野ぼたんが咲き始めた。
野ぼたんが咲き始めた。わたしは、紫色の野ぼたんの花が好きだ。朝起きて、咲いているのを見て、新聞を読みながらの朝食後、撮影しようとしたら、カメラのバッテリーが切れていたので充電して、それから撮影したら、強い日差しを受けてもう萎れ掛けていた。そして、一日経つと、紫色の花びらがはらはらと散ってしまう。
昨日、勤め先の研究室(多摩美・上野毛)に出たら、2年生の小沢和史君がこの夏撮影するという8ミリ映画『土ん中泳ぐ頭』のシナリオを持って来て、読んでくれというので、その場で読んで感想を話した。女の子がいなくなった大井川沿いの町に住む若い男が、地下電話で土の中のバーに誘い込まれ、そこでカブト虫カクテルやらゴキブリカクテルを飲まされ、男とも女ともつかない変な奴に屈辱を受けることになるが、その自分自身の様子を蟻の孔から覗いた末に、地上では、土手で男仲間たちとアルミのテーブルを囲んで清涼飲料水を飲む、という話だった。
読み終わったところで、どういうわけか、わたしは東京の北部で連続して起こっている自転車に乗った男がすれ違いざまに女の人を殴ったりして怪我させる通り魔事件を思い出してしまった。小沢君に「これは、若い女達に対する敵意の内向だね」といったら、小沢君はきょとんとしていた。わたしの超飛躍的感想だから、分からないのが当たり前だ。シナリオの冒頭の「この町から若い女がいなくなった」というナレーションの一句と、地中のバーでの、男か女か分からない奴にいたぶられるシーンから、わたしは「若い同世代の女性に対する敵意の内向」と感じたのだ。
小沢和史君は前に『青空ジュース』という短い作品を作っている。それは、青空が広がる砂浜の海岸沿いで、仮面を付けた連中がたむろしているが、一方では黒衣の二人の女が部屋の中に幾つものジューサーを置いて空色のジュースを作り、その振動に身体を震わせている。そのジューサーの音の振動に仮面の連中も共振して、一人の男が女達の部屋に侵入してくるという内容である。青空のジュースを作るジューサーの振動が、種類の違う人間を共振させているというわけだ。わたしはこの作品を見て、小沢君には、そういうことを掴まえることができると思っていた。
小沢君の作品をはじめ、若い人たちの映像作品を見ていると、いじめとか、小学生殺人事件とか、援助交際とか、通り魔事件とか、メディアの中で現象的にしか語られないことの当事者と同世代の隠れた心の在り方に、いくらか触れられたような感じになる。彼らには、わたしが持ち合わせている意識では推し量れない、全く違う意識の持ち方が形成されつつあるのを感じる。でも、同じ時代に生きているのだから、何とかそれを掴まえたいという気になる。
松田晃一・他著『UNIX日本語環境』を読んだ。
FreeBSDによって、パソコンUNIXにも段々と慣れてきた。しかし、まだ環境を整えるというところで、作業を始めるまでに至っていない。viなりmuleなりのエディターを使って、何かプログラミングでも始めてしまえば、それなりに作業は出来ないことはないと思うが、引っかかるところが結構あるのだ。「日本語環境」というのもその一つで、そこに引っかかって、『UNIX日本語環境』を読むことになったのだった。
UNIXで日本語を使うには、漢字サーバーと日本語を処理するクライアントが必要だ。その間に、日本語入力を制御するためのシステムとして、フロントエンドプロセッサ(FEP)型のものとインプットメソッド型のものとがある。漢字サーバーには、Wnn(jserver)とCANNA(cannaserver)とsj3とがあり、FEP型日本語入力システムにはuumとcanuum、インプットメソッド型にはkinput2とxwnmoとがある。FreeBSDだと、WnnとCannaの二つのサーバーだ。
どちらか一つに決めて、本に書いてある通りにインストールして、Xウインドウ上で使っている分には、キーバインドを覚えるのはちょっと面倒だが、何のことはない、普通のワープロの日本語入力と変わらない。ところが、わたしとしては、WnnとCannaは共存できるのだろうか、という疑問が起こった。というのは、MacでもWindows95でも「ATOK8」とか「ことえり」とか「MS-IME」とか複数の日本語入力システムを共存させて切り替えることが出来るからだ。また、わたしのDELLにインストールしているFreeBSDでは、コンソール画面上で日本語文字化けしてしまうという疑問もあった。
そこで、試しに、いつもテストに使っているPC-98のFreeBSDで、Wnnが既にインストールところに、Cannaをインストールしてみた。結果は、両方とも動かなくなって、日本語入力が出来なくなった。そこで、『UNIX日本語環境』を頼りに、Cannaを削除して、Xウインドウ上の日本語使えるクライアントの「kterm」で、何とかWnnは働かせるところまでやってきた。しかし、今のところでは、muleをクライアントとして起動すると日本語入力が出来ないし、DELLのコンソール画面上では文字化けしたままだ。
薦田愛さんから、朝顔市の朝顔を贈られる
昨日の午後、詩人の薦田愛さんから朝顔の一鉢が、宅急便で送られてきた。新聞に入谷鬼子母神の朝顔市のことが出ていたので、そこで買って贈ってくれたのだと思った。去年も、入院しているとき贈られて、大変嬉しかった。早速、今朝の花を撮って掲載することにした。薦田さん、ありがとう。
朝顔や、昼寝目覚めの乱れ裾 蒼花
竹下節子著『ジャンヌ・ダルク』を読む
ジャンヌ・ダルクについての本を読む気になったのは、「HYPERLITERAL」とうたったページを開設したからだった。「二人の少女」などと書いてしまったので、その少女を何とかしなければ、と思い、それが異端として火刑に処せられて、国民的ヒロインになった少女に至るのだから、わたしの頭もどうかしている。
この本を読んで、わたしは初めてジャンヌ・ダルクが1431年の5月30日に処刑され、25年後の1456年に復権して、更に500年近くの年月を経て1920年に聖女になってということを知った。著者は、中世が暗黒時代だといわれているのは男性が築いた文化の枠組みの中でいわれることであって、実は中世はその枠外に生きた女性たちに取っては、それ以後よりはるかに活躍できた時代だったというのである。それを、ジャンヌ以外の奇跡をなした聖女たちや海賊になった貴族の女性などを例に語っている。ウーマンリブがマリア信仰の研究から始まったということ聞いたことがあるが、この本の著者はその流れを汲んでいる人だと思った。
それにしても、16歳の少女が「神の声を聞いた」というのを、まともに聞いて信じる人がいた当時の世の中は、その少女を見物人の目の前で焼き殺してしまうという残酷さもあるが、現代のわたしたちの世の中より、心の幅というところでは広い感じがする。その幅の外に出てしまうところが、「異常」と称せられる「事件」なのではないかと思える。つまり、心というものを「個人の日常性」にのみ求めるから無理が出てくるのではないか。