青山に出来た「シアター・ イメージフォーラム」の内覧会に行った。
新しくできた「イメージフォーラム シアター」の全景 |
灯りがともった劇場 |
8月29日は、青山に新しく出来た「Theatre・ImageForumシアター・イメージフォーラム」のお披露目の内覧会があって、午後、家から自転車で出かけた。20分ぐらいで行けるが、今度のイメージフォーラムシアターは青山学院大の近くなので、上原から行くと、宮益坂を上るのが辛い。漕ぎ続けられないので、途中から自転車を押していく。午後1時過ぎに行ったら、もう沢山の人が来ていた。劇場前の路上で立ち話している人も多い。わたしは、DVカメラを持てその辺りから撮影して、劇場の中へ。
入り口から入ったところが、一階のミニシアター、客席64。そこでDVカメラをちょっと廻して、左の階段を下りて地下のメインシアターへ。メインといっても、客席108。両方とも、椅子に座ると抱かれるように身体が収まって気持ちいい。地下の劇場で予告編を見る。画面が大きくて近いから、イメージの中に引き込まれる。ポルノ映画だと興奮が倍増しそうだが、恐怖映画となると、逃れられない悪夢になるか。面白そうだ。2階には「寺山修司」と名付けられたシネマテーク兼教室と映写室、それに編集室となる空間。わたしが行っている「IF映像付属研究所」の授業はここで行われるということ。3階はダゲレオ出版とイメージフォーラムのガラス張りの事務所。外はテラスになっている。夏はここでビールを飲んだら気持ちいいだろうなあ、と思う。
付属映像研究所で助手を務める牛越君に映写室とか階段室とかいろいろと案内して貰った。建物自体は大きくないが、中はかなり複雑な構造になっていて、案内人が間違ったりしていた。それにしても、ドアが多いねえ、なんて言う会話。階段の踊り場が外に対してガラス張りだから、ロケ場所として面白いイメージが撮れそうな感じもある。付属映像研究所の生徒が、先ずは自分たちの作品のロケ場所に使うのかな、などと思ったが、この同じ場所が使われていて、先生としては、作品を混同してしまったりするのでは、とニンマリ。全部見るのに結構時間が掛かって、見物として楽しめた。
その後、かわなかさん、金井さん、奥山さん、村山さんなどと教室や事務所のキッチンでビールを飲みながら夜まで話が弾んだ。話題は相変わらず熱心に生徒の作品の話。それと、昔の話。イメージフォーラムはこの近くの並木橋にあった寺山さんの「天井桟敷」で実験映画を上映していた。わたしの初期の作品もそこで上映された。それ以来のつき合い。カウンターカルチャーの一端を担ってきた。この瀟洒なミニシアターが出来て、20世紀の「アングラ」はもうこれで終わり、と思った。イメージに没頭する若者の数は圧倒的に増えた。ここからはまた別の流れが始まる。楽しみ。
藤野の森で海老塚さんの作品を撮影。
藤野の森の海老塚さんの彫刻作品 | 朽ちかけたコンクリートの橋の上に置かれている |
水をたたえた鉄の箱 | 海老塚耕一さん |
昨日23日には、相模湖の湖畔の藤野町の森の中に置かれた海老塚さんの作品を撮影しに行った。「第3回FUJINO国際アートシンポジウム」という野外展覧会が、この八月から十一月まで開かれている。4人の外国人作家と1人の日本作家が招待され、海老塚耕一さんはその一人として作品を出品している。10時前、新宿から特快の大月行きに乗って、一時間程で藤野の着き、迎えに来て下さった作者の海老塚さんの車で、作品が置いてある現場に行って撮影した。
駅から5、6分車で行ったところから、ハイキングコースのような道を歩くと、水が無い小さな沢に出る、そこに朽ち掛かったコンクリートの橋があって、その橋の上に海老塚さんの作品は置かれていた。1メートル四方ぐらいの平べったい鉄の箱が5個、水を湛えて並べられていた。それぞれの箱に、四角いパラフィンが浮かべられ、底には一部分が切断された円形の金属と鉄の断片と鉛の塊が沈められていた。海老塚さんの話では、このまま放置して置くと、水面に錆が浮いて来るはずで、それを期待しているという。今は水の無い沢だが、大雨が降れば、この橋の上も水をかぶるに違いない。鉄の箱は、植物が生い茂る山の中では異物だが、水も錆も、その場の自然のものといえよう。人が訪れることの少ない森の中に、自分の作品を置いて、積極的に自然に曝すというラディカルな態度は、すがすがしさを感じさせられる。海老塚さんの作品とつき合って、すごくいい気分になりながら、一方では、そこまでしなければ、表現が透明性を獲得できないのか、という思いもある。
確かに、表現というのは人と人の間にある。しかし、作品は人と自然との関わり合いの中から生まれてくる。でも、その自然は生活というところで関わってくる自然とはずれている。そのズレはいわば観念としてのズレといえるように思う。生産に役立てる自然ではなく、自然の道筋を辿ろうとするためにずれてくるズレ、そのズレによってようやく意識というもの、ある意味では言葉を持つ人は自然の中に自身を見つけ出せるのではないか。そんなことを、自然の中に置かれた海老塚さんの作品と触れる中で考えた。
海老塚さんは9月4日から銀座の養青堂画廊でエッチングの展覧会を開く。また楽しみ。
瀬戸内で海老塚さんの作品を撮影。
瀬戸田町の海老塚さんの彫刻作品 | 作品の錆 |
沖家室島のGAW展の海老塚さんの彫刻作品 | その穴から見た井戸の底 |
先週、16日から18日までの3日間、瀬戸内海の生口島と沖家室島へ行って、彫刻家の海老塚耕一さんの作品を16ミリフィルムで撮影した。わたしは知らなかったけど、瀬戸田町のある 生口島には17の現代彫刻の野外作品が置かれている。「島ごと美術館」という前町長和気成祥氏の発想で、10年前から5回に渡って、中原佑介さん、米倉守さん、酒井忠康さんの3人の評論家によって選ばれた彫刻家が海岸などに作ってきたとういうこと。海老塚さんの作品「空/海 YURAGI」もその一つで、島の南端の元フェリーの船着き場跡に置かれてあった。16日、朝、羽田を発って、広島空港から海老塚さんが運転するレンタカーで瀬戸田に行き、午後3時過ぎから日没まで掛けて撮影した。
数メートル四方の鉄板に、鉄の方形を組み合わせた大きな作品が、海水と潮風に錆びるに任せて置かれていた。「水の音」と「風の音」と「人の足音」を思って制作したという作者の話。確かに、水の音と風の音の中にあって、近所の人がやって来て、作品の上の乗って釣りをしていた。照りつける夏の太陽の下で、撮影していると、汗が額から、また胸から、滝のように流れた。汗ザーザーで撮影するのは、カメラマンをやっていた頃以来だから、20数年ぶりのことか。気持ちよかった。でも、足下がおぼつかなくなっていて、飛び降りたり飛び上がったりできなくなっていたのが残念。わたしには、作品の数ミリの分厚い錆の層が心に残った。翌17日の朝、日の出前に起きて行って、朝日の中でも撮影した。そして、また満潮近くなった頃に行って見た。作品を自然に曝すというのは、いいなあ、と感じた。
瀬戸田から、山口県の周防大島の外れにある沖家室島までは、山陽自動車道を走り、玖珂インターで降りて、大畠から大島大橋を渡り、更に周防大島の地家室から沖家室島には橋で渡った。集落の8割が空き家になっている。その家々や路地を使って、7月30日から8月20日まで「GAW展─路地から路地へin沖家室島」が開かれていた。「GAW」とは「Goldengai Art Waves」の略、昨年は新宿ゴールデン街の路地でやって、今年は沖家室島で、という話。そこに海老塚さんの作品が出品されていた。古井戸に穴を開けた鉄板を被せた作品。昼過ぎに着いて、早速撮影した。撮影した後、「GAW展」の他の作品も見て歩いた。廃屋の中に、その廃屋で撮影した全裸のヌード写真が大きく伸ばして紐に吊されて展示されていたのが印象に残った。引き剥がされた畳や破れた障子の中の陰部をさらけ出した女のイメージが生々しかった。
海老塚さんの作品は、ここでもまた水を主題にしていた。 家と家の間の昔使われていた井戸のある水場。その井戸と流し場に穴の空いた鉄板を置いて朽ちさせていくという。すり減った敷石。周囲の家の壁は土がはげ落ちていた。井戸の上に置かれた鉄板の穴を覗くと、井戸の底に溜まった水の水面にその穴からの光が星のように写っている。鉄板を叩くと、その振動が水面に伝わり光が揺れる。透明な水が漆黒の鏡となって光を反射するという、空間の意味合いの変転に驚いた。「驚きを禁じ得なかった」と敢えて言おう。その日は周防大島の民宿に泊まった。翌日、もう一度そこに行った。周囲の廃屋の庭に、手押し車が放置されていて、それに朝顔が絡んで三つ、花を咲かせていた。それを持ってい行ったDVカメラで撮っているうちに、この手押し車を押したであろう老婆の姿が思い浮かんできた。そして、海老塚さんの作品のある水場は、彼女たちの井戸端会議の場であった筈だ、と思い至った。その思いを抱えて、水場に戻り、DVカメラを手にして廻し続けていると、わたしの前に、幾組もの見物に来た人々がいろいろと話し、そこにいる作者と言葉を交わすシーンが生まれたのだった。廃屋に囲まれたこの水場に人が立って言葉が交わされることは、久しく絶えていたに違いないが、そこに言葉が甦ったというわけ。
昼前に沖家室島を発って広島市に向かった。途中、先が見えなくなるほどの集中豪雨の中を走った。広島市では35、6年前にわたしが住んでいた辺りを巡り、広島市現代美術館で「アートで学ぼう、アートで遊ぼう」展を見て、広島空港に戻り、レンタカーを返して、8時過ぎ羽田着の飛行機で東京に帰った。アートを巡って、かなり濃密な旅だった。家に帰ってきたら、家の麻理さんが使っているPowerMac7500がおかしくなっていて、翌日はそれを何とか使えるようにするのに一日掛かってしまった。
写真展も終わったし、、、。
拾ってきた毬栗(いがぐり) |
一昨日はジリジリと照りつける天気、昨日は暑いには暑かったが、台風前の雲の動きが綺麗だった。わたしの家から渋谷に自転車で行く道筋の、消防署の裏手にある古い家の庭に、見上げるほどの大きな栗の木があって、この残暑の季節にそこを通ると、アスファルトの上にいつも数個の毬栗が落ちている。わたしはそこを通って見つければ拾って帰る。手の平の上の乗せると、柔らかい毬のチクチクが若々しさを感じさせて気持ちいい。
さて、Moleでの写真展も昨日で終わった。暑い中、出かけて下さった皆さん、ありがとうございました。4時頃出かけて行って、最後のお客さんになった奥野雅子さんと話をして、といっても奥野さんは風邪で声がよく出なかったけど、彼女が忙しそうに帰った後、Moleの津田さん、船渡川さんと額を外した。一本一本、額が掛けてあった釘を抜いて、窓を開け、照明を蛍光灯に変えると、会場は普通の部屋に戻っていた。また来年、ということがないので、やはり寂しかった。津田さんと暫く話をしてから、近くのいつも行くラーメン屋に行ったらお盆休みで、別のところでニラレバ炒めを食べて、四谷の大通りに出たら、四谷方面に大きな虹が出ていた。イメージフォーラムに行くようになってから20年余りになるが、ここで虹を見たのは初めてだった。家に帰って、サインしてあった名前の数を数えたら、156名でした。今回は毎日会場に行ったから、そこで、会えてよかった、会えなくて残念、話が弾んだ、黙って30分も見ていた、といろいろな人の姿に接することができた。
「ザ・C」を、まあ、一応終えた。
「ザ・C」の表紙 |
昨日、C言語の教科書戸川隼人著「ザ・C」を一応やり終えた。といっても、演習問題を全部やり通すことはできなかった。特に、「配列」「ポインター」「構造体」となると、例題として解説されているプログラムをキーで打って、実行してみて、その成り立ちを辿るだけで精一杯だった。この教科書は、理工科の学生向け書かれているので、演習問題が「二次方程式」の解法をプログラムにするとか、数学、といっても、中学高校生程度の数学だが、とにかく数学の問題が多く、数学なんてすっかり忘れているわたしにとっては難しかった。でも、C言語のプログラムリストを見て、「これは配列だなあ」とか、「こんなふうに関数を宣言するのかあ」とか、というくらいの判断ができるようになった。つまり、C言語が概観できたというわけ。練習を積まなければ、基礎を身につけたとは言えない。
コンピュータのプログラムの流れというのは、データを入力して、そのデータを元に、あれかこれかを判断させて流れを分岐し、繰り返して実行させて、結果を出すというもの。その分岐を何段もして、繰り返しを重複するというところで複雑になり、目が行き届かないと、分からなくなる。「配列」がわたしにとって難しいのは、文字列は文字の配列となり、行が増えると「配列」が二つ重なることになり、そこから一文字を見つけだすというような実行処理をすると、二重の繰り返しを仕組まなければならなくなる。横に行く繰り返しと、縦に行く繰り返しと、「どっちがどうだったのオ!」の頭が混乱してくる、という辺りだ。こういうのは将棋の定跡のように決まっているらしいが、今はその訳を辿るところにいるというわけ。身につけるには場数を踏むしかない。
それと、C言語をやる環境ということがある。言語にとって、OSはプラットフォームというらしいが、OSによって、またC言語をバイナリーにするコンパイラによって、環境が違ってくる。わたしは今、Windowsマシンでやってるが、Macintoshでやるとなると、その環境を整えなければならない。わたしは、Windows98に「Visual Studio」をインストールして、「VisualC++」を起動して、そこでC言語をコンパイルする。「新規作成」から「ファイル」タブを選んで、テキストファイルを開き、C言語のリストを書いてコンパイルするというやり方を取っている。実はこれはわたしの先生の春口さんから教わったやり方だ。これで、MS-DOSの実行ファイルができるのだが、「Visual C++」の入門書には、このやり方は何処にも書いてなかった。春口さんに教わらなければ、「Visual C++」の「C言語」の入り口も分からなかったということになる。Macintoshでは現在「CodeWarrior」という開発環境があって、そのコンパイルを使って、「Macintoshで始めるCプログラミング」とういう本によって、C言語やC++を学ぶことができる。今のところ、Macではこれ一つしかない。で、わたしとしては、「IT革命」というのは、この辺りのコンピュータ言語を学ぶ環境に入り易くするところから始めなくてはいけないのでは、と思う。パソコンはすべて「C」とか「C++」のコンパイラを付けて、コンピュータ言語を学びやすくするべきではないか、と思う。
個展も半分過ぎた。
個展会場に来てくれた川本真知子さん(left) |
わたしの個展も、5日の「風の積分」の上映会も終えて、半分を過ぎた。初日と2日目は午前中から、他の日は毎日、夕方から7時頃まで会場に行っている。お客の数は少ない。わたしは、ギャラリーの事務室にVAIOを持って行ってC言語の教科書「ザ・C」に載っているプログラムリストを打ち込んで、C言語の練習に励んでいる。お客が来ると、出て行って、冷蔵庫からお茶かジュースを出してサービスする。そこで、話しかけてくる人と話したりする。写真を撮るのに使っている「魚眼レンズ」について質問が大半。知り合いの人とは世間話。これは結構、いい時間だ。
その「いい時間」についての感想。わたしが個人的に送ったこの個展の案内状の数は、70通。いまのところ、来てくれた人はその内5名。まあ、案内状を送るというのは、来て下さいというより、今年もやりますよ、という程度の挨拶だから、来てくれない人をどうこう思う気持ちはさらさらない。わたし自身、沢山案内状を貰うが、殆どいったことがない。そういう習慣なのだ。来てくれた人も、わたしの写真表現に関心があるというより、わたし自身への友情や親愛感からということと思う。この写真表現について、この会場で話をした人はこれまでに数人。特に深く話をした人は写真家の三浦和人さんひとりだった。この個展会場で過ぎる時間が「いい」というのは、先ず毎日行くことにしたのは、この会場での個展が最後となるから、ということ、また、わたし自身の四谷3丁目通いがこの個展の後は殆ど無くなる、ということがあって、やっぱり、自分の写真表現の実体が、このギャラリーにあったということを確認しておく必要があると思ったから。実に、この会場で個展を開いて一昨年までに11年になり、去年初めて読売新聞から依頼されて撮った写真が新聞に掲載された。ようやく写真で一人前になったなあ、と自分では思った。こういう個人的な思いは理解されない。誰もがそういう他人から理解されないところを持っているということが、万人を待ちかまえているというギャラリーの本質に照らして、ここで一人でいるという時間に、また来た人と話すという時間に、くっきりと見えてくる。甘くいえば「孤独のいい味」なんだ。
その「いい時間」の極め付きが、5日の「風の積分」の上映会だった。上映時間420分の作品を1時から4時半までに前半、5時半から後半を上映したが、前半に来たお客は川上亜紀さんと、途中から来て途中で帰った若い男の二人だけだった。後半は、上映を担当してくれた金子君とわたしとで、客無しで上映した。最後の方でMoleのスタッフがちょっと見に来てくれた。毎年、この個展の会場で一度は上映しているが、多いときは10人ぐらい、少なくても3、4人は観客がいた。前半ひとり、後半無しは、初めてだった。つまり、わたしとしては極みをつくした「いい時間」をそこで得た。こういうと、やっぱり負け惜しみにきこえるかなあ、ちょっとはそういう気持ちも入っているけど、でも、客がいないから、客が感じる退屈さを気にすることなく、わたしとしては映像にのめり込んで見ることができた。「風の積分」は、退屈な映画なんだ。「この退屈は何だ」というところに向き直らなければ見続けることはできない映画だ。そして、何度も見ると、退屈している暇がなくなる。わたしは、息をのむような気持ちで見続けてしまった。わたしの家の窓から見える隣りの屋根と空、1988年の夏から秋、秋から冬、冬から春、春から夏に変わっていく一年間の空気の変化のイメージを見届けて、翌日の朝、目覚めて、その同じ窓からスクリーンに映っていた屋根と空を見て、全てが同じ筈なのに、その風景が違って見え、何か違うと感じたのだった。確かに、映像には10年前の新築されたばかりの家の屋根が写っていた。現実と10年の差がある。しかし、違って見えたというのは、わたしには現在の窓からの眺めの方が「昔の」情景のように見えたということ。昨日見た10年前の映像の方が生きていて、現在が過ぎ去ったものに見えたということ。これは一体なんだろうか、と思った。
多摩美・卒制合宿アルバム。
多摩美・純林苑 | 学生たち |
庭で見かけた桔梗の花 | 想を練る清原さん |
緑の木立 | 自分たち作業を報告する学生たち |
持っていったVAIOノート | 学生たちは車で来て帰る |
7月28日、29日、30日と山中湖近くにある多摩美の寮の「純林苑」で行われた四年生の卒業制作合宿に参加した。毎年、映像コースだけでやっていた合宿を、今年は演劇コース、劇場美術コースも併せて行うことにしたが、参加は希望する者だけということにした。三分の二弱の22名の参加があった。教員と学生が同じところに寝起きして、卒業制作の企画を詰める、という作業をする。映画を作るのであれば、撮影に入る前に、シナリオを自分のものにするために、徹底的に書き直す、というような作業をする。書いては、教員に読ませ、批評を受けるというような仕方で話し合いをして、また書き直す、ということを滞在中に繰り返すわけ。そこで、ものを作る時の「集中」ということを身につけてくれれば、と思っている。
わたしは五組の制作グループと面接して何度か話し合った。あるグループは、ダッチワイフなど使って、孤独に性をいとなんで、自分のイメージの世界に閉じこもっている若者の脳髄の中のいかがわしさを、実体のある映像で描き出すという企画だった。また別の女子学生は、拾ったフィルムを現像し、そこに写っていた女性のイメージを、撮影された場所や鏡の中に追い求める青年の話で、不在者というものの在処を追求するという企画。音楽を聴かなければ絵が描けないという画家と、ピアニストとして彼の創作を支える女性の愛情関係を描くというのは、これはまた別の女子学生。わたしには、この企画など、時間を持たない空間に生きている男と、時間だけに生きている女性が、互いに求め合うということで、これは映画論的映画になるので、などと思えた。その他、家族の依存関係を描くと企画や、空想に踏み迷う少女の世界を描き出す企画などがあった。合宿が終わると、いよいよ、それぞれが撮影に取りかかる。作品発表は、2001年の2月。
わたしは、その話し合いの合間に「C言語」の学習をしようと思って「VAIO」を持っていったのだったが、シナリオを書くという学生に貸して、丸一日は使えなかった。その代わり、寮の周りの木々の緑を十分に楽しんだ。木の葉の揺れるのを、また雲が流れるのを、思うこともなく眺めていた。部屋の中に寝転がって、お腹の上にDVカメラを乗せ、呼吸するままにカメラが上下する映像を撮ったりした。カメラの液晶画面と実際の風景の両方を視野に入れているというのことによって、その情景が記憶に鮮明に刻まれた。