ギャラリー・モールのホームページを立ち上げる
押しつけ女房ということがあるが、今回のわたしは「押しつけホームページ」をやってしまった。ギャラリー・モールがインターネットに接続したというのに、ホームページをまだ開いていないというので、しゃしゃり出て立ち上げてしまった。ギャラリー・モールは先月わたしが写真展を開いた画廊。主の津田基さんは写真というものをこよなく愛し、つきることない情熱を抱いている素晴らしい人。わたしの写真評論集「写真有心」と写真集「眉宇の半球」も刊行してくれた。
彼は、若手の写真家の個展を開くばかりでなく、写真集を刊行し、日本では余り売れない表現としての写真集の新刊や古本を集めて販売もしている。それは、なかなか行き渡らない写真表現を誰の手にも届くところ置いておこうと言う考えの表れなのだ。先日、魚眼展をしたとき、話していて、津田さんが写真というものにまつわるあらゆる出版物、という以上に印刷物を、写真というメディアが築き上げてきた文化として、誰もが手に触れ、目に触れることが出来るような図書館を作りたいという考えを持っていることを聞いた。
わたしも応援したい気持ちになった。イメージの時代といわれるが、それが今では、イメージが氾濫している時代という意味合いを通り越して、誰もが現実から離れてイメージの中に生きるようになったということだ。そういう時代だからこそ、人々がイメージを抱く基になった写真のあり方をしっかりと押さえておかなければならないのだ。津田さんの考えは、そのところを突いている。
今、その資料化を急いでいるという。データにしてインターネットで検索できるようにしたいという。「じゃー、先ずホームページを開くことですね」というと、「そうなんです」と津田さんは答えたものの、大人二人がやっと入れるという画廊の脇の小さな事務所での津田さんのMacさばきを見ていると、ホームページ開設にはかなり時間が掛かるように思えた。そこで、片棒を担いでみようと、個展が終わって、大阪から帰ってきたところで、申し出てモールのホームページの制作に取りかかったというわけ。
その間、庭の「たますだれ」が、晴れた日に一気に咲いたかと思う間もなく、雨でしおれ、晴れては持ち直しとくり返している内に、昨日はとうとう花一つになってしまった。たますだれも今年はこれで終わり。朝顔の方は、まだ咲いている。夏咲いた花から種が実り始めている。
湘南台文化センターで詩や映像の話
全景(Mavicaで撮影) |
地球儀の後ろの市民シアター |
9月20日の土曜日の午後、小田急江ノ島線沿線の湘南台で降りた。駅は工事中だった。ここには昨年の4月に太田省吾さんの「更地」を見に来て以来、殆ど1年半振りで来たことになる。横浜からの地下鉄が入って来るということだった。ベッドタウンといわれたところが、新しい都市として立ち上がって行くのを実感する。都心と郊外という二極的な構造が、多極的な構造に変わって行っているというわけ。
何年か前に、初めて太田省吾さんの芝居を見に来た頃、この文化センターの珍しい姿の建物は周囲から突出した存在のように感じられたが、それから周りの建物は余り変わっていないのに、今回は周りに馴染んでいるというか、溶け込んでいるように感じられたのが、わたしには目新しい感じだった。畑だったところが家になったという変化から、更にもう一つその家の住む人たちの生活の様式の定着から生まれてきた変化なのだろう。そこで、わたしは自分の「詩」と「映像作品」の話をしたわけである。話をした後、これは一つの表現の「局面」と受け止めようと考えた。このような仕方で考えが動いたのは、多分、太田省吾さんが聴衆の一人としてわたしの話を聞いていてくれたからだと思う。
[今の 詩について ]
現代詩というものを、現在、わたしはどういう風に受け止めているか、というところから話した。「今の詩の表現」は、わたしがその中で詩を書いてきた「現代詩」というものとは違った位相に来ているのではないかと考えているということ。その考えの基は、もう数年前から早稲田大学や近畿大学などで「現代詩」を教えていて、その詩が書かれた時代状況や使われている単語に注釈を付けなければ、学生が理解できなくなったということがひとつ。80年代の詩人たちの詩が、身を曝して朗読するというところから、語りの文体を持ち、詩の修辞として「隠喩」から「提喩」が多用されるように傾斜していったことがひとつ。
現代詩は「書き言葉」による芸術表現。それは、活字が喚起するイメージを拠り所として展開してきた。そして、「隠喩」によって、映画やグラフィクという視覚に訴えるイメージと拮抗する仕方で内面化を進めた。しかし、視覚的イメージの日常化と高品質化で、心的イメージに訴えるというやり方は力を弱めてきた。現代詩が拠り所にしてきた活字のイメージ喚起力も弱まった。そして、日常の意識のメディア空間へのシフト。言葉の情報的側面の肥大化。こうしたことで、内的イメージを構築するところに表現性を求め来た「現代詩」は、必然的に別の姿を取るということになってきたわけ。
じゃ、その別の姿の「今の詩」の姿はどういうものなのか。内的イメージの構築は、心の中へ向かう。「心理」「記憶」「心情」「思考」「意識」「幻想」など、要するに詩人のそれぞれの「世界」の表現的な実現だ。それは、社会なり、思想なり、美的信念なり、全体意識が共有されているところでは、個々の「世界」として意味があった。しかし、そういう共有意識が薄れてしまったところでは、それは、余り意味がない。それを失った「現代詩人」たちは、かりそめの共有意識を求めて、句会やら朗読会やらを楽しむところとなる。日本人ですからね。
「今の詩」はその「共有意識を持てない」というところから出発する。先日送られてきたPoetry Magazine「トビヲ」Vol.11を見ていたら、詩人の川口晴美さんが「少年濡れやすく恋成り難し」(高口里純)というコミックスに触れながら、自分の詩作について書いているところが目に入った。孤立した個人の「関係」と「詩作」ということについて鮮明に書かれている。これが「今の詩」を書くものの出発点と言えると思った。まあ、読んでみて下さい。(この引用は湘南台文化センターの話ではしなかった。)
どうやら、詩を書く、とそのものが「水たまりを飛び越える」のと同じように衝動を実現する行為のようなのだ。わたしにとつては。詩は頭で考えるところからではなく、体のどこかからやってきて、理由も計算もなくただそうしたいから書いてしまう(もちろん具体的に言葉を選んだりする段階では頭を使うわけだけど)。詩の内容に衝動の実現を描くのとちがって、詩を書くという衝動の実現そのものは深く、飽きることがない。詩を書くとき、わたしは一人だという感覚をとても強く味わう。その行為が向かっているのは”関係”ではなく”私”そのものなのだから。一人であること。それは怖くて、いっそ爽快で、楽しい。詩を書くことも、ナルシスティックな暴力だろうか。そうかもしれない。石田クン(コミックスの登場人物)のような被害者の人間が存在しなくても、ナルシステックな暴力者だという意識が「詩を書いています」と言うとき一瞬口ごもらせたりするのかもしれない。それでも。地縁とか血族とかという人間の自然性による関係とは違う独立した個と個の関係に生きる羽目になってしまった人間がここにはいるのですね。そうすると、否応なしにそれぞれが主体と客体の位置の置かれてしまうわけです。そこで、心を傷つけたり、心に傷を受けたり、ということになる。わたしたちは現在そういう関係の重圧の中に生きていると言える。言葉を書くことによって、その言葉の主体として、自分の主体性を回復しようとする。つまり、詩は「関係」と、その意味合いを語るということになる。以前紹介した、若い坂輪綾子さんの詩や杉澤加奈子さんの詩を読むと、人間関係の持つ意味合いが、痛々しく語られてるのを感じてしまう。
言いわけはしない。
しないから
一人で
立っていると
踵から冷たい風が吹き上げてくる
躰の輪郭が内側から涼しく縁取られ
雨あがりの広い空を映す水たまりを飛ぴ越える瞬間のように
足首が冷えて
ぐらぐら揺れる
コトバはわたしを一人にする
快楽がわたしを一人にするように
わたしは目を見開いて
水のなかの空に
空のなかの水に
触れる
触れている
わたし
夜のように一人
そこにいて
夜、ずっと起きているのがクセになったのは、生きている一人の感覚がじわじわと躰にせまってくるのが好きだからだと思う。それがたとえ痛みをともなう感覚であったとしても。夜のなかにわたしの輪郭がくっきりと浮かんでいる。夜は詩に似ている。夜が終わりに近づき空が明るんでくると、淋しいような気分になって布団にもぐりこむ。朝刊が新聞受けにばさりと投げ込まれる音。その音の先でわたしは眠りに沈んでゆく。明るい昼の光に瞼を閉ざし、夜を抱え込むかたちで。
笹生美穂子(コミックスの登場人物)はきっと昼間も、夜を抱え込んで一人で歩いている。
「現代詩人」はこういう詩をつまらない詩だと思うでしょうね。彼らから言わせれば、中身が空っぽというわけです。「思想」とか「情念」とか「心理」とかに拘っていて、人間というのはそういうものだと思っていれば、山本タロウ君の詩を読んで、そう結論するのは当然。でも、人間て、曖昧で不確かな存在ではないでしょうか。とくに、こうメディアが幅を利かせた都市で生活をしていれば、「仮想的」に生きるように仕組まれてしまう。現実と関係を取り持つだけで、やっとというのことにならざるを得ない。他人と関係を絶って、沈黙するが、意識の中では返って言葉は饒舌に働く。その言葉を別の言葉で書くとき、沈黙の下に更に沈黙の空間が生まれる。沈黙の地下だ。山本君の詩の言葉は、そういう地層を掘り進んでいるように思える。約10分 山本タロウ あれは 送電線なのだと思う 窓の外の壁をケーブルが這っていて たぶん黒いんだけど ぶれて動いて見えるのではっきりしない たぶん黒いんだけどべつに黒でなくても 何色でもいいようなものらしい 四角い窓はたくさん区切ってあって たまたま僕の前にもひとつ区切ってある どの窓の外にも同じようなケーブルが よく見ると 這わされている ひとつ向こうの窓にも人が立っていて その人の目にもやはり同じものが映っているはずだが それを見ている ということはないように 僕には思えた 前に進みたいのに 後ろから引きずられるんで 壁にしがみついて這っているほかないんだろう 僕たちも 黙って立っているよりしかたなくて たとえビニールで絶縁されたケーブルの中身に 想像つかない速さで電気が伝わっていても 伝えているケーブルは前に進まない 例えばそれが生きた蛇のように見えることは決してない 電気を送るのに役立っているケーブルでしかなく 生きてはいない 僕は窓に近く寄り添い ガラスの表面が袖に触れるくらい近づく どの窓の外にも同じように 壁が流れ続け その壁をケーブルが這い続ける という状態が 置き去りにされ続ける 地下を走る列車の車内からは 窓の外がむしろ暗い 席は空いていたし座ってもよかった 窓の外を向いていたかったから 座らなかったんだ 決して熱心にってわけじゃなくて 見なくてもいい光景を ただ目が追っていた 降りる駅に着くまで 車内の人の模様には全く関心を払わなかった それこそ生きていないように 窓の外の壁を伝うケーブルが 僕の生きる一瞬を這う 時間を過ごした
近大で「詩について」の5日間の集中講義
近大正門(Mavicaで撮影) |
文芸学部校舎 |
9月10日から14日までの「詩の表現」と題した集中講義は、14日の午後試験をして終了した。連日、10時から4時半までの講義に疲れて、13日の午後は休講にして、奈良の大仏様を拝みに行った。近大文芸学部の集中講義は3回目になるので、少々学生の気質とか事務の人の対応などに慣れて、要領も分かってきたので、楽しむという余裕も出てきた。それにしても、難解な「現代詩」について話すのは、かなりやっかいなことだ。
言葉が「音像(音のイメージ)」と「意味」とからなっているというところから話し始めて、その音像が「文字(活字)」で表記され、詩は「書かれた言葉」として、個別的に読者の意識に働きかける芸術的表現、といった具合に、詩を形態的な側面から解説する。音韻が表現性を持つこと、比喩など修辞的表現の持つ意味合い、詩という作品が形態(スタイル、姿)を持って表現を実現するときの形態の働き、といったことが心的イメージの生成に収斂していくと解きあかし、詩を書くのは、人が言葉の主体である個人として全体に対して自立することだと締めくくる。
「現代詩」は活字メディアの上に「言葉によるイメージ」を実現して来たところに特色がある。それが映像メディアの日常化によって徐々に力を失いつつあり、一方で、少数対多数という構造を持ったマスメディアに依拠していた活字メディアは、多数対多数という構造の電網メディアによってその価値観が相対化されつつある。こうしたことから、従来の詩とは違う詩が書かれるようになるだろうということは、明白だが、それがどういう詩で、面白いかどうかは、書き手が目指す心がけ次第、という話をした。
集中講義は、それはそれとして、講義の後の時間に、とにかくパソコンが頭から離れないわたしは、大阪について早々に日本橋近辺の電気街に出掛けた。先ず、フロッピーディスクに、jpegファイルで記録するデジタルカメラ、ソニーのMavicaを買おうと思って、3、4軒パソコンショップを巡って聞いてみたが、どこも売り切れで、月末にならなければ入荷しないというすげない返事。諦め掛けていたが、「ニノミヤ」という店の店頭のお兄さんに声を掛けたら、「まだ、ある」という言葉に引っかかって、その場で買ってしまった。でも、これを買ったお陰で、帰りは歩くことにしていた、近大から河内小阪のユニオンホテルまでの道すがらの町並みを撮影して楽しむことができた。
東大寺 |
恵比須町から日本橋にかけての電気街は、東京の秋葉原とは少々趣が異なる。どちらかといえば、初心者向けの店が多いと感じた。そういう感じの中に、いろいろな種類のマザーボードを売っている店があったのが印象的だった。ちょっと裏に入ると工具屋が軒を連ねる。夕方のせいか、余り客が入っていない。ソフマップだけが若い連中でにぎわっていた。きっと、店の馴染み客になりやすいのかも知れないと思った。千日前まで歩いて、小さなステーキハウスで3500円のヒレステーキを食べてホテルに戻った。
車窓風景 |
デジタルカメラを買ったので、近大の校舎や、小阪付近の家並や、大仏殿なども撮影した。大仏殿では、30分ぐらい大仏さんの前の縁台に腰掛けて、大仏を見に来た人たちを見ていた。インド人、アメリカ人、東欧の人かと思えるような人たち、東南アジアの人たちなどが、日本人の半数まで行かなくても、かなり多かった。映画館のスクリーンも巨大な人間を映し出すが、巨大な人間のイメージというのを、人は欲しがるものなのだ、と思った。雨が降る奈良の土塀の路地を歩いた。帰りの新幹線では、窓にへばりついて、デジタルカメラで外が暗くなるまで車窓の風景を撮り続けた。フロッピー2枚で100コマぐらい撮影した。車窓の風景を撮り続けるということは、わたしにはとてもスリルがあって面白い。撮ったつもりのものが写っていなかったり、記憶にないものが写っていたりで、帰ってから見るのが楽しみなのだ。デジタルカメラは現像やプリント出すことなく、直ぐに見れるのいい。帰って、早速パソコンで開いてみたら、フロッピーはDOSフォーマットだが、MacでもPhotoshopで見ることができた。
九月の感想
昨日、写真展が終わった。これで、わたしの夏は終わりという実感。夏中咲き続けていた日々草はまだ咲き続けている。水が切れると、くたっとなるが、水をやるとすぐにしゃんと身を立てて咲き続けてきた。明日から大学の授業が始まり、早々に近畿大学に行って五日間の集中講義をしなくてはならない。ちょっと、AT互換機BREZZAからも離れて、詩の話をすることになる。音韻とか意味とか、ことばの形態から話し始めて比喩やら文体やら、詩を活字メディアの上に成立したことばの高度な芸術的表現様式として解説する。教材は、先週PageMakerで作ったプリントを送ってある。
写真展のギャラリーには、初日と上映日と最終日と、あと一日位しか行かなかった。わたしに会えると思って期待してきた人には失礼なことになってしまって、申し訳ありませんでした。会場に置いた芳名帳を見ると、沢山の人の名前が書いてあって嬉しい気持ちになる。詩集を出版したり、映画を上映したりするのとは違った喜びだ。撮影した写真を額に入れて飾ってみると、自分でもそこで始めて写真を作品という形で受け止められるところとなる。
今回の作品は、作者自身にとっては納まり過ぎた印象だった。魚眼写真の効果が分かって、それを楽しんだということはあるが、代わり映えがしないように感じられて、そこは反省しなければならないと思った。魚眼写真をまだまだ撮り続けたいという気はするから、考えなければいけなくなったということだろう。撮影者の前面180度が写ってしまうというところを踏まえて、事物の意味をはぐらかすことへの挑戦、なんてことをぼんやり考えている。
終わらせてしまうと、何でも寂しい気持ちになる。秋の寂しさは、終わったという思いから来るのだろう。長野県の新野の盆踊りで、三日三晩夜徹して踊り明かした後に、祖霊を送り返してから、「秋唄」といわれる唄がうたわれる。
盆よ盆よと楽しむうちに いつか身にしむ秋の風 盆よ盆よと春から待ちて 盆がすぎたら干草刈り
FreeBSD2.2.1-ReleaseをAT互換機のSCSI接続HDDにインストール成功
出来た、出来た、と他人に吹聴しても、白けた顔が向けられることは分かっているが、語らずにはいられない、という気持ち。まあ、性懲りもなく、というところ。昨日は、庭でこの秋最初のむけげの花が咲いた。それと、FreeBSDのインストールの成功とは関係ないけど。夏休み前から目指していたところに到達したのだから、うれしい。パソコンって、この達成感が先へ先へと踏み迷わせる。
MacOSでも、MicrosoftのWindowsでも、アイコンをクリックすればOSのインストールは簡単に出来てしまう。それで、誰でも容易く使える。ところが、パーソナルなUNIXのFreeBSDはそうは行かない。マニアックになっているわたしとしては、その「そう簡単には行かない」というところが面白いのだ。インストールっていうのは、「据え付ける」ということだが、その据え付ける場所の地均しから始めなければならない。もっとも、インストールそれ自体は、インストーラも整備されているし、参考書もあるから、組立キットの家を造るようなものだけど。
今回のインストールするということの、わたしの関心は、もっぱらその地均しと建てた家のドアの開け閉めというところにあった。AT互換機では、DOSの2台目以後のドライブのパーティションからはOSを起動できないという制限がある。それを、AT互換機で複数のOSを切り替えて使えるようにする、ということ。つまり、普通なら出来ないし、やらないことなのだが、一台のマシンの外付けのハードディスクに幾つものOSをインストールして、気分に応じて、いろいろなOSを使い分けてみたい、という気持ちを満足させること。来年当たりは、AT互換機でMacOSやBeOSを動かすこともできそうだし。わたしにとってのパソコン遊びの一つというなわですね。
その地均しというのは、ハードディスクのフォーマットとパーティションを切り、領域を決めるということで、ここにセクターやら、トラックやら、シンリンダーやら、ヘッドやら、タイプやら、よく分からない単位がぞろぞろ出てくる。2GBのハードディスクは、1セクター当たりのバイト数が512、1ヘッド当たりのセクター数63、1シリンダー当たりのヘッド数255といった具合。
さて、翔泳社版「FreeBSD徹底入門」についていたCD-ROMのなかのFIPSというツールを使って、フォーマットし直さないで、パーティションを分ける。「Old Partition」のシリンダー数をどんどん増やして、1027.6MBでシリンダー数が131になり、残りの「New Partition」が1019.8MBとなったところで止めた。これで、Windows95のコントロールパネルを見ると、Dドライブ一つだったのが、Eドライブも出来ていた。2GBのディスクが、1GBづつの二つのパーティションに切れたわけ。
次に、DOSの領域をFreeBSDの領域に変更する。これも「徹底入門」のCD-ROMのPFDISKというツールを使った。pfdisk> 2 165 131 260とDOSのコマンドラインから打ち込む。つまり、2台目のドライブの131番目のシリンダーから260番目のシリンダーまでを、FreeBSDのタイプ165に変えるというわけだ。これをやると、Windows95のコントロールパネルから先ほどまであったEドライブが消えた。さあ、地均しが出来た。後は、FreeBSDをインストールすればいい、というところまで来た。
インストールは、PC-98でもやっているから楽に出来た。特に、2.2.1-Releaseでは、インストーラがグレードアップされたとかで、やりやすかった。ブートセレクターに「Booteasy」を選んでそれで起動が出来る試してみることにした。インストールを完了して、再起動してみると、すらすらすらっと、Windows95が立ち上がってしまって、FreeBSDは何処へやら。
起動しない場合については、「FreeBSD徹底入門」には何も書いてなかった。そこで、FreeBSDで使えるハードについて詳しく書いてあったアスキー出版の「パーソナルUNIXスターターキットFreeBSD」を開いてみると、あった、あった、「FreeBSDの/(ルート)パーティションを設定したスライスが、ディスクの先頭から1024シリンダ以内にないとうまく起動しないことがある」、またSCSIカードBIOSの設定の仕方も書いてあった。そして、だめなら「IDEハードディスクを一時的に殺して下さい」とあった。
そこで、T・ZONEのお兄さんが教えてくれた「SystemCommannder3」に登場して貰うことになった。開かないドアを開ける便利な道具を使おうというわけだ。そのインストール、マニュアルに従ってそのフロッピーにDOSのsysファイルをコピーしようとしたら、拒否されて出来ない。仕方なく、別のフロッピーにdiskcopyして、そこへsys.*をコピー、それで起動しインストールしたら、最後のところでエラーになった。これはハードディスクのマスターブートレコード(MBR)に入り込むツールというので、ぎょとする。しかし、元のフロッピーでインストールしたら、今度はうまくいった。
果たしてうまく起動できるか。フロッピーを抜いて、再起動するとSCSI BIOSの次に「SystemCommander3」が起動して、Windows95が示された後に、OSの一覧表が出て、その「FreeBSD」を選ぶとFreeBSDが立ち上がったが、ブートストラップの途中で切れて再起動してしまう。よく見ると、panic: cannot mount rootで切れる。本を見ると、SCSIディスクから起動では、ブートプロンプトにboot: 1: sd(0,a)/kernelとしなければ起動できないと書いてあった。これを打ち込んで起動させ、「徹底入門」に従ってカーネルのソースを書き直した。これで、ようやくのことで、遂に、インストールの成功!となった。これだけの作業に丸半日を費やしたが、マニアとしては、十二分に堪能した時間を持つことが出来たわけです。
AT互換機への熱中、その後
遂に、中古のAT互換機を手に入れた。自分で組み立てるというのは、どうもしんどいと重たく感じはじめて、いろいろ本を読んでしまったので、早く手元に置いて触りたいという気持ちの方が強くなり、とにかく5、6万の中古でも買って来ようと、気軽に新宿ソフマップの中古店に出掛けたのだった。
5万円代のがあった、あった。58000円でIBM のアプチヴァ、店員に声を掛けて、説明を聞くと、CPUは486DX、メモリ8MB、HDD800MB、Windows3.1、しかし「リカバリーディスク」がありませんよ、という。メモリはどうせ増やさなければならないし、HDDも外付けにすればいい、と思ったが、その「リカバリーディスク」というのが気になって、聞いてみると、それがないとOSを再インストールできないという。でも、メモリを積んでWin95にアップグレードすればいいだろう、と言うと、だからそれが出来ないのですよ、フロッピーでフルインストールするならいいですけど、と言う応えだった。でも、わたしはFreeBSDを自分でインストールするのがこの際問題なのだと、その安い中古のアプチヴァを買うことにした。
包んで貰う間に、近くのソフマップのDOS/V店へ行って、メモリとSCSIカードとHDDを買おうとして、機種名を言ったら、その機種はISAカードしか付かないし、いま店にないと言う。そして、それを購入して取り付けると、もっと性能のいい新しいのを買ったのと同じくらいに値段になってしまうと言うのだった。店員は、馬鹿げていると言う顔つきだった。わたしは、いささか屈辱感を覚えて、気持ちが動揺し、中古店に戻り、別の機種にすると告げて、店員の厭な顔を正面から受け止めるしなかった。結局、その上の棚の値段の98000円の東芝のBREZZAにしたのだった。Pentium-120MHz メモリ16MB HDD850MB モデム内蔵。
元箱がない本体とディスプレイを抱えて、タクシーで家に持ち帰った。早速接続してスイッチを入れると、Windows95が起動したが、マウスがスクリーン真ん中で止まって動かない。仕方ないから、全部キーボードのショートカットを辿って、終了した。一応、マウスデバイスを疑って、インストールしようとしたが、付いていたWindows95のCD-ROMを読んでくれない。そこで、いろいろ付いて来たCD-ROMやフロッピーを見てみると、「リカバリーディスク」と言うのがあるじゃないですか。それでインストールすると、Win95ばかりでなく、「筆まめ」やら「エキスパート」やら「ワード」「エクセル」「岩波国語事典」、それに「カラオケ」「ゴルフ」まで否応なしにインストールされてしまうのだった。
「リカバリーディスク」というのは、そういう仕掛けだったのか、とようやく合点が行った。パソコンのパソはパーソナルの「パソ」でしょう。それなのに、この画一性はどうだろうか。わたしとしては、そんなアプリはどうでもいいのだ。とにかく、画面の真ん中に張り付いて動かないマウスポインターを動かしたいだけだ。ショートカットでマウスデバイスを調べると、ちゃんとある。マウスが悪いのかと、一つ二つと取り替えてみるが、だめ。翌日、東芝のPCサービスに電話したら、MacよりもNECよりもはるかに受け応えよく、現在のマウスデバイスを削除して下さい、と言うので、言われた通りに削除して再起動したら、マウスは復元した。
中古BREZZAはとにかく大丈夫。さて、これからがパソコン相手の面白いところ。MacともPC-98とも違うBIOSを起動してコンフィギュレイションを見てみる。ここで、コンピュータのハードの中身を見ることが出来る。本と照合して、フムフム、と分かったような気持ちになって、満足する。それから、数日後、「DOS/V magazine」8/15「SCSIカード完全制覇」特集を買ってきた読む。更に、アスキー出版「パーソナルUNIXスターターキットFreeBSD」のSCSIカードのところを読んで、買うべきカードとして、アダプテックのPCIカード「AHA-2940U」を選んだ。今度はソフマップの店員より少し知識があるT・ZONEへ出掛けて、メモリ16MB×2、PCIカード、2GBの外付けHDD、それに幾つものOSの起動をコントロールする「SystemCommander3」というソフトがあると教えられて、それを買ってきた。
いよいよ、メモリの増設とPCIカードの取り付けだ。SOFTBANK BOOKS「DOS/V拡張ガイド完全版」に目を通し、「TRY! PC」9月号の特集「最新DOS/VマシンのBIOS攻略法」を読み、手順やら設定やらのイメージを作ってから、BREZZAの蓋を開けた。BREZZAのガイドブックには、メモリを取り付けるには、フロッピーディスドライブのキャリアを取り外すように書いてある。裸のマザーボードを見ると、緊張するが、それを、取り外し、メモリを装着する。次に、PCIカードだ。狭いところの取り付けは、一寸きつかったが何とか付けた。カードを固定する金具がなかなか入らないで、汗をかく。とにかく、装着は出来たと、ほっとして、カバーを取り付けて、接続して、起動してみると、メモリを8MBまでしか読み込まないで、止まってしまうのだった。ありゃりゃ、とどっと汗が出てくる。
また蓋を開けて、メモリバンクからメモリを外して装着し直してみるが、やはり0008192KBまでしか読み込まない。つけたメモリを外すと、0016384KBまでちゃんと読み込む。3度繰り返して同じ結果なので、日が暮れるまでにまだ時間あったので、新宿のT・ZONEまで持って行って聞いてみることにする。T・ZONEでは、案外簡単に交換してくれることになったが、16MBのメモリがないというので、代金をプラスして32MBのと交換した。今度は80MBまで行った。メモリの増設は成功。また、PCIカードも、買い忘れたターミネータを後日買ってきてHDDを接続して、Dドライブが生成された。今度は、ゴール目指してFreeBSDのインストールということになる。どうも、「基本DOS領域」とか何とか、パーティションテーブルとか、いまいち分からないのだが。