ファイルの怪。
三年ぶりに咲いた牡丹の花 |
Macの引っ越しの話の続き。LC575のファイルを外付けハードディスクに移して、PowerMac7500で開こうとしたら、開けなくなった「Excel」と「Word」と「Nisus」のファイルが幾つか出てきた。「アクセスできません。」「Microsoft Wordの文書であることを確認してください。」「コード-39のシステムエラー」「タイプ3のエラーでアプリケーションが強制終了。」などなどの警告。かみさんが、ファイルの内容がどうしても欲しいというので、何とかならないかと、Macの「Excel」のファイルをPC/AT機のWindows95の「Excel」なら開けるかも、と思って、やってみたが、だめだった。「Word」の方は、とにかく内容はテキストで書いてあるのだからと、Windows95のに入れてあったテキストエディターの「WZ」で開いた。そこで、テキストで保存して、Macに持っていったが、「WZ」で保存したファイルをMacは認知してくれななかった。
ものは試しと、そのフロッピーをわたしが使っている別のPowerMac8500に持っていって、Macの「Excel」で開いてみたら、今度は何とか開けたが、驚いたことに、もともとそのフロッピーに入っていたMS-DOSで作ったテキストファイルと内容が入れ替わってしまっていた。こんなことって、あるのかあ!だった。ファイル名は「Excel」のファイルの名前なのに!!
「Word」のファイルは中身を取り出したものの、Macが認知しないのでは、それをMacに生かせない。そこで思いついたのが、メールの利用だ。Windowsマシンのテキストエディター「WZ」のファイルをメールの本文中にコピーして、Windowsマシンのメールソフト「OutLook」で自分宛に出す。それを、Macで開く、とやってみて、成功。「ひらけたよお!」とかみさんを呼んだ。ところが、彼女がきて見たら、「あらこれ全然違う中身じゃないの」というのだった。「Word」のファイルも中身が入れ替わってしまっていたというわけ。その他にも、開いたものの、中身が空っぽになっていたり、「I/Oエラー」となって、どうしても開けないものもあった。
結論として、バックアップしたハードディスクがクラッシュしていたということ。多分、コピーした時点でファイル形式が壊れて、データ部分が重なったり消失したりしたということであろう。教訓としては、大事なデータはいろいろなところにバックアップしておいた方が安全ということ。
それは、それとして、牡丹の花。去年も一昨年も咲かなかった牡丹が今年は花を咲かせた。それも、四つも。牡丹の花の蕾は、最初の芽が出たときから付いていて、葉が伸びるとともに蕾もどんどん大きくなって行く。大きな花が咲くのを期待させ、その気持ちも含めて楽しませてくれる。今年、四つも咲いたのは、昨年の秋に肥料をやったからだと思う。この秋にもまた肥料を入れよう。
Macの引っ越しに手こずる。
今年も咲いたジャスミン |
先週、家の奥さんの麻理が使っているLC575がへたって来たので、数年前に中古で買って予備的に使っていたPowerMac7500に換えた。彼女は日本語学校の教材やレポートを書くのに、結構よく使っていて、へたって来たというのは、「Microsoft Word」を使うと、本当にポインターがへなへなと動くような始末になった。Wordなど、バージョンアップの度に容量が大きくなって、結局、古いマシンはお払い箱にせざるを得ない。LC575は1994年2月の発売時に、わたしが最初に買ったMacで、CPUクロックタイム33MHz、メモリ最大36MB、HDは320MBだった。今はクロックタイム400MHとか、ハードディスクも9GBとか、パソコンも人に感慨を催させるものになった。
さて引っ越しと、データを全部スカジーに繋いだハードディスクにバックアップして、机の上のマシンを置き換え、そのバックアップしたハードディスクを繋いで、ファイルを起動しようとしたら、「Word」と「Nisus」で作ったファイルの幾つかが開かない。「それ、大学院の大事なレポートよ」とか、「それ、今度の授業で使うのよ」とか言われると、こちらの顔色をも変わる。アプリケーションから何とか開けるものもあったが、結局、開けないままになったのもあった。それも、Wordのアイコンが付いているのに、当のWordが知らないと言ってくるのには参った。つまり、ハードディスクにコピーした時に毀れてしまったというわけ。そういうことってあるんだ。
それから、前のLC5757では印刷できたファイルの右端が切れて印刷できないとか、直ぐにフリーズするとかで、結局OSをバージョンアップする事になり、それにはハードディスクに空きを作らなければならなかったりで、丸二日を要した。わたしが現在使っているPowerMac8500も、ファインダーがメモリ不足の警告を出してよくクラッシュするようになってきた。そうなると、これももう三年余り使ったから、そろそろ買い換え時期に来たかという気にもなる。テレビや冷蔵庫だと10年は持つが、パソコンというのは、そういうわけに行かないらしい。10年前のPC-98は骨董品として大学の片隅に置いてある。1年に一度ぐらい、フロッピーで起動して、Basicをやったりしてるが。
満開の山吹の花。
庭の山吹 |
4月の初旬は、瞬く間に過ぎてしまった。山吹の花が雨に濡れて、花びらを落としている。いいなあ、という気がする。桜よりも、実質的に春になったという感じがする。半日ぐらい、雨に濡れる花や若芽を坐って眺めていたという思いが湧くが、実際には出来ないで、直ぐに何かを始めてしまう。特に学校というものに関係いていると、新学年新学期というのは実に慌ただしい。入学式、ガイダンス、最初の授業と、待ち時間や新顔との対面で、緊張したり気分が高まったりして疲れる。特に最初の授業は、数ヶ月声を張り上げることなく過ごしてきたために、喉に応える。これからが、もう始まったか、の一週間。
昨日は、石原慎太郎氏が新都知事に当選した。新聞報道では、当選の確率が高いといわれていて、そうなった。わたしは「うーむ」である。二年ぐらい前から新聞の論調がナショナリズムを臭わせて来ていたし、北朝鮮の挑発とユーゴの紛争の報道とを重ねれば、彼の言動は当たり前のように聞こえてくるから、当然といえば当然。彼が言い、新聞の解説が肯定する「政党の存在の意味がなくなった」という言説が怖い。怖いというのは、選別が集団に対してでなく、個人に対して働き、施す手もなく、「YESか、NOか」で、それぞれに組み入れられてしまうからだ。それで「石原軍団」のようなものが拡張したら、生きにくくなる。慎太郎氏が66歳だということ、それだけに生きて来た澱を持っているだろうから、まだまあ何とか息が付けるだろう。取り越し苦労かも。
「ゲーム世代」という言葉があって、ファミコンで遊んで育った世代を差して、何事もゲーム感覚で捉えるという人たちのこと、ということになっているが、それが選挙になると、一般に意識を支配するようになるらしい。「公約を掲げる」というのは、参加意識を起こさせないが、「イエス、ノーを言わせる」というのは参加意識を刺激する。「参加する、しない」で、先ず「イエス、ノー」が問われ、参加したら次々に「イエス、ノー」が問われ続け、答え続ける社会になりつつあるのかなあ、と思う。そういうところで、「曖昧な地平」をどうやって開いて保っていくか、という辺り、その辺が面白いと思う。
新作16ミリフィルム作品「内面のお話」編集完了
渋谷・上原の桜 |
ようやく、新作の16フィルム作品「内面のお話」の編集が終わった。先月は、入学試験が終わったと同時にイメージフォーラムの卒展、続いて多摩美二部卒業式、などなどと行事が多かった。その合間を縫うようにして23日に帯谷有理さんの話とギターで歌うところを撮影した。そして、先週からフィルムの編集に取りかかったのだった。今回の作品は、昨年の多摩美の前期のゼミで、文平裕子さんたちの学生の皆さんに「うそ話」を語って貰い、それを撮影したフィルムと、夏に西村太郎君に費用を出して作って貰った作品「誰かのオレンジ」を繋ぎ合わせて、内面の在処を追求する50分のハイブリッド映画、というもの。
この作品は、先ず、例によってわたし自身が登場して、10年前に宇野邦一さんから貰ってガラスの瓶の中に密封してあった枇杷の実を見せて、内面というものの在処があやしくなったと語る導入部があり、「人間は内面があるから嘘を付ける」というわけで、7人の学生がスクリーンプロセスの前で「うそ話」を語るという展開をする。
ところが、学生の一人の山本遊子さんが語った話は、お父さんとの喧嘩。それが、丁度スクリーンプロセスに神戸地震のニュース映像を用意したときだったので、その話と地震の映像とのぶつかり合って、緊張感が走る。そこで、帯谷有理さんの歌う歌曲で、流れが変わって西村君の「内面とはオレンジに燃える愛だ」と語る映画になるのだ。
「誰かのオレンジ」はうなぎ屋のデリバリーボーイの生態と愛の逃避行。憂いを残して作品内作品が終わると、学生たちの「うそ話」に戻るが、話は人生を語る趣に傾いてくる。実は、山本さんは8月に急にお父さんを亡くしたのだった。それで、わたしとしては、喧嘩の話に出てくるそのお父さんのことをもっと話して貰おうと、半年経った今年なって、改めて話を聞いた。「お父さんは編集者だったので、自分は関係に生きるといってたけど、そこで虚しくなる自分を抱えて生きていた人だった」と山本さんは話してくれた。彼女のしっかりとした話で、西村君の映画と合わせて、この映画に背骨が通った。終わりに、帯谷さんが、人が作品を作るのは、何と言っても、自分の名前を残したいからだ、と語って、ギターで優しい歌を歌ってくれる。「見えない内面は、嘘を透かして見えてくる」っていうようなことが、この映画で伝わるか伝わらないか。
今回の編集は、「ハイブリッド映画」という寄せ集めで全体を構成して、どれくらい筋が通るかというところに主眼を置いた。全体を通して見て、それぞれの人物が語る話がバラバラなので、その関係が曖昧になるが、大きく括ると内面ということを考えるステップになる作品といえよう。作者の自負としてはこういうことをテーマにする映画は、この映画のほかには無いといえるのではないか、というところ。同録を主体にしたので、リップシンクロに気を使った。
この「内面のお話」は四月下旬から五月上旬のゴールデンウイークに開催される「イメージフォーラムフェスティバル」で公開上映されます。追って、プログラムや上映に日時についてはお知らせします。