1999年1月1日から31日まで


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  • 1999年1月21日

    冬のバラ。




    冬のバラは蕾が開くまでに時間がかかる。そして、なかなか散らない。花びらを落とさない。寒い外気の中で咲いている姿は、それを目にする度になにかしら思いを湧きあがらせる。つまり、見る方はそれを物差しにして、自分で自分の心を測ることになる。そうしたくないなあ、と思いながら、そうしている。自然と冬の比喩を生きることになる。わたしの身の上では、この1月、2月、3月から4月に掛けてが自分のことも他人のこともひっくるめて、とても忙しくなるとき。パソコンもままならない。











  • 1999年1月11日

    詩人の伊藤聚さんが亡くなった。



     伊藤聚詩集「目盛りある日」
    1980年れんが書房新社刊

     友人の詩人、伊藤聚さんが1月6日の午前0時17分に脳内出血で亡くなった。午後、わたしはねじめ正一さんから電話で知らされてびっくりした。同い年の63歳。詩を書く仲間の中では、病気から一番縁遠いと思っていた人だった。その人が、という思い。それからまた、これから新しい作品がもう読めない、という思い。10日、キリスト教式の前夜祭、11日、告別式。その両日で、以前、同人誌「壱拾壱」「飾粽」などで一緒だった人たちとも久しぶりに会った。

     伊藤聚という人には、わたしは詩人として接していたわけだが、詩というものをことばの現実性を否定した関係性に限定して、そこに私情を出すことを極度に控えた格好のいい、憧れを懐かせる詩人だった。事物に対して子どものような好奇心をを持ち続けて、言葉でその物の関係を組み替えて見せて、いつも驚きを与える作品を書いていた。鉄道模型や昆虫や植物が好きで、そういうことに対する関心を失わないで持ち続けているのが、わたしには羨ましく思えた。昨年の四月に上映したわたしのフィルム作品『芽立ち』の中の、秋に芽を出した朝顔が12月に枯れてしまったというシーンを見て、伊藤さんの部屋では12月にも朝顔の花は咲いたという写真を手紙に入れておくってくれた。伊藤聚さんとの交流はそれが最後になった。

     

    航跡ながめて
                伊藤聚
    
    
    触れるとそのたびに笑声があがる
    ほらほら近づく指先に目をこらし
    みがまえてまるい手足をばたつかす
    
    あなたにカプセルを合せる日
    穴だらけの毛布をかかえてあなたはこのまま
    寸法をとれといってきかない
    
    指や首の穴の直径は決まっていても毛布の穴とは違う
    そうして剥ぎとられた裸虫を
    キャンディストライプのカプセルがぱちん!
    
    汗と恥で曇りはじめると
    サーモスタットが入って適当に拭う
    真昼の砂漠にいればその音が聴ける
    
    あなたの体積を知ってから
    お菓子の小麦粉バターを何グラムにしていいか明確
    少し多めのミルクを添えて出す
    
    集積所では脱皮殻でなく枯死したカプセルが
    パネルトラックに積まれ焼却所へいく
    ペインティング色褪めて砂を漏らす
    
    あなたの目をむく渦巻模様
    中で昼寝の顔は仮面をひしゃげさせたもの
    御両親によく似ておいでですこと
    
    裏の山には先祖代々の殻の塚
    おじいさんの最後の殻の上に積みなさいというと
    五色の自分のカプセルを海へ蹴って遊ぶ
    
    みんながそうして遊んでいるね
    ひびの入った殻のこすれ合う波に埋まった
    海を眺めるなんて誰にたのしい?
    
    変化は腰に巻きつけたゴムのバンパーで
    衝突がおあそび
    隣家との間の川の橋がゲームコーナー
    
    唇はやはり切れてそれでも勝手に治すという
    押しあてたティシュは血もとめない
    ふたりとも黙る
    
    部屋でウォームアップして再起第一戦
    畑の道を加速してくだる
    しかし隣りの子も現われず拍子抜け
    
    生えはじめた鱗いちまい
    これだけ貯めたよと座敷であけてみせる
    発射の補助券が一回の枚数に足りている
    
    そこで髪型など整え
    見送りの目にオレンジの航跡ひいて
    心に決めていた海へ射ち出されていった 
    






  • 1999年1月4日

    新年腰伸ばし散歩。



     北沢5丁目の風呂屋の煙突

     正月から書いていた「大辻清司写真実験室展」に寄せる文章がようやく書き上がったので、腰伸ばしにと、日も落ちかかった寒空の下、12月に買った帽子をかぶって、散歩に出た。この前よりちょっと距離を延ばそうと、先ずは東北沢の踏切を渡って、北沢五丁目商店街の裏道に路地へ紛れ込んだ。肩を傾げて歩く黒コートの若い女の斜め後ろを歩くことになって、しばらく歩いていたが、この距離はストーカーめいた距離だと気になりだしたところで、彼女が左に曲がったので、わたしは右に曲がった。そしてまた左に曲がり、しばらく行くと、突き当たって、左に折れている道を曲がると、風呂屋の煙突の根本から夕日が矢のように射してきた。そこを早速デジカメで撮った。

     カメラを手際悪く袋に入れていると、アパートから出てきたおじさんが、片手に年賀状をひらつかせて歩いていく。出さなかった人から来たんだね。出すか出さないか迷った末に出さないと、決まって相手から来て、また出しに行く。おじさんもそうなのかな。おじさんはサンダル履きで、帰りにたばこでも買うんだろう。と歩いていくと、また小便が出たくなる。出掛ける前にしてきたのに、年取ると近くなって困る。東京都水道局管理立入禁止のどぶ川に沿って歩いていくと、京王線笹塚駅に出て、高架下の小公園に便所があってほっとした。出際に、散歩の犬と搗(かち)合わせ。

     高架を潜り、甲州街道を高速道路下の歩道橋で渡り、笹塚駅前から水道通りに延びる十号商店街を行って、水道通りを笹塚中学校の塀に沿ってまた住宅街に入る。そして更に路地へ。とそこに、杖をついたおじいさんが、ブロック塀に貼ってあるゴミの集配の年末年始の集配日お知らせの貼り紙の前に、じっと立っていて動かない。薄暗くなりかけていたから判読しているのか、それにしても、わずかの文字を随分長く丁寧に読んでる。おじいさんを後に、新山小学校に出るところで、また一人、年賀状の返事を出しに行く若い男に出会った。二匹の犬を引いたり抱いたりの夫婦ずれと行き違う。小学校の道に沿った塀に雪の景色やなにやら、小学生が描いた四季の絵の前を、ボストンバッグを持った婦人が歩いてきた。表情が冴えないから、実家から心配事を持ち帰ったのかと想像する。

     東大付属の中学高校の裏に出て、斜めに入る、車も通れない程の細い道があるからそれを行くと、右側は本町5丁目とあり、左側には南台1丁目とある。渋谷区と中野区の境界の道というわけ。この道を新宿区にぶつかるまで行ってやろうと心に決める。歩き始めてから1時間あまりで、もう短い冬の日はとっぷりと暮れた。その辺だったろうか、葬儀の提灯が灯っているが、人気のない受付のテントの傍らに一人男が立っている前を通り過ぎた。故人の名は女性名だった。

     方南通りを横切ってなおも斜めの道を行くと、弥生町1丁目と本町3丁目の間になった。もう、路面に街灯の光で自分の影が延びたり縮んだりするようになる。腰を折り重ねるように曲げて、手にポリ袋を提げた老婆を追い越す。そして道は工場のような建物に突き当たった。アサヒビールの集配センターとある。右に曲がると、車がかなり行き来している大きな道路に出た。また方南通りに出てしまったか、と思いながら、とにかく新宿方向と思う方へ歩いていくと、何と「中野南口行き」のバスがわたしを追い越していく。新宿に向かっているのではないのか、と一瞬ぎくりとするが、前方に窓に明かりが点き始めた高層ビルが見えるのだから、間違いないと、道幅工事中の道路を歩いた。

     日暮れ寸前のブルーの空の下に浮き立つ高層ビルが綺麗なので、歩道橋に上ってデジカメで撮る。暗いせいかオートフォーカスがうまく合わない。窓の灯にズームして引くとピントが合う。そして、高層ビルの下に来て、十字路の標識を見ると、渋谷方向と思っていた方が新宿となっている。あれあれ、わたしが歩いていたのは、方南通りではなくて、山手通りだったというわけ。高層ビルは西新宿の高層ビルの一角ではなくて、中野坂上だったのだ。中野坂上にこんな二つも高層ビルが聳えているなんて、思ってみなかった。わたしは知らない内に、山手通りと青梅街道の交差点に出ていたのだ。そこから西新宿まで青梅街道の人道を歩いて、新宿に来たのだからとパソコンショップを覗き、ファクスソフトを買って、小田急の地下で夕食のおかずの天ぷらを買って家に帰った。


    中野坂上の交差点のビル



  • 1999年1月1日

    おめでとうございます。今年もよろしく、ご贔屓のほど。



    Quick Timeファイル 76KBK×2
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    from Muybridge's photo


     このわたしのホームページは、今年の2月で4年目に入ります。「曲腰徒歩新聞」は創刊してから3年目の半ばです。ヒットカウント数は31000を越えたところです。自分がアクセスした数を引いても、随分沢山の人に見てもらったことになります。沢山の人に見てもらったということは、それだけで嬉しいことです。嬉しいから、もっともっと沢山の人に見てもらいたいという気になります。しかし、その嬉しさは、このページが多くの人に支えられているという自覚のところに留めて置くことにします。自分の嬉しさを求めるのではなく、この架空の場を、一人の人間が非常に個人的な関心で生きているということを知らせる着実な手段にしたいと思います。前に見たあそこ、どうなってるかな、と訪ねてみたら、まだやってたよ、という具合ですね。

     

       


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