季節はずれの簾を巻きあげた窓の外 家々の屋根越しに見える 相模湾の水平線 窓からかなたに眺められる水平線は いつも 新鮮な驚きを呼びおこす それは 山の中腹にある民家の窓からでもよい 長距離列車の窓からでもよい タ暮の街で乗ったバスの窓からでもよい 小学生時代の夏 鯨波へむかう信越線の汽車の窓から 初めて発見して息のんだ日本海の水平線は 幼い記憶のかなたに 今もチカチカ輝きつづけている 初めての海の 海の鮮やかななまぐささ 幼いぼくには大ぎすぎた日本海 夏の鯨波 ………… 夕刻の海と空 それらは なぜあのようにぴったりと接し じりじりと押し合うでもなく みごとになごんでいるのか? 人間たちの夕刻は 疲労と不安と静かな恐怖に染めあげられ 人間たちは 緩慢に入れかわる刻(とき)のなかで かすかに発熱しながら 生きあぐんでいるというのに そうら ちょっぴり海の燃えるにおい 夏の記憶が徐々に遠ざかる ぼくの夏 ぼくの鯨波 T氏は厳しい表情でゆったり椅子に身を沈め 昨夜からの 絶えることないウイスキーをさらに干す そうら ちょっぴり歯茎が焼ける 上機嫌だ ときどきT氏は馬のように笑い 厳しい表情が一瞬崩れる ボッオーン!! 突然の鐘の音 瞬間 水平線が大きくゆれるのを そのとき ぼくははっきりと見た 近くの光明寺で撞つ鐘だ 「時計を見るな!」 T氏は時刻の進行に耐えられないように叫ぶ 「腕時計なんか見るなよ!」 ぼくはついさっき 鎌倉駅前から光明寺行きのバスで 材木座海岸のT氏を訪ねてきた 鐘の音をきっかけに すべてが急激に暮れてくる 水平線が焼け落ちる 空が海上が砂浜が屋根が窓辺が広いテーブルが グラスのなかのウイスキーと溶けかかった氷塊が 見る見る暮れてくる T氏の貌も咽喉も あらゆる言葉が 記憶が ちょっぴり焼け焦げて 正確に暮れてくる ぼくはなぜかホッとする 魂にウイスキーを注げ 疲れすぎたけものたちの仮眠の床を こんな星が まだこの世界には残っていたのか 水平線にウイスキーを注げ T氏は帝国海軍のはなしをはじめる 「駆逐艦雪風 開戦から敗戦の後始末まで働きっぱなしさ ラッキーだったんだ じつにラッキーなんだよ」 雪……風…… あぶない! 酔いがうねりはじめている ぼくは窓のむこうの水平線や 冷えていく砂浜のことなど忘れてしまうかもしれない 遠い武蔵野やさらに遠い鯨波のことなど すっかり忘れてしまうかもしれない ウイスキーが傾く 雪と風をはらんだアルコールめ テーブルが冷えて波立つのではないか 間に包まれて眠りに落ちる言葉たち 雪…… 風…… ラッキー! 歴史の岸辺はゆっくりと洗われて 水平線のかなたから 猛烈な速力で姿を現わす巨大な帆船 雪風か? 宋の船か? 晴い相模湾の夜を一直線に裂きながら 幻の帆船が接近 思わず叫ぶ幼い夏の鯨波 あれは日本海 晴いアルコールの海 重い岬 数時間前 蓮池の淵に建つ美術館で見てきた ムンク展を想い起こす エドワルド・ムンク 森へ 不安に満ちた肩を支えあった男と女が こちらに背をむけ たちふさがる暗い森へ入っていく忘れがたい作品 画家の魂に アルコールをたっぷり注げ 日曜日の美術館内を埋めた 野卑な感受性の口唇め 酔いのへりから立ちあがり たちふさがる暗い海へ踏みこんでいくか けむっている潮の森をかきわけ 海へ 水平線にむかって いっせいに身がまえている海のけものたち ふりむくな! ムンク 会場の壁に掲げられた巨大な写真のなかで 画家は粗い粒子にさえぎられ 不吉な絵筆を握り 素裸で海岸に突っ立っていた 画家の幻の裸体! T氏はウイスキーを重ねながら しだいに不機嫌になってくる それが ウイスキーを飲むということなのかもしれない アルコール 雪風 帆船が猛烈な速力で接近 幻の宋の船 暗い海が歴史の岸辺を醒ましつづける 光明寺は 深い闇の底に溶けて行くだろう 闇の光明の寺 静まりかえった美術館の冷たい壁にへばりついて 〈骸骨の腕を前にする自画像〉は凍りはじめているだろう T氏はウイスキーのグラスをテーブルに置く と たちまちテーブルは 広大なアルコールの海となって蘇る グラスのなかで広がる相模湾 夜の渚の砂けちらして 由比ヶ浜へ 一頭の悍馬が走りぬけていく音が谺する 海の谺 悍馬の熱い腹のかなた 水平線がおそろしい勢いで膨れあがっていく 谺する海を 巨大な帆船がなおも接近 広大なアルコールの海に 光明寺が材木座が武蔵野が鯨波が 漂いはじめる もうアルコールだ もう言葉はない もう雪風 もう海の谺 ぼくはT氏とグラスをとばし 膨れあがる水平線にむかって走りだす アルコール! 谺するアルコールの海の谺 アルコール! |