映画監督の金井勝さんが独力でホームページを開いた。
奥さんが描いた金井勝さん |
映画監督の金井勝さんがホームページを開いた。昨年の暮れに「俺もホームページをひらくぞ!」と言っていた金井さん、まずコンピュータを買い、独学で作り方を覚えて、どうしても二月中に開くんだ、という意気込みで遂に開設となった。昨日、ファイルをサーバーに送ったけど開けないのはどうしてか、と言うメールが来た。電話で聞いてみると、ちゃんとファイルは出来ているのに開けないという。そして、今日、プロバイダーに電話で聞いたら、拡張子を「index.htm」でなく「html」にしてくれということだったので、直したら開けたというのだった。途中でもいろいろ引っかかって落ち込んだりしたけど、最後の最後でまた引っかかって、ようやく開けたと、喜んでいた。友人のわたしもホッとした。よかった、よかった。おめでとう。
先日会ったとき、本を2冊買ってやってると言っていた。その時、他人のホームページにリンクを付けるのはどうやるの、と聞かれて、本に書いてないのかと聞いたら、どちらの本にも書いてないというのだった。そんなことあるの、と思って、うちの麻理のために買った本を見たら、なるほど自分が作ったファイルへのリンクは書いてあっても、他人のページへのリンクの付け方は「絶対パス」の言い方では書いてあっても、具体的なやり方は書いてなかった。ウインドウからリンクするファイルを拾ってクリックするというソフトを使ったやり方では、それができない他人のファイルでは無理なのがわかった。
金井さんが本を見て作ったというページのソースを見ると、テキストがみんな 「blockquote」タグの中に入っていた。だから適当な余白が出来て読みやすい。なるほど、と思った。スクロールさせるために「marquee」タグを使ったテキストなど四重のblockquoteに入れてある。文頭を右に寄せるやり方として面白い。普通なれてると「table」タグを使ってしまうが、HTML言語ってこういう入れ子が何重にも出来るのが面白いところだ。初心の人だから出来ること。金井さんってそういうことをどんどんやってしまう人なんだなあ、と改めて思った。
金井さんのページは、自己紹介と作品リストと上映リストが主で、あとイメージフォーラムの卒業生の卒業後の活躍が書いてあった。自己紹介のページの幼い頃の金井さんの写真は初めて見た。また1969年から昨年までの三〇年間に256回に及ぶ上映会の記録「上映リスト」は重みがある。1983年頃までにだんだんと回数が少なくなり、そこからまたぶり返して、減ったり増えたり、金井さんの映画を見たいという人々の気持ちの揺れが出ている。金井さんの映画は個人の記憶と歴史が絡まってねじれた時間を紡ぎ出す独特の作品で、表現意識にインパクトを与える。それが好んで見られたり、避けられたりするところに、日本の若者の表現意識のあり方が、自主上映、レンタルと続くリストに映し出されているように思える。金井さんはそういうところに鋭敏な人。他には見られない「時間」を持つホームページで、これから金井さんがどんな時間を紡ぎだしていくか楽しみ。
もう一つのPentium ProマシンをCeleron500MHzにアップグレードする。
花を付けたカニサボテン |
カニサボテンが咲いた。今年になって初めて咲いた家の花。サボテンの花って、わあー咲いた、という気になる。毎年咲いているのかも知れないけど、何年ぶりかで咲いたという感じなのだ。日差しも少しずつ強くなっていき、日も延びていくのを感じる。それにしても、この数日は冷たい風が吹きまくって寒かった。風邪を引きそうな予感がする。気をつけよう。
今月の始め、PentiumProマシンをアップグレードして以来、もう一台あるPentiumProマシンが気になっていた。この前は、野々歩の友人の生路君に取り付けて貰ったので、今度はどうしても自分でやってみたいという気持ちが強くなった。アップグレードしたCeleron466MHzはWindows2000Professionalをインストールしても快調に動いている。もう一台にはWindows98が入っている。これが、原稿執筆のコーナーにあるG3にアップグレードしたPowerMac8500とTimbuktuProで交信して、MacとWindowsのファイルのやり取りをしている。その他、Windows同志のネットワークのテストに使っている。まあ、最近ではこの三台のマシンが生きているというわけ。CPUのアップグレードには危険が伴う。下手すると、マシンが死んでしまうということもあるらしいから。
辻さんの小説についての文章も書いたし、イメージフォーラムに出す作品の編集も一応終えて、いくらか暇になったところで、思い切って、自分一人でPentiumProからCeleronへのアップグレードをやってみることにした。そこでまた、半月振りに秋葉原へ。先だって、Celeronに履かせる「下駄(CPUアップグレード・ボード)」を買った「Maxus」へ、怪しげなエレベータで上って行ってみると、いきなり「予約してますか」という。してない、と答えると、「もう売り切れて、何時入るかわからない」と。やっぱりという思い。無いといわれると人間、一層欲しくなる。秋葉原の裏道のパーツ屋を辿って行くが、PentiumPro用の下駄、PowerLeap製「PL-Pro/」はそうはなかった。行きすぎた道を戻って、喫茶店に入ってホットココアを飲み、また道を戻った。と、「秋葉帝」という小さなパーツ屋が目に入った。その店先のウインドウに「PL-Pro/」が置いてあるじゃなないか。
「PL-Pro/」の箱 |
早速買い求めようとしたら、店員のお兄さんが「BIOSがAWARDだと駄目ですよ。チップセットは何ですか」と聞く。BIOSがアワードでないことは確か。フェニックスだったけか。チップセットは430か440、その後がうろ覚え。チップセットがIntelの440FXか430FXならいいけど、KXだったら駄目だという。「Maxus」で買ったときはそこまで詳しくは教えてくれなかった。「秋葉帝」のお兄さんの方が詳しい。データがCPUに行くとき通る重要な交差点といわれるチップセットの知識無しに、CPUをアップグレードしようというのだから無謀だ。そうはいっても、ここで買わないと売れてしまうかも。下駄は1万2千8百円、Celeron500MHzは1万4千5百円、3万円を無駄にするなんて考えられない。安全なところで、先ずは下駄だけ買うかと「PL-Pro/」を買う。それから、領収書を書いて貰っているうちに、FXかKXか思いめぐらす。「KX」という記憶は無かったと決断して、更にCeleronも買った。パソコンのものを買う時って、いつもこういう逡巡がつきまとう。そのくせ、反動で衝動買いも結構あるのだ。
さて翌日の昨日、毎朝の一通りのことをやった後、早速、アップグレードに取り掛かる。「DELL Optiplex GXPro」のケーブルを外して蓋を開け、PentiumProを外す。前のDECのCelebrisとはソケットの形態が違うのでちょっと迷う。それから、ヒートシンクのファンの電源ケーブルの位置を付け違えたので、電源ソケットになかなか刺さらないので慌てる。でもまあ、何とかつけて、蓋を開けたまま電源とキーボードとマウスだけ繋いでスイッチを入れた。一番緊張するときだ。顔が火照って、血圧が上がっているのが分かる。いつ切ったのか、親指に傷が付いて血が出ていた。ディスプレイ上にバイオスが読み込まれ表示され、Windows98が立ち上がった。万歳!ふーっ、成功。ホッとした。生路君に教わったソフトでベンチテストをしてみる。数値の意味はわからないが、確かにCeleronが498.52MHzで稼働しているという表示が出た。PowerMac8500にG3のアップグレードカードをつけたときもそうだったけど、CPUの交換って、どうしてこんなにも興奮するのだろうか。新しいカメラを買って初めて使うときも興奮するけど、それとはまた違った興奮なのだ。
辻征夫の絶筆小説「遠ざかる島ふたたび」について。
新潮に載った「遠ざかる島ふたたび」 |
「新潮」2000年3月号に掲載された辻征夫さんの小説「遠ざかる島ふたたび」を読んだのは、2月6日、もう二週間あまり前になる。直ぐに感想を書こうと思ったけど、いろいろと思っているうちに忙しくなりそのままになってしまった。その後、長尾さんのWebサイト「詩的日乗」にこの小説についての文章が載ったりして、更にまた考えるところもあった。わたしのこの小説を読んだ直後の感想は、頼りないという印象が強く、作者自身の小説の登場人物に対する思いを語っているものの、その思いがうまく伝わってこないというように思えたのだった。しかし、ちょっと間をおいて考えると、ある意味で「不在」ということについて、また文学表現がその「不在」によって成立しているところを、自分の「小説の成立」を語ることで明らかにした小説なのではないか、と思えてきた。勝手な言い方だが、そう捉えると、最初の印象とは違ったものになった。わたしにとって「問題を含んだ小説」ということになった。
わたしが頼りなく感じたのは、小説として語られる対象が「遠ざかる島」という小説の制作過程で、そこに(小説の中での)現実として絡んでくるものが、いくらか身体に変調を来してきた作者の生活空間と、三人の実在の人物との電話のやり取りと、夢の報告でしかなく、その現実で作者がその小説を書いてどうなったか、という現実的な結果というか、それを書いたことの意味合いが書かれてなかったからだった。内容は、作者が文芸誌から小説を書いてみないかと声を掛けられ、平成9年(1997年)に数ヶ月を要して書き、その際小説に使った「ラ・クンパルシータ」というタンゴ曲の題名の意味を探し、それが「架空の言葉」であることを知り、そして、その小説に登場した「真理子さん」の成立過程と、また彼女を夢に見たことが語られ、モデルになった彼女のその後が気になっていることが語られて、小説は終わっている。作者と虚構の人物との関係に重点が置かれているので、読者にとって現実感が希薄になるのは避けられない。しかし、わたしが考え直したのは、その「現実感の希薄な領域」こそ問題にすべきではないかと思ったからだった。
作者の辻征夫は、その「遠ざかる島」に「何を書いたのかといえば、小学生のとき、家にいたお手伝いさんのことだった」という。そして、そのお手伝いさんに「真理子さん」という仮名をつけて書いて行くうちに、五ヶ月の製作期間を終えたとき、彼女の本名を忘れてしまい「彼女は五ヶ月のあいだに真理子さんになってしまったようだった」というのである。同じことが二つ目の小説「黒い塀」を書いたときも起こったという。辻征夫の脳髄にあっては、小説を書くことによって「仮名」が「実名」を駆逐してしまう。虚構が現実を駆逐する、といってしまってもいいのかも。つまり、ここでは現実とイメージの倒錯が起こっている。その倒錯の正当性を、この小説は語っているのではないか。それは、言葉に生きてきた辻征夫の真髄がそこにあるといえることではないのか。
そして、作者は自分が描いた「真理子さん」を紹介する。その真理子さんのイメージは、片足の生育が止まっていて、歩くとき大きく身を揺らして跛行する活力のある女性として描かれる。また、彼女の跛行がタンゴの名曲「ラ・クンパルシータ」と結びついて小説の抒情性を盛り上げていたというのだ。「遠ざかる島ふふたび」は、この曲名の「ラ・クンパルシータ」というスペイン語が、実際に存在する単語ではなく、「架空の言葉」だったということを、すでに病気のためによろめき始めたからだで突き止め、更に「跛行」と「ラ・クンパルシータ」が結びついて行くところを、作者自身の記憶を辿って解き明かしていくのである。
「遠ざかる島」で描いたのは「お手伝いさん」だった、というくだりを読んで、わたしは意外な感じがした。「遠ざかる島」は発表当時に読んだときも、最近読み返したときも、「真理子さん」は確かに重要な人物だったが、小説自体は作者の少年時代の島での生活体験を描いたものとして読んだからだった。単行本で36ページの作品のうち、「真理子さん」は14ページ目に登場するのであって、全編の半分余りにしか登場してない。それは彼女が作者の島の滞在の途中から登場するからだが、しかし、この小説で「遠ざかる島」では「真理子さん」を描いたというのだから、真理子さんへの作者の思いの強さを改めて知るということになる。しかも、「ラ・クンパルシータ」は、「遠ざかる島」では少年が島を去る最後のシーンで、真理子さんの歩きに合わせて島の青年団の者によって演奏される曲として描かれいるに過ぎないが、作者はこの小説の中で「私はほかならぬラ・クンパルシータの日本語訳を題名にしようと考えていた」というのだ。読者としては、えーっ、そうだったの、という思いになる。
そうだからこそ、「跛行」と「ラ・クンパルシータ」の結びつきは作者にとって重要だったといえよう。題名にしようと思うが故に、作者としてスペイン語「La cumparsita」の日本語訳を熱心に求めて、書店に行き、その意味を探すついでに末の娘さんと神保町の喫茶店に行くことを空想し、友人に電話で尋ねたりする。実は、このとき、作者の辻征夫は網膜剥離の手術を受けて視力が衰え、すでに「歩行のたびに軽くよろめくようになって」いたのだ。一年後、医師の一人から「あなたの頭の中には何もない。空っぽだよ」と言われ、嬉しがり、また別の医師から「あなたは脳神経が嫌がることを、よほど長く続けたのでしょう」と言われ、「私が少年時代から四十年も続けてきたことといえば、たった一つしかなかったが、それは黙っていた」と、自分が詩を書いてきたことは口にしないという心身状態になっていた。(詩から散文に軸足を移した。)「La cumparsita」は友人たちの言葉によれば「架空の単語」、そしてそのタンゴの名曲を頭の中に響かせながら、自分の身体はよろめいているという現実があったのだ。そういう自分を突き放そうとする意志の働きが、この「遠ざかる島ふたたび」の文章を進めて行っているように思える。「遠ざかる島」は変調をきたした身体とそれを乗り越えよう自分を励ます意識を背景にして書かれていたのだと理解される。
題名にしようと考えた「単語」が友人の詩人である清水哲男さんの電話で、指し示す実体を持たない「架空の言葉」だということが分かる。学者の多田道太郎さんの電話では「旅の踊り子」というような意味合いだと分かる。そこから、「真理子さん」が形成されていく過程が語られるところとなる。
「私は真理子さんをごく自然に跛行させた。そうすることによって、真理子さんはようやく私の真理子さんになったのである。だがLa cumparsitaがスペイン語には存在しないということは私に微妙な衝撃をあたえた。私は平然としていることができなかった。何かが思いがけない方角から崩されはじめたと感じた。この調子だともっと何かが起るかもしれない。真理子さんの存在それ自体が危うくなるかもしれない。それは小説『遠ざかる島』の崩壊だった。」この部分の前に「小説『遠ざかる島』は真理子さんの成否にかかっているといってもいいと思う」と書き、また「真理子さんの跛行は私の少年時代から紡ぎ出されて来たものだったが、同時に真理子さんを私に近づける手段でもあった」とも書いているから、「真理子さん」とその「跛行」を実体のあるものとしての根拠を語って置かなければならないというわけである。
この一週間、いやー、忙しかった、ということ。
多摩美映像演劇学科1年作品 「ちょんのまのオーガズム戯」のDM |
先週から今週に掛けて、イヤー、全く忙しかった、ということ。「イメージフォーラム・フェスティバル2000」の「日本招待部門」のエントリーのための作品制作と、多摩美の映像演劇学科の1年生の作品発表会が重なりながら進行した。造形表現学部映像演劇学科は夜間の学部なので、指導する立場として連日、午後から夜半までは上野毛のキャンパスで過ごし、真夜中と午前中を使って、わたしの16フィルム作品の編集と音付けをした。15日が〆切とあって、14日は昼間の2時から夜の10時近くまで映像作品や演劇の発表を見て、12時近くに帰宅し、それから午前3時まで掛かって16フィルムをビデオにして、翌日の昼前イメージフォーラムに持って行ったというような有様だった。
今年の「イメージフォーラム・フェスティバル2000」は「日本招待部門」に招待された作家でも、参加上映作品が事前審査されるということになった。昨年までは招待作家はエントリーして置いて、作品は開会ぎりぎりまでに制作して出品すればよかった。というより、本当はエントリー時に作品も出さなければいけないのだが、わたしなどの古参はそれを守らなかった。2月から3月は学期末と入試が重なるからとか言って甘えていたわけ。それが通らなくなった。時代世代が変わってきているんだなあ、という実感。
わたしの今年の作品は『物語以前』というタイトル。内容は物語という観念を「観念」のまま転がそうと試みたがうまく行かなかった、という20分弱のもの。昨年の前期のゼミで、学生に身辺の出来事を話して貰い、それをわたしが書き起こして文章にして、それからシナリオを書き、それを話した当人が演じるという場面を撮影した。そういうシーンを重ねて、「関係性」を浮き上がらせたいと思ったが、それがうまく行かなかった。それをそのままの構成で作品にした。わたしって、朝のテレビ小説を欠かさず見るほどお話が好きなのに、どうしてお話が書けないのだろう、ということをちょっと考えてみたいというわけ。
そんなわけで、すでに撮影は殆ど済んでいたので、フィルムを編集すればよかったのだったが、編集の上で「関係性」を浮き上がらせるというところが難しかった。「わたしの時間」の上に「虚構の時間」が楔形に突き刺さって来るようにしたかったが、なんかそれがすれ違うようになってしまった。結局物足りない感じになった。そこを「審査員」がどう見るかですね。「観念映画」としての試みを評価してくれるといいのだけれど、そういうことが分からない審査員だったら、アウトですね。
多摩美の映像演劇学科の1年の作品発表会は、活気があってよかった。と同時に、担当教員としてほっとした。昨夜3時間余りの合評会があったが、その後、学生たちが先生を掴まえて話が続き、下校するのが11時を廻ってしまった。創作演劇一つ、16ミリフィルム作品1本、8ミリフィルム作品1本、3面映写ビデオ作品一つ、ビデオ16ミリフィルムの混合作品1本、映像パフォーマンス一つ、展示11作品と多彩な発表会になった。
演劇の『エルバビーチ』は「エルバという若い妻が夫に秘密の手術で孕ませて生んだ牡蠣を美味しく育てて食べてしまう」というお話。奇想天外な話が速いテンポで進められる。可愛くて面白いと思う傍ら、その底にある冷酷さに触れさせられる。
16ミリフィルム『ちょんのまのオーガズム戯』は「耳タンポポ族といういじめられ部族を、いつもいじめているゴルフ部族の一人が、いじめられ部族の女性を犯して殺してしまうと、ゴルフ部族の族長が後悔に苛まれ、何故か分からないが、ウンコ男とウンコ女のウンコにあてられて、太陽が輝く世界が始まる」という30分の映画。話は滅茶苦茶だが、画面から活気が溢れて来る。1年生で16ミリフィルムを撮ったというのは驚きだった。やればやれるもの。
8ミリフィルムは、多摩美の8ミリではこれまでにない最長の50分を越える作品『うたったうたうたううた』。山の中の一軒の農家に住む夫婦と娘二人と祖母の5人の家族の日常生活が淡々と描かれるのかと見ていると、実はそれが社員旅行で「家族ごっこ」をしていて、部長以下の社員がそれぞれ父親役、母親役、お姉ちゃん役、妹役、お婆ちゃん役を演じているのが分かってくる。「家族の日常」というものが既に失われていて、それを懐かしんでいるという印象が伝わってくる。この日常性の倒錯というのが彼らの感受性なのだろうと納得させられた。
3面映写ビデオ作品『浮遊術スコープ』は、角度をつけて並べられた3枚の大きなスクリーンに、夜の街の風景、といっても家々が立ち退きさせられた再開発地域を夜、車で走り、フロントグラスと両脇の窓から撮った映像が映写される。三つのスクリーンに映し出され移動する映像がぴったり合うように編集されていて、見ている者を浮遊感につき落とすというものだった。
これでようやくわたしが勤める多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科の平成11年度の授業が全部終了した。来月、造形表現学部は大学入試のしんがりになる入学試験がある。さてまた、来年の1年生にはどういう連中が入ってくるか楽しみ。
ホームページのヒットカウントが045555。
045555を示すカウンター |
朝、ブラウザーを開いたら、カウントが「045554」になっていた。もう一度アクセスすれば「045555」になる、というわけで再読込した。これこそ、まさに訪問者の皆様のおかげです。ありがとうございます。1996年1月16日にホームページを開設、2月1日にカウンターを設定したから、それから丸4年でこの数字。開設した当時、一ヶ月のカウント数は508、一日のカウントは15、6だった。最近は一日で30から40ぐらいではないか。見に来てくれる人がいるのが嬉しいし、張り合いになります。読み応えのあるページにしたいですね。ちなみに、昨年11月に@niftyに 開設した「Shirouyasu Homepage 2」の方は、現在557。
今のところ、ほぼ一週間に一度更新する「曲腰徒歩新聞」がこのホームページの目玉になっていると思う。多分その記事の変化が「活きてる」っていう感じを与えて、皆さんの訪問を促すのでしょう。「変化」とか「動き」とかいうのは、ある意味で「事の間隔」によるわけですよ。「線状(linear)」の「インターバル(interval)」の目論見の工夫が問題になる。それが訪問者とどうシンクロして行くかですね。どうもわたしたちは自然な状態ではそれを持てなくなってしまったようで、人工的に掻き立てなくてはならないところが辛いですね。これが、「045555」の感想。
Pentium ProをCeleron 466MHzにアップグレードした。
CPU "Celeron"を乗せる下駄 PowerLeap PL-Pro/ |
CPUファンを取り替えようと 工作するイクジ君 |
マザーボード上に装着されたCeleron |
4日の深夜から5日にかけては、パソコンの修復とアップグレードに終始した。4日は、6時間余りに渡った多摩美二部芸術学科の2年生の映像作品の発表会を見て、夜の12時近くに帰ったら、麻理が使っているPowerMac7500+G3のマシンが、Wordでドラッグしようとするとフリーズしてしまって仕事にならないという。なるほどキーボードを打って、変換しようとするとフリーズする。ドラッグしようとすると、Wordが直ぐに強制終了してしまう。この修復に、翌5日の午前中一杯掛かった。デフラグして、Word文書をテキスト保存から作り直して、切り抜けた。文中に、他のWord文書からExcelの表をコピーして入れたのがよくなかったのではないかということ。
午後は、CPUをPentium Proから先月買って来てあったCeleronにアップグレードした。年末に買った雑誌を見ていたら、「Pentium ProマシンをCeleronに!」という広告が載っていた。Pentium Proはソケットが特殊でアップグレードできないといわれていた。それができるというので、早速飛びついて、秋葉原に行った。しかしその時は売っている店が見つけられなかった。そして、改めて秋葉原に出かけて、その「Maxus」という店を見つけた。電気雑貨店のビルの5階、二人くらいしか乗れないような小さいエレベータで上っていった。倉庫みたいな店の中に、確かに箱が積まれて売っていた。うまく走るかどうか保証はできないという。9800円だから失敗でもいいや、と思いを決めて通称「下駄」というアップグレード・ボードのPowerLeap製「PL-Pro/」を買った。そこには「Celeron」は売っていないというので、別の店でPPGAタイプの「Celeron 466MHz」を買った。それが先月の28日だった。買ってきてから一週間余り経った。
買って直ぐ取り付けなかったのは、CPUを冷やすヒートシンクのファンの取り付け方が分からなかったこともあるが、バイオスの設定もしなければならないのかと不安だったからだ。それに、辻征夫さんの詩集を読み、文章を書いたり座談会に出る準備もしなければならなかった。それが終わって、5日は昼間ちょうど時間も空いたし、昼寝していたら、やってしまわなければ気が済まないという気持ちになって、箱の封を切った。さて、箱から「下駄」と「Celeron」を出してみて、両方にファンがついているので、どちらを使うのかと迷った。CPU付属のIntel製のファンのがいいからそれを使うように奨められていたが、ケーブルのコネクターが違うので、どうやってアップグレードボードにつけるか分からない。まあ、やれるところまでやってみようと、取り付けるコンピュータDECのCelebrisのケースを取り除いて、マザーボードを引っぱり出した。そして、Pentium Proのヒートシンクを外そうとしたがうまく外れない。イヤー、困った、と思っているところに、遊びに来ていた野々歩の友人の生路君が帰ろうと玄関に出てきた。生路君がコンピュータに詳しいと知っていたから、「イヤー、生路君、この外し方分かる?」と声をかけたのだった。
生路君は帰り掛けて既にジャンパーを着ていたけど、そのままわたしの仕事場に入ってきて、「これはここを押してですねえ」とPentium Proのヒートシンクを外し、インテルのファのが方がいいからと「下駄」付属の電源ケーブルを切って、コネクターを付け替え始めた。やりながら話を聞くと、生路君はパソコンを作ってるばかりか、「オーバークロック」マニアだということも分かった。「オーバークロック」というのは、CPUの速度を限界まで上げることで、要するにパソコンのCPUマニアがやることだ。それなら、任せるに限ると思い、わたしはもっぱら見学する方にまわった。結局、インテルのファンでは固定できないので、「下駄」のファンを使うことになった。生路君はさすが手慣れたもので、すらすらっとCeleronを取り付け、マシンを裸のままディスプレイとキーボードを接続して、電源を入れて、インターネットに接続、ベンチマークテストするソフトをダウンロードして、Celeronが確かに460MHzで作動しているかまで調べてくれたのだった。「Pentium Proって今プレミア突きの値段になっているんですよね」というので、「ありがとう、生路君」と、外したPentium Proを生路君に進呈した。
生路君の手際が印象的だった。まだあと一台、Pentium Proのついたマシンがあるから、今度は自分一人でやってみようという気持ち、さらに自作マシンも今年は是非作ってみようという気持ちが沸々と湧いてくるのだった。
辻征夫さんの詩、小説をあらかた全部読んだ。
パソコンの本の上に積み上げて読んだ 辻征夫さんの著作 |
辻征夫さんのお葬式が先月の18日。追悼文と追悼座談会の話があって、先週から昨日までに、その間に昨年亡くなった伊藤聚さんの「一周年記念祭」や、多摩美の二部芸術学科の卒業公演と卒制作品の上映会に行ったりしたが、とにかく辻征夫さんの詩と小説を、『絵本摩天楼物語』を除いて全部、再読も含めて読んだのだった。詩集の『辻征夫詩集成』『俳諧辻詩集』『萌えいづる若葉に対峙して』、そして辻さんが贈ってくれなかった小説集『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』と『ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像』は買って来て読んだ。
読んで見て、一つには辻征夫という詩人は「文学の人」という印象、つまり文学作品をよく読んで、自分もまた言葉に生きる人間になった人という印象を持った。現実の自分ともうひとりの自分という作品の構造、それに詩の中に引用とか詩人の名前が多い。もう一つは、辻征夫さんが小説を書くようになったところには、辻征夫自身の問題を越えて、現代詩について考えるときに、かなり重要な問題となるようなことがあると感じた。
辻征夫さんは東京の浅草で生まれて、父親の勤務の関係で小学生の頃、三宅島で過ごしたこともあったが、おもに隅田川を隔てた向島で育った。辻さんの詩や小説にはその向島と三宅島の青少年時代が至るところで語られ、書かれたものとして「辻征夫ワールド」をなしている。辻さんの人生は「書くということ」にあった。それは少年時代から読み続けた「文学書」に影響された結果、と強く感じた。「言葉を書く」ということに最高の価値を置いている。その辻征夫が晩年「詩を書く」ということから「散文を書く」という方へシフトした。『辻征夫詩集成』(1996)の付録の谷川俊太郎さんとの対談の中で
辻:最近、気持の一番まん中で考えているのは、ずっと詩を書いてきたけど、ほんとは詩って無いんじゃないか、ということなんです。と言ってるのに出会って、驚いた。前に読まなかったのか見過ごしていたのか。ここで谷川さんは「ぼくは、すごくネガティヴな形で『詩はある』とはっきり思う」と応えている。詩に最高の価値を与えていた人がこういう疑問に行き当たっていたことは、考えてみた方がいいな、という感想を持った。
谷川:じゃ、何があるの?
辻:俳句、短歌はあるんですよ。五七五、五七五七七って。じ ゃ詩って何があるかと言うと、新聞記事を書くのと同じ、言葉しか無い。要するに、何も無いんじゃないか、と思う。ところが、もう書かれた作品、明らかに優れた詩というものは、戦後五十年だけを見てもあるわけ。だから過去にはあるわけだけれど、いま書こうとすると、日常の言葉があるだけで、他には何も無い。
となって終わっている。この詩は「現代詩手帖」の1997年7月号に発表された。このころわたしはあまり詩を読まなくなっていたから、読まなかった。この詩集も読まなかった。辻征夫が亡くなって、いま初めて読んで立ち止まった。辻さんは詩を書くということで、自分を追いつめていたんだなあ、と思った。辻さんが小説を書くようになったのには、小説を書く詩人は多いから別に気にとめてなかった。しかし、ここで足を止めてみると、辻征夫という詩人が「文学書」を読んで成長して、「書くことに」に生きるという生き方をしただけに、この行き詰まりは、結構大きな意味があるようにも思えてくる。私は砂浜にゆったりとたむろしている外国人の男女の間を抜けて、 そろそろと海に入った。左の肩の痛みさえ我慢すれば、抜き手を切 って泳ぐこともできるが、実は水泳も左眼の網膜を守るために医師 から固く禁じられていた。だから私は海中でもそろそろと歩くほか はなく、そうして歩いて沖に向かい、胸のあたりの深さのところで 立ち止まって、遠くの船や林立する建物などを眺めた。そしてとき どき眼鏡を外して片手に持ち、ぶくぶくと頭まで海に沈めた。何度 も何度も沈めた。それからまた立ちあがって、雲やいろいろなもの を眺めた。これが私の休暇で、私は海面を吹き渡る風の中で、ここ には日本の現代詩はないのだと思った。それは太平洋の果ての、あ のタツノオトシゴのようなかたちの列島にあって、奇妙に軋みあっ ている。 翌日は海から出たあと、バスの窓から見かけたシューティングク ラブに一人で出かけ、ライフル、リボルバー、オートマチックと三 種の銃を次々に発射した。私には初めての実弾射撃で、私は両手で 銃を持ち、一発々々に思いを込めて数十発撃ったが、それでもなお 胸に残る撃ち足りない思い、あの列島での日々を思うたびにこみあ げてくるもの、この思いのために私はさらに新しい詩集を出そうと 思った。そして私の短い休暇もこれで終ったと考えたから、右手に 重い拳銃をぶらさげて、シューティングクラブの廊下をゆっくり歩 いた。