今年はちょっと違うイメージフォーラムの卒業作品群。
家の裏で満開の雪柳 |
多摩美の造形表現学部卒業式、イメージフォーラム付属研究所の卒業式、知人の結婚式と連日「式」なるのもが続いた。まだあと「入学式」がある。どうも、わたしは「式」というのが苦手だ。ずっと決められた席に座っていなくてはならない。身体を動かさないでいると、余計なことを考えてしまう。話す人は話す人で、決まり切ったことを言っている。自分が話す立場になると他人と同じように決まり切ったことを言ってしまう。そういう形骸化した形式的な時間の展開とは別に、そこに出席してる者たちが生きている時間は生々しく変化している。苦手な式に出席していて、そこら当たりのことを思い巡らしていた。
多摩美でも、イメージフォーラムでも、学生や生徒は作品を作って卒業して行く。その作品の内容が毎年変わって行く。それらの作品がどんな内容かは、イメージフォーラムの作品については、かわなかのぶひろさんが「第23期卒業制作展作品評」で書いているのでそれを読んでいただくとして、わたしはわたしで気が付いたこと、また感じたことを書いてみる。わたしとしては、ただ単に書くというより、世の中の人たちに、今の若い人たちの作品がどういうものか是非知って貰いたいという思いが強く働いている。
イメージフォーラム付属研究所の卒業作品95作品のうち90作品を見た。短いものは3分、長いものは70分を越える。平均して12、3分としても総計で20時間近くなる。連日通って見なければならなかった。イメージフォーラムの上映会場は、35席ほどしかなく、どのプログラムも立ち見の人がいたから、17プログラムで1プログラム50人余りと計算して、1プログラム2回上映で、全期間を通じて1500人余りの人が見に来たのではないだろうか。作者が一人で10人連れて来るということはないから、興味を持って見に来た人がかなりいると思える。作品はまさに玉石混淆、それをかなりの人が見に来るというところに、意味があると受け止めたい。つまり、表現意識の変化の切っ先を感じようと若い人たちが集まってきているわけ。
今年は去年と違うと感じたところがいくつかある。まず、精神科医のところに通っていて、その精神科医に診断されているところそのままストレートに出していた作品が二つあったこと。「作品を作る意欲が湧かないけどどうしたらいいでしょうか」という問いに、医者はただただ「薬を二ヶ月も飲めばやる気が出てくる」と応えるのみ。見ていて、それじゃ卒制に間に合わないよ、と思わずいいたくなる。そこまでいかなくても、精神的に病んでいるか病みそうになっていて、そのことを避けて通れないという表現をしていた作品がいくつかあったこと。映画が自己セラピーになっていると思った。また、死ぬ前のベッドに横たわる祖父の姿を撮っていたものが3作品、祖母の亡骸を撮っていたのがひとつ。父親の死を語る作品が3作品。そうやって肉親との関係を通して自分の存在を確かめようとしている。それが日常的に行われているのだ。凄い世の中になったなあ、という感想を持った。
樋渡麻実子の作品「男のサービスエリア」(ビデオ25分)は、自殺した父親をあつかったドキュメンタリー作品。その父親のという人は作者が3歳の時に母が離婚して、それ以後会っていなかった。その父親の存在を確かめようと取材を始めて、じつは十何歳か年上の異母兄がいたことを初めて知る。その兄と会い、父が自殺した東北の街道筋のラーメン屋の駐車場に行き、死んだときの様子を聞く。兄の話では、父親はパラオ島の生まれで、死ぬ前に兄弟姉妹で連れ立ってパラオに旅行していたいう。その時の写真を借りて、作者は自分もパラオに行き、父が写真を撮ったところをビデオに撮り、更に父が死ぬために東北に行く街道を車を走らせて辿り、父親に自分を重ねるのだ。撮影の際の、カメラのタイミングが実にいい。初めて会う異母兄が夜の歩道橋を降りてきて、建物の蔭に立ち止まり、話が進むに連れてライトの中に出てくるとか、父が死ぬ前に走った筈の街道を、暮れなずむ光の中で俯瞰で撮って、ヘッドライトが蛍のように見えるとか、非常に印象深い。
この作品に描かれた父親というのは、植民者の子として生まれ、戦後祖国の日本に引き揚げて育ち、日本の社会に溶け込めずに破綻してしてしまった人というように感じられた。殆ど記憶にない父のイメージを求めて行くと、求めれば求めるほど曖昧になるが、しかしそれだけ父の存在が実感されてくるということになっている。作者にとって、現実の話なのに、ほとんど現実のこととは思えないようなことに感じられる。現実の情景や人の表情を生々しく捉えてしまうビデオの映像だからこそ、実話が話として力を持ち得たのではないかと思う。飛躍した言い方をすると、ここにはイメージだからこそ切り開らけた空間がある。つまり、人の固有な存在の仕方が、イメージの中で融けていく快感がある。自分のイメージを、言葉ではなくイメージで求めると、自分の存在の境界が融けていく、というところに、表現の現在があると言えるように思う。よく分からないけど、とにかく自分に拘らないでは生きていけないが、イメージとしての自分に拘ると、自分が融けてしまうということらしい。
今年、庭に咲いた最初の花は、雪柳。
庭に咲いた雪柳 |
23日の夜は久しぶりの雨。昼間、庭の新芽で緑にまぶされた細い枝に何か白いものが付いている、と思って外に出て近くで見たら、雪柳の花が開いていた。毎年見てる筈なのに、名前を忘れている。大声で、家の中にいる麻理に呼びかけると、「雪柳よ、忘れたの?」といわれる。ぼけが始まっているらしい。「雪柳!、雪柳!」。辞書には、「全体は枝に雪が積もったように見える」とあるが、まだそこまでは咲いてない。
午後からは、高幡不動の金井さんのお宅に行って、壊れたホームページのカウンターの修復を手伝う。一時はうまく動いていたのに、何かの拍子で表示されなくなったという。ソースを見ると「<」と書くべきところが、そのまま「<」となっていたり、「"」が「"」となっていたりで、それを直せばいいのだが、電話で言っても、それが通じない。で、そこを直したHTMLファイルをメールで送ったが、それをサーバーに入れても駄目という。いろいろ聞くと、金井さんはホームページをホームページ作成ソフトを使っていて、「<」を打ち込むと「<」になってしまうということらしい。そこで、お宅に伺って、作成ソフトで書くのと、テキストエディターで書くのと違いを説明することにしたのだった。もっとも、金井さんの若い奥さんのお顔を見たいということもあったけど。
金井さんはパソコンを始めてまだ二、三ヶ月しか経っていない。それで、自力でホームページを立ち上げてしまったのだから大したもの。でも、作成ソフトで作っているから、「HTML」というものの理解が十分でない。作成ソフトではHTMLのタグを書かないでいい。ソフトが自動的にタグを付けてくれる。そこで、金井さんはカウンターのリンクを付けるのに、そのURLをタグとクォーテーションを付けたまま、コピーしたので、タグとクォーテーションが自動的に「<」と「"」となってしまい、「<」や「"」がなくなり、カウンターが表示されなくなったというわけ。ソフトにはテキスト状態で書ける機能も付いていたが、HTMLファイルと表示の関係を理解してなければ使えない。今日はカウンターを直し、その違いの説明を実際に見て貰った。「つまり、ネガとポジの関係ね。HTMLファイルを書くのはネガ編するのと同じだ」と金井さんは理解した。流石、映画監督。そして、奥さんの智子さんが作った手料理をご馳走になった。これがまた美味しかった。
作成ソフトって使い慣れると便利なのだろうけど、どうも変なところがある。<table>タグに「ALIGN="left"」を付けても受け付けてくれなかったり、ファイルを別のフォルダーに保存できなかったり、テキストを右に寄せると幾つも<blockquote>タグが付いてしまったり、勝手にやられてしまう。変な感じだった。まあ、それぞれやり方があるわけだから、それもいいでしょう。金井さんは、ホームページの体裁が整ったからこれからどんどん内容を充実させていくと言っていた。楽しみ。
これでも野良猫?。
ソファの毛布の上で無防備に眠る野良猫ママ似 |
野良猫のママ似ちゃんは、このごろすかっり我が家に馴れて、飼い猫だか野良猫だか分からなくなってきた。冬の寒い日は殆ど家の中の、日の当たるところとか、電気毛布を広げたソファの上で過ごしていた。近頃は暖かくなって、朝食を済ませると外に遊びに出て、夕方帰ってくる。夜また、兄猫のパパ似君に誘われて外に出ることもあるが、夜中は家の中で寝ている。麻理も野々歩もわたしも、家の中にいるはずの時間に姿が見えないと、心配になるという具合になった。
一番可愛がっている麻理が、台所に行くと後を追ってついて行く。戸棚から食べ物を出したり食器を出したりすると、彼女の手の動きを顔を動かして熱心に追う。彼女が話しかけると、それが分かるのか身をすり寄せる。「可愛いねえ」と思わず頭を撫でてしまう。パンを小さくちぎって丸めてやると、前足でじゃれた末に食べる。その仕草がまた可愛い。野々歩もよく抱き上げて愛撫するからか、抱かれてうっとりしている。わたしも頭を撫でたりするけど、誤って尾っぽを踏んでしまったことがあるために、わたしの室内履きが敵らしく、近寄るとさっと逃げる。相手を見分けてよく知っている。
ママ似は家の中も外も区別無く出入りするのに、兄のパパ似は誰もいなければママ似と一緒に家に入ってくるが、人がいたら決して入ってこないし、人の顔を見たらさっと出ていく。でも、朝と夕方には食べ物を求めてやって来て、人の顔を見るとガラスの外でニャーニャーうるさいくらいに啼いて餌を欲しがる。ママ似はそれを家の中からじっと見ている。ママ似が家の中にいてガラス戸が閉まっているとき、外でパパ似の鳴き声がすると、外に出たがったりするから、兄妹の意識は結構強いようだ。野々歩がパパ似を掴まえて部屋の中に閉じこめたとき、外に出ようと啼き叫んでいるパパ似の傍に付きっきりだったから、兄思いでもあるらしい。別のドングリ君と名付けた野良猫が餌を求めてやって来たりすると、パパ似は逃げるが、ママ似はじっと睨んでいる。猫にも性格があるのが分かる。
このところ、わたしはかなり忙しい日が続いている。朝早く家を出て、夜遅くの帰り。実技試験、面接試験、そして採点。四百人余りの実技の作品を採点するというのは毎年ことだが、かなりきつい。実技はイメージかお話を作らせるのだが、 どれもこれも似たような作品で、どうしてこうもステレオタイプのものになるのかと、不思議になる。みんな一生懸命やった結果がこれだ、と思うと気が重くなる。それでも、何十人かに一人、これは面白いとか、やるじゃないとか思えるのに出会えるのが救いだ。面接でいまだ学生服の少年に「貴校の、その、、、」なんて言われると、愕然として二の句が継げなくなる。入学試験の疲れって、なかなか抜けない。
長尾高弘さんの「Longtail会議室:詩」で、詩について意見のやり取りを続ける。
「Longtail会議室:詩」 |
「Longtail会議室:詩」のアップ |
先月の28日から、長尾高弘さんのホームページに設けられた「Longtail会議室:詩」で、詩について、清水鱗造さん、長尾高弘さんと意見のやり取りをしている。最近、そこにmymulaさん、田中庸介さんが加わって、議論といえるかどうか、まあとにかく、言葉のやり取りが続いて一週間が経ったところ。
最初は、わたしが、長尾さんの詩「良き心を持つ人々よ」の中でモチーフになっている「詩の読者との関係が持てないこと、または持ちにくいこと」と、「現代詩手帖」3月号に載った荒川洋治さんと横木徳久さん対話「”現実主義”のことば」が共通するところがあるのではないか思い、長尾さんの詩の中の言葉を取って「自慰(マスタベーション)を乗り越えるために」というタイトルで問題提起したところから始まった。
何で、Web上で「問題提起」なんてことをする気になったのか。一つには、わたし自身が詩について改めて考えてみたいと思うようになったこと。また、Webという場の意味が時間と拡がりの上で変わってきたこと。更に、清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」に「増殖雑記帖 as TIME goes by」という掲示板がつけられるなど、詩人のホームページに掲示板が増えてきたが、それらの場では余り詩について語られてないこと。そういうことが重なって、Web上で「詩の問題」がどんな風に展開できるかを試みてみたかったからだ。ホームページは「個人の情報発信」の場といわれるが、一体その情報なるものとは何か。そこでは様々な言葉が横行するが、その言葉の有り様はどういう意味合いを持つものなのか。それが、「表現」とどういう関係を持つのか。これから考え、確かめていくことが大切なのではないだろうか。そんな気持ちで、多くの掲示板に見られる言葉のあり方とは違ったものが出てくるかと、敢えて「問題提起」としたわけ。
実際やってみると、先ず応じてくれたのが清水鱗造さんだった。鱗造さんとのやり取りでは、荒川洋治さんの「現実主義」というのが別の見方をすると、彼流の「詩の理想主義」を目指していることになるのではないかという意見が出てきた。そして、わたしにとっては、清水鱗造さんの詩についての考え方が分かったことがよかった。そして、「ちょと方向転換」とタイトルを変えて、今も続いているが、清水鱗造さんとわたしのそれぞれの「詩作品」についての「自作自註」というような形で展開している。
鱗造さんとは別のスレッドで、長尾さんとの意見の交換が鱗造さんに続いて始まり、こちらではわたしの荒川洋治の詩に対する批判点である主体の「内面化」の問題をめぐって、荒川洋治から戦後詩全般に関わることとして拡がりを見せている。そこに、mymulaさんが自分の考えをまとめるという形で参加し、田中庸介さんが質問という形で、内面というときの戦後詩の幅の取り方を問題にしてやって来た。
この言葉のやり取りをして一番感じたのは、使う言葉の意味合いの上で行き違いが多いということだった。今まで、雑誌などで批評やエッセイを書いてきたが、それなりに通じていると思っていたが、実は殆ど通じていなかったのかも知れない思うようになった。考えてみれば、「詩」について、詩の作品また詩集を扱って語るということが無かったなあ、と思う。雑誌の批評などで書かれることはあっても、そういう気軽に語る場がないということが、他人の詩や詩集を読むという習慣を封じてきたのかも知れないという気がする。掲示板に書き込む詩人は結構多いのに、彼らが読んでいるはずの詩や詩集について発言しないというのは、詩や詩集について語る習慣が無いからだと思う。Webって、そういう場所が作れるはずじゃないか。先ずは、Longtail会議室を使おう。
今後も、続けたいと思っている。その全文は「Longtail会議室:詩」から、「詩一覧 」の[記事一括表示] をクリックして「詩一括表示 」のページの「一括表示する範囲」を「457」 〜 「(現在の数字)」と入れて「表示」をクリックすれば、読むことが出来ます。
わたしの3月は、多摩美造形表現学部の入試とイメージフォーラムの卒展。
イメージフォーラム付属映像研究所 23回卒業展のプログラム |
もう三月になってしまったという感じ。三月は、勤め先の多摩美の入試がある。造形表現学部は夜間の学部で、大学入試のしんがり。映像演劇学科の応募者は今年490名という。昨年より4名増えた。60名足らずの定員だから8倍ちょっと。不況で大学の応募人数が一般に減っているといわれている折りだから、増えたのはそれなりに人気があるということで嬉しい。人気の元は、学生達の活発な創作活動にあると思う。3年生に在学する坪田義史君の作品『でかいメガネ』が、今年の「イメージフォーラム・フェスティバル2000」の大賞に入選して、制作助成金40万円とトロフィーを獲得、この春卒業する小沢和史の『ファールグランド』も入賞した。ゴールデンウイークに上映される。昨年も、一昨年も入選者を出している。演劇も盛んで、後期になると毎週舞台上演がある。それを支えるわたしたち教師の方は結構忙しいけど。
専任講師をしている「イメージフォーラム付属映像研究所」の第23回卒業展は3月17日から26日までAからQまでの17のプログラムで、97本の3分足らず短い作品から60分を越える長いものまでが上映される。それで、先週、今週、来週と、その作品の完成講評が行われている。わたしも一日おきに行って、アドバイスをして、最後の仕上げをさせる。頭の中にあるイメージと実際の作品との距離を埋めるというのが難しい。映像は現実の人や物を相手にしなければならないからね。そこが面白いところだ。作品の出来は、考え方、感じ方はもちろん、性格からマナーまで、どこまで自分を制作に投入できるかにかかっている。映像作品を作るって否応なしに自分を生きるということになる。若者が引き寄せられるというのは分かる。作品には当たり外れがあるけど、それをいとわずに多くの作品を見ていると、実に面白い。長々と続く退屈な作品には拷問に近いところがあって、善意が苦痛を与えるという、人間のパラドキシカルな側面に立ち会うという普通じゃ得られない経験も出来る。とにかく、若者たちの考え方、感じ方に触れようと思ったら「イメージフォーラム」の卒展を見るのに限る。
Pプログラムの『ダイアローグ1999』という40分の8mmフィルム作品を制作した生徒の井上朗子さんは現在、新潟市に住んでいる若い女性。毎週土曜日、新幹線で東京の四谷2丁目の「イメージフォーラム」の教室に通って映画制作を学んだ。『ダイアローグ1999』は、新潟市または近在に住むいろいろな人に、心に残る忘れがたい人の思い出を語って貰い、その話と彼女が普段撮影した映像とを組み合わせて構成した作品になっている。彼女自身、自分の人生ということを考えたとき、ものごとがよく分からなくなって、それで映画を作ることで解決したい気持ちで作ったという。聞くところでは、話をしてくれ人を電柱に貼り紙して募集したというけど、その話が実にいいんだ。好きな人に告白しようと思っているうちに相手が結婚してしまって、ずっと心に残っていて、後になってそのことをその人に言ったら、「先を越されちゃったね」といわれたというような話。その話の映像は、古い木造の長屋の裏の洗濯物が干してある情景。その情景は、話とは関係ないというけど、なんかぴったりで泣けてくる。そういう話が次々に続いていく。こういう映画はプロでは絶対に撮れない。人間が「個」」ではなく、「心の集まり」として存在に見えてくる。この作品の作者である本人は自覚してないと思うが、表現意識の新しいパラダイムが開きかけてるような気がする。こういう作品に出会えるというのがいいのだ。興味をお持ちの方は是非見に来て下さい。