上野昂志著「写真家 東松照明」を読む。
菊池信義さん装幀の真っ黒な本 |
先週は珍しく二本も原稿を書いた。「ミドナイトプレス」と「共同通信」。「ミドナイトプレス」には、今や詩の書き手としての自分は危機的状況にいる、なんて書いてしまった。正月に読んだ清水昶の詩集の「あとがき」にあった「もし、この詩集を手にしたひとがあるなら、感想を伝えて欲しい」という言葉が、どうも頭に残っている。自分の詩集があまり読まれない寂しさを訴えているように感じるのだ。そう感じながら「だめな詩集」だなんて言ってしまったからだ。読まれないと言うことでは、わたしの詩も同様だ。そんな思いの上で、この数年、まともに詩を読まず、書く詩の数も減ったということで、自分が危機的状態にいると認識したわけ。共同性を失いかけているということ。そのことを、十枚余りの原稿に書いた。
「共同通信」の方は、上野昂志著「写真家 東松照明」(1999年12月青土社刊)の短い書評。この本は面白かった。東松照明は60年代前後の写真界の寵児で、大病を患った後の今も長崎に居を移して地道に写真を撮り続けている。1930年生まれというから、2000年の今年は70歳になるということ。この本は、20歳代からの50年間の写真家としての営為を、その写真に即して語っている。上野昂志は、東松照明の内部と外部を語り、写真はその両者の境界に成立するものという写真論を展開する。この「内部と外部」という言葉が懐かしかった。そういえば、むかし「内部現実」なんていう言葉を使ったよなあ、と思った。丁度その前に、「ミドナイトプレス」に、ある時期詩人達が現実から内面を切り離し比喩が呼び寄せるイメージの迷路に踏み迷った、なんてことも書いたところだった。「内面」とか「内部」とかは何処へ行ってしまったのだろう。詩の言葉が、実体から離れて、言葉そのものが実体化していったという過程があった、という風に思える。今はそこも通り過ぎて、凶器みたなものとして、身体にぷすぷす刺さるものになってきているような気もするけど。
辻征夫さんが亡くなって、お葬式に行った。
何年か前に隅田川・桜橋の上で、辻征夫さん |
昨日、18日辻征夫さんのお葬式に行った。土曜日に辻さんが亡くなったということを知らされたが、ずっと納得でない気持ちだった。脊髄小脳変性症という病気になっていて、14日の夜、のどに詰まった痰を吐き出すことができないで亡くなってしまたという。なんか痛ましい。わたしより四歳年下。納得できない。人の死って、すべて納得できないことなんだと改めて実感した。
辻さんとはそれほど親しいという関係ではなかったけど、同じ東京の下町出身の詩人として、彼の詩のナイーブな持ち味、人柄、その他いろいろなことで、親しみを持っていた。それよりなにより、辻さんは「現代詩文庫」の創刊当時思潮社にいて、「現代詩文庫鈴木志郎康詩集」の担当者だったのだ。人柄と書かれる詩の両面で安心感の置ける詩人がいなくなった。残念です。
昨日のお葬式は、住んでいた近くの東船橋の「セレモ東船橋ホール」というところで行われた。妹さんが辻さんの長い闘病生活についた話されて、旧友の井川さんが司会をして、思潮社の会長の小田久郎さん、詩人の山本かずこさん、清水哲男さん、小沢信男さんの弔辞があった。清水さんの弔辞は八木幹夫さんが代読された。そして、みんなが焼香した後、葬儀委員長の多田道太郎さんが挨拶した。皆さん、砕けた言葉遣いで、辻さんの自己に厳しく、他人に優しい辻さんの人柄を語っていた。清水哲男さんの弔辞に、「好きだった白い雲に賑やかに送られて」という言葉があったが、式が終わって外に出たら、言葉通りに空に白い雲が幾つも浮かんでいた。悲しいけれど、澄んだ気持ちになれたのだった。
辻さんとは何年か前「現代詩手帖」の記事のために、編集長の小田康之さんともども、辻さんが育った向島辺りを散歩したことがあった。その時撮った写真があったのを思い出し、「辻征夫アルバム」を作ったので見て下さい。また「詩の電子図書室」にある辻征夫詩集「ボートを漕ぐおばさんの肖像」 もお読み下さい。
「JavaScriptハンドブック」に戻って読み進む。
日向で咲く、友人に贈られたシクラメン |
詩集を4冊続けて読んだ後、また昨年の末から読み始めた「JavaScriptハンドブック」に戻った。この本は、昨年読んだ「JavaScript入門」とは違って、JavaScriptの基本から本格的に書いてある。JavaScriptというのは「オブジェクト指向」のコンピュータ言語ということなんだけど、それは「Netscape」というブラザーが、ウインドウやその名前や書かれているテキストやボタンやリンクなどから出来ているわけだが、そういうモノを「オブジェクト」として取り扱おうということなわけ。スクリプトを書いてウインドウを開いたり、リンクを移動したり、ボタンを作ったりするということ。
「windowオブジェクト」についてだけでも、86ページから123ページまで、38ページに渡って書いてあった。例として出てくるスクリプトのソースコードも、こんなことが出来ますよ、というようなものはでなく、ウィンドウの中の構造に立ち入って行くようなものだった。たとえば、サブウインドウを開いて、ボタンでウインドウを入れ換えて、それぞれの「ウインドウのバックグラウンドカラーやリンクカラーの数値を読み取る」というようなスクリプト。(黄色のメインウインドウと赤のサブウインドウが開いて、メインウインドウのボタンを押すと、右のテキストエリアにそれぞれのカラーの数値が出る。ボタン「Other Colors」はサブウインドウのリンクから読み込んだウインドウの数値を見る。)
このスクリプトだと、サブウインドウを開く関数の中にHTMLのタグを書かなければならないから、結構複雑になる。本に印刷されているスクリプトをパソコン上に書き写すだけでもミスタイプして、一度や二度では動いてくれない。今回は、その上、ミスタイプだけでなく、エディターか何かのせいで動かないことが何度もあった。1バイトの英数に2バイトの日本語の空白が混じると見分けがつかないが、コンピュータには通じない。それかと思って何度も変換したがそうでもない。分からなくなると、一行ずつ書いて実行してみるなんてことやったから、一つのソースコードを書くのに随分時間が掛かったこともあった。その代わり、スクリプティングの書き方はいくらか上達した。
面白いことは、どうってことないことかも知れないけど、Macのエディターで書いて「テキストで保存した」ソースをWindowsに送って、バイナリも開けるエディターで開くと、Macのエディターがくっつけたバイナリが見える。パソコンのファイルって、知らないところでいろいろなものをかってにくっつけられてるわけ。
ところで、1月6日の記事の「詩の姿」について、片根伊六さんという人からメールが来て、彼の「新・ぼくだけの掲示板」に反論を書いたと知らせてくれた。もう新しいということにあまり意味がないと書いたことが問題になっている。
野村喜和夫詩集「狂気の涼しい種子」を読む。
詩集とキーボードとごちゃごちゃ |
速いもので、もう松の内も過ぎた。今年の正月は、立て続けに4冊の詩集を読んでしまった。詩集を読むのと、その感想をここにアップするのと、Windows2000で日は過ぎていった。そういえば、意外にも身近なところで2000年問題が発生した。感想を書いたHTMLファイルをサーバーに送って、ブラウザーで再読込してもdocumentが更新されないという事態が起こった。じつはこれが、サーバーの設定が二桁で、2000年の四桁を認識できなくなったということだった。ご迷惑を掛けた方にはお詫びします。
どうして4冊の詩集を読んだのか。自分でもよく分からない。ここ何年かあまり詩集は読まなかった。読んでも文章にしようなんて思わなかった。詩に飽きていた。考えるとなるとややこしくて面倒だった。コンピュータの方がずっと面白かった。詩よりコンピュータの仕掛けの方が面白い。流れも速い。つい2年前まで、本屋の書棚に3、4冊しかなかったLinux関係の本が、今ではパソコン店の店先で平積みになってる。本屋の詩集のコーナーはどうだろう。平積みになっているのは相田みつおの本ばかりだ。茨木のり子さんの詩集も平積みになってたから、立ち読みしたら何だか似ていた。安心できる言葉だ。でも、安心できる言葉って、腹が立つなあ、と思いながらコンピュータの本を抱えながらエスカレータを降りた。
そういうことが重なって、詩集を読んだ。やっぱりわたしは詩を書いてる人間なんですね。一つ読むと、もっと読んでみたい、というより考えてみたい。下手な考え休むに似たり、と言うけど、コンピュータのややこしさにこんがらがって休むにはいいなあ、なんて自分に言い訳。実は、野村喜和夫さんの詩集は、DVコーデックの420MBあるAVIファイルをQuickTimeのアップル何とかコーデックの20MBのMOVファイルに圧縮しながら読んだ。ムービーファイルは同じフォーマットのファイルでも、コーデックが違うと開けなくなる。これに比べたら現代詩はそれほどややこしくないけど、野村喜和夫さんの詩は結構ややこしいところがあった。
野村喜和夫詩集「狂気の涼しい種子」について
10個のパートからなる構成になっていて、多少の違いはあるがそれぞれのパートは「狂気の涼しい種子」「コナラ派」「詩編」「後背箴言集」「症例ササ」「人の静かな穴」という同じタイトルでナンバーを変えて構成している。「あとがき」には読み方のインストラクションが書かれている。「ふつうにページの順を追って読まれても」「各セリーを番号順に辿られてもかまいません」と。そして、「前者ならフーガを聴くような読み方、後者ならささやかなサーガを辿るような読み方、といえるでしょう」と。また、この詩集は「幸福物質」「スペクタクル」と三部作となることも書かれている。
「狂気の涼しい種子」は、「私」は「きみ」を車に乗せて国道16号線の小手指付近を走り、カーセックスの後、「きみ」を殺し、トランクに移して走り続ける行為を、人を水に戻してそれを飲むという比喩的な言い方で語られている。「コナラ派」は、いわゆる団栗の「木の名である”コナラ”」と、何かを同じくする人の「集団につける名”派”」とを結び付けるということについての言説が記述されている。「詩編」は、主観的な言説が言葉をリフレインするなどリズムを付けて観念の展開として語られている。「後背箴言集」は、パート。までで、主観的言説が断言されている。「症例ササ」は、パート・までで、精神病者ササについて叙事詩風に語られる。「人の静かな穴」は、パート、までで、人を埋めるための穴もしくは人が生活している穴についての考察が韻文で語られる。
以上のことから、この詩集は全体で構造を持ったものとして構築されていることが分かる。三部作の一部ということであるから、その構造は更に大きなものになるのだろう。構造を持っているということは、詩人が生活していて、そこで感じたことを元に感慨や想念、あるいは思考を語るために書かれた詩を集めた詩集ではなく、詩集を作ることを意図してそれぞれの詩が書かれたということである。作者が「セリー」と呼んでいる一連の連作が、その構造物の内容となっている。
ところが、その内容となるところが、実は意外に不確かなのだ。「サーガを辿るような読み方」をしていいのだから、叙述的な物語展開が期待されるが、先ずそこが曖昧。国道16号線に沿って車を走らせ「きみを殺す私」、それに「精神病者のササ」、そしてファミリレストランの裏手とか団地の屋上のアンテナのスナップショット。殺人の動機も語られなければ、3人の関係も語られない。関係は最後のパートの「詩編」で「人生の核心」と題されて、集合の関数式になぞらえて語られるように非常に抽象的に捉えられているといえよう。つまり、関係が言葉の中に実体として立ち上がってくるようには感じられなかった。抽象化するところに熱心で、人物やその関係の設定は常識的であるように思えた。筋立てが、車を使ってのありふれた殺人事件で、現実を越えてない。作者としては「コナラ派」のセリーで思考を記述するように、というか、知的な装いのおしゃべりで、ありふれた生活者の生きている姿を描けば、筋立てが面白くなりようもないと反論するだろう。しかし、盗聴器を仕込んだテディベアをせっせと作って,街頭でカップルの男に売りつけるという若い女が、今年の多摩美の卒業生のシナリオに登場してくるのを読んだが、それくらいの工夫をして欲しいと思った。
作中の人物や事物はありきたりだが、その「ありきたりの人々」を「コナラ派」と名付けたところは面白かった。それに暦の帳尻を合わせるために発明された「閏」という概念でそういう人たちの生死の帳尻を合わせようという着想もなかなかなものだと思った。無差別殺人の「狂気」は、そういえば「ありきたりの帳尻合わせ」とも言えるな、と思った。こういう風に考えてくると、詩集の題名の「狂気の涼しい種子」というのも考え合わせて、作者は思った以上に生真面目に、似たり寄ったりに生きなければならない仕様になっている都市で生活する人たちの生活空間を言葉に置き換えることによって、自分の生きることの意味を考えているようにも思えた。その詩の姿としては、先日「そこでは自己実現の仕方はテンポラルなものになりつつあるから、言葉を前提とする詩もそういうものとして、出会いの標しになるのかも知れない」と述べたように、言葉が作者の想念の中での「出会い」として展開しているといえよう。153ページ。1999年11月20日思潮社発行。
渋沢孝輔詩集「冬のカーニバル」を読む。
窓から見た隣の空き地 |
渋沢孝輔詩集「冬のカーニバル」が送られてきて、封を切って先ず目に入ったのが、詩集の後半を占める「入院日誌」だった。わたしも3年前に肝臓を患って入院した経験があるから。ところが、入院といってもわたしの場合とはまるで違うのだった。いい加減な気持ちでは読めない気がして、そこで読むのを止めにして暮れの忙しさに紛れてしまった。年が明けて、2冊の詩集を読んでから、再び手して読んだ。
渋沢孝輔詩集「冬のカーニバル」の感想
「渋沢氏の最後の詩篇群」を集めたこの詩集の巻末の「編集ノート」に、第一部には1997年3月から1998年1月までに発表された詩、第二部に80年代から90年代に書かれて作者の生前に何れの詩集にも収録されなかった詩、及び第三部に「現代詩手帖」1998年3月号4月号分載された「入院日誌」を収録したとある。
渋沢孝輔さんは「入院日誌」によると、1997年の11月に一度入院して咽喉の癌の手術をして、12月に一旦退院したが、翌年の1月に再び痛みを感じて入院した。そして、1月26日の「先生たちも今日はもぱっら痛み対策。」という文章で「入院日誌」は終わっている。その後、2月8日に67歳で亡くなられた。
渋沢さんが癌で亡くなられたことを知っていたからか、詩集を開いて最初にある「冬のカーニバル」を読んで、ぞくぞっくとした感じに襲われたのだった。生身の人間が幻想を通じて死を越えた彼方に通じて行くところを語っていると思えた。その詩には、「寒い寒い日の寒い場所で」、「それからいちめんぎんぎらぎんの星空の下/息も凍る雪の道を帰ってきた」道すがら、「世界は終わりだ」「いやすべてが始まったばかりだ」と大声で自問しながら、「さまざまな崎形 異形 魑魅魍魎が舞い/山水木石が舞」う中を、「わたしもいつのまにか夢見心地で/踊り狂っていた」という幻想が語られている。発せられた大声が広げる宇宙的な空間は寂しいが明るい。その自らを万象と一体化させたという幻想にぞくぞっと感じさせられたわけだ。この詩は1997年3月に発表となっているから、ご自分の死を予感して書いたものとは言えない。渋沢孝輔という詩人が到達した境地が語られていると思う。「踊り狂う」という言葉には生きる力が込められている。この詩は、その生きる力が万象と一体化していく幻想を花火のように打ち上げているとでも言ったらいいだろうか。言葉の花火と喩えれば、その仕掛けは作者の思考の力の為せるわざといえよう。
この詩集はそういう幻想が語られているだけではない。幻想を作り物としてではなく、人間の本性として、生きる場として行くところに詩というものの成立の本源があるとする渋沢さんの詩論も語られている。わたしたちは物そのものには触れることが出来ず、物のイメージにだた浸って生きているわけだが、そのイメージの領域の地平を何処まで広げていけるか、それを検証しようということが渋沢さんの詩の行いだったのだと思われる。作者が住んでいる自宅のある武蔵野台地の一角を古代の波が打ち寄せる切り立った海岸として幻視するという詩があった。個人に主体性があるとされる現代に生きる者には、何処までも自分の存在が問題になる。個人が言葉の主体となったとき、言葉を対象化して、そのイメージを喚起する力によって、自ら持ち得た幻想を己の存在証明にしようという現代詩の一つの道筋を、渋沢さんは全うに歩まれたのだと感じさせられた。
しかし、どれほど自分の存在が問題になっても、自己が生み出すイメージを濃密に醸成する環境はどんどん失われていっている。活字がぐいぐいと懐かしい媒体になって行っている時流にあっては、言葉はイメージを呼び覚ますというより、次々に眼前に現れる物を指し示すのに使われることが多く、渋沢さんが構築したような幻想はもう生まれてくることがないように思う。「入院日誌」が「1月26日」で突然とぎれたとき、泣きたいような気持ちにさせられたのは、詩を作り続けてきた渋沢さんの死によって、そういう文学の道が途絶えてしまうことになるように感じたからだと思われる。この詩集を読んで、詩の姿というものの場面の変わり目に立ち会ったという実感をわたしは持ったのだった。146ページ、思潮社刊1999年11月23日発行2800円。
「詩の姿というものの場面の変わり目」とわたしは書いたが、そのことについて、渋沢さんの詩集を離れて、もう少し述べてみたい。先ず、スタイルとかファッションということを含めて「姿」といったわけだが、骨格とか体つきとか生まれつきまで含めてこの言葉を使っているつもりだ。1935年生まれのわたしと1980年代に生まれた人たちとは体付きが違う。そして、その体付きの人たちが生きている情景も違っている。それを、詩を書く人たちの上に置き換えて見るとどうなるかということ。
今世紀初頭の白秋とか啄木とかの明治の詩人達はみな、地方にいて投稿して認められ、志を立てて上京して詩人として成功したりしなかったりした。彼らにとって詩を書いて自己実現を図ることは世間的に成功することでもあった。そこで詩は時代的に「新しい感性やものの考え方」を表すものだった。朔太郎など1910年代から20年代の詩人になると、文学表現で自己実現を果たしても、それが世間的な成功とは重ならなくなるが、「文壇とか詩壇」で認められ、それが世間に広まるという仕方で報いられた。1930年代では詩を書くことが自己を反社会的な存在として、その存在感を得るというような意味合いになってくる。つまり世間的にはどうしようも存在とされるが、当人は世俗から身を絶った純粋な存在としてヒロイックに生きられる。それは、詩を書くことによって社会の全体主義的な構造の中で個人を擁立するという意味で、志を立てるということが明治時代とはまるで正反対のものとなった。
1945年の第二次世界大戦の終戦の後から60年を過ぎるころまでは、詩を書くことによって、戦前から引き継いだ反社会性を批判的立場として自認して、擁立された個人の内面を至上のものとして語りだし、政治思想とか美学とかの幻想を共有する場の実現を目指すこととなる。そこから、詩人たちはおのおのの幻想によってばらばらの道を行くことになるが、幻想の場が活字媒体の狭いジャーナリズムによって支えられるところとなる。詩人は自分で自分の幻想を支えなくてはならないから、詩を書くことは、一方では詩の本質を問うというところで深められるが、詩人の現実的な自己実現の意識が、その狭いジャーナリズムに登場するところに向けらてれる。ジャーナリズムだから、そこでは新しさが価値と見なされる。詩人は選ばれた者ではなくなり、大衆の一人という場に立たされ、「詩を書くからには認められなければという気持ち」と、その場としての月刊誌の「時評」と、新聞の「今年の収穫」を心待ちする。詩を書いていると、ここから逃れられない心がある。誰かわたしの詩をいいと言ってくれないかなあ、と思い、みんながわたしの詩を一番にいいと言ってくれないかなあ、と思ってしまう。
現在、メディアがデジタル化して錯綜してきたところで、詩の場は活字の場のでの読み書きを越えて行こうとしている。ジャーナリズムを動かすスピードが加速して、情報が多様になり、「認める認められる」というような関係性は崩壊して行く。そこでは自己実現の仕方はテンポラルなものになりつつあるから、言葉を前提とする詩もそういうものとして、出会いの標しになるのかも知れない。吉増剛造の詩の姿など見ていると、その一つのあり方かも、と思えてくる。そうなると、自己について確信が持てなくなるから、多分また一方では自分を突き詰めないではいられなくなる。わたしなどは、その自分の突き詰め方が曖昧なのに苛立っているようなところがある。別の場面の幕が開きつつある、と感じられる。
2冊の詩集ついて更に。
2日に読んだ2冊の詩集。 |
昨日書いた荒川洋治さんの詩集「空中の茱萸」と清水昶さんの詩集「荒城の月」の感想文を読んだ家のものから「書かれた人には痛烈すぎるのではないか」と言われた。「別に敵意があって書いたわけじゃないけど。むしろ愛情があるから、率直に感じたことを書いたんだけど」というと、その愛情が感じられないと言うのだった。自分でも読み返してみると、確かに荒川さんにしても「ひねくれてなあ、という印象」と書かれたり、昶さんに至っては「ひどい詩集だ」と書かれ、更に「『空白の愚痴』といったところ。知識の滓と、青春の記憶に頼って、人生の感慨をひけらかすだけ」などと書かれたのでは、気分を害することになるだろうと思った。わたしの悪い癖が出たようだ。悪気はないけど、思ったことをパッと言ってしまって相手を傷つけることになる。嫌われる性格。それはともあれ、お二方には好意を持っているのだから、もちょっと言葉を足しておこうと思う。
荒川さんの詩集「空中の茱萸」は詩を書き、文芸時評をしている荒川さんの詩と関わりがモチーフになった詩が多い。荒川さんは詩人として生きてる、つまりその肩書きで生活しているのだと思う。そういう人は今の日本では数少ない。だが、詩人という肩書きで生活しているといっても、詩を書いてそれを売って得た金銭では生計を保てない。歌の歌詞を書いて財をなした人はいても、詩で財をなした人はいない。小説でもルポルタージュでもエッセイでも、その原稿料で生活できるけど、詩では駄目なのだ。詩は生活できるほどのお金にならない。しかし、荒川さんはそこで生きている。つまり、肩書きは詩人だけど、沢山の文芸批評を書いて生計を得ているらしい。仕方なくやっているというより、好きでやっているようだ。そこで、荒川さんが大切にしているのは、言葉だ。言葉が人に何かを伝えると言うことを大切にしている。こういう事がこの詩集を読むと伝わってくる。
その伝わってくるものというのは何か。荒川さんは、それは言葉が持つ意味(物事の概念またその関係)でもなく、また言葉が呼び覚ますイメージでもなく、「人間味」だと言っているように、わたしは受け止めた。その人間味は現実の生活の中にもあるが、とりわけはっきりと見て取れるのはマスメディアという場にあって、その言葉にフォーマットが与えられたときと言うわけ。その場の違いによって、その人間味を感じさせる言葉の主のイメージが違ってくる。それは「有名無名」の価値体系の中に置かれる。現実のメディアとそこに登場する者とメディアを支えている者達との複雑な関係が絡んでくるし、そこではお金も動く。荒川さんは、そこで「無名」の側に立って悔しがっているように思えた。しかし、荒川さん自身は詩人という肩書きで通用する有名人なのだ。詩人として、詩のために努力しているのに世の中はストレートに認めてくれない。その辺りから生まれてくる彼自身の感情の表現を独自な比喩によって表明している。つまり、自己韜晦している。その辺りのところに、ひねくれてるなあ、と言う印象を受けたということ。これでは、詩を読み慣れてない人には気持ちがうまく伝わらないのではないだろうか。
清水昶さんの詩集「荒城の月」がだめな詩集だと言ったのは、荒川洋治が涙ぐましい努力で獲得しているような創意工夫が見られないからだ。同じ語り口の繰り返し。詩を書くことでようやく生きているということは分かるけど、でも、自分の詩を捉え直すということは出来るのではないかしら。「あとがき」で「詩を書くという人間の技術の罠」というような言い方をしているが、それだったら「罠に掛かった」などという被害意識を抜け出て、「詩を書くという人間の技術」を正面から捉えて創意を働かせて欲しい。わたしはどうも清水昶には口調がきつくなってしまうが、彼の「まあいいか」というような甘えを感じさせる語り口に苛立ってしまうからだろう。彼には感情に純粋さを湛えたところがあるし、彼も珍しく詩人一筋で生きてきた一人だ。その彼が世代のルサンチマンを巧みな比喩で語るだけでは「詩壇」で通用しなくなったのを感じているようだが、それは、飛躍した言い方をすれば、現実の社会で会社人間を一筋に生きてきた者が今その会社でリストラに遭遇しているのと重なるのではないかと思える。彼らが考え方を変えざるを得ないように、清水昶も考え方を変えざるを得なくなっているように思える。その点でも、友情からこの詩集を「だめな詩集」と否定しなければならないと思う。余計きつくなってしまった。
家猫になるか、野良猫ママニ。お正月、荒川洋治詩集「空中の茱萸」と清水昶詩集「荒城の月」の2冊の詩集も読む。
2000年1月2日の日の出前の空。 |
家猫化しつつある野良猫ママニ。 |
12月不妊手術して、傷が治るまでと3週間家に中に留め置いた野良猫のママニが、外に出してからも、戸に隙間を開けておくと、家の中に入って昼寝している。家の中は外より暖かいし、ストーブもあるから居心地がいいに違いない。しかし、ずっと居るわけではない。外に行って、半日も来ないこともある。外では、兄のパパニとじゃれ合ったり、舐めあったりしている。ママニにとっては、家も外も区別がないのかも知れない。わたしたち家の者は、彼女が来ないと寂しいような感じを抱くようになってきた。互いに、生き物なんだなあ、と感じる。
2000年1月1日午前0時も無事に過ぎた。その時間が迫ってくると、別に何も起こらないだろうと思いつつ、それでもパソコンの電源切ってみたりして、ちょっと緊張した。ホームページに付けたカウントダウン表示を2001年1月1日までに改めた。それまで2000年を「The new Millenium」としていたのだからいい加減なものだ。日にちの前に時間や分や秒があるだから、2000年が21世紀の始まり?2001年から21世紀?どうも確信が持てない。
元旦は、分厚い新聞に目を通した後、ビニール袋入りの山形の庄内協同ファームの丸餅切り餅のお雑煮と買ってきた御節料理、わたしはこれがないとどうも落ち着かない。三が日はやっぱりお雑煮を食べなきゃあ、という気持ち。わたしはその後、インストールしたばかりのWindows2000をごちょごちょいじって一日が終わった。Musicソフトの「WaveLab 2.0」はインストールできなかった。movie圧縮ソフトの「Madia Cleaner Pro」はインストールできたものの正常に動作しなかった。「Quick Time 4」もファイルを開けないし、開けても保存ができなかった。Windows2000ってマルチメディアに弱いのかな。
2日には、荒川洋治さんの詩集「空中の茱萸」と清水昶さんの詩集「荒城の月」を読んだ。このところ、コンピュータの本ばかり読んでいるので、たまには詩集も、という気持ちから。両方の似ているところがある。結構引用が多く、文芸ということに拘っているなあという印象を与えるところ。コンピュータの本は、わたしの知らない領域を広げてくれるが、詩集にはそういうところがなかった。わたしと違って、コンピュータの本しか読んだことがないという人には、詩集というのは新鮮かも知れない。
荒川洋治著「空中の茱萸」の感想。
(「茱萸」には「グミ」という仮名が振ってある)
詩集の作者が詩を抱えてマスメディアと重なった文芸の世界を走り抜けて生きているという感じを与える。詩を書く人がテーマになっていて、そういう人の人生の問題として、その「詩」が歌謡曲や小説のように普通の生活者に受け止められていないことが苦痛になっているらしい。詩を書くことによって胸をときめかしたり、哀感を持ったりというところ。でも、これらの詩は生活者に突きつけるものを持っているようには感じられなかった。やたらに著名な名前と無名な名前を持ち出して、詩の作者は自分の存在をくらませている。ひねくれてなあ、という印象。「有名無名」はマスメディアが生み出した一つの押しつけの価値体系だ。メディアがシフトしている現在、詩を書くってどういうことなのか、当然詩の価値は変わってくる。「詩の現場」を詩の中に持ち出した作者はそことをどう引き受けるのだろう。1998年5月から1999年6月までに発表の16篇128ページ、詩の最終ページは「123」となっている。こういう組み方は、なるほどなあ、と思わせる。思潮社発行。
清水昶著「荒城の月」の感想。
こちらは、往年の格好いい作者の詩を知っているわたしには、ひどい詩集だという感じ。きつく言えば、「空白の愚痴」といったところ。知識の滓と、青春の記憶に頼って、人生の感慨をひけらかすだけ。でも、詩に生きてきた昶さんがなおも詩に生きようとしている姿は伝わってくる。「あとがき」に
「詩を書き始めたのは二〇歳だった。その頃から何だか死に物狂いで書いて来たような気がする。どうして、そうなったのか。詩を書くという人間の技術の罠に落ち込んでしまったせいだろう。もし、この詩集を手にしたひとがあるなら、感想を伝えて欲しい。それぞれの孤独と詩は独立しながら共生するものだから。最近は一流に徹した歌謡詩が書きたくなった。一九九九年七月五日 清水昶」とある。自分のことを「詩を書くという人間の技術の罠に落ち込んでしまった」といっている。詩は「人間の技術の罠」か、これだけはいい、確かに昶さんの言葉だ。その罠は人を孤独に落とす。このあとがきは現在の作者自身を語っていると思える。そして、自分が書いてきた詩が終わったことを告げている。ここにこそこの作者の詩があるのに、何故これを詩の作品に書かないのだろう。わたしの考えるところでは、作者が詩人というイメージに溺れているからだ。1998年10月から1999年7月までに発表した13篇69ページ。砂子屋書房発行。