冬の散歩
1月、2月は、わたしには散歩の季節だ。汗をかかないのがいい。澄んだ冬の青空というのが好きだ。東京の住宅街を、出来るだけ細い道を選んで歩く。東京は中心からの放射線型の秩序が支配するが、その放射線を横に切っていくいう歩き方になる。4キロか、5キロ、長くて7キロぐらい歩く。疲れて休みたいという気分になって、そこから辛抱して、少し歩いて喫茶店を見つけて、たいていケーキとコーヒーで疲れを癒して、家に帰る。
19日は、代々木上原の駅に自転車を置いて、ほぼ北に向かって西原から歩き始めた。西原では道路に挟まれた、幅が2メートルあるかないかの細い家の側を通る。以前から珍しいと気にとめていたが、新しく建て替えられていた。幡ヶ谷、本町と抜けて、南台から中野区に入った。東大付属の中学高校の脇を歩いたのは初めてだった。女の子の双子の自意識の発達は複雑だという新聞記事をつい先日読んだので、そういう子たちが、ここに通ってきているのだ、と思いながら通り過ぎた。弥生町から地下鉄中野新橋駅近くに出て、赤坂長義さんの葬式で来たことのある福寿院の前を通って、青梅街道を渡った。
仲町小学校の辺りで、中野といえばあの人、という昔の勤め先の同僚の名前が思い出せなくなっているのに、自分でも驚く。毎日顔を合わせる親しい人だったのに、その顔は思い出せるのに名前が思い出せない。勤めを辞めた後、その人からちょっと冷たくされたと感じと時のことが思い出される。JR中野電車区と新しくできた施設の間の道を歩いて、建物の2階にある小さな喫茶店でかぼちゃパイとコーヒーを注文した。思いの行き違いがあったということがまだ頭を占めていて、それが最近感じだした「自分が思う自分」と「他人が思う自分」の違いということに結びついて行く。
住宅街を歩いて面白いと思うのは、それぞれの家が表札とか、窓辺の鉢植えとか、扉についた小さな釘とか、細かいところに住んでいる人の気遣いみたいなものが見えるところだ。そういう細かいことが、家の中にいて姿を見せない一人一人を支えていると感じられて、死ぬときはこういう街の眺めのイメージの中に、自分が溶けていければいいななどと思ったりする。そうも行かないだろうけど。
部屋の中に冬の日差しが差し込み、ランの花が咲く
このところ、晴天が続く毎日、午前中は部屋の中に一杯に日が射す。冬の日差しには、お日様の暖かみを実感じさせられる。暖房が効いた部屋のなかんでもその感じがするというのも、日向ぼっこした子供の頃の記憶のなせるわざか。
一昨日、出向いたところの近くの多摩の丘陵を、用事が済んだ後、鑓水から京王多摩境までのちょっとの距離を歩いた。6日に降ったという雪がまだ残っていた。風が冷たく、気持ちが良かった。丘は切り崩され、宅地に造成されつつあった。多摩境駅の入り口が分からないで迷った。新しく造成されるところは「歩く人」には「異境」という印象だった。
正月3日、実家へ年始の挨拶に行く
昨日、暮れに閉店した実家へ年始の挨拶に行った。最近この何年となく、暮れに歳暮を持って行くと、忙しいのだからいいという兄の言葉に甘えて、新年の挨拶に行くということがなくなっていたが、写真に撮りたいという気持ちも手伝って、出掛けた。しかし、新宿から総武線で行くといういつも道順でなくて、新宿から都営地下鉄に乗って、馬喰横山で乗り換え、京成押上で降りて、そこから歩いて行った。押上駅前の辺りには、昔、王監督が育った中華料理店があった。
四つ目通りから神明橋へ抜け、萩寺の前を通って、横丁から亀戸天神の境内に入った。境内にある真鍮の神牛をデジタルカメラで撮り、家族の分もと500円の賽銭を賽銭箱に投げ込んで、無事息災を祈念した。それからおみくじを引いた。吉だったので安心した。昨年は、学生の映画に出演した後、立ち寄った鎌倉八幡で引いたおみくじが凶だったので、急性A型肝炎に罹ったわけで、おみくじに何が出るかちょっと心配したのだった。
それから、近くの店で酒饅頭を買って、実家に行った。実家は、辻征夫さんが詩に書いてくれた十三間通り、つまり明治通り沿いにある。道路の反対側から見ると、一軒だけシャッターを降ろした店があって、それが実家だった。やはり寂しい気持ちになった。兄と正月にゆっくりと話をすというのは初めてといえば初めてかも知れない。話題の一つは、家にあった明治初年に測量した亀戸の地図のことだった。
わたしたちの曾お爺さんという人が、明治初年の亀戸村村議会に関係してたらしく、実家には細かく地番が記入された地図と明治26年と29年の「亀戸村歳入出予算議案按」とがあって、昨年税務署誕生百年を向かえた江東東税務署が、最初に建てられた「亀戸税務署」が、亀戸の何処にあったか知りたいと尋ねてきて、その実家にあった地図で所在を突き止めたということだった。
その地図を、私も見たことがないというと、兄は戦災の時土に埋めて残ったという古い柳行李を持ち出して来て見せてくれた。地名も道路も現在とは全く違ってしまっていて、現在の道路に当たる場所を地図の上に見当を付けるのも大変だった。また、その「予算按」なるものには、「小学校授業料本年度予算550圓生徒250人平均1人弐拾銭」とか、「提塘使用料10圓北十間横十間川提塘使用料」とかという項目があって「へッ、へえ」と思わず声を出してしまうようなことも記入されていた。
これから、実家は取り壊されることになる。昭和21年の焼け野原に建てられ、わたしら兄弟が育つ間に改造に改造を重ねてきた。兄と話をした部屋は、わたしが子供の頃からあって、残されたたった一つの部屋だ。炬燵に入っていても、腰の辺りが冷えてくる。兄は立ち上がって、「底冷えがして来るんだ」といいながら、窓のガラス戸を開けて雨戸を閉めたのだった。