「鈴木セトモノ店」の店じまい
昨日、例年にならいお歳暮を持って、江東区の亀戸にある実家の「鈴木セトモノ店」を訪れたところ、人通りの多い歳末の商店街なのに、貼り紙をしたシャッターを降ろして店を閉じていた。一週間まえに、店の全商品を五割引きにして売り切り、店じまいしたという。店をやっている兄から、店じまいするとは聞いていたが、これほど急とは知らなかったので、わたしは驚いた。
終戦の翌年、戦災の焼け跡に開店したときから数えれば、丁度五〇年になる。父から店を継いできた兄夫妻が歳を取り、息子も別に住んで勤めているので、家を建て替えて上に住み、下の店を他人に貸すのだという。建て替えに建て替えて来た家だが、兄とお茶を飲みながら話す居間の柱だけは、わたしの子供の頃から残っていた柱だ。それもなくなるわけだ。わたしが育った「鈴木セトモノ店」が無くなるのかと思うと、感慨深いものがあった。
夕方、実家を去って、近くにあるお寺の普門院の父母の墓所に行くと、寺の門脇にあって、線香や花を買う寺男のおじさんの家も閉まっていた。寺の社務所で線香に火を付けて貰いながら、坊さんに聞くと、寺男のおじさんも八五歳になり、息子の家に移ったということだった。坊さんは、今まで寺男のおじさんがしていた広い墓所や庭の4時間もかかる掃除を、自分がしなくてならないと嘆いていた。
実家の店じまいと寺男のおじさんの引退とは何の関係もないけれど、わたしにとって、戦後の子供頃から現在に至るまでおよそ五〇年間、変わらぬものであったものが、今年無くなったというわけである。その今年は、わたしは六一歳で生まれて初めて入院するという大病をした。そして、実家の「セトモノ店」も店じまいした。しかし、今年からわたしはインターネットを始めた。1996年は、わたし自身にはそういう年であった。
Webサイトで井上俊夫さんの元気な詩に出会ったこと
清水哲男さんの「るしおる」29号の文章から始まって、長尾高弘さんと日本のWebサイトの詩のページについてMailでやり取りしていて、わたしは「詩の電子図書室」を開くことを思いついたわけだが、長尾さんから井上俊夫さんの『浪速の詩人工房』の存在を教えて貰い、見に行った。
そして、その言葉の元気の良さに打たれた。井上俊夫さんは兵隊に行っているというから、もう70歳は越えている。その体験から、反戦の思想を体現している。「思想」というと、考え方を繕ってしまうところが出てくるものだが、井上さんの詩にはそれがない。気持ちがさっぱりしていて、読んだ後、爽快な気分になれる。
うわ、おう、うわおう、うわ、うららら!
井上俊夫 昔の軍隊はいやなところだったという話をすると すかさず、嘘だ嘘だと若々しい男の声が跳ね反ってくる。 あんたがた元日本軍兵士は 新兵の頃はそうだったかもしれんが 三年兵、四年兵ともなれば 夜毎夜毎、下級の者に陰湿なリンチを加える喜びに 五体を震わせていたというじゃないか 俺たちもたった一度でいいから 堪能するまで人を苛める楽しみを味わってみたい うわ、おう、うわおう、うわ、うららら! オカアチャン、味わってみたいよう! 命令で異国の戦場へ引っぱり出されるのは 大変気が重かったという話をすると すかさず、嘘だ嘘だと若々しい男の声が跳ね反ってくる。 あんたがたは与えられた新品の三八式歩兵銃を 後生大事に抱きしめながら いのちがけの無銭旅行もまた楽し むこうへ行けば毛色の違った女を抱けるかもと 期待に胸はずませながら 輸送船に揺られていたというじゃないか 俺たちもたった一度でいいから 日の丸の旗をはためかして殺人ツアーに出かけてみたい うわ、おう、うわおう、うわ、うららら! オカアチャン、出かけてみたいよう! 戦争で無益な殺生をしたくなかったという話をすると すかさず、嘘だ嘘だと若々しい男の声が跳ね反ってくる。 あんたがたは殺さなくともいい市民や捕虜の首をはねたり 銃剣で突き刺したり 生き埋めにしたりして けっこう虐殺を楽しんでいたというじゃないか 俺たちもたった一度でいいから 思う存分人間を殺してみたい うわ、おう、うわおう、うわ、うららら! オカアチャン、殺してみたいよう! 占領地の非戦闘員は大事にしたという話をすると すかさず、嘘だ嘘だと若々しい男の声が跳ね反ってくる。 あんたがたは若い女とみれば見境もなく強姦し あとで悶着が起きないようにと 必ず女の胸に一発銃弾をぶちこんでいた 母を求めて泣き叫ぶ幼い子供だって 容赦しなかったというじゃないか 俺たちもたった一度でいいから 異国の女を犯してみたい うわ、おう、うわおう、うわ、うららら! オカアチャン、犯してみたいよう! 戦争だけはやってはならない 今度戦争が起こったら世も末だという話をすると すかさず、よけいなお世話だと 若々しい男の声が跳ね反ってくる。 俺たちが死のうと生きようとほっといてくれ あんたがた年寄りがおためごかしに口にする 反戦平和論議なんかちゃんちゃらおかしい そんなに戦争が嫌いなら なぜ若い時に命を賭して反対しなかった なぜ戦争に行ったのだ なぜ人殺しをやったのだ そもそもあんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ とにかく俺たちもたった一度でいいから 戦争というべらぼうに面白そうなものをやってみたい うわ、おう、うわおう、うわ、うららら! オカアチャン、やらせてくれよう、なあ、オカアチャン!
多分、この詩を雑誌や詩集の紙面で読んだら、活字からはみ出てしまう粗い感情のために、わたしは顔を背けてしまっただろう。同じ書き言葉でも、紙面の上とディスプレイの上では印象が違う。そこが、面白いところだ。
清水邦夫作演出『火のようにさみしい姉がいて'96』を見た
木冬社公演、作演出・清水邦夫、蟹江敬三、樫山文枝、松本典子他出演の『火のようにさみしい姉がいて'96』を新宿駅南口近くの、新しくできた紀伊国屋サザンシアターに見に行った。入り口の狭いのが難点だが、いい感じの劇場だった。舞台は、正面に大きな鏡を据えた、楽屋と田舎の床屋の内部、そこで蟹江敬三が自意識を持て余した疲れ気味のオセロ俳優を演じ、樫山文枝が彼を支える元女優の妻、松本典子がオセロ俳優の昔肉体関係を持った姉を演じて、この三者が絡んで、俳優が意識の上で追いつめられていく、という芝居。
土俗と近代意識とが対立的に設定されて、脆弱な近代意識が土俗前に打ちのめされていくという筋立てとして見た。その土俗も、都市的近代意識も、それぞれ特有の嘘を持っているという組立が、一方が生活に根ざした嘘であるのに対し、他方が表現を支えるための嘘という点で対立し絡み合って展開していくというように見えるのが、面白かった。蟹江の旧新劇風なオーバーな演技と、土俗的沈黙を含んだ松本の押さえた演技が対をなしていた。
ロシア製16ミリ映画カメラ「KRASNOGORSK-3」を7万円で買う
「American Cinematographer」に広告されていた、このロシア製の16ミリフィルムカメラ「KRASNOGORSK-3」が、たったの7万円で買える、ということに気がついた多摩美の檜山茂雄先生が、購入希望者を募って、ナックを通してニューヨークのMKA Inc.から購入することになり、わたしもその一人に加わった。
ドイツ製のアリフレックスだと300万円近くするし、プロも使うがアマも使うというスイス製のボレックスでも新品で100万近く、中古で30万ぐらいするのに、僅かに7万で買えるというのだから驚き。
3日に受け取って、早速撮影した見た。昨日ラッシュプリントを見たところでは、レンズの吸収率が高くややアンダー気味になること、フィルムのプレッシャーが弱いからか、フレームの片側のピントが甘いということ、またゼンマイで駆動するカメラだが、そのゼンマイが硬いので巻きにくいということなどが分かった。充分、使える。
アメリカでは、ニューヨーク州立大学や、その他の映画学校で使われているということだが、日本でもメンテナンスが保証されれば、映像学校で使われるようになる可能性がある。日本の多くの映画青年は8ミリフィルムで映画を作っているが、フィルムはまだ現像してくれるが、カメラが中古でも無くなりつつある。本当の話、若者が映画を作る機会を持てなくなれば、映画を作る人間が育たなくなってしまう。
『UNIX98版FreeBsd入門キットCD-ROM付き』の著者宮嵜忠臣氏から返事
昨日、宮嵜氏からMailの返信があった。出張していて、返事できなかった旨ことが書いてあった。冷たいあしらいというのは、わたしの早とちりというわけだった。誠実な人なのかも。よく読んでくれと書いてあるが、読んでも分からない。本の記述の飛躍は、どう考えても、初心者には着いていけないところがある。
宮嵜忠臣著『UNIX98版FreeBsd入門キットCD-ROM付き』を172ページまで読んで止める
9月半ばに買って来て、添付のCD-ROMから「FreeBSD(98)」をインストールするところから読み始めて、2カ月半、いろいろと分からないところが続出して、著者にMailを送って返事を求めながら読み進めてきたが、遂に著者の返事が来なくなり、本文252ページの172ページで読むのを止めた。
とにかく、UNIXのOSをインストールして、日本語が打ち込めるエディターを起動し、「1996年12月1日ようやくmuleで日本語が入力できた」と書いただけのファイルが保存できたので、後は別の本でUNIXを勉強しようと思う。
前に「BSD on Windows」をWindows3.1上にインストールして、UNIXのコマンドを楽しんでいたが、それはWindows上でのアプリケーションのような扱いですんでいたのだった。しかし、「FreeBSD(98)」は本格的なUNIX−OSなので、OSそのものをインストールして、それなりにシステムの設定をカスタマイズしていかなければならない。つまり、普通UNIXを始める人はユーザーとしてログインして使えばいいだけなのに、この場合、何も知らないで、いきなりシステム管理者の立場に立たされることになるわけである。そこで、分からないことが続出する。
宮嵜氏の苛立った返信Mailから、「入門」と言っても、レベルの違う「入門」であることがだんだんと分かってきた。宮嵜氏が返信を呉れなくなったのは、「そんな分かり切った低級な質問には答えられない」というわけであろう。門外漢を馬鹿にする専門家という顔が感じられて、非常に厭な思いになった。しかし、「現代詩手帖」などの論文を見ても、同じようなところがあるから、何処も同じということであろう。
ともあれ、パソコンから始めて、UNIXまで来られたということは、うれしい。
坂輪綾子詩集『かんぺきな椅子』
一昨日送られてきた坂輪綾子さんの新しい詩集『かんぺきな椅子』を読んだ。前に、『夜の行進』を読んでから、坂輪さんの詩が好きになった。少女漫画を読むときに感じる「はらはらどきどき」を感じられるのが、とてもいいのだ。詩の中に「僕」「君」「私」の三者が出てきて、その三者が透明な悲しみをたたえた空間を作りだし、そこに誘われるのが気持ちいい。
少女期から大人になる時の危機感を、非常に鋭敏な感性で捉えているといえる。もうわたしなどには、現実に見ることも感じることもできなくなった事柄を語り伝えてくれる。詩集の題名になっている言葉がある詩は、たった三行だ!
椅子この椅子は時間の切っ先に置かれていると言えよう。もう一編、読んで下さい。
目の前にかんぺきな椅子があるとして
私はすわるでしょう?
さっきまでうしろだったほうを向いて
おいでよちょっと恐い感じがしてスリリングで、いいでしょう。
いつも背中にはりつく
「おいでよ」
とひっぱりっこ
夜中の二時とか
ひとりぽっちの音楽室とか
あぶない
心をひらいてしまえば人と人のすきまに
流れ出ていっちゃう
透き通ったなにか
は
いつも僕の真ん中へんにあって
笑っているだけで
突かれるみたいに
痛い
肩を叩かれても
すぐにふりむたらだめ
「おいでよ」
が僕の目の奥を震わせる
手足は置き去りでもいいか
と
さみしいときふいに
階段から突き落とされるみたいに
ほらもう
ひとりだよ