木槿の花が咲いた。鈴木志郎康写真展、始まる。
木槿の花の名前が一年経つと、どういうわけか、あやしくなる。今年も、蕾が付いた頃、何ていう花だっけ、と家内に聞いた。一言その名を聞いて、何でそんな分かりきっている名前をわざわざ聞いたんだろうと、自分が訝しくなる。そして、去年も、同じことがあったように思った。木槿の花の白、今年は花の数が多い。
今日は、写真展の初日で、開場の11時を少し廻った頃に行った。近くのセイフウで、知り合いの人が来たら飲んで貰おうとビールとジュースを買ってきて、Moleの冷蔵庫にいれた。午後も遅くなる頃まで、家内を含めて、知り合いは二人だけ。会場にいて退屈して、展示してある写真の「解題」を書くことにした。ノートを買ってきて、撮影の対象になった人の名前と撮影した時の印象のようなものを、読みにくい字になったが、殴り書きで書いた。そこでまた、名前を思い出せない人が出てきた。よく知っているのに、名前が思い出せない。それから、早稲田の卒業生の川本さんと本多さんが来て、そこへ丁度来た八木さんに二人を紹介しようとして、本多さんの名前がとっさに出てこなくなった。あれれ、だ。今年会って、メールも遣り取りして、彼女の詩も読んだのに。スムーズに記憶が結びつかない。その結ぶ糸目って何だろう。
会場には25点の魚眼写真を展示した。わたしがよく知っている人たちのこれらの写真を、他人はどう見るのだろう。写真の前を通り過ぎていく人の様子を見たり、時に話しかけてくる来る人の言葉から察して、歪んで非現実的なイメージを作り出す「魚眼レンズ」というところに関心が向かうらしい。「魚眼レンズ」が当たり前になってるわたしは、もうちょっと先まで見て欲しいな、と思うけど、やはりそれは無理というものらしい。まあ、魚眼レンズを向けられて知人たちが乗せてきた感情を読んで貰えば、それでいいが、欲を言えば、撮影は対象と10センチから30センチに接近しているという、その「接点」の意味を考えてくれればと思うが。
毬栗が落ちていた。ルーターで接続成功。
渋谷のヨコシネに16ミリのプリントを取りに行った帰りは、自転車で富ヶ谷の谷間から渋谷消防署富ヶ谷出張所の脇の細い道に出て、山手通りを横断して、東海大学の前に抜ける。その消防署の脇道の濡れたアスファルトの上に、毬栗が数個、散らばって落ちていた。朝方の強い雨に打たれて一本の大きな栗の木から落ちたのだろう。自転車を押して坂を上って来た目に、その瑞々しさは思いがけない出会いだった。栗をよけて通り過ぎた後、もう一度戻って、三個拾って持ち帰った。毬は痛いけど柔らかい。それがいい感じ。先週の金曜日のこと。
ところで、デザイナーの大杉利治さんから8月4日の「Linux とFreeBSDのEthernetカード接続成功」の記事が役立ったというメールを貰って、大げさに言えば飛び上がるほど嬉しかった。わたしのパソコンの話は、誰に聞いても、よく分からないと言われ続けている。他人の役に立つなんて思いも寄らなかったこと。椅子から飛び上がらなかったけれど、両手を挙げるくらいの喜びだった。
大杉さん曰く、
> Linux とFreeBSDのEthernetカード接続成功。 を興味津々読ませていただきました。 わたしも志郎康さんの新聞に感化されたりしてこのところUNIXにはまっています。 といってもFreeBSD>netBSDの/Mac版の/MacBSDというのですが。 思いこみというより仕事上やむにやまれない事情もあって始めたのですが、 今日の曲腰徒歩新聞の内容がわたしの目下の災難に符合している点が多くとても 参考になりました。 こういうライブな、微妙な?を圧縮解凍するガイドブックなどなかなかあるはずも なくその点で一連の新聞/日記はわたしにはベストガイド(へんな英語)になって います。 きょういちばんの!!は
>カードの製造会社ごとに特別のアドレスが割り当てられていて、製品ごとに固有の アド >レスが割り振られ、世界中のEthernetカードは全部違うアドレスを持っていて、 二つと >同じアドレスのカードは無いと いうことだった。 というお話。 じつは、それを知るよしもなくこのところずっと立往生、ショー然たる気分でいま した。 Mac用のEthernetカードにもいろいろあり、sn0とかmc0とかae0とかあります。 それがまたsn0がじつはae0として認識されるとか、わけのわからないこと。 しかもEthernetカードのアドレスの認識がどうしてもガイドブック通りにならない。 結果ifconfigの設定、IPアドレスの設定がうまくいかない。 と、誤解してたのでした。 それがお話で解決の方向がみえてきました。
最後に1つだけ。PPPによる接続と、DHCPによる接続は、根本的に違う はずです。ルーターをDHCPのサーバーにしてローカルネットのマシンに IPアドレスを渡すことはできますが、DHCPのクライアントとしてcatnetへ の接続はできないと思います。PPPによる接続です。
1998/08/18 11:56:16: PP[01] Calling 0356455860 with 1B mode 1998/08/18 11:56:18: PP[01] PPP/IPCP up 1998/08/18 11:57:44: PP[01] Disconnecting, cause [Data transaction timer expired] 1998/08/18 11:57:44: PP[01] Disconnect complete 1998/08/18 11:57:44: PP[01] Disconnected cause [Data transaction timer expired] 1998/08/18 11:57:44: PP[01] Charge is 10 yen
長尾高弘さんの新詩集「縁起でもない」の刊行。
女に生まれてきていたら長尾高弘 1 もし女に生まれてきていたら、 私には弟がいたかもしれない。 もちろん、選べることではないので、 弟ではなく妹だったかもしれないし、 弟も妹も生まれなかったかもしれない。 しかし、もし女に生まれてきていたら、 弟がいた確率は高かったと、 思う。 2 子供の頃、 女に生まれればよかったと、 思ったことがあった。 男の子と遊べば泣かされるので、 女の子と遊ぶ方が好きだった。 (その女の子にも泣かされることがあったけど) 腕力はなかったし野球もヘタだった。 おままごとは好きだった。 それでもさすがにお母さん役はやらなかった。 3 子供の頃は内股で歩いていた。 父はそれをとてもいやがっており、 何度も厳しく直された。 父は、 女の子みたいな歩き方をしやがって、 と吐くように言った。 そのたびに顔がカーツと赤くなった。 歩いているときにふと思い出して、 爪先がどちらに向いているかを、 見るようになった。 いつのまにか内股ではなくなっていた。 4 父は何かというと、 女子供にはわからない、 と言うのが口癖だった。 私は男にされたり、 子供にされたりした。 子供にされたときには、 男になろうと背伸びした。 女である母はそのやり取りを、 黙って見ていた。 5 自分が一人っ子であることを、 いつから意識し始めたのか。 団地の隣のうちは三人きょうだいだったので、 いつもにぎやかだった。 幼稚園にあがる前は、 隣のようにきょうだいがほしいと、 親に何度も言っていた。 幼稚園にあがった頃には、 一人っ子だからわがままで、 と親が他人に言っていたのを、 耳にしたことがある。 その頃、なにかごちそうを食べるときには、 一人っ子だから好きなだけ食べられていいでしょ、 と親に言われた。 小学校に入ってからは、 この先、弟か妹が生まれてくるとは、 少しも思わなかった。 6 一人っ子だからわがままで、 というセリフはその後も何度も聞かされた。 友だちにうんざりされるたびに、 そのセリフを思い出した。 一人っ子に見られないように、 必死に努力した。 一人っ子だとは思わなかった、 と言われるたびに、 心のなかでほくそえんだ。 次第にそう言われる割合は高くなったが、 一人っ子だと思ったと言われたときに、 がっくりくる度合も高くなった。 7 中学は男子校を落ちて共学に行った。 その頃から女の子の顔を見て話をすることが できなくなっていた。 太陽を直接見てしまったときのように、 眩しくなって目をそむけてしまうのである。 高校は共学を落ちて男子校に行った。 男だけだと気楽でよいなどと言っていた。 中学の同級生の女の子が二人で学園祭に来てくれたときも、 すぐに持て余して二人でまわってもらった。 その話をしたら、 男の風上にもおけないやつだ、 と父に言われた。 8 今でもはっきり覚えているが、 大学に入ったばかりの頃の私には、 どこかから仕入れてきた男尊女卑が、 頭のてっぺんから爪先まで染み付いていた。 女のくせにとけなしたり、 女だてらにと誉めたりしていた。 (本当は彼女のことが好きだったくせに) そのうちに自分が異性だけではなく、 同性のなかでも孤立していることに気づいた。 9 大学を終わる頃には、 女性運動に理解を示すまでに”成長”していた。 その頃、 学園祭でコンテストをやり、 優勝者をアイドルとして売り出していたグループがあり、 男が女を選別する社会構造を拒否するために、 そのコソテストを物理的に潰すことを目指すグルーブがあった。 私は当然のこととして後者に加担した。 物理的な行為は快感である。 コンテストはわずか数名の暴カによって粉砕された。 前年度優勝の十代のアイドルが、 視界の右端のほうで泣きわめいていた。 十年後、彼女は裸を売るタレントに成長した。 10 しかしそれで女性が わかったわけではなかった。 相手が女性だと、 何を考えているのか、 どういう感じ方をするのか、 戸惑うことが多かった。 相談に乗ってくれる姉がいたらよかったのに、 とよく思った。 もし女に生まれてきていたら、 私は弟に何を教えていたのだろうか。 11 結婚は唐突にやってきた。 そのときは無我夢中だったので、 何が何だかよくわからなかった。 落ち着いてみると、 妻のことが一人の人間としてわかってきた。 妻は私が一人っ子だということを 結婚前に見抜いていた。 12 自分に子ができたというとき、 妻と女の子がいいね、 などと言っていたこと、があった。 生まれてきたのは男の子だった。 男の子は小さいときに大変だと 聞かされていたが、 なるほどよく熱を出し、 嘔吐が止まらないようなこともあって、 何度も病院に走った。 だからといって、 女の子の方、がよかったと 思ったことはない。 彼は今のところ一人っ子である。 |
今年初めての無花果。
西村君が去年の夏休みに 大阪の実家で描いたハナ |
脚本執筆中の西村太郎監督 |
西村君の引っ越し後、彼と彼女の住居を訪れるのは初めて。お父さんから贈って貰った絨毯を敷き、窓には赤いブラインドが掛かっていた。そして、自分で買ったというクーラーや冷蔵庫、それにテレビにはペイントで色が塗られていたり、絵が描いてあった。それは、若い人たちが空間を自分のものにするというときのやり方だと思った。壁に貼った猫の絵が目に留まったので、いいねえ、というと、大阪の実家で飼っていた猫で、先週死んだという。この絵は、去年の夏休みに大阪に帰った時に描いたものだという。名前は「ハナ」で彼が中学生の頃から飼っていたというから、老いて死んだわけ。西村君が「太郎」なので、「ハナ」と父親が名付けた。お母さんが西村君に勉強を教えていると、ハナは嫉妬して机の上の教科書に飛び乗って、よく邪魔したもの、と話す西村君はちょっと寂しそうだった。
Linux とFreeBSDのEthernetカード接続成功。
どうやら、このわたしの自宅仕事場内のLAN構築の話は、関心の無い人の関心を引くまっでには至っていないようですね。コンピュータが一台しかない人に取って、2台、3台のコンピュータを繋ぐなんてことは意味がないものね。実際、わたし自身、1台のマシンでインターネットに接続しているときは興味を持たなかった。PC-UNIXを始めても、異なるOSを接続するなんて面倒臭そう、と敬遠していた。
西村君に「映画の中の映画」を作って貰おうと思ったのは、西村君が3年生の時に作った『エロタブ』という映画に「内面君」という人物が出てきて、この人物が映画の中の「監督」に追い詰められて、屋上から飛び降りようとして逡巡していると、下では女の子たちがトランポリンを用意して、速く飛び降りるようにはやし立てる、というシーンがあって、その内面君というのが、実は、わたしが授業で内面ということの話をしたところ、その形象化として登場してきた人物で、わたしの今度の映画はその「内面」についての考えを軸に据えようと思ったので、まあ、西村君の登場となったわけ。
撮影したのは、西村太郎監督がこれから撮影に入る作品『誰かのオレンジ』について、自室で語るシーン。彼は今、うなぎ屋で配達のアルバイトして、生活費を稼いでいるが、それだけでは心の中に空白が生まれる、その空白から流れ出してくる感情を描こうという。配達先の高層マンションの回廊から見た東京タワーの夜景は綺麗だった、あれ、あれを描くと力が入る。まあ、今の自分の立場を別の役者に演じて貰って、話を作るということだった。「オレンジ」は自分が履いているスニーカーの色と自分が乗ってるバイクの色から取ったと言っていた。撮影は八月いっぱい、十月には完成と行きたい。一年振りでカメラに触って、気持ちが乗ってくるのを、そばにいてこちらも感じて、気分が良かった。
1998年8月4日
X windowのxtermで
pingしたところ
icmpパケットの送受信の
成功を示す0% packets loss
でも、繋いでみると、一人ででも、あっちのコンピュータからこっちのコンピュータへとファイルの遣り取りして見ると以外に面白い。そして、ローカル・エーリア・ネットワークのLANは、インターネットの基本なんだと自覚。そのコンピュータをつなぐという「基のところ」を把握しようと思うようになったというわけ。といったところで、電話で一つでインターネットには繋げるんだから、それで充分、見えないものを敢えて見ることはないんじゃない、ということもあるんでしょうね。
先月、MacとWindows95とWindows98と、それにWindowsNTの接続には成功して、いよいよPC-UNIXとの接続の試みとなった。Ethernetの接続は、PowerMacならケーブルを繋げばいいので簡単、Windows95や98はマシンにカードを取り付けなければならない場合は、ややこしくなる。たいていはWindows95や98が自動的やってくれるからいいけど、15しかないCPUとの出入り口である「IRQ」や「アドレス」が、不可欠のキーボードやマウスなどの他に、外付けのハードディスやMIDI音源などのデバイスで既にいっぱいだと、その重なりの案配を自分でやらなければならなくなるから、かなり厄介になる。わたしの場合、そこは何とか切り抜けたが、PC-UNIXは、始めから、それを自分で選んで決めて行かなければならない。
先ずは、わたしのマシンのEthernetカードがLinuxやFreeBSDで使えるのかが心配だった。最初に買ってきたカードを使わず、3Comのカードに買え換えたのはそのためだった。取り付けたカードがサポートされていることは分かったが、LinuxやFreeBSDの中でどのデバイスを使うのかというところが分からなかったので、雑誌や本を巡り歩いて、LinuxではEthernetカードは、eth0、eth1、、、とどのカードも同じだけど、FreeBSDの方は、3Comのデバイスはep0、、、で、NE2000はed0、、、と、デバイスによってちがうものを使うことが分かった。PC-UNIXでは、3c509とかNE2000とというカードの種類は、「module」になる。そこで勉強して分かったことは、カードの製造会社ごとに特別のアドレスが割り当てられていて、製品ごとに固有のアドレスが割り振られ、世界中のEthernetカードは全部違うアドレスを持っていて、二つと同じアドレスのカードは無いということだった。これは驚きだった。
TCP/IPについても勉強するところとなったが、コンピュータからコンピュータへ送られるデジタルのパケットは、そういうEthernetカードのアドレスとかいわゆるIPアドレスとか、またそのパケットの大きさとかいろいろなインフォーメーションが記されたデジタルのカプセルに包まれているということ、そしてパケットにはまた寿命もあるということも分かった。つまり、わたしが発信したデジタル信号は、パケットとして無数のカプセルの小包になって世界中に拡散するが、宛先に受け止められなかったパケットは寿命がつきると消えてしまうわけだ。それをイメージすると、世界中の数千万というコンピュータが何処かでケーブルに繋がっていて、そのケーブルの中を無数のパケットが行き来して、生まれたり消えたりしているわけで、そこで間違わずに相手のコンピュータに届くのだから本当にすごい。
その無数のネットの一つに、わたしはまた一つのOSを繋げようとしているわけだ。とにかくサポートされているカードを付けているのだからと、ケーブルを繋いで起動してみたが、案の定、繋いだハブのランプが点らない。カードが活きてない。PC-UNIXでは、ネットワークのデバイス(装置)の状態を調べるのに「ifconfig」というコマンドを使うと本に書いてあったので、それで調べてみると、OSはカードを認識していることは分かった。つまり、カードが付いているけど働いていないというわけ。
働かせるには「#ifconfig eth0 up」と命令すればいい、とも書いてあったので、それをやったら、Linuxは「SIOCSIFFLAGS: Try again」と応答して来たが、FreeBSDは返事しない。そこで、よく分からないけど、IPアドレスを設定してないのがいけないのかと思い、続けて「#ifconfig eth0(ep0) inet 192.168.0.8 netmask 255.255.255.0」とやったら、Linuxは前と同じ返事、FreeBSDはハングアップしてしまった。どうやったら、Ethernetカードを活かせるの?というところで、最初のトライは挫折した。
わたしにとっての「いつもの頼みの綱」の長尾さんにE-mailで質問したら、OSが参照するデバイスについて記述してあるファイル「rc.modules」を書き直しなさい、と教授してくれたので、そのファイルを探したりしてしながら、Linux関連のサイトからダウンロードした「Linux Ethernet-Howto」を見ると、その中の「F&Q(よくされる質問)」に「SIOCSIFFLAGS」のことが出ているのを見つけた。それによると、「IRQ」が他のデバイスに奪われているということだった。つまり、わたしは、LinuxでもFreeBSDでも、その両方でEthernetカードの設定が間違っていたという結論になった。
実は、この二つのOSは同じAT互換機のBREZZAの別々のハードディスクにインストールしてあって、それにWindows95もインストールしてあり、わたしは「SystemCommander」というOSの起動を切り替えるソフトを使って、それぞれのOSを切り替えて起動して遊んでいるというわけ。従って、Ethernetカードも、それぞれのOSが同じものを使うことになっている。つまり、それぞれのOSが同じCPUとEthernetカードを使うのだから、その設定は同じでなければいけないわけで、ここで初めて、ようやくそのことに気が付いたのだった。わたし自身、OSの切り替えはやってたけど、自分の頭の切り替えが出来てなかったのだ。こういう込み入った遊びを、他人様に理解して貰おうと思っても、それは無理なこと、やっぱりわたしは思い込みの激しい「現代詩人だなあ」と一人苦笑い。
それなら、設定は既に接続に成功してる同じマシン上のWindows95に合わせればいいわけ。Windows95ではEthernetカードの設定は「IRQ:5」「IO:0x300」なので、LinuxもFreeBSDも、それに合わせて設定が「IRQ:10」「IO:0X300」だったのを、「IRQ」の10を5に変えなければならない。LinuxはRedHAT版なのでX Windowの「Kernel Configurator」を使って、FreeBSDは起動時に「boot: -c」を打って、設定をやり直した。再起動すると、Linuxでは何ごともなかったように、ハブが点灯した。FreeBSDの方は、IPをきちんと設定してないので、「#ifcinfig ep0 up」「#ifconfig ep0 inet 192.168.0.7 netmask 255.255.255.0」とコマンドを打ち込むと、ハブが点灯した。カードが活きたから、今度はパケットが流れるかどうかだ。それには「ping」というコマンド使って、相手のコンピュータにパケットを送ってみればいい、ということ。98MATEを起動して、そのIPアドレスを指定すると、パケットは無事に送り返されてきて、接続は成功!!となった次第です。
こういうことをやったことのない人には、わたしが何をやっているのか見当も付かないことでしょうね。やっていても、これが参考になるという人もいないと思います。でも、この他人には分からないことを一つ一つクリアしていかなければ、わたしのところの何台かあるパソコンをインターネットに接続することが出来ないわけです。まあ、やっとこれで、PowerMac、Windows95、Windows98、WindowsNTWorkstation、Linux、FreeBSDの5つのOSを、Ethernetカードで接続することが出来たことになります。
次の目標は、このLANをルータでインターネットに接続して、更にそれぞれのOSがサーバー・クライアント関係をどう作って行くかというところに進みたいと思っています。