今を盛りのほととぎす草の花
この花は庭という場を越えた印象がある。といっても、深い山奥というのでもない。葉が落ちて空が透けて見えるようになった薮にふさわしいように思う。色合いがほととぎすに似ているところから付けられた名だと辞書には書いてあった。近づくと、羽音高く足元から飛び立つほととぎす。「斑、まだら」の模様が、あやしげな感じだ。わたしが斑模様の衣装を身につける女性を敬遠したくなるのは、どうしてだろう。でも気になって、遠くから眺めていたいという気持ちもある。
先週から、久野靖著「UNIXによる計算機入門」という本を読み始めた。ハードからソフトへ、UNIXというOSに即して書いてある。ファイル・システムの説明など、簡単なC言語のプログラムで書かれていて、それを書き写して、FreeBSDでコンパイルしながら読んでいくと、コンピュータの中に入り込んでいくような気になれるのが、嬉しい。 ループを1000000000回やるプログラム、
/* t01.c -- simple loop -- */ main() { int i = 0 ; printf("start.\n"); while(i < 1000000000) { i = i + 1; } printf("end.\n"); } を作って、 %gcc t01.c %time ./a.out start end 45.2u 0.0s 0:45.28 99% 5+194k 0+0io 0pf+0w
庭のいろいろな実、それと季節はずれの紫露草の花
先週から今週に掛けて、庭ともいえない、テラスの庭に、すずらん、つばき、あかまま、ばらの実が目に付くようになった。特に、すずらんの赤い実には心引かれる。メルヘンを感じさせられる。小動物や小人が似合いそうな雰囲気がある。あかままはこどもの頃の記憶に結びついている。線路の土手という雑草が生い茂った斜面、その中に身を隠すと、目の前にあかままが揺れていた。椿の実は、今年初めて実になった。ばらの実は、何年かに一度は実を付けるが、木の実が何になるのか、つまりそこから芽を出すものなのか、そのまま枯れてしまうものなのか、定かでない。
朝食前に、すずらんの実が赤くなったかな、と見たら、直ぐその側にむらさき露草が花を開いているのを見つけて、驚いた。五月に咲く花だからだ。咲き残していたものを、冬が来るのを前に今やっと咲かせたというわけだろうか。これを撮影しないということはない、とばかりにカメラを向けた。
まだ咲き続ける朝顔、もう種を実らせた朝顔
まだ、なんて言ってはいけない。でもこの破れ傘のような花の姿には、感慨を持たざるを得ない。新聞に紅葉の写真が載り、世の中は紅葉のイメージに向かっている。春の桜とは違って、紅葉にわくわくさせられる気分は、夜、肌寒さを感じながらのひとりで帰宅する裏道の気分と対をなして、人恋しさを募らせる。そこで、翌朝、窓外に目をやって見つけた破れ傘の朝顔の花。まだ咲いている、勿論、「まだ」と言ってはいけない。
同じ朝顔が、もう種を実らせている。幾つかの種袋は裂けて、中の種を落としていた。まだ花を咲かせながら、もう種を実らせて、地面に蒔いているという朝顔は、8月に盛んに花だけを咲かせていた朝顔とは違う。「まだ」と「もう」の両方を持っている。でも、このことは如何なる生物にも、いや事物についても言えることなのではないだろうか。「もう」を追いかけるのか、「まだ」に振り返るのか。人は自分の意向を制御するために、時間をそんな具合に受け止める術を知っている。
そこで詩人のわたしは考える。詩というのは、そういう「意向を制御する装置」といえるのではないか。詩を書くには、とにかくその気にならなければ書けないが、実は「その気」というものに、「強さ(density)」と「色合い(hue)」 と「濃淡(shade)」がある。「その気」を光に置き換えての言い方になったが、「気分」を一種の波長として捉えれば、そう外れたことにはならないだろう。詩人自身はこれを自分で操って生きている。自覚している人もいれば、してない人もいる。ほとんど「すれっからしの詩人」のわたしには、詩を書く前の気分が何とも言えない、あまいいい気分。秋は、その気分が混雑してくるので、やっかいだ。
あじさいの枝を切る
9月が終わったから、紫陽花の枝を切った、というわけではありません。このところ、なんか、よく分からないけど、苛立たしい気分が続いている。その気分の上に、昨日は夕方家にいて、夕刊を読み終わったところで、夕食前のいっとき、パソコンの前に坐るにしては中途半端な時間に落ちて、かなり前から、家人に切ってほしいと言われていたので、切る気になったというわけ。昨夜、目の前にうるさく下がる髪の毛も切って貰うつもりだったので、頭をさっぱりさせるような気持ちで、鬱蒼と生い茂って来た枝を切った。
切り始めたら、去年、今年の若い枝が絡み合っていて、切った枝が取れないので、いっそのことすっきりさせてしまえ、とばかりに鋸を持ち出して、何本も出ている幹の中程から切り落とすことになった。紫陽花が抵抗していると感じられる程、絡まりを解きほごしながら鋸を引かなければならなかった。手首の辺りに枝の切り口がこすれて、幾つも擦り傷が出来て、後でメンソレータムを塗った。やあ、切ったあ、という感慨が残った。枝には既に来年の枝になって伸びる芽が出ていた。一夜明けてみると、庭はもう昨日とは違う眺めだ。早速、Mavicaを持ち出して、これを「曲腰徒歩新聞」に書かなければ、という気になっている。
「曲腰徒歩新聞」を始めてから丁度一年が過ぎたところだ。最近は雑誌に原稿を書くという機会が少なくなってきたから、わたしにとって書いたものを発表する場としては、大切なところになってきた。コンピュータにのめり込んでいるわたしと、文章を書くのが好きなわたしが重ねられるというのがいい。そこでの新しい実感は、雑誌の原稿はその雑誌の読者というのがカテゴリライズされているから、その読者に向けて書いたという実感が得られるが、この「曲腰徒歩新聞」ではそれが今一つ掴めないということ。ヒットカウント数として、読者の数はおおよそ分かるとしても、読者の顔は分からない。結構、孤独な作業となる。それはそれなりに面白いと思ってやっている。雑誌は読者との連帯意識みたいなものが生まれるが、ホームページにはそれがないなあ、と思っている。