イメージフォーラム22期生卒業作品100本を見ての感想。
ずんずん伸びる薔薇の新芽 |
3月は変わりやすい天気が続いている。昨夜は強い雨が降ったと思ったら、今日は打って変わっての春の陽射しの濃い晴天で、強風が吹いている。庭の植物の様子も日々目に見えて変わっていく。薔薇の芽の伸びるのが速いこと。枯れた蔓草に絡まれていた椿からその蔓草を取り除いたら、花が三つ咲いているのを見つけた。
昨日で、イメージフォーラムの100作品上映の卒展が終わって、卒業式があった。といっても、教室に生徒がごちゃごちゃ集まって、優秀な作品に秋山祐徳太子制作のトロフィーや版画が贈られ、選任講師たちが寸評を述べるというもの。その後、近くの飲茶飯店でコンパ。生徒たちは講師を掴まえて自分の作品について詳しい批評を聞く。それが、閉店まで続いて、そこで帰る者、三次会に行く者と散っていく。もう一年やると言い出す者も何人か出てくる。
専任講師として、おおかたの受講者がわずか一年でそれなりに見れる作品を作れるようになるというのは、毎度のことながら驚きだ。技術的には未熟でも、表現したいという意識を育てて、何としてでも作品に実現させるという理念がいい結果をもたらしていると言えよう。それに応じる受講生の若い人たちの表現意欲にも、すごいところがある。
イメージフォーラム付属映像研究所に来る連中は、映像表現の技術を身につけて、それを自分の職業にしようと思っている者はいないし、そう思うのだったら、直ぐに止めてしまうだろう。ビデオで作る者もいるが、多くは、テレビ業界でも映画業界でも技術としては通用しない8ミリフィルムで作品を作るわけだから。つまり、イメージフォーラム付属映像研究所に来る者は、「映像表現」をしたいと思っているということ。だから、その彼らの作品はよくできた作品だろうと、出来損ないだろうと、現実にこの社会に生きている若い人たちの表現意識を反映しているといえる。わたしにしてみれば、そこは世間の人が気がつかないいろいろな花が咲いてる野原ともいえるようなところ。たしかに、そこに咲いているのは見る目を持ってなければ見えない花かもしれない。
今年は、それら作品に彼らが求めている表現の方向がいくらかくっきりと見えてきたというように感じられた。一つは、能瀬大助君の「日日日常」という作品に現れていた時間のつかみ方というところで、自分が生きている時間をどう掴まえるかということ、もう一つは、先に紹介した真鍋香里さんや須藤梨枝子さんの作品に現れていたコミュニケーションの持ち方ということ。そういうことを考えてみたいという気にさせられた。考えてみようと思う。
多摩美造形表現学部映像演劇学科の入試面接の印象と感想。
庭に咲いた水仙 |
先週から庭の水仙が咲き始めた。この時期は毎年、わたしが勤める多摩美の上野毛キャンパスの入学試験。3月11日と12日に、今年度から改めて新しくなった「造形表現学部映像演劇学科」の入学試験があった。科目は、英語と国語と、それに「創作」という実技、小論文、面接。入試科目を減らそうという傾向からすれば、かなりヘヴィな試験ということになる。しかし、試験する方からすると、映像制作から演劇の上演、それにその両方を含んだ空間デザインまでと、目指す「表現」の幅が広いので、それぞれの才能を見るのにはそれくらいのことをしないと分からない、というわけ。
「映像演劇学科」は60名定員、そのうち社会人枠の13名の入学者を既に取っているから、残り47名のところに500名余りの志願者があった。この全員に対して、7、80名にグループ分けして教員が面接した。わたしは70名余りの志願者に対面した。自分を売り込もうとする者、緊張して握りしめた手が震えている者、自分のいっていることが分からなくなって止まらなくなる者、話す意欲も持ち合わせていないように見える者なだなどいろいろ。一人5分ぐらいを目安に、志望動機や、これまでにしてきた表現活動、印象に残った最近の新聞記事のことなどを聞いた。
志望動機はそれなりに語るが、数年前までのように大きな夢を語る者は少なくなった。こういう映画を作りたい、こういう演劇をやりたいというような内容を語るというより、コマーシャルフィルムとか、ミュージッククリップとか、映画監督とか、役者になりたいとか、あこがれを語る者が多い。自分を売り込むにしても、あこがれの強さを語る。要するに幼い感じ。年々、幼い感じになっていくようにも思える。高校生だから大した表現活動はしてないとは思うが、次々に予備校の課題制作を表現活動としてあげる者がいたのには、何とも言えない気分になった。あげく果て、「最近、つまらなかったなあ、と思った作品をあげてみて」というこちらの問いに、「この一年予備校で描いていた自分の作品」という答えが返ってきたときは、大げさかもしれないが、鉛を飲まされたような重みと不安を感じた。入学して来た者には、そういう彼らが置かれてきた厳しい状況を認識して当たらなければならないと思った。
イメージフォーラム1999第22期卒展では100本の作品の上映。
IF付属映像研究所 第22期卒業制作展のプログラム |
須藤梨枝子「河原で叫ぶ」 |
今年も、「イメージフォーラム付属映像研究所」の卒業制作展では、100本の作品が上映される。一つのプログラムに5本か6本で、A、B、C、D、と数えてPまである。専任の講師が2月の中頃から今週いっぱいで「卒制講評」を終えて、それぞれ手直しして、いよいよ3月12日から21日まで毎日、四谷3丁目の「イメージフォーラム」での上映となる。わたしも、専任講師をしているから、その内の何本かの作品は講評した。しんどいのもあるけど、「こいつは面白い!!」という作品もある。他の専任講師と話したところでは「今年は結構いいんじゃないか」というところだ。作品の善し悪しはともかく、100本見たら、若い人に対する意識の持ち様が変わることは請け合う。
真鍋香里という子の作品「でっち」は、中間講評に当たったが、ちょっと驚いた。真鍋さんは普段OLで、会社に通う道すがら、いつも釣り堀で釣りをしている老人に興味を持って、ある時8ミリフィルムのカメラを向ける。老人は練り餌の作り方から、浮きの作り方まで事細かに話してくれる。そして「いっちょ、大きいのを釣ってみせるか」といって糸を投げると、たちまち亀が掛かる。きーきー泣く亀を放してやり、「もういっちょ、大きいの行くか」と糸を投げると、今度はまさに大きい魚が掛かってくる。真鍋さんは、その老人にどんどん引き込まれて、老人の家を訪ね、老人の「でっち」から叩き上げた生い立ちを聞き出す。かなり苦労して来た人らしいが、若い女の子に自慢するように語られた人生が面白い。もう立派なドキュメンタリー作品になってる。それも、その関係が開く構造が今までにないものになっている。真鍋さんと8ミリカメラが映像の新しい地平線を開いている。
須藤梨枝子の「河原で叫ぶ」も従来の「映像作品」という枠を乗り越えているところがある。この作品は、河原で人にお構いなしに説教節の「安寿と厨子王」を語っている男を8ミリフィルムのカメラで捉えるとことから始まる。彼は運送トラックの運転手をしながら「説教節」の修練に励んでいる。20歳を出たばかりの須藤さんは、やがては説教節を語って全国行脚するというこの男を自分の映画に「巻き込もう」と企てる。畑の中に道に連れ出して、そこで語らせる。畑で働いていた人を脇に立たせて語らせる。更に自分も語ってみるが語れないので、紙にワープロで打って読む。日曜菜園をやってるおじさんを脇に立たせてやる。すべて「巻き込む」ということの実践だ。最後に、街中で男に語らせようとするが、「しかるべき手続きを踏んでなければ」嫌だ、というので、その説教節の男を自分の脇に立たせて自分が紙を読んで語ってしまう。「巻き込み」作法が、新たな関係を生みを、作品という枠を越えて広がっていく。
講評では、100本の中の何分か一の作品にしか触れられなかったが、それだけでも、わたしなどには思いも寄らなかったことが実現されている。明らかに、そこには思いも寄らないような若い人たちのメンタルな世界が開けている。問題は、社会の中に目に見えない壁があって、それぞれがそれぞれの壁の中にいて、他の壁の中が見えないということ、また見ようとしないということ。わたしが、「面白いよ!面白いよ!」といっても、なかなか人は見に来ない。
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長尾高弘さんの「東山田散歩」を「おすすめ」する理由と理屈。
長尾さんの「東山田散歩」写真の真似 昔の宅地造成地・上原の大家石の石塀 |
先日、詩人のWeb仲間と話していたら、長尾さんの「東山田散歩」を見るといっても、さっと一通り見るぐらいで、わたしみたいに「一時間も」かけて丁寧に見る者はいないということだった。つまり、わたしが何故、「東山田散歩」を「おすすめ」にしているか、ほとんど全く理解されてないということが分かった。そこで、ちょっとその理由を話してみたい。
わたしは、更新された「東山田散歩」にアクセスしたら、地図を片手に、長尾さんが散歩で歩いたところを辿り、次いで小さい写真をクリックして、それぞれを大きな写真にして見て、更にその大きな写真の説明文だけにリンクされている写真を見に行く。大きい写真も丁寧に見て、長尾さんが写真を撮った地点や、文章に名前が記されている建物や地名の場所を地図上で特定する。すると、一時間ぐらいすぐに経ってしまうのだ。
それがわたしには楽しかったから、そうするのが当たり前だと思って、見甲斐あるページだと思い、「おすすめ」にしたというわけ。ところが、これが違っていた。どうも、皆さんはそういうことを面白いとは思わないようで、わたしのようなことをやるのは「物好き」のすることらしい。総ての人に「物好きになれ」というわけにはいかないが、せめてその楽しさぐらいは理解して欲しいと思う。
わたしは街の中を気ままに歩く散歩が好き。東京の街というのは、名前の通った大きな道から外れて、家並みの続く路地にはいると、住所表示で確かめないと、自分が何処を歩いているのか分からなくなる。確かめていても分からなくなることもある。それを、面白いと受け止めるかどうかが、先ず問題となる。それを面白いと受け止めて、家に帰ってから地図上で自分の歩いたところを辿り確かめる。こういうことを楽しいと思えれば、長尾さんの「東山田散歩」は面白い。
今度は理屈。元々人は固有な空間と時間の中に限定されて生きているが、実はそれを感覚では特定できない。キーボードのキーなどは特定できるが、キーボードの角と角の間に名前を付けている人はいない。その必要がないからだ。部屋の中に「地名」を付けている人はいない。考えてみると、身の回りの総てのものが固有なものなのに、それにいちいち名前は付ける人はいない。ある意味では、わたしたちは固有なものの中に生きていながら、無名なものの中に生きている。街に出ると、総て土地には番地があるが、自分の感覚にとっては無名だ。気ままな散歩では、その無名性の中で、自分がいる場所を見失ってしまう。また、地名と番地と照合しなければ、自分が歩いたところを、他人に話すこともできない。他人どころか、自分にも話せない。ここを明らかにすることは楽しい。表現の一番基本となる「ものに、場所に、名を付ける」ということが、散歩には含まれる。そのことが、「おすすめ」の理屈。