『芽立ち』についての
帯谷有理とのメールの遣り取り・その二

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帯谷有理の第三のメール
1998年5月5日
鈴木志郎康様

前略。この「往復書簡」を、鈴木先生がフェスティバル会場のト
ークでご紹介されたお陰で、多くの人が興味を持ってしまった
ので、この一連のやりとりが、かなり有意義であることを、痛
感致しました。

 『芽立ち』については、かなり私の方が、重箱の隅を突つき
過ぎたきらいもありますが、こうした論争はもっと活発に作家
同士でやるべきです。あのフェスティバルでも、昔は、松本俊
夫さんや那田尚史さんとかがいて、侃侃諤諤やってた。何の為
に会場で顔を合わせているのか分からない、とお思いにはなり
ませんか?

 『芽立ち』の音の取り扱いについては、、鈴木監督が、

> わたしは帯谷監督のように積極的に受け止めていない。
> ホントに「音が芽」だけの作品です。
> 手元で音を扱えるという楽しみは捨てがたいものです。作る
> 方としては先ずそれ。
> 同時録音の意味を考えるところにまで至らず、ただ16ミリフ
> ィルムに自分の手で音を付けることできるというのが嬉しい、
> というに過ぎません。

...と、おっしゃる以上、また、とりわけこの論争の対象になっ
ている、例の、フォークシンガーを撮りに宇都宮を訪ねたシー
ンについても、

> 単純に「鈴木監督の耳が聞いている音」とは思っていない。

> カメラのアングルとマイクのアングルとが一致するというこ
> とはないと思います。近寄ったのだから、音も大きく聞こえ
> なければいけないとおっしゃいますが、視野としてはもっと
> 近寄りたいという気持ちが表れていたのですが、その気持ち
> を単に音の大きさの変化だけで表していいものでしょうか。
> 囁き声ならともかく、歌っているということでは、歌が主で
> あって、それを聞かせたいという気持ちが問題で、あそこで、
> わたしが近寄ったということのリアリティは視野の変化だけ
> で十分と思ったのです。

...と、おっしゃる以上、これより先は水掛け論になるだけです。
とりわけ、鈴木監督の決定的なお言葉:

> カメラのアングルとマイクのアングルとが一致するというこ
> とはないと思います。

...見解が分かれるのはまさにそこなのです。その様な考え方か
ら出発されたのであれば、あの「手ブレを伴った手持ちカメラの
映像」にも、あのカットが「わざわざ2ショットで撮られてい
る」ことにも、これ以上どうしてイチャモンがつけられましょう?

 ところで、「カメラのアングルとマイクのアングルとの一致」
と云うことと、「画と音の一致」ということは、本来は別の問題
です。が、問題をややこしくしているのは、『芽立ち』が「主観
的な視点」で撮られた同時録音の映画だからです。

 画と音が一致することがないということは、昨日私が言いまし
た。ただしそれは、ストローブ=ユレイや『GOSHOGAOK
A』のような、「客観的な視点」で撮られた同時録音の映画につい
てです。
 元々自然界で発生する光と音の双方に何の関連もありませんし、
たとえ、そこに「同時性(共時性)」を認めたところで、それらが人
間に知覚されないと意味を持ちませんし、その「同時性」さえも単
に人間の「都合」に他ならないのです。サウンドトラック付きの
フィルムはそれらを個別に記録しているだけであって、統一はし
てくれません。それらを統一するのは、実は人間なのです。
 逆に云うと、けだし人間がそのような能力を持っているからこ
そ、サウンド映画、トーキー映画は人々を惹きつけるのでしょう。

 ただし、「客観的な視点」で撮られた同時録音の映画だと、昨日
述べたようにサウンド映画というメディアに対する人間の知覚の
限界故に、ショットの持続が長ければ長い程、画と音はそれぞれ
剥離し、それぞれの元の出どころへと回帰してしまうのです。
 だからこそ、フェッリーニもブレッソンもわざわざ音を全部作
り替え、アフレコにするのでしょう。まさに崇高な「客観的な視
点で撮られたアフレコの映画」と云うわけです。

 問題は、『芽立ち』のような「主観的な視点」で撮られた同時録
音の映画の場合です。立派に「画と音を統一する」人間が、画面内
に登場し、カメラまで肩に乗せているのです。そうした場合、一
体どのような「美学」でもって、無形式にも「カメラのアングルとマ
イクのアングルとが一致するということはない」と言えるのでしょ
うか。
 然るべき場所にカメラが位置しているのなら、マイクはどこに
位置するべきか?、マイクの種類は?、画と違い、フレームのな
い音響を録る場合、どうしても避けられない「余分な音」の混合は
どうするのか?、そして何よりも、何の音が録りたいのか?、と
いった美学的基準は、まさに画面内に登場した「立派に画と音を
統一する人間」の持つ、「主観的な視点」が置かれた場所の名にお
いて、慎重に選択されるべきです。

 つまり「何のために選択されるのか?」ということ。

 「同時録音」つまり、「生の画と音のリアリズムの統一を目指す」
という、途方もない人間のワガママを成就させたいのなら、まさ
に生身の人間がそうであるように、眼と耳は同じ場所に位置すべ
きです。
 『芽立ち』は、まさにそんな「同時録音」を目指している生身の
人間が画面内に登場しつつも、「リアリティは視野の変化だけで
十分」と、開き直っている。それは生身の人間が、
 「私の眼は確かにここについてるが、どうやら耳は別の場所に
あるようだ」、
 と言っているようなもの。

 私は、そのような人間が存在するとは思えません。またまた噛
みついてしまったようで恐縮です。確かにもうこれ以上生産性が
感じられないとご判断されたのなら、話題を変えましょう。

敬具。




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帯 谷 有 理
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obitani@catnet.ne.jp
http://www.hi-ho.ne.jp/yuuyuk/
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志郎康の第三の返事
1998年5月6日
帯谷有理様

前略 熱意のあるご返事、とても嬉しいです。会場で披露した後、何人かの人から
それについての話がありました。会場でインスタレーションをやっていた黒川さん
とは、彼の作品を見ながら、映像と音の問題について語り合いました。彼の多重映
像に付けているノイズという音のことも考えました。そういうことも含めて、作家
の間でもっともっと話し合うと、一層楽しくなるでしょうね。

>こうした論争はもっと活発に作家
>同士でやるべきです。あのフェスティバルでも、昔は、松本俊
>夫さんや那田尚史さんとかがいて、侃侃諤諤やってた。何の為
>に会場で顔を合わせているのか分からない、とお思いにはなり
>ませんか?

その通りですね。でも、「松本俊夫さんや那田尚史さん」といっているところが気に
なります。彼らは話すのが専門の人たちだからです。作る人が話す方が、次に作ると
いうことに刺激になるのではないでしょうか。話すというのは、当たり前といえば当
たり前なのですが、現在の社会では交通の構造が「売買」というところに局限されて
しまっているために、話し方を忘れさせているのですね。インターネットは、雑誌の
活字に依る交通とはまた違った交通の道を用意してくれています。それを開くかどう
かは、利用する者に掛かっていますが。ちなみに、「Longtailフォーラム」の「詩の
会議室」でも、詩について論議を重ねています。一度、覗いてみて下さい。
 さて、議論に戻りましょう。

>...と、おっしゃる以上、これより先は水掛け論になるだけです。

というより、わたしは帯谷さんほど音について深く考えていなかったので、帯谷さん
のご意見を謙虚に聞いているというわけです。それを、なってないといわれたので
は、せっかく帯谷さんが音について深くお考えなのに、それを受け止める余地を塞
いでしまい、ご自身の説を「独断」として祭壇に祭り上げること終わってしまうの
ではないでしょうか。なにしろ、まだ、音は映像に対してどういう意味を持つもの
か、また映像の意味の持ち方と音の意味の持ち方の関わり合いなど、帯谷さんはご
自身の「映像と音についての理論」を明確な形で述べてくれていませんもの。

>とりわけ、鈴木監督の決定的なお言葉:
>
>> カメラのアングルとマイクのアングルとが一致するというこ
>> とはないと思います。
>
>...見解が分かれるのはまさにそこなのです。その様な考え方か
>ら出発されたのであれば、あの「手ブレを伴った手持ちカメラの
>映像」にも、あのカットが「わざわざ2ショットで撮られてい
>る」ことにも、これ以上どうしてイチャモンがつけられましょう?

わたしは、イチャモンを付けられたと思っていませんし、もし帯谷さんがそういうつ
もりだったのでしたら悲しいことになります。というのは、帯谷さんのご意見が単に
「俺は音についてすごく考えているんだぞ」というご自身を顕示するだけのことに終
わってしまうからです。でも、次に問題のあり方を整理して提出して下さったので、
ホッとしています。

> ところで、「カメラのアングルとマイクのアングルとの一致」
>と云うことと、「画と音の一致」ということは、本来は別の問題
>です。が、問題をややこしくしているのは、『芽立ち』が「主観
>的な視点」で撮られた同時録音の映画だからです。

ここに、帯谷さんの誤解があるようです。『芽立ち』は作者である「わたし」が作品
自体と内容について「語る」という形の作品構造になっていますが、決して「主観的
な視点」だけで出来上がっているわけではありません。齣撮りにシーンや自分を撮っ
ているところは主観的な視点ではありませんが、話す人や歌う人に対しては主観的な
視点を取っていると言えましょう。従って、齣撮りのシーンには別の音を付け、自分
を撮っているところはカメラや編集機をカットで編集しているわけです。同録での撮
影は、話す人の場合は彼女らの姿と話される言葉に重きを置いたので、わたしとの関
係性がそれほど重要でないので、固定マイクで三脚を付けての撮影となったわけで
す。歌う人の場合は、勿論、その姿と歌に重点がありますが、関係性にも意味を持
たせたかったので、手持ち撮影となったわけです。その場合、歌以外の音はまるべ
く排除したかったので、録音する人はカメラからやや離れた位置に立ち、指向性の
強いマイクを使いましたが、カメラノイズは出来るだけ入れないようにしたのです
が、認知されるかされない程度に入るのは意図的です。つまり、わたしとしては、
音に関して初歩的ではありますが、映像との関係でそれなりに統一された意味が生
まれることを考えていたということです。
 その意味を生む「統一性」ということについては、帯谷さんがのべられている通り
だと思います。

 
> 問題は、『芽立ち』のような「主観的な視点」で撮られた同時録
>音の映画の場合です。立派に「画と音を統一する」人間が、画面内
>に登場し、カメラまで肩に乗せているのです。そうした場合、一
>体どのような「美学」でもって、無形式にも「カメラのアングルとマ
>イクのアングルとが一致するということはない」と言えるのでしょ
>うか。

この「無形式にも」という意味がよく理解できませんが、「カメラのアングルとマイ
クのアングルとが一致するということはない」というのは、御存じように16ミリカメ
ラの場合、カメラとは別の録音機で、撮影者とは別の人がマイクを持って録音してい
るわけですが、カメラのレンズには画角というのがあって、撮影者の位置が同じでも
レンズによって映る範囲が違うわけで、その角度とマイクの持つ指向性の角度は違う
ということです。「美学」ではなく、「メカニズム」です。


> 然るべき場所にカメラが位置しているのなら、マイクはどこに
>位置するべきか?、マイクの種類は?、画と違い、フレームのな
>い音響を録る場合、どうしても避けられない「余分な音」の混合は
>どうするのか?、そして何よりも、何の音が録りたいのか?、と
>いった美学的基準は、まさに画面内に登場した「立派に画と音を
>統一する人間」の持つ、「主観的な視点」が置かれた場所の名にお
>いて、慎重に選択されるべきです。

その通りですね。

> つまり「何のために選択されるのか?」ということ。
>
> 「同時録音」つまり、「生の画と音のリアリズムの統一を目指す」
>という、途方もない人間のワガママを成就させたいのなら、まさ
>に生身の人間がそうであるように、眼と耳は同じ場所に位置すべ
>きです。

 違いますね。人間は感覚を選択的に働かせているわけですから、表現者として自分
の選択を自由に操ることがでいると思います。そこで、意図的に映像と音に意味を持
たせるためには、眼と耳が別のものを感知する事もあり得るわけで、「眼=カメラ、
耳=マイク」と考えなくてもいいのではないでしょうか。その辺は自由にやりたいで
すね。ですから、わたしは糞リアリズムを追求しているわけではありませんから、

>それは生身の人間が、
> 「私の眼は確かにここについてるが、どうやら耳は別の場所に
>あるようだ」、
> と言っているようなもの。

ということは、大いに歓迎します。わたしとしては、人間は選択的に見たり聞いたり
しているのですから、家庭用のマイク突きのビデオカメラのその耳と眼の一致こそ不
自然なものに思えるのです。
 作品意図については、まあ理解されなくても、それなりに面白いと見ていただけれ
ばいいと思いますが、誤解の上に立った評価の断定は辛いので、くだくだしく説明し
たりしました。しかし、帯谷さんとメールの遣り取りして、音を扱うにもいろいろな
考え方や、それに自己投入するということもあるのだ、などなど分かって、この数日
間を楽しむことが出来ました。ありがとうございました。それに、メールを公開する
ことを承諾下さり、これもまた嬉しいことでした。帯谷さんの次回作品を期待してま
す。ではまた、早々




帯谷有理の第四のメール
1998年5月8日
鈴木志郎康様

 早速のご返事またまた有り難うございます。そこでまた早速なの
ですが、
> 
> > ところで、「カメラのアングルとマイクのアングルとの一致」
> >と云うことと、「画と音の一致」ということは、本来は別の問題
> >です。が問題は、『芽立ち』のような「主観的な視点」で撮られ
> >た同時録音の映画の場合です。立派に「画と音を統一する」人間
> >が、画面内に登場し、カメラまで肩に乗せているのです。そうし
> >た場合、一体どのような「美学」でもって、無形式にも「カメラ
> >のアングルとマイクのアングルとが一致するということはない」
> >と言えるのでしょうか。

  という部分についてですが、

> ここに、帯谷さんの誤解があるようです。『芽立ち』は作者である「わたし」が作品
> 自体と内容について「語る」という形の作品構造になっていますが、決して「主観的
> な視点」だけで出来上がっているわけではありません。齣撮りにシーンや自分を撮っ
> ているところは主観的な視点ではありませんが、話す人や歌う人に対しては主観的な
> 視点を取っていると言えましょう。

...とは、あながち断定することは出来ないのではないでしょうか?
本当に、私の「誤解」なのでしょうか?、もしそうなら、その「誤解」
は何に由来するものとお考えですか?、私が「音が映像に張り付いた
時に一体何が起きるか?」と云う問題に、口角泡を飛ばしてこだわっ
ているからでしょうか?

 というのは、『芽立ち』は、ナレーションの画や音に対する「求心
性」が強すぎる分、その作品構造について、いくら鈴木監督が「言い訳」
?されても、人々はそうは見ていないと思います。あの映画では、ナ
レーション (鈴木監督の一人称で語られている)が、圧倒的に映画を支
配しているのです。ですから、いくら「齣撮りにシーンや自分を撮っ
ているところは主観的な視点ではない」ことを主張されても、それは、
あの(鈴木監督の一人称で語られている)ナレーションの求心力を、逆証
するものでしかありません。

 あの、窓の外の雪が消えてゆく余りにも美しい風景のコマ撮りは、観
客の誰もが、「鈴木先生が窓の外を眺めておられるのだ」と、理解するで
しょう。あのシーンにしても、女学生を取っているシーンにしても、映
画が「主観的な視点」だけで出来上がっていることと、何ら矛盾しない、
と思います。それらのカットが、前後のカットとの諸関係を取り結ぶこ
とでもって、そのモンタージュでもって、そして何よりも一人称で語ら
れているナレーションの持つ、画や音に対する「求心性」でもって、「主
観的な視点であることのロジック」に支えられている、と思います。

 あの2人の女子学生達も、決して「匿名性のカメラ」に話し掛けてい
るのではなく、優しい鈴木先生に語り掛けているのだな、と観客みんな
が思っているでしょう。私がそうであるように。

 それでもなお且つ、作品が「主観的な視点」だけで出来上がっている、
と判断されるのを、「帯谷の誤解」の責任とされるのであれば、それは、
『芽立ち』の構造そのものの恣意性、無形式、そして個人映画、「実験
映画」のもつ「無邪気さ」、無償の戯れこそが、その責を負うべきです。

> この「無形式」という意味がよく理解できません。

 と、おっしゃいますが、

> 人間は感覚を選択的に働かせているわけですから、表現者として自分
> の選択を自由に操ることがでいると思います。そこで、意図的に映像と音に意味を持
> たせるためには、眼と耳が別のものを感知する事もあり得るわけで、「眼=カメラ、
> 耳=マイク」と考えなくてもいいのではないでしょうか。その辺は自由にやりたいで
> すね。

 こういうご認識が、無形式なのです。「自由」と云うのは本当に、けだし
奇妙な概念です。自由が、その代償として放棄するものが、「他の場所」に
不自由さを与える場合もあるでしょう。何の為の、誰が為の「自由」なのか?
 かつて、トロツキーはこう云いました。

 「形式なき内容は無。内容なき形式は死。」

 そもそもこの『芽立ち』について、私が疑問にしたことは、あの例のフォ
ークシンガーのシーンにおいてがそうであるように、全て、形式の問題であ
ったのです。まずそこで形式の選択が問題にされ、そこから、美学や、メカ
ニズム、感覚の選択云々が語られる...と、云う段取りを踏むべきだったと
思います。

 誤解されてはならないのは、そもそも私はブルジョワ形式主義者ではない
し、「表現者として自分の選択を自由に操ることがでいると思います。その
辺は自由にやりたい」とおっしゃる鈴木監督を、無責任であると決め付けて
る積もりもありません。
 ただし、「作家がどういう形式を選択したのか」という疑問のたて方をして
初めて顕在化してくる疑問点は、やはり「どういう形式を選択したのか」と
いう解答でもって示されるべきでしょう。

 『芽立ち』は、そうした観点からすれば少し形式が杜撰なところがあるの
かもしれません。しかしながら、私は『芽立ち』が好きですし、あの宇都宮
のシーンにしたって、大好きなシーンです。
 今回こういったカタチで『芽立ち』に噛み付いたのは、何よりも、部分的
にせよ、「同時録音で、楽器を演奏する人物を撮る」という難問に果敢に挑戦
した作品であったことが、大いに私を刺激したからでしょう。

 そこで、『芽立ち』については、まだ少し言いたいことが残っていますの
で、以下は次回廻しと云うことで!


> >敬具。
> >
> 
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帯 谷 有 理
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obitani@catnet.ne.jp
http://www.hi-ho.ne.jp/yuuyuk/
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志郎康の第四の返事
1998年5月9日

帯谷有理様

前略 この議論は、『芽立ち』の音の扱いについての帯谷さんの疑問に答えるという
ところから始まったのでしたが、四通目になりました。その疑問点は、主観的なカメ
ラアングルで撮影されたショットに変化があったのに、そこに音の変化がなかったの
何故か、ということと、そこから問題を普遍してわたしが16ミリフィルムで同時録音
を問う、というものでした。今回は、その音の扱いを問題にしたところから、それを
含む作品の構造の問題へと展開してきているところですね。議論が、敵対的でなく、
友好的になされているので、少しずつ疑問点が明らかになったり、更に疑問が生まれ
たりで、全体的には考え方のズレが見えてきていると思います。お互いに、こんなに
こんなに沢山の言葉を連続して遣り取りしたことなかったので、そういうことがはっ
きりしてくるだけでも面白いです。

 さて、帯谷さんの「誤解」ということですが、わたしは作者が作品の中の語り手に
なっているからといって、それが撮影者の視点と一致することがないのは当たり前の
ように思っていたのですが、帯谷さんにはそうでなかったということなんですね。
言ってみれば、作者は作品の中でいろいろなものになり代われるわけですよ。勿論
、『芽立ち』では、作者のわたしが撮影しているのですから、重なりますけど、作
品構造を考えるときはべつものと考える方が、理解しやすいのではないでしょうか。
 今までのわたしの映画は数人の詩人を撮った作品以外、殆ど作者が語り手の映画で
した。その場合、おおむねサイレントの映像に音を付けたとき、音は作品を構成して
映像を編集していく作者の側に有ったのです。そこでは、映像は作者の語りを支える
ものとの出会いのイメージですね。観衆はイメージと向かい合えるけど、そのものと
は直面できないわけです。ところが、昨年野村君を同録で撮影しようと思ったとき、
やはり歌うところを撮るなら同録だなと考えました。それは、彼の歌を「イメージ」
ではなく、直接観衆に聞かせたいと思ったからです。要するに、語られる言葉の裏付
けでなく、作品の中で語り手と同じ立場に立たせようと思ったわけです。そしてやっ
てみて、それはわくわくさせられることでした。生きて来るんですよね。帯谷さんの
『厭世フフ』の佳世の出るシーンにもわくわくさせられましたが、同録の強みです
ね。
 つまり、「同録」のシーンはナレーションと対等の比重を持つ、といえるようです
ね。そして、現時点では、それが面白くて、自分の映画の中にもっともっと実現して
みたいと思っているということです。一番最初の帯谷さんの疑問に戻ると、『芽立
ち』の野村君の歌うシーでは、シーンを独立させたいという気持ちが強かったので
、音のレベルを統一したということになります。作品の形式として「同録」で撮っ
た人たちの姿がナレーションと同じ比重を持って立ち上がってきたからこそ、「芽
」という比喩をそれなりに活かすことが出来たものと考えます。今度は、帯谷さん
の歌うところを撮影して、その姿を作品の中で活かす形式と筋立てを考えるのも、
こういう言葉の遣り取りをすることが出来ただけに、面白いことになるではと空想
しています。是非ともご出演をお願いしたいと思います。ではまた、草々

 


 
「曲腰徒歩新聞」1998年5月5日
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