1999年11月1日から30日まで


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  • 1999年11月30日

    猫の姿に安心。


      庭のスチロールの箱で眠る野良猫
      上にいるのが「パパ似」
      中で寝ているのが「ママ似}

     家の家族と野良猫のつき合いが始まって八ヶ月になった。麻理と野々歩が餌をやって手なづけている。猫の方も餌を求めてやってくる。わたしが一人いて、ガラス戸の外で鳴いていれば、わたしも餌をやる。しかし、麻理や野々歩なら触っても、時には抱き上げても逃げないのに、わたしには用心していてなかなか近づいて来ない。いつも餌をくれる人間が猫の奴にはわかるのだ。

     十月になって、わたしたち家族の間で、野良猫の寝る場所が気になってきた。寒くなって、野良猫は何処に寝るのだろう、ということ。麻理は早速スーパーでスチロールの空き箱を貰ってきて、前に風除けに透明のビニールを掛けて、庭に置いた。初めは用心してなかなか入らなかったが、彼女が餌を置いたりして誘い込んだ。入ってみると落ち着くのか、夜ばかりでなく、昼間もそこで寝るようになった。夜は、「パパ似」と名付けている雄の仔猫も、「ママ似」と名付けている雌の仔猫も、親猫と同じくらに大きく成長したのに、パパと一緒に三匹重なり合って寝ている。昼間は、「ママ似」が中で、「パパ似」は箱の上で居眠りしている。

     朝方、麻理から餌を貰って何処かに出かけ、戻ってきたり来なかったり、戻ってくると居眠りしている。夕方また餌を貰いに来てまた何処かへ行き、夜は大抵重なって寝ている。やや住み着いたという感じだ。でも、不思議なのは日曜日は全く姿を見せない。麻理は、日曜日には美味しいものをくれる家があって、そこへ行っているのでは、と推測している。そうかもしれない。でも、わたしなんか、猫からすれば一番疎い存在なのに、住み着いたのなら、ずっといて欲しい気になる。実際、もう来る頃なのにと思う時間に来ないと気になる。そして、スチロールの箱の猫小屋に猫の姿を見かけると、何とはなしに、安心した気持ちになる。




  • 1999年11月21日

    掲示板のおつき合い。


    くるくる蛙


    きょろきょろ蛙

     先週、徳島の四国大学に行って、白井教授の研究室に集まる学生たちや卒業生たちにお世話になったので、その掲示板に書き込みしたら、ちょっと反応があった。そこで、掲示板上で質疑応答的なやり取りがあって、卒業生の山口みちやさんのホームページ「けろたま亭」を訪ねたら、その「素材の小部屋」で3DCGの蛙の連続画像を見つけた。連続画を見ると動かしてみたい気になって、早速、Gifアニメで「くるくる蛙」を作って掲示板から見て貰えるようにした。これが結構評判がいい、と早合点して、次に「きょろきょろ蛙」を作ってみたというわけ。若い女性たちの「くるくる蛙さん可愛いーっ☆」とか、「その行動力、尊敬します。」とか、「動く蛙が二匹もいるよ…  志郎康先生、すばやい!」とかの感想を見ると、「すっごくうれしいィー」ということ。よかったですね。

     
     それからまた、講演会の夜、研究室でほんのちょっと顔を合わせた矢野さんがわたしのホームページを見に来てくれた。ありがとうの返信メールに、こんどは、つわぶきの花に詩が書き込まれた綺麗なグラフィックが送れれてきた。「邪悪なるものはどこでもあなたの花をねらっている。邪悪なるものも花もやって来ては去っていく。」とあった。何となく、歌詞みたいな感じだが、邪悪と花が若い心を悩ませる何かということで、青春のヒロイズムが感じさせられる。(この記事をアップロードした後、矢野さんからメールが来て、「EVIL AND FLOWERS」はBONINIE PINKのアルバムタイトルだということ。結構流行った曲ということだが、わたしは全く知らなかった。)掲示板やメールというのものが、講演の後を引いている。こういうことって、今までになかったことだ。

     ところで、話がかわりますが、一昨日、「宛名職人Ver.7」をインストールして、再起動を掛けたら、ディスプレイの解像度が640×480になってしまい、変更できなくなってしまった。コントロールパネルの「モニタ」に「推奨640×480」しか出ないのだ。先ずOSがインストールでおかしくなったかと、起動のOSを別ドライブのMacOS 9で立ち上げたが、同じ。OSアップグレードCD-ROMで起動したが同じ。インターネットで「モニターの解像度が変更でにない」のトラブル解決法はないかと探して、「PRAMかNRAMか」をクリヤーにすると解決することがある、というのを見つけてやってみたが、駄目。これはVRAMがやられたかと憂鬱になった。そして、前にG3カードを買った、「PasificWaves」に電話したら、そこの人が、「例えVRAMがいかれても、Mac8500なら解像度は1024以上は出るはず。ケーブルを確かめてご覧なさい」ということだった。再起動するまでは832×624で、別にケーブルに触ったこともないのに、と思いながら、ケーブルを辿ると、わたしはバックアップ用にと並べたVxとキーボードを共有するために「キーボードとディスプレイを切り替えるスイッチボックス」を付けていて、まさかと思いながら、その切り替えレバーをバリバリと一度切り替えてから再起動したら、いっぺんに直ったのだった。何のことはない、切り替えレバーの接触がおかしくなっていただけのことだった。やれやれ、二日間のわたしの悩み何だったんだ。  





  • 1999年11月16日

    13、14日の土日に徳島に行った。



     吉野川沿いにある四国大学

     四国大学国文学学会の会場

     其角について研究発表する白井教授

     徳島市にある四国大学の学内の国文学会の講演に招かれて、13日の朝、飛行機で羽田を発ち、翌日バスで淡路島を縦断して新神戸から新幹線で夜の8時半に東京駅に戻った。飛行機も新幹線も久しぶりで、旅行気分は十分に味わえた。講演の題目は「言葉と映像のイメージの表現性」というもの。内容は、言葉はイメージを喚起するが、映像はイメージを奪う、ということ。そのための表現技法と絡めて話をして、わたしのフィルム作品「日没の印象」と「時には眼を止めて」を上映した。

     ところで、実はわたしは、この四国大学の校歌の作詞をしている。1992年に四国女子大学が男子にも門戸を開いて四国大学に名を改めたとき、知り合いのそこの教授の白井宏氏から頼まれて、作詞したのだった。そのとき、徳島に赴き、大学の所在地周辺を歩いて、次のような詞を書いた。  

     四国大学歌
    
    思い新たに、吉野川
    長い橋を幾度も渡った
    川面の波に、心を和らげ
    水の色、頬に映して
    今朝、さわやかに
    わたしたち
    わたしたちは、今を語る
    
    求めて深い、藍の青
    時の重なりをこの手で知った
    綾なす布目に、志こめて
    吹く風に、はためき立てば
    からだは引き締まる
    わたしたち
    わたしたちは、手を取り合う
    
    吉野川広き流れに
       鷺つどい
    今朝、船出せむ
       行く手遥けし
    
    前半の二節はニューミュージック風で、その後に万葉集の返歌に倣って、古風な韻律の短歌を付けた。これに、作曲家の三木稔氏が曲を付けて、入学式や卒業式で歌われている。

     13日は、10時半頃徳島空港に着き、白井氏にで迎えて貰って、校歌の作詞者として学長に挨拶、そして理事長や副学長、国語国文学科の先生たちと一緒に昼食を食べた。校歌を作って送り届けて以来、大学関係者と会うのは初めてだったので、皆さんがわたしが書いた校歌を気に入っているといってくれたので安心した。わたしとしては、前半は学生の気持ち、短歌は学生、先生を含めてその土地の気分というように考えていた。年輩の女性の理事長は「吉野川云々」のくだりがいいといってくれた。そういう言葉が行き交った昼食会。

     午後は、「四国大学国文学会」の発表会講演会。高知県立安芸高等学校教諭の福井千加さんの「辻邦生・消滅のモメント」、四国大学助教授田中敏生さんの「徳島方言の副助詞『や』」、四国大学教授白井宏さんの「其角瑣事二・三・」の三つの発表があった後、休憩してわたしの講演となった。研究発表の質問では、数人の人が手を挙げ、『や』についての発表では、白熱した議論にもなった。わたしも学生時代に戻った気分になって、つい発言してしまった。

     講演会の後は懇親会。その後、白井教授の研究室に研究生や卒業生たちと行って、お茶を飲んだり、一人一人の感想を聞いた。白井さんが学生たちや卒業生と親しくしているところに触れられたのは、気持ちよった。彼ら一人一人が白井さんという存在を、自分の人生で何らかの「基点」としているらしいと感じた。そこでひとときを過ごして、明日は徳島周辺を案内してくれるという約束をして、ホテルまで車で送ってもらった。

     14日は、バイキングの朝食の後、10時にロビーで落ち合って、白井さんの車と、もう一台卒業生の車で6人で出かけた。はじめ何処へ行くか教えてくれなかったが、その内に徳島の伝説に「狸合戦」というのがあって、そこに登場する狸を祀った神社に行くということがわかった。研究生の阿望弘美さんの発案だという。先ず、小松島の「金長大明神」に行った。寒桜が既に咲いている公園の野球場の脇で、入り口の門柱に狸の置物があった。社は稲荷神社にような素朴なもの。でも、看板に「八百八狸総本家」とある。そこで、「阿波狸合戦」の伝説を阿望さんからきいた。「総本家」とあるのは合戦で金長狸が六衛門狸に勝って、阿波を支配する総元締めになったからだ。百万円を寄贈したという永田大映社長の石碑もあった。伝説が映画化されたことがあり、その時監督や俳優が参拝してという話題が出た。そこから、「伝説狸合戦跡」に行き、勝浦川を渡って津田の墓場にある六衛門狸を祀った「六衛門大明神」へ行った。ところが、ここは墓場のためにか、「六衛門観音」になっていた。狸穴も見て、八幡神社付近の「お六大明神」「権衛門大明神」を訪ねて、一連の狸祠巡りを終えて、田中靖規君の案内で「桜茶屋」というレストランに行き、特製にカレーライスで昼食とした。
     
    阿波狸合戦の狸大明神巡り



     食事の後、いろいろと話が出た。デザインをやったり、書道をやったり、国文の研究をしたり、詩を書いたりしている人たちだった。そして、バスの出発時間に近づいたので、徳島駅前に行って、わたしは土産にういろうを買い、新神戸行きの高速バスに乗った。3時発車、みんな手を振って見送ってくれた。バスは鳴門大橋を渡り、明石海峡大橋を渡り、明石から新神戸に向かったが、途中道路混雑でバイパスにコースを変え、5時に新神戸に着いた。そこからは新幹線、すき焼き弁当を買ったものの、はじめ発熱装置に気が付かず、三分の一食べてからようやく気が付き、紐を引いたら吹き出す湯気にびっくり、慌てて蓋をするという体たらく。でもまあ、暖かいすき焼き弁当は食べられた。新大阪に着く前につるべ落としの秋の日はとっぷりと暮れた。



         

    1999年11月11日

    秋らしくなってきた。



     毎日、三つ四つ咲く野ぼたん

     坐骨神経痛の治療に近くの松岡接骨院へ自転車で行って電気を掛けるのが、日課になってきた。昼前の11時頃、秋の日差しの中を自転車で漕いでいくと、庭木の葉が黄ばんでいるのが目に付く。ああ、秋だなあ、と思う。昨年も丁度今頃から接骨院に通い始めて、12月頃まで通っていた。今朝も、接骨院に行って、それから銀行に回ってお金を下ろしてこようと、自転車に乗ろうとしたら、チエーンが外れた。カバーを取って一度は掛けたが、また直ぐに外れたので、接骨院へは行かず、歩いて銀行だけに行った。この自転車はもう10年も乗ってるから、壊れるの当たり前なのかもしれない。60年余りも生きて坐骨神経痛の自分と似合っている。直して、もうちょっと使いたい。

     Javaは「MacintoshJavaプログラミング」の第11章を終えたところで止まって、この一週間、新しい「ShirouyasuHomepage 2」に「ページを選んでジャンプするフォーム」を付けるJavaScriptを探していた。ホームページをインタラクティヴにするには、JavaScriptの方が手軽だ。やってみて、初めて、Java言語とJavaScriptが全然関係ないの知った。JavaScriptはNetscape社が発明したスクリプト言語で、当然Netscapeには通用するが、Internet Explorerに全て通用するとは限らない。Internet Explorerの方には、JScriptというのがあって、これはマイクロソフトが開発したという。実際、JavaScriptのレイヤー機能をInternet Explorerではエラーになった。「GO!」というボタンをクリックするとジャンプするフォームに換えてきたら、それは、NetscapeにもInternet Explorerにも通用した。しかし、直ぐにジャンプできないというのが気に入らなかった。そのことを、多摩美の副手の歌川恵子さんに話したら、「そいうのって、ありますよ」と、とあるホームページを探してくれた。そこで早速、拝借ということで使ったのが、このフォーム。

    これは結構便利で、格好いい。プルダウンでメニュが出るのがいい。まだJavaも途中なのに、JavaScriptも勉強したいという気持ちが湧いてきた。先日、Javaのアプレットを探し歩いていたら、ミシガン州立大学のホームページ行き当たって、フロントページがフォームの中にフォームを使ったりして、格好いいので、そのソースを開いてみたら、写真とフォームの組み合わせた600×400ピクセルの大きさの表示に対して、何と500行を越えるスクリプトが書かれていた。これにはびっくりした。レイヤー表示を何重にも使っているのに、両方のブラウザでちゃんと見える。それなりのスクリプトを書くのは大変なんだと思った。でも挑戦したい気がする。




    1999年11月3日

    @niftyに 「Shirouyasu Homepage 2」を設けた。



     新開設のホームページ

     人は「彼奴は一体何をやっているんだろう」と、または「病、膏肓」と思うでしょうね。 ここにホーム ページがあるのに、 また別のを持つなんて。人の思いが気になります。でも、人が何かをするというのは、それ なりの理由があるんですよ。 ということで、このところのわたしの@niftyへの傾斜のお話です。

     始まりは、最近、夜中の11時を過ぎるとこのプロバイダーのcatnetの接続情 況が かなり悪くて、思うように繋がらない。でも、解約して他のプロバイダーに引っ 越すというのも、 これだけデータを入れてしまうとしんどい気がする。こういうのって、やはり悩 みというものなんですね。 ところで、八月にISDNのTAが雷でやられて、NTT-MEの「MN128mini-V」と いうTAに換えたら、 シリアルケーブルを接続するターミナルが一つ余った。つまり、現在LANに接続して いるルーターとは別に ISDN用のモデムとしても使えるというわけ。そこで、これを使えば最近は殆ど 使ってなかったNIFTY SERVEの「HyperROAD64」に 直接繋げることになると考えた。そうすれば、catnetで接続不良や混雑の時、NIFTY からインターネット出来るわけ。 「23時の悩み」に明るい光が射してきた。そう思っているところに、11月1日 から「InfoWeb」と「NIFTY SERVE」が合併して 「@nifty」になるという記事が新聞に出た。NIFTYのホームページにアクセス して見ていると、 会員はホームページ用に10MB持てるということも分かった。しかも、自作の CGIも使えるし、 RealPlayer用のファイルも置けるらしい。そこで、急に気持ちが動いたわけ。

     そして、時々ビデオキャプチャーに使っているWindowsNTマシンにTAから シリアルケーブルを接続して、 「NIFTY MANAGER」を起動すると、「ようこそ、ニフティサーブへ」と若い女 の声で迎えられた。 接続して「GO BILL」で自分の使った料金を見ると7月に16分で五百数十円以外 は基本料金の200円が続いている。200円を捨てていたようなもの。もっと有効に使おう、という気持ちが出てくる。 そうだ、@niftyにもホームページを作ろう、前からそういう気持ちがあったんだ、と自己弁解。 @niftyでホームページを作るには、先ず申し込まなければならな い。ところが、申し込みページに 「ただし、旧ニフティサーブ従量コースの方はご利用できません。 料金コース を変更してからご利用ください」とある。 わたしは「旧ニフティサーブ従量コース」会員だから、コースの変更が必要。「3時 間コース」では、インターネットからの 接続が出来ないとあるから、その上の「15時間コース」で月2000円となった。 1年で24000円だから 月無制限の1年で18900円のcatnetより高く付く。両方払うと、1年で五万円近く になる。それだけの 遊びをしなくては元が取れない、と直ぐに他人様には通じない胸算用。

     申し込んだのが丁度11月1日で「@nifty」発足の日だった。申し込みする と、URLと自作CGIのURL、 それにFTPアカウントとパスワードが決まる。@niftyのホームページには、 「@homepage」というサイトがあって、 そこには「サクサク作成君」というコーナーがあり、その指示に従ってやって いくとあっという間に ホームページが出来てしまうようだ。どんなものかとやってみたが、やっぱり思 いがずれて途中で嫌になってしまった。 せっかくホームページの権利を得たのだから、何か早く開きたい思いながら、別に新しいことも思いつかなったが、 わたしには見慣れた部屋の中でも他人には目新しいかもしれないと思い、庭と部屋の内部を写真に撮って公開することにした。 Javaを学び始めたことだし、Web空間で一体どんなことが出来るものか、そういう試みもこのサイトでやってみたい 思っている。それはともかく、部屋の写真を結構大きくしたけど、Photoshop 5.5の「Web用に保存」を選ぶと 900KBのファイルが画質3で16.18KB、28.8kbpsで7秒に圧縮されるのは驚異的だ。

     これから、思いつくまま何か試みたいので、 この 「@niftyのShirouyasu Homepage 2」 のサイトもよろしく御贔屓下さい。



    1999年11月1日

    MacOS 9をインストールする。



     三つぐらい入る大きな段ボー ル箱に
     入って送られてきた。

     MacOS 9のケース。

     10月13日にAppleのホームで注文した「MacOS 9」が昨日届いて、早速イン ストールした。と言っても、今まで使っていたMacOS 8.6をアップグレードし たわけではない。 今までの設定とかアプリケーションとの相性とかを見るために、先ずは別のドラ イブにインストール した。つまり、新規インストールということになる。インストールはすんなり 行ったが、その後の 最初の起動でかなり時間が掛かったのでちょっと焦った。メニュバーに時計が出 てから、デスクトップに アイコンが出るまで、5分余り掛かったからだ。それでも何とか起動できた。< BR>
     ところが、「設定アシスタント」と「インターネット接続アシスタント」を 使っての設定では、インターネットに 接続できないのだ。「TCP/IP」を調べると、ルーターのIPも、ネームサーバー アドレスも入っていない。 そこで、「手入力」で入れてブラウザを使ったら、フリーズした。マウスが効か ない。キーボードから 再起動する。すると、またメニュバーに時計が現れてから、デスクトップにアイ コンが現れるまでに 5分も掛かった。わたしのところでは、何台かあるパソコンをLANでつないで、 YAMAHAのルーターを使って プロバイダーと接続している。ルーターを設置したとき、各パソコンにIPを振っ たら、ルーターが うまく作動してくれないので、ルーターが自動的にIPを割り振る「DHCP」に設 定してある。だから、 新しいMacOS 9でも「DHCP参照」にしなくてはいけないはずなのだ。ところ が、このMacOS 9は「DHCP参照」に すると、うまくいかない。結局は「手入力」に落ち着いたが、それまでに何度も フリーズと再起動を 繰り返して、午後から夜中まで掛かってしまった。

     実際、MacOS 9はフリーズして再起動を掛けると完全に起動するまで、5分は 掛かる。よく見ていると、 その間にEthernetのハブが点滅を繰り返しているから、デスクトップにアイコ ンを出すためにいろいろと 探索して回っているらしいと理解した。新機能の「Sherlock 2」という奴が、 探索に時間を掛けて 再起動を遅らせているのだろう。じゃあ、この「Sherlock 2」ってどれほどの ものかと、早速 「鈴木志郎康」と入れて検索したら、45項目出てきた。大体は一度は見たこと のあるページだったが、 始めてののもいくつかあった。いろいろとやってみるうちに、この45項目とい うのは、どうやら「Sherlock 2」 のウインドウの大きさによるらしいことが分かった。そんなところで、 「MacOS 9」のスタートとなった。  

     

       








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