「伊藤聚詩集成」の刊行と「伊藤聚展」の開催。
「伊藤聚詩集成」 |
「伊藤聚展」の準備 |
伊藤聚さんの「詩集成」が書肆山田から刊行されて、わたしはとても嬉しい。彼は「世界の終わりのまえに」(1970)から「公会堂の階段に坐って」(1997)まで6冊の詩集を出したが、部数が少なく、散逸してしまう畏れがあると、わたしには心配に思えたからだ。いわゆる「難解詩」と受け止められているので、余り読者の数は多くなかったと思う。わたしからすれば、彼の詩を「難解」という人は、20世紀の美術を全く理解できない人ということになる。伊藤聚の詩は、先ずは1960年代の言語表現の一方の極点にあるといえる。この社会では詩というものに対して、偏見が支配していて、彼の詩のようなひたすらイメージの展開を楽しみ、その基底で孤独感を震わせていうような詩を素直に受け止めない。もうそろそろ偏見から脱出して欲しいと思う。詩を偏見から解放しろ、といいたい。「伊藤聚詩集成」を通読して、その詩を素直に受け止めれば、そこから詩の解放は始まると思う。
ところが、この「伊藤聚詩集成」は600ページの大冊だが、7500円だ。こういうと、たいていの人は「高い」と思うに違いない。でも、パソコンのソフトだったら7500円は「安い」と思うだろう。人の金銭的価値観というのは不思議なところがある。今、学生のアルバイトは1時間だいたい900円ぐらいといわれる。そうすると9時間働けば、「伊藤聚詩集成」とカップラーメンが五、六個買えるわけ。この詩集を読んでイメージを巡らせ楽しみ、全部読み終えるのには、少なくても三日間は必要だと思う。その上、全部読んでその読み方を体得できれば、言葉に関して相当の開放感を得られる筈だ。「伊藤聚詩集成」を買うためにアルバイトするなんていう若い人が出て欲しいなあ。
この「詩集成」の刊行を機会に、彼が描いたポストカードやドローイングを展示した「伊藤聚展」が、4月23日から28日まで銀座のgalleria grafica bisで開かれている。わたしは、21日の夕方からと、よく22日の午後、その飾り付けに立ち会った。167枚のポストカード、9点のドローイング、5点のオブジェをアーティストの勝本みつるさんの案をもとに、写真家の松浦文夫さんや書肆山田の鈴木一民さん、大泉史世さんに伊藤照子さんも加わり、みんなで手伝って飾って行った。そして22日には聚さんの絵を元に、春口巌さんの指導で作られたインタラクティブCGを見せるパソコンも運び込まれて、会場の設営ができた。とにかく、限られた時間の中で167枚のポストカードを、物差しを使い、糸を張って、位置決めしてピンで止めていくという作業が大変だった。いや、大変に見えたというべき。なにしろ、わたしは手先がきかないので、ただ見ていただけなので。
飾られたポストカードなの「作品」を見ると、別に発表するわけでもなく、これだけのものをよく作ったなあ、と感心してしまう。その仕事、楽しんで作っていたのだから、仕事といってはいけなけど、でも丁寧に仕上げているのが気持ちよい。伊藤聚さんは根っからのアーティストだと改めて思う。「作品」の多くはコラージュだが、そこに繊細な線を書き加えて行って独特のイメージの世界が生まれてくる。それが詩のイメージの世界に通じてくる。真似したい気がしてくるが、とても出来ませんね。「伊藤聚展」、是非見に行ってください。
牡丹の花が咲いた。
咲いたばかりの牡丹の花 |
今朝、起きて居間に下りたら、庭の牡丹が咲いていた。昨日、このところ雨が降らないので、鉢の土が乾いて、しおれていたので水をやった。そのことがあったから、気持ちが通じたような気がしてとても嬉しかった。もちろんこちらの思い入れだけど。蕾があと三つあるから楽しみ。
昨日の夕方、日暮里の「CASA」で開かれている北爪満喜さんと簑田貴子さんの写真展「くつがえされた鏡匣(かがみばこ)」に行った。北爪さんとは三ヶ月ぶり、蓑田さんとは初めてお会いした。日常の中の気持ちが動いたところでシャッターが切られ、そのイメージが呼び起こした言葉が、会場一杯に広がっていた。夕方行ったので、外の日没の情景と会場に展示されたイメージが繋がって、気持ちのいい空間だった。暗くなってから、会場にスライド映写して、北爪さんが詩を朗読した。言葉を聞かせる朗読だった。終わって、電気が点いて拍手、それからがやがやとみんなの会話。坂を下って、電車を乗り継ぎ、地下鉄で帰宅。そして、今朝、牡丹の花が咲いていたというわけ。
「ザウルスZAURUS」続き、ソフトをNetで買う。
「ZAURUS MI-E1用統合辞典」の画面 |
昨日、「曲腰徒歩新聞」の記事を書いてから、「MOREソフト」というシリーズのザウルス用のソフトを買って、ダウンロードして、インストールに成功した。「統合辞典ver.1.0」「レポート&自由帳ver.1.0」「パーソナルデータベースIIver.1.0」の三つ。全部で、3000円余りだった。先ず、「SharpSpaceTown」というサイトに行って、その会員になる。それから、ソフトを選んで、購入のページに進む。そこで、ちょっと躓いた。普通のキャッシュカードでは駄目で、「BitCash」というWeb用の「Cash」でなければ買えない。この「BitCash」はNet上の販売会社で普通のキャッシュカードで買える。ややこしい。つまり、会員のパスワードと「BitCash」の保有金額とそのパスワードがなければ、「ザウルス」のソフトは買えないというわけ。パスワードだらけの世の中になるんですね。まあ、無事に購入でき、インストールも成功できてよかったよ、ということです。こういう買い方は便利で新鮮だけど、不安が残ります。
この三つのソフト、まだ使いこなせてないから何とも言えないけど、「統合辞典」は結構いいようですね。写真にあるように、下の四つの四角にタッチペンで字を書いて入力して、上に並んでいる「国語辞典」「漢和辞典」「英和辞典」「和英辞典」のどれかをクリックすると、意味なり、熟語なり、英語なりが引き出せる。
例えば「月」と書いて入力、「国語辞典」をクリックすると、「詳細」では「1から12までの数字につけて、1年を12に分けたそれぞれの期間を表す語」という説明が出て、「リスト」では「月額、月下香、月下氷人、などなど」の熟語が出る。そして、「検索」の戻り、「和英辞典」をクリックすると、「月」のついた熟語の英語が出てくる。「月下氷人」は「a go-between;matchmaker;Water Cupid」と出てきた。更に、これを選択して、ワープロの画面に行って、文書に「張り込み(ペースト)」することが出来た。ただ、ワープロで変換できない漢字はペースト出来ないようだ。これだけ出来れば、辞書を持ち歩かないですみそうです。
携帯情報端末(PDA)「ZAURUS MI-E1」を買う。
携帯情報端末「ZAURUS MI-E1」 |
携帯情報端末「ZAURUS MI-E1」のキーボード |
「ザウルス」を買った。わたしは、普段、鞄を持ち歩く人なんですね。スケジュールブックとか、本とか、ノートとか、傘とか、そのたもろもろを入れて。その鞄が重く感じられて、もっと身軽に歩きたい、と思ったところで、「PDA」を思いついた。結構、いろいろな種類があるんですね。チラシを貰ってきてみた結果、キーボードが付いていて、手書き入力とキーボード入力の両方が出来て、しかも、インターネットもムービーの再生もできるというので、「ザウルス」を買った。「ZAURUS MI-E1」という機種。
老眼で、指の太いわたしには無理かなあ、という不安もあったけど、買ってきてやってみると、それはどうやら大丈夫だった。指の腹って、案外細かい接点に敏感だった。上から見ると、親指が6個ぐらいのボタンを被っているけど、ボタン一つ一つの接点を押し分けられるのには、自分でもびっくり。それと、「手書認識」がかなりのもので、「イメージフォーラムフェスティバル」のプログラムスケジュールを入力いていて、「憑依する部屋」というのを手書きで入力してみて、その「憑依」を手書きで入力できたのには、「ほっほー」と思わず声を出した。ワープロとメモ帖は便利。これはいけそうだと、翌日、オプションの「デジタルカメラカード」を買ってきてやってみたが、こちらは、わたしには余り使えそうにない画質だった。
もちろんのこと、デジタルアシスタントだから、パソコンとも繋げる。これもオプションで、専用のケーブルを買ってきた繋いでみた。パソコンにUSBのドライバーとアプリケーションソフトをインストールして、そのソフトと「ザウルス」とで交信する。「ザウルス」からパソコンへのデータの転送はすんなり出来たが、シャープのホームページからダウンロードして来たアップグレードファイルを、パソコンから「ザウルス」に転送するのに戸惑った。USBが「COMポート3」に割り当てられているなんてことを初めて知ったが、そこを指定して転送すると、デスクトップ画面がエラーとなって真っ黒に消えてしまう。「説明書」を見ると、「電源節約」の設定を切るように書いてある。それが、Windows98の設定だけでなく、マザーボードの設定も「Disabled」にしなければならなかった。それで、何とかアップグレードは出来た。いろいろなソフトがあるらしいが、まだダウンロードしてない。また、モデムカードを買ってくればインターネットに直接アクセス出来るらしいが、それは携帯電話を買ってからにしよう。だんだんと「モバイル人間」になっていくなあ、という予感がする。
清水哲男著「さらば、東京巨人軍。」を読了。
「さらば、東京巨人軍。」の表紙 |
この本を戴いてからもう2ヶ月も経ってしまった。わずか180ページ余りの本を読むのに2ヶ月もかかる。慌ただしく、いろんなことをやりながらだから、そういうことになる。でも、この本の場合は、時間が掛かったのがよかった。作者の清水哲男さんが戦後の小学生だった頃から、現在に至るまでの来歴に重ねて、ずっと巨人ファンだったことが書かれているので、二歳年上になるわたしとしては、同世代として、自分の来歴も重ねて読むことになったからだ。哲男さんが疎開先の山口県で、「田圃野球」をやっていた小学生だった頃、わたしは東京の下町で、「焼跡野球」をやっていた。そして、三十数年後に清水哲男さんとは「ポエムズ」という詩人や編集者のアマチュア野球チームで一緒になる。わたしは、その時初めてユニフォームを着て、スパイクシューズを履いたのだった。そこでわたしは、「ポエムズ」の右翼手として相手チームがスリーアウトにならなければ試合が永遠に続くという野球の恐ろしさを知った。あの時、助監督の清水哲男さんが、井上光晴監督を飛び越し、更に埴谷雄高総監督を飛び越して、相手チームの監督に「コールドゲーム」を頼みに行って、監督の逆鱗に触れたということは、この本で初めて知った。そういう重なりを、時間を掛けてゆっくりと反芻することができた。最後に、作者はこどもの頃から巨人ファンだったが、最近の巨人軍のお金を使った選手集めや、ただ勝てばいいという試合内容の無さに呆れて果てて巨人ファンを止めたと、怒りが込めて書いている。
清水哲男さんは今でも熱い野球ファンだ。野球ファンというものには、「ファン人生」というのがあるんだと実感させられた。わたしも「焼跡野球」のこどもの頃は川上や青田のいた巨人ファンだったけれど、今では何処のファンでもない。プロ野球チームの名前は知ってる。で、新聞のスポーツ欄を見れば、プロ野球の勝敗は見る。でも、余り気持ちが入らない。野球のことを話す人が近くにいないからでしょうね。そういうことって、ありますね。