玉簾の花。
玉簾の花は夏に咲くと辞書には書いてあったが、家では9月の中頃から最近まで咲いていてもう終わった。生い茂った野ボタンや他の雑草の陰に咲いていた。終わったかなあ、と思うと、蕾を出してまた咲いたりしていた。白く可憐に咲いて、僅かな風にも首を振るという風情が好き。
先週、清水哲男さんからメールを貰って、高野民雄の定年が「夢のよう」と書いてあった。そして、その自分の「夢のよう」という言い方を恥ずかしがっていた。清水さんに取っては、高野民雄は三十年余り前の「凶区」の頃の名前だ。そう感じるのもっともなこと。その「夢のよう」ということで言えば、最近、わたしは新宿の街とか、JRの車内とかが、まさに「夢のよう」に感じる。街や雑踏にリアリティが感じられない。と、思いめぐらせたら、唯一、秋葉原が歩いていてリアリティを感じることが出来る街だと思い至った。清水哲男さんにはそのことを返事に書いた。
秋葉原のリアリティ!勿論電気街のこと。あそこは、漫然と歩くというわけにはいかない。何かを探す視線になる。先週は、LINUX間の通信をやってみるにはもう一台マシンが必要だな、と思って、またDV(デジタルビデオ)のノンリニア編集に必要なボード類にはどういうものがあるかを見ようと思って出掛けた。ボード類はLAOXで見ようと、佐藤無線の路地に曲がり掛けたところで、何に気もなく安物を売っている店に入ったら、新品のオーブントースト付きの電子レンジが8000円売っていた。麻理からついでがあったら見て置いてね、と言われていたので、早速家に電話して買うことにした。他の店で見たら27000円くらいはする。しかも、NEC製だ。30台限りの「30」が消してあって、5、6台積み上げてあった。
それから、LAOXでDVのキャプチャーボードを見た。安いのと高いのと結構差がある。五月の映画テレビ技術協会の展示会で見たノンリニア編集システムは、ソフトを買えばパソコンがおまけに付いてくると言うような値段だった。LAOXで売っているのは、アマチュアかセミプロ向けらしいが、それでも高い方は、アプリケーション付きのボードが新品のパソコン一台を買えるような値段だ。個人用では考えてしまう。でも、ちょっとやってみたい気もする。雑誌にはノンリニア編集が「成熟期に入った」なんて書いてあったから、これから出廻って安くなるだろう。それまでデジタルビデオについて、ちょっと勉強しておこう。
そう思って、中古パソコン屋へ行き、PentiumPro200MHz搭載のDELL OptiplexGXproというのを、85000円で買い、先ほどの廉価販売店で電子レンジを8000円で買い、タクシーに乗せて夕方の街中を走って持ち帰った。廉価店の高校生らしいアルバイト風の若い店員に、300メートルほど離れた中古パソコン屋まで買った電子レンジを持ってきてよ、と頼んだら、愛想良くOKしてくれて、話しながらニコニコ顔で運んでくれたので、500円玉のチップをやったら、すごく喜んだのが印象に残った。
椅子を張り替えに出す。
籐の張り替えに出した椅子 |
10脚ある曲げ木の籐椅子の籐の網が、20年経ってとうとう全部、穴が空いてしまい、張り替えに出した。実は、数年前から座れないくらいに穴が空いてきて、順繰りに使っているうちに、10脚全部が座れないようになってしまったのだった。居間に大きなテーブルがあって、そこに家族や客人が座る。その座った人たちの腰の力の堆積が穴を空けたわけ。水の滴は石に穴を空けるが、人の腰の圧力の堆積は、籐で編んだ網に穴を空ける。
何処かに直してくれる椅子屋がないかしら、と夫婦で会話していて二年余りが過ぎた。いよいよ思い立って、電話帳で調べたら、結構近いところにあって、取りに来て持っていって直してくれると言うので、頼んだ。「これから車で行きます」と言う家具屋の電話に、家の前に持ち出して、道路脇に並べた。椅子たちにしてみれば、買われて家に運び込まれたとき以来に外に出たというわけ。その姿を写真いとった。写真以外の4脚は、その中には背の高い2脚もあるが、いずれもドアの前にあって、写真に入らなかった。
定年退職した友人たちと会う。
高野民雄さんの小冊子 「私の仕事目録1961-1998」 |
この8月31日、37年勤めた博報堂を定年退職した、大学時代からの友人高野民雄さんが声を掛けて、先週の土曜日、親しい友人4人が四谷4丁目の「金吹」という飲み屋に集まって歓談した。6時半頃、ということだったが、その前に四谷2丁目のイメージフォーラム付属映像研究所の教室で夏休みの作品講評をやっていたわたしは、6時ちょっと過ぎには「金吹」に着いてしまった。友人たちが来るまでの20分ほど、一人でビールを飲んでいた。初めての飲み屋で、一人でビールを飲むなんて、生まれて初めてのことだった。所在ない時間というもの、これも久しぶりのことだった。
話題は、定年後の収入、つまり年金やら失業保険やらのことが最初。次が学生時代に4人が所属していた「仏文研」、早稲田の「フランス文学研究会」のこと。学友たちのその後の消息については、4人の間では不明なことばかりだった。勤め先が違って、それぞれ勤め先のつき合いの中で生活することになるのだから、それは当たり前といえば当たり前。だから、勤め先が無くなると学生時代の起点に戻って、関係の回復というところに心が向かうのだろう。
高野さんは、職場の関係者に配ったという「私の仕事目録/高野民雄1961-1998」という小冊子を持ってきて、わたしたちにもくれた。自分が担当したテレビ・ラジオのCMの番組が20ページに渡って細かく記録され、その年その年の彼が作ったという「忘年会」のチラシの図版が入っていた。「ユンケル黄帝液」とか、「ミツカン味ぽん」とか出てくると、「あれ、高野がやってたんだ」なんて思った。高野さんは、学生時代から詩を書いていて、「凶区」という同人誌にも私といっしょに参加いていたので、今後は別に勤めないで詩を書くことに専念したいと言っていた。会社での自分の仕事の目録を作ったり、定年後に詩に専念するというような考え方は、わたしの考え方とは違うなあ、と思いながら聞いていた。
昼間のイメージフォーラムの生徒の作品に、定年後毎日のように近くの川で魚釣りをしている人を撮ったものがあって、そのおじさんは毎日を新しくいきるために釣りをしていると言っていた。そういう人と若い人との心の接点が面白いと思ったのだった。昨夜は昨夜で、NHKテレビで定年後、東京から静岡の農村に引っ越して新たに農業を始める人たちを紹介していた。そういう人がどんどん増えていくと、社会の様相が変わって行くなあと思う。
近大で、現代詩の集中講義をした。
まだ夏休みで、人気のない校舎内 |
試験の答案を書く受講生たち |
9月1日から5日までの5日間、10時から4時過ぎまで連日、詩の話をした。近畿大学文芸学部日本文学専攻の「近代詩歌論」という授業。現代詩を殆ど読んだことのない26人の学生を相手に、「詩の表現」と題して、現代詩の作品形態論。話の流れは、詩は作者の心の中に生まれた言葉を、読者の想像力に働きかけ手渡すものだということを解き明かす、というもの。話をしながら、現代詩って、言葉で書かれているだけに、言葉で解き明かそうとすると、本当に厄介な物だなあ、とつくづく思う。それを自分がやって来たのだし、自分としてはこれからもそれをやって行くしかない、とまた改めて思う。
この「曲腰徒歩新聞」に、わたしがやっている初歩的なコンピュータの話を書いていて、人からよくわかないと言われるが、現代詩の話もそれと同じくらいに分かり難い。いや、術語が決まっていないからもっと分かり難い。話をその辺りから始める、ということになる。「ことば」は「こ」と「と」と「ば」の三つの音声が集まって出来ていて、バラバラにすると、「言葉」という単語は消えてしまう。それも、同じ「ことば」という音声も、男と女では違う音声、人によって違う音声なのに、それが同じというのは、実は現実の声ではなくて、音声がイメージとして受け止められているからなんだよ、わかるう?そうやって、言葉って、人の想像力に働きかけるものなんだよ、といった具合に、話を進める。
難しくなるところは、現代詩は「書かれたもの」として、つまり言葉が活字として視覚の対象となって、それ自体「視覚的イメージ」を形成しながら、人の心の中に視覚を超えたイメージを呼び起こすところに主眼があり、詩人たちは競ってそこでの有効な技術を求め、磨い来たという辺りの説明。音韻の扱い、比喩のあり方、引用、場面性、シンタックスの倒錯といったことを、それぞれ例を挙げて解説する。難解な現代詩の難解を解き明かすわけ。
どうしてこうも難解になったか。都市的な生活様態が行き渡っていくうちに、イメージの遣り取り以外には互いに心を伝え合うことが出来なくなったからだ。しかも、イメージと現実との対応がなくなり、言葉によるイメージだけの遣り取りになった。そして現在、グラフィックやムービーなど視覚的イメージ自体が個人のコミュニケーション媒体になってきて、そういう視覚的イメージが言葉が呼び起こすイメージに重なって来ている。イメージの方が現実感を持つようになった。それは避けられない。となると、言葉が想像力に働きかける仕方は一層複雑にならざるを得ないのではないか、と問いかけることになる。コミュニケーションの基本は言葉にある。しかし、現実でのそのあり方は単純ではないよ、と話したつもり。
朝はビジネスホテル近くの近鉄河内小阪から近大までタクシーで820円。帰りは上小阪中小阪下小阪を通って歩いて帰る。その道が生活感があって気持ちいい。でも、一日5時間近く喋ると、さすがに疲れて、帰るとベッドでごろごろしてテレビを見て寝るという生活だった。一日、大阪の日本橋の電気街に出掛けて、売り出されたばかりのiMacに触って、子供心のように単純に「ほしなあ」と思ったのだった。