り始められたこの作品は、わが国の実験映画に“日記映画”というジャンルをつけ加えなければ収まるところがないほど、なみはずれて異色だった。
 その後、志郎康さんは、自分の体験のみにもとづいた作品をつぎつぎと生み出し、77年にはそれらの 集大成ともいうべき200分の大作『草の影を刈る』を手がけるが、このころから志郎康さんは、自分の周縁を描くという作品スタイルをさらにつきつめ、自分自身にカメラを向けるという恐しい作業に着手しはじめた。『写きない夜』(79年)をステップに、15日間にわたって自分を撮り続けた『15日間』 (80年)へ至るそのプロセスは、あたかも砂時計の砂がちょうどくびれに落らてゆくときのように、作者の中で表現というものが煮つめられ、絞られる、必然の過程だったのだろう。
 文字通り「極私」というところに到達した志郎康さんは、やがて正津勉や伊藤比呂美を被写体とした 作品や、今回上映される『手くずれ』(80年)をステップに、いわば砂時計の砂がくびれを抜けたよう に83年の『眺め斜め』へと鮮やかなつき抜けを見せてくれた。
 今回、作者が選択した三本の作品は、こうしたそれぞれのスナッブを如実に示すものである。が、そ の里程で行なわれた作者の、表現というものに対する壮絶な格闘は、作品のうしろにすっかり隠されてしまっている。とりわけ新作の『眺め斜め』などは、いわゆる“作品”になってしまうことを周到に拒んでいる、といっても過言ではないようななにくわぬ表情をしているのだ。
 いくぶん解説めいた言いかたをするならば、この作品は、自分という存在を徹底的に問いつめてきた 作者が、自分の表現や思考、といったものを宙空に溶解させる術を体得した、いわば極意といって良い だろう。仏教の世界では、自我を超えたところに超自我といった三味境があるということを聞いたことがあるけれど、志郎康さんの新作を見ていると、表現とか作品といった自我のレヴェルを、実にかるがると踏み越えているような気がしてならない。それが、たぶん中沢新一さんと気脈を通じ合うところなのではなかろうか?
 自分というものを問いつめてゆくと、しばしば他人のなかの自分に気づかされる。それをさらに受容 してゆくと、人類という種の問題にゆきあたる。人類の種の記憶に、志郎康さんとは異なった角度から アプローチしつつあるぼくにとっては、志郎康さんの必然的に辿ってきた里程が、羨ましいぐらいに身 近に感じられてならない。さりとてぼくに、志郎康さんのような強靱な精神力でもって作品と対時できるか、となると、はなはだこころもとない。まだまだ“表現”や“自分”ばなれができない所為なのだろう。世の中のおおかたの“作品”も、そこらあたりでたゆたっているにちがいない。
 したがって志郎康さんの作品は、相も変らず、なみはずれて異色なのだ。

「IMAGE FORUM」シネマテーク NO.328 
「鈴木志郎康のはみだし映画」1984 4月12日〜15日


たとえば恋人の写真


                         萩原朔美

 別れた恋人の写真を、ビリビリ破いて紙クズ篭に投げ捨てる。一瞬の沈黙。又紙クズ篭の中をガサゴソと捜して、手の平の上で、バラバラの写真を、ジグソーパズルみたいに並べてジッと見る。誰かがこんな意味の歌を歌っていた。鈴木志郎康さんの“極私的”映画は、この歌のように見える。心の中では、カメラは捨てた筈なのに(職業として割り切る事によって)思わず手が、紙クズ篭の方へのびてしまう。そして、誰も居ない部屋で、そっと写真を復元するように、16ミリカメラを分解し、フィルムを装填して、テレ隠しの様にカメラをシュートするのである。誰でもそうだ。そんなに物事をスパッと割り切れる人は居ない。どこかに心を残したまま、別の方面へ意志の表出として向うのだ。向わざるをえないのだ。
 僕は鈴木志郎康さんが、どの様なムービー・カメラマンであるか知らない。すぱらしくうまいカメラマンと言う気がどうも起こらない。何年か前にテレビの仕事をした時、NHKのカメラマンと3日間付き合った事があった。この人は、何と、望遠レンズの付けかたが分らなくて、ガサゴソと手を動かして20分もかかったり、苦心してやっと撮影したのに、そのワン・ロール全部が露出アンダーで使えなくなったり、とにかく、おっそろしく下手だった。僕はそれ以来、NHKのカメラマンは、まったく信用出来ないのである。だから、鈴木志郎康さんがテクニック抜群の人だとは思えないのだ。それに、詩人としての鈴木さんばイメージ出来ても、それ以外の顔を持つ人物像としては、およそ見当が付かないし戸惑ってしまうのだ。
 張り合わされ、元の写真にもどった恋人の写真は、やはり元のものではない。鈴木志郎康さんの、個人映画も、おそらく、カメラマンとして撮ったフィルムとは似ても似つかないものだろう。写真は、たしかに恋人の顔だ。けれど切りきざまれた白いスジが入っている事以上に、切ってしまったという思いが、どうしても、その写真の表面を覆い、ぬぐい取る事が出来ないのだ。つまり、同じ形であるのに、もう別のものになってしまうのである。鈴木さんのフィルムは、同じ素材を使っているのに、すでに個人映画を指向した瞬間から、もう、別の映画としてのフィルターが掛けられているのである。
 その事が、一番端的に表われているの『日没の印象』である。これは自分で買った古い16ミリカメラを持った事から始まる、映画と自分との関係を、たんたんとした語り口で話すものだが、そこには、生れて始めてカメラを手にした者ならば、すぐに共感するある種の感動がストレートに出ている。見ている内に、それは鈴木さんの個人史、日記であるにもかかわらず、まるで、こっそり母親に禁止されている駄菓子屋へ行った時のような、みょうな共犯考的心情にさせられてしまうのだ。こう言う心地は、おそらく個人映画というもののもつ大きな特質なのではないだろうか。特に,『夏休みに鬼無里に行った。』にしろ、あまりにストレートで、あまりに優しい視線で、あまりに素朴な作りかたなので、こちら側のカマエを払拭させてくれ、素直に共犯者になれるのである。言ってみれば、こういう映画は、個人映画の原点であるだろう。この優しさは、メカスの日記映画を思い出させるものだ。
 『やべみつのり』という8ミリの小品には、この鈴木志郎康的やさしさがもっとも現われているものである。タイトルにある様に、やべみつのりと言う人の事を撮っているのだけれど、その中のナレーションで「一だから、かなしくもある一」と言う言葉が出て来て、やべみつのりと言う人の、何とも言いがたいイベントが記録されているのだが、このシーンはやけに印象深く目に焼き付いてしまう。そのセリフぱ、作者がいかに友人を大事にし、人間を愛しているかが分るからだろう。だいたい優しい視線を 持てるというのは、どれだけの地獄を体現したかの分量で決まるのである。地獄を見ない人に優しさは持てない。僕はだから、画面になにげないカットや友人の笑い顔などが充満しているのを見ている内に、逆にゾッとする程厳しい一人の男の姿を感じてしまった。それは,優しくすなおな映画であればある程、スクリーンの背後にほうぼうと吹き荒れる風の音が聞こえてくる様なのである。よく、人の後ろ姿を見ると、その人の人生の歴史が分ってしまう、と言うけれど、僕は鈴木さんの映画を見ていて、ふと、そんな事を思ったりしたのである。
 同じ優しさの視線でも、『極私的魚眼抜け』は少しその傾向が違う。これは、魚眼レンズという、ビジュアルな面白さに憑かれた作者が、日常のありふれた風景を撮影し、その歪みを楽しんでいる内に、中心と周辺という、世界を解剖する一つの認識論を発明したプロセスである。これは、映画によって考えた、というより、映画と対峠する事によって、自己の思考方法を見つけたと言っていいだろう。こういう、意図しない内に意図的なものが出て来てしまう作品は、もっとも作者の姿勢を浮き彫りにするものである。この作品は、だから個人映画作家としての鈴木志郎康を理解する上で、もっとも重要なのではないだろうか。そしてこれからの展開の原点の様なものが内包されている様に思えるのである。  一度やぶいて再構成した恋人の写真を、又ポイとゴミ篭の中に捨てるか、封筒に入れてポケットの底にしまい込むか、僕には分らない。けれど、とりあえず、手の上に乗せて見てしまった事実は消えようがない。まあ、どちらにしても、別れた恋人の写真を、もう一度見る時の顔というのは、どんな人でも、とても素直な表情をするのではないだろうか。それは何よりも、この鈴木志郎康さんの映画の優しさが証明している様だ。
(「UNDERGROUND CINEMATHEQUE」NO.28 1976年2月5日発行)

FILM MAKER'S NOTEBOOK 21
●私自身の個人映画を辿って考える


                          鈴木志郎康

                   私が個人的な映画を8ミリで作り始めたのは今から12年程前の1964年頃であった。私はその2年前に大学を卒業して、NHKにテレビ映画のカメラマン、つまり16ミリ映画のカメラマンとして入社し、広島に転勤させられていた。映画が好きだったからカメラマンになったわけだけれど、テレビで放映されるフィルムというのは、私が思っているフィルムとはおよそかけ離れたものであった。もっともその頃は、そのかけ離れているということが、本質的なことであるとは思いも至らず、自分が思っているフィルムをテレビの映像として実現したいと考えていた。しかし,私はカメラマンで、番組を作るのはプロデューサーなので、フィルムに関しては常に不満があった。その頃、私の頭の中にあって、フィルムというものの見本となっていたのは、大学を卒業する直前、つまり1960年頃に見たポランスキーの『タンスと2人の男』及び作者を忘れてしまった『DOM』というポーランドの短編であった。それは人間の内面を正確にイメージ化した作品として、私白身がフィルムにかかわるときに目指すべきものとして強烈に頭に焼きついでいたのであった。
 広島での生活は、社会の中で疎外されている自分自身の姿を具体的に私に自覚させることになった。私は詩を書くことにも熱心であったが、8ミリの映画を作ることにも熱中した。しかし、映画の方は、一種の自己満足をもたらしただけで成功したとはいえなかった。私は撮る対象として、家族といっても一緒に生活している1人の女、広島の街、それにグラビアしかなかった。その上、ダブル8の画像は小さく、16ミリフィルムを職業としている私には不満であった。それでも、私は自分の映画製作の要求を満足させるべく、8本の短編を作ったのであった。
 カメラはその頃発兜された「ニコン8ズーム」を買った。発売されたぱかりだったからか,モーターが焼けてしまうという故障が2回も起ったりした。最初に作ったのは、『EkoSeries』ともいうべき、5つの短編からなる作品群であった。橋の上を1人の女が歩いて来て、橋の上に落ちている本を見つけて、見ると、そこに卑猥なアフリカ原住民の写真があるのに驚く、という『Eko on thre Bridge』。冷蔵庫 の中に冷やしておいてある粘土で作った男の首にキスする女、という『Eko in B1ue Kiss』。とても成功しているとは思えないが、私は私なりに、物が人間の欲望のありかを引き出すということを、映像の上に実現しようとしたのであった。明らかに『タンスと2人の男』的な映画を作ろうと意図したのであったが、只単に物と人間との強制的な衝突を撮れば、それで何かが伝わると思っていたのは、浅はかというよりはない。
 これを作一ノているうちに、グラビアの映像を取り込むことによって、自分の狭い生活空間を映画の中で、意識の上で拡げられるということに気がついたのであった。テレビのドキュメンタリーなどでよくやる手法であるが、私の方はそれによって、自分の限られた現実の意味を少しは破れるように思えたことであった。その方法によって、日常生活の中で断片的に撮影した妻の映像を、ひとつながりのある生命ある映像に組み立てることが出来た。『NITORISH WIFE一出産之神秘』がこれである。知人も余りいない、狭い日常生活の中で退屈して行く女の表情をいくらか伝えるところがある映画になっていると思う。この方法で私自身が最も成功していると思っているのは『家』という短い作品である。それは、無音の映像の暗示性を軸にしてモンタージュしたところに、一種の抒情を生み出せたからである。
 この時期のフィルムで私が一番愛着し、一つの終点に到着したと思えるのは『やべみつのり』である。このフィルムを作って、グプル8の8ミリの画面ではもう満足出来なくなった自分を見い出したのであった。カラーの色も悪いし、高感度モノクロフィルムの粒状性も悪かったので、いやになってしまったのであった。内容的には、16ミリの画面にも耐え得るものであると自負していたからであった。
 やべみつのりさんは広島で知り合いになった若いデザイナーであった。当時彼は東洋工業のデザイン室にいて、コマーシャルデザインをやっていた。彼は又マラソンランナーであり、正月には広島市から倉敷の生家までの180キロを走って帰ったということであった。彼は自分の内部に湧き出てくる表現を、何とかして十全に実現したいと思っている若者であった。あるとき、やべ君は太田川放水路の河原で、「おめんてんてん」と称するハプニングを開いたのであった。当日は雨で、コラージュしたり、顔を描いたりした紙袋をかぶって集会を開くというハプニングは、見ていていたましりという以外にはないようなものであった。私はこれを8ミリで撮った。そして、私はやベ君をドキュメントしようと考えるようになったのであった。
 やべ君が広島の街の中から、近くの山の頂まで昇って行くのを夜から夜明までに設定して、これを縦軸に、そこへ「おめんてんてん」のハプニングや走っている姿を入れて、やべ君の肉体と感情を据えようとしたのであった。この映画は、やべ君を知っているものは一層やべ君に親近感を持ち、やべ君を知らない人は彼の一途な気持を受け止めるというフィルムに出来たのであった。ここで、私は個人的に映画を作るという場合の、フィルムを通じて人に伝わるものが何んであるか、おぼろげながら感じ取ったのである。それは、撮る人と撮られる人との間に生まれる感情なのだ。その感情だけは否応なしに見るものに伝わって行くのだ。私はそうして人間を撮ることによって伝わる何かをもっと追い求めたいとは思ったが、その後、やべ君のような人物に出合うこともなく、更にもっと大きなこととして、8ミリの画面にあきたらなくなってしまい、その上、東京へ再び転勤して生活の場に大きな変化があり、映画を撮るのを止めてしまったのであった。
 1969年に、詩誌「凶区」の同人であった天沢退二郎氏が結婚することになり、同人が結婚記念に贈る8ミリ映画を作ることになり、私がこれに当った。同人の藤田治と高野民雄に出演してもらって、天沢退二郎の詩の美しさとなっている曖昧性を映像で実理してみようと試みた映画であった。天沢退二郎の写真を顔につけた2人の男が出没したり、抱き合ったりするという妙な映画『アマタイ語録』が出来たのであった。
 1972年から私は東京造形大学に時間講師として行くようになり、そこで私は詩の言葉と映像について話をするようになった。映像についての時間は実習として,16ミリ映画をゼミで作ることにしたのであった。そこで私は、いわゆる劇場或はテレビで上映される映画と、個人的になされる表現としての映画とをはっきり区別することにした。講義として、学生にそのことをはっきりとわからせることが必要だったので、個人的になされる表現としての映画を、私なりに理論的に考えなければならなかった。そ こで出て来たのが、商品として制作される映画と、純粋に表現のみを志向して制作される映画という区別を、映画の現実的な様態に当てて考えを進めたのであった。実際、映画を作るのには金銭が必要だ。それも、決して個人的なレベルではどうにもならない位の金が掛る。この金銭の問題が、映画の制作には常についてまわるのだ。それでは、金がなければ映画は出来ないのか、ということになる。映画会社やテレビ局が制作するような仕方で映画を作ろうとすれば、たしかにそれは月給取りや学生のような身分にいる者にとっては、個人的に出来るものでぱなくなってしまう。ここのところから考え直さなくてはならないのだと考えた。そして、既にある映画の作り方ではなく、自分の持っている資材と考えの上に立って、可能な限りの映画を目指して行くという考え方を進めることにしたのであった。幸い造形大には、アリフレックスBLとボウリュウ16の2台の16ミリ映画カメラがあった。そして、ゼミに参加した学生の1人1人が持ち合せの映画に対する考えを持ち寄り、自分たちに可能な金を出し、自分たちの映画を、自分たちの表現として実現したのであった。72年にリバーサルフィルムに6ミリテープで音をつけたフィルムを1本作った。それから毎年、1本ずつフィルムを作った。
 このゼミナールは誰よりも私自身を教育することになったのであった。個人的に作る映画は、自分の職業上の不満を解消するものでも、慰めとするものでもなく、自分自身の表現として立派に成立するものだということを自分で学んだのであった。個人映画は単なる趣味ではない、それは商品として上映される映画とは全く別の、その種の映画が持ち得ない真実を持っているものであるということを確信するに到ったのであった。そう考えるようになったとき、ジョナス・メカスの『リトアニアヘの旅の追憶』を見て、私自身また私の映画を持とうという気持になった。有り金全部をはたいて,スーパー8の最高 級機「ライギナスベシアル」を買って『胸をめぐった』を作った。そして、カメラ屋の店頭で16ミリカメラ「シネコダックK」が3万8千円で売っているのを見つけたときは興奮したのであった。『日没の印象』に始まる私の16ミリ個人映画が生れてくることになるのである。

鈴木志郎康 FlLMOGRAPHY

EK0 Series      8mm   B&W/Color
@EKO on the Brigde AEKO in the Dark  BEKO along the Wall
CEKO in Blue Kiss  DEKO has come to Tokyo 

ヒロシマでTakTam    8mm   B&W
凶区のりものずくし   8mm
NITORISH WIFE     ─出産の神秘        8mm 
隅田川         8mm       Color
家           8mm      B&W /Color
Kenokenoi動物ずくし  8mm      B&W
やべみつのり      8mm      B&W/Color
アマタイ アマアマ   8mm      B&W/Color
宣言         16mm       B&W        以上1963年〜67年
アマタイ語録      8mm     B&W/Colr               1969年
胸をめぐった      8mm  Color       1973年
日没の印象      16mm      B&W/Color     1975年
夏休みに鬼無里に行った。16mm   B&W/Color          1975年
極私的魚眼抜け    16mm      B&W/Color         1975年
記憶の土手      16mm     Color              1975年

(「UNDERGROUND CINEMATHEQUE」NO.28 1976年2月5日発行)

 

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