2000年4月1日から30日まで


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2000年4月23日

満開だった山吹も、もう散ってしまった。

満開の山吹
    満開の庭の山吹

 満開だった山吹も21日の雨でほとんど散ってしまった。気温が上がり、夏に向かって走り出したという感じだ。23日の日曜日の午後、部屋に風を通した。わたしの地下の仕事部屋には風は通らない。めったやたらに積み上げられた本を片づけて、パソコンを組み立てる場所を作ろうと考え始めている。2月に「Celeron 466MHz」を付けたマシンがどうも立ち上がりが悪い。スイッチを2、3回押してようやくディスプレイ上に表示される。Windows98をSecondEditionにヴァージョンアップしようとしたら、どうやってもインストーラーが途中でフリーズしてしまう。こうなったらバラして組み直すかという気になってきたところ。こういうことで、わたしの仕事場の時間は進行していく。もうちょっと本も読みたい気もするけど、なかなか本を手にする時間が持てない。詩も書きたい。詩の書き方もちょっと見えてきたか、という気もするが。

  22日の夜、NHKテレビでNECの人事配転の様子を放映していた。本社勤めの人が製品出荷の子会社に出向になる。40歳から50歳の人たちが、事務職から出荷の荷造りの現場に配転になって、朝から夜まで荷造りに追われる様子を見せていた。企業がインターネット産業にシフトしたために、人材を移動させている。企業間の競争で生き残るためには致し方ないと言っていた。でも、配転させられた方は、それで身体が続かなければ辞めろと言っているようなものだ、と言っていた。産業革命に匹敵するという「IT革命」は、こういう声を出させない隠微な形で進行していくのだろうか。一国の頂点に思わず就いてしまった人は、「教育勅語」を復活させる、なんて言ってる。一方では経済の未曾有の変革が言われ、同時に制度の保守化が進行する。どちらにしろ、人が生き行くのを基盤にした社会の作り上げるべき新しいイメージがない、ということ。



2000年4月20日

安藤元雄詩集「めぐりの歌」をめぐって5日間。

安藤元雄詩集「めぐりの歌」
 安藤元雄詩集「めぐりの歌」

 安藤元雄詩集「めぐりの歌」を思潮社の小田久郎さんから貰って読んだのが4月5日、それから十日も経ってようやくこの詩集について書き始め、更に五日を経過した。読売新聞に掲載する小田さんの写真を撮りにいったとき、この詩集をくれて、是非読んで欲しいと言われれた。そこで「曲腰徒歩新聞」に批評を書きます、と約束してなかなか書けないでいた。一読して、老いを迎えた詩人の思いはそれなりに受け止められたが、それをどう考えるかというところで、詰まってしまった。安藤さんは1934年生まれだから、わたしとは一歳しか違わないが、自分が年取ったなあという思いの持ち方では重なるところがあっても、どうも違う、という感じるところもかなりある。真っ向から否定も出来ないけど、全面的に肯定も出来ない。そこで、詰まってしまったというわけ。

 率直に言って、よく理解でないところがかなり出てくるのにも引っかかった。最初の「百年の帳尻」からそういうところが出てきた。その詩の中程に「やっと聖人の名を取り戻した街、あるいは白き街/それとも永久に漂流を続ける街」とあるが、この街はレニングラードと呼ばれたサンクトペテルブルクのことなのであろうか、という疑問、それにしてもロシアのことが書かれている詩とも思えないが。その五行あとに「小さな甕を買おう 三銭か四銭くらいの」と出てくるから、何か昔の人ことななのか。また終わりの方で「ポルタ・ロッサのざわめきか」という言葉も出てくるが、この「ポルタ・ロッサ」という言葉は「広辞苑」にも「大辞林」にも出ていない。多分作者は自分には馴染みの分かり切った言葉として使っているのだろうが、わたしには、知識がないのは恥ずかしいが、分からなかった。そういうところがかなりあったから、この詩集を理解できたとはいえないだろう。

 この詩集は最初の「百年の帳尻」から始まって「千年の帳尻」で終わる。題名の「めぐり」は世紀のめぐりと受け止められる。世紀末に老年を迎え、同じ時代を生きた人たちが自分に先立って亡くなっていく、残された自分の思いと歴史を振り返る思いが述べられる。「百年の帳尻」では、自分を忘れ去られる存在として孤立感を深めていることが語られている。「冬の蛹」では更に自己の内側に閉じこもり、外に向かっていた若い頃の自分を懐かしむ。そして「ながらえる者の嘆き節」では老いたる自分を余計者と自覚する。しかし「庭のしずく」では、庭に埋めた生き物の死骸の上に植物が花咲かせることに思いやり、輪廻を意識して救われた思いになる。「血のしみた土地」は、紛争のあったコソヴォ近くに旅したことから、土地の奪い合いと復讐とによって戦争が永遠に続くことへの苛立ちの表明。「飛ばない凧」では、かつて小さな女の子に施した親切が、いまでは女の子の幻想として心に灯をともしていると語られる。この詩はじーんとさせるところがあった。

 「透明な犬」は身体一杯に生きている者に比べて、役割で生きているような自分の存在の希薄さを語る。「必敗の野」では、負け戦の戦場で手負い傷を受けた身で、敵の目から隠れている者の目の前に小さな蜘蛛が巣を掛けているという情景が語られる。母親と息子の存在ということも。「夏の終わり」は、風が吹き抜ける孤島に独りでいると空想して、自分が生きる時間を自覚するということ。「干からびた星」はキンモクセイの散った花から星に思いを託す老人を思う。そして老いた自分が若い者に何を伝えられるかということ。「帰路」は、毎日同じことが繰り返される自転車預かり所に夕方散歩して、人々の流れに同じられない自分を感じる。散歩の一服のタバコに孤独を味会う。「田ごとの顔」は人間が社会では数字で存在しているということの自覚。そして「千年の帳尻」では、「先に死んだ何万の人の死に様に/いくらかずつおれにも責任がある 逃れられない」が、「失うことの恐れに取り憑かれていただけ/そう 恐れによって千年 わたしは生きた」という結論で、この詩集は終わる。

 これらの詩は、「あとがき」によると「毎月一回で十三回という回数と、毎回五十五行前後という行数を与えられて、この連作ができた。小田久郎氏のすすめと励ましによる」と書かれていて、「現代詩手帖」の1998年2月号から、12月号を除いて1999年3月号までに連載された、と記されている。雑誌連載が、詩を書く動機として大きな要因となっている。名のある詩人としてはよくあること。でも、この場合は、作者自らの詩に向かう強い動機があってというよりも、小田さんの安藤さんに対する、詩を書いて欲しいという気持ちと、安藤さんのそれに応えようとする気持ちが、出会い重なって書かれたということ。つまり「詩の原稿」として書かれたというわけだが、それは、普通のことだが、この詩集を読んでいて、20年前、30年前とは違う印象を受ける。守りの姿勢を感じてしまう。その感じから、詩が「原稿」として書かれるということでいいのだろうか、という気持ちが湧いてくる。

 安藤さんは「あとがき」の中で「所詮は大きなめぐりの輪から逃れないと承知しながらも、その中でいささかでも普遍性のある詩を造形しようと試みること、それがこの連作を通してのわたしの課題だった」とも述べている。安藤さんは発表する場を得て、誠実に詩を書こうと、世紀末を前に歴史を念頭に置いて、自分の思いと心情を「普遍性のある詩として造形」したというわけ。そういう意図で書かれたこの詩集では、互いに理解し支え合ってきた人たちを年老いて失い、孤立していく心情と思いが、季節の移り感じさせる生活の情景とエピソードを交えながら、作者の教養を感じさせる言葉で語られていく。やや嘆きに近いところもあるが、深い孤立感が伝わってきて、心にしみる。どうして、こんなにも孤立感を感じているのだろうか思う。わたしも、詩の同人誌を止め、詩の雑誌に詩を発表する機会が少なくなって、詩については孤立感を感じるが、映画を作るところでは、またWebの関係では、ずっと若い人たちとつき合いながら、彼らとの違いを強く感じはするが、安藤さんの詩が感じさせるほどの深い孤立感を感じるということはない。詩についての孤立感は確かに強い。この5年ほどパソコンに入れ込んだ後には、詩に対して距離が取れて、危機感をもちながらも、むしろそれを快いと感じている。安藤さんとはちょっと違うなあ、という思い。

 では、安藤元雄さんの孤立感はどこからくるのか。ここからはわたしの推測だから、当たってないかも。そもそも、この詩集の詩には、必ず冒頭に誰か詩人か作家かの言葉が引かれている。名をあげてみると、小泉八雲、ジュリアン・グラック、シャルル・ボードレール、西脇順三郎、夏目漱石、アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリ、萩原朔太郎、ジュール・シュペルヴィエル、小熊秀雄、滝口修造、立原道造、よみ人知らず、ジェラール・ド・ネルバルとなる。多分、この詩集の詩をよく理解するためには、その詩と引用された文学者の世界とを照合していくことが必要なのかも知れない。これらの文学者は安藤さんにとってのこの世紀を代表する人々として引用しているとも思える。「干からびた星」には滝口修造の「落葉よ おまえは/明けの星に似る」という言葉が引用されているが、この詩は滝口修造を知っているかいないかでは、その理解はかなり違ったものになると思う。滝口修造の詩を知っていれば、地面に散らばっている花から星へ連想するのがごく自然に受け止められると思う。滝口修造を知る人が少なくなれば、そういう感じが即座には伝わらなってくるという実感、それが安藤さんの孤立感のもとになっているのではないかと思う。ここにあげた文学者すべてについてそれが言えよう。時代が変わったのだ。それを、この詩集の詩は深いところで捉えている。

 萩原朔太郎の詩「遺伝」の二行「いいえ子供/犬は飢ゑているのです」を引いた詩「透明な犬」は、朔太郎が犬に託して内心の不安や焦燥を形象化して語るというのとは違って、犬の身体性の方に着目している。焼け付くアスファルトの上をひた走る犬の姿、その犬が見えない影の犬を引き連れているというのだ。そして、作者は自分という存在も、ただ役割に生きてその影のような存在だったと述懐する。自らの存在の身体性の欠如に思い至っている。ここには、作者が信じてきた存在のあり方が問われているといえないか。作者は言葉で、あるいは役職で自らの存在を実現しようとして生きて来たが、その信念が身体に基づいたイメージにものをいわせ、また身体そのものを生きようとする者たちの存在にぶつかって揺らいでいる。個人の存在の在処を内面性に求めるところから、身体性に求めるところへと変わってきた。この詩はそれを捉えていると思う。朔太郎の「遺伝」が自己を不安を感じる存在として自覚し、更に心の奥深い方へと向かっているといえば、安藤元雄はその奥深いところからの折り返し点にいるといえよう。

 また「帰路」という詩。散歩の道すがら、列車通学の生徒たちが預ける自転車預かり所の辺りを通りかかったときの感慨が述べられている。夕暮れ近い時で、もう生徒たちの姿はないが、朝夕そこが生徒たちで賑わうことを思い浮かべて、人々が生きる大きな時間の流れというものを意識し、自分がその流れに逆らって生きているということ、そしてその流れとそれに逆らっている自分の位置関係もまた、そのまま流れとなっていると自覚する自分の姿が、「冷えてきたな 今夜は」という呪文のようなつぶやきに収斂してして述べられている。この詩の背景には、人々を押し流して行く日常生活の流れを、時間の制度として自覚している意識があるように思う。その制度は社会の大衆を支配しているわけだが、そこで作者は自分が起立していることを自覚している。つまり、この詩では、直接的には述べられていないが、大衆一般とは異なる存在としての、つまり作者がある意味では選ばれた知識人としての自覚を生きていることを感じさせられる。自分はごく当たり前の生活者ではないなという感想が、冷え込んできた夕方の空気の中で、作者に「冷えてきたな 今夜は」とつぶやかせているように思う。そのつぶやきは、やみくもに自己主張を強め始めている大衆の存在を前にしてのつぶやきとも受け止められる。

 この「めぐりの歌」についての文章を書き始めてから、もう既に5日も経ってしまった。その間、詩集のページを何度となく開いては読んだが、どの詩も決してわかりやすい詩ではなかった。でも、その分かりにくさが「詩のボディ」としての存在感をなしていると思えた。そう思うと、自分も含めて「現代詩はこんな風に書かれているもの」なんだと、改めて感じた。そして、わたしの考え方の癖として、これはもうわたしには出来ないなあ、という感想を持った。第一、安藤さんが引用している文学者の著書をこの十年近く開いたことがない。敢えて言って、昔の若い頃は、そういう文学者の著書を読んでおかなければ、自分が詩を書く上で先に行けないと思っていた。しかし、いつの間にかそういう本を買わなくなり、読まなくなった。言葉を読んで言葉を書くというのではないところに、言葉を書きたいと思うようになった。しかし、まだ詩を「詩の原稿」として書くというところからは脱していない。



2000年4月13日

海老塚耕一さんの作品。

海老塚さんの作品
 海老塚耕一展April - May 2000の作品全体
海老塚さんの作品
木塊と石の群れ
海老塚耕一展April - May 2000の作品・木塊と石の群れ
海老塚さんの作品木塊と石
 海老塚耕一展April - May 2000の作品・木塊と石
海老塚さんの作品木の塊
 海老塚耕一展April - May 2000の作品・木の塊
海老塚さんの作品木彫り部分
 海老塚耕一展April - May 2000の作品・木彫り部分
海老塚さんの作品木材とアクリル台の部分
 海老塚耕一展April - May 2000の作品
 木材とアクリル台の部分
海老塚さんの作品
 海老塚耕一展April - May 2000の作品
 壁に掛けられたシリーズ作品の2点

 先日、仙川のプラザ・ギャラリーPlaza Galleryに見に行った海老塚耕一さんの作品が、最近、気に入っている。そして、大いに気持ちを入れ込んでいる。その世界に接近出来るという感じがあって、それがわたしにとって大事なところ。芸術家に接近できるか出来ないか、また作品世界に接近できるか出来ないか、そこが一方通行で終わるにしろ、相互の往来になるにしろ、何か働くものがあって、それが働いてくる時が面白い。今、ちょうどそういうような感じになってきた。

 海老塚さんの姿に初めて接したのは、六、七年前になると思う。その時期は忘れた。多摩美の八王子の芸術学科の研究室かその周辺だったと思う。わたしが上野毛キャンパスに勤めるようになって、何かの用事で八王子キャンパスに行ったときだと思う。イメージに残っているのは、スロープを上り詰めて鋭くカーブするところで、海老塚さんが自動車に乗り込もうとしていたとき、挨拶して言葉を交わした。その頃、わたしは芸術学科の教員としての彼を知っていただけで、作品は知らなかった。彼の方は、わたしの詩や映画『日没の印象』を知っていて、彼の授業で学生に見せたりしていたということだった。わたしが海老塚耕一の作品を初めて接したのは、三年前、上野毛キャンパスのわたしの受け持ちの授業を分担して貰い、フロッタージュや木の塊をを削る授業をした後、スライドで彼の作品を見せたときだった。それは、木材を使った構築物をヨーロッパの町の中に作ったり、屋外に木材を組んだりする作品だった。「自然という観念の実体を作ろうとしている」と思って、それがわたしの興味を引いた。そして、一昨年の高島屋での展示で、現物を見た。その作品は、涼しい感じがして好きになった。昨年の11月に「東京国際フォーラムNICAF」を見に行き、その養清堂画廊ブースに展示されていた銅版画の中の小さなものを一点購入した。

 表現としての自然との関わりというところにわたしの関心が向いたのは、実はかなり前からそういったことをテーマにしている芸術家に関心を持っていたから。谷間に巨大なカーテンを張るというクリストの「Valley Curtain」を記録した映画を見て、衝撃を受けたときから、自然そのものを作品の枠組みの中に取り込んでいく芸術表現に興味を持つようになった。そのうちの、モニュメンタトになるものより、ただ地上を歩くというリチャード・ロングや、噴火口を利用して太陽光線を見る仕掛けを作るというジェームズ・タレルのように、自然と観念的に、ということは身体的・感覚的に関わるものの方が好きになった。でも、わたしのその関心の流れは中断していた。何年か前に、詩も嫌になったけど、芸術も嫌になって、ひたすらコンピュータに入れ込んでいた。それが、最近、ふっと詩と芸術に興味が戻ってきた。そして、海老塚さんの作品が目の前にあったというわけ。

 今回の海老塚さんの展覧会は、床に広げた作品と壁に掛けた作品からなっていて、床の作品は、床に白い布を引いて、その4分の3のスペースに数十個の削った木の塊と石を組にして置いてあり、残りのスペースに、木の塊と石を3組置いた三つのアクリルの台と、木目のある木材と堀り痕を残して黒い色を付けた木材と鉄とアクリルの細い延べ板が置いてあった。スペースの取り方としては、二つの部分の構成と見えた。木の塊と石の組合わせが、無秩序にばらまかれたように見えるが、暫く見ていると感覚的にバランスを取ってリズムを感じさせるように配置されていると見えてくるのだった。こちらは軽くて柔らかい。一方、アクリル台と木材の部分は、明らかにがっしりと構成されていて、その構成を組み立てた人の精神的な力を感じさせる。こちらは重くて堅い。壁の作品は、カンバスに石膏と顔料で数点の平面のシリーズが作られていた。これは歌っている感じ。

 プラザ・ギャラリーに着いたのは午後4時前で、まだ余り人が来てなかったので、一人で作品をゆっくりと見れた。一通り見た後、今度はDVカメラを廻しながら見て行った。ワンカットで、変化を持たせまがら作品を見せようという意図。画廊のある建物全景、ガラスの外から会場の作品を覗く、ドアを開けて中へ、そして作品を左から一巡りする、木の塊や石のアップ、木塊のアップ、木材の木彫りのアップ、そして構成部分の切り取り、といった順で撮影していったが、途中で海老塚夫人が来て挨拶、海老塚さんの友人の人などが入って、変化が出て、撮影は面白く出来た。中庭でのオープニングパーティの後、会場が室内照明だけになったところで、夕方の外光が入ってみるのとはまた違った印象で、それも撮影して、今回の展覧会のわたしなりの記録ビデオとした。

 海老塚耕一のこの作品をどう受け止めるかということ。「自然の観念」とわたしは言ったが、この作品の何処にそれを読みとるのか、そしてその意味合いは何か、ということ。受け止めると言うとき、たとえば、リチャード・ロングの作品を本になった「作品集」で見て、いいなあ、と思うのは、地図の上に円を描いてその中を一日何十マイルも歩いたというその辺りの歩いた痕跡の写真だけで、わたしの頭の中に風が吹きぬけるような感じを与えられる、ということなのだ。そんな、何もないところ、木が生えていたり石は転がっていたりするだけのところを、ただ地図に印を付けてその観念を満たすために歩く、そんなことをした人がいる、ということを知るだけで嬉しくなる。自分ではやってみようとは思わないが、彼が「やったよ」というメッセージを送ってきたのを受け取る、それで愉快になれる。海老塚さんの作品にはそういうものがある。多分河原で拾ってきたと思われる石がそのままの状態であるから、「作った」という領域に「自然」が入ってきている。それを作者が意図している。

 インターネットで「海老塚耕一」を検索したら、昨年の四月、名古屋の「ウエストベスギャラリーコヅカ」開いた「海老塚耕一展」のページが出てきた。そこには5枚の写真が載っていて、木材や木塊と石が素材になっていて作風は今年の展示と似ている。その木塊と石の組み合わせには「水の皮膚. 風の皮膚 」という言葉が、木材の方には「夏・流れる水、そして音が」という言葉が、そして平面作品には「風の下水」という言葉が使われている。今回の作品にもこういうタイトルが付いていたのかも知れないが、わたしは見落としてしまった。まあ、こういう言葉から察せられるように、作品制作に当たって「水」と「風」が意識されている ことは確かだ。海老塚さんと話していて、「風を見る」というようなことを言っているのを聞いたことがある。この彼の言葉を手がかりすれば、単純に受け止めれば、心の眼で見た自然を作品として実体化しているといえよう。ただその心の眼というのが、心情ではなく、存在意識の働きといえるようなことだと考える。自然の石の表面は紛れもなく、水と風が削った表面だ。それと作者が削った木塊とをくみあわせるということで、その削る作業を風や水になぞらえ、作者自身の存在を無化していくことになるのではないだろうか。人は自己を無化するなんてことは出来ない。無化しようとすれば、相当の精神力が要求される。海老塚さんの芸術は、そういう力を働かせるというベクトルの場と捉えることが出る。 芸術表現を、感覚や感情だけで充足させてしまわない方向に向かわせるものと受け止める考え方。感覚や感情に重きを置くというのは、人間が自分を中心に置いてふんぞり返る考え方だが、それを否定して、もっと謙虚になる考え方として倣いたいところ。




2000年4月11日

近所の公園の桜。

近所の公園の桜
 公園の桜

 近所の上原公園に桜が数本ある。8日に通りかかったときは、ちょうど咲きそろったという感じだったのが、翌9日にはもう散り始めていた。そして10日の夜は雨になったが、気温が下がったせい花はまだ持ちこたえていた。
 4月8日は、今日はお釈迦様の誕生祝いの甘茶の日だなんて思いながら、花を見上げて、わたしは滅多に着ない背広にネクタイをして歩いて行った。勤めている多摩美術大学造形表現学部の入学式の日。卒業式と入学式と結婚披露宴に呼ばれたときにしか着ない背広。ネクタイが嫌い。堅苦しいというのが嫌い。祝辞なんて大の苦手。今年の入学式では、式の最中、席に座ったまま学長や理事長が告示やら祝辞やらを述べるところを、最近買ったポケットDVカメラで撮影していた。講堂の舞台の上から、客席の新入生も撮った。そんなことしているのが他の教授たちには気になったらしい。まずかったかなあ、と思ったけど、映像作家だからまあいいや、と勝手に決めた。大学の庭の桜は、八重だからまだ咲いてない。

 9日は、散り始めた花びらが風に転ぶのを追うように歩いて、仙川のプラザ・ギャラリーで開かれている「海老塚耕一展」を見に行った。下北沢で急行に乗り換え、明大前で各駅停車に乗り換えて仙川で降りた。明大前のホームにはエレベータとエスカレータが付いていた。仙川の駅にもエスカレータがついてすっかり変わっていた。駅前の桜が咲いていた。「QUEENS ISETAN」でワインを買って行った。オープニング・パーティーには沢山の人が来た。知っている人は数人、紹介されて話をした人は二人。気持ちいい作品で、10分あまりDVカメラを廻しっぱなしで撮影、四角いフレームの中では方形の境界線が斜線になるというのが面白かった。

 10日は、2、3、4年生のガイダンスの日。もう新学期が始まるのだ。道ばたには花びらが吹き寄せられていた。夜になると雨というから、それで桜もおしまいかと思いながら歩いていった。入学式で新入生の顔を見て、三日後に4年生の顔を見ると、4年生の顔がやけに大人っぽく見える。みんなそれぞれ個性のあるいい顔をしている。今年単位が取れないと卒業出来ない、ちゃんとやってね、卒業間際に慌てないでね、そういえばその気持ちという顔で応えるが、秋になって卒業制作が忙しくなると、一回ぐらい欠席しも大丈夫と、ずるずる欠席してやがて泣きを見る子が出てくる。人数が少ないわたしの学科では学生の一人一人の顔が見えるから、心配も一入。三月、四月は本当に時間が速い。

 

2000年4月8日

新作映画『物語以前』のプリントが出来た。

『物語以前』のフィルム
 『物語以前』のフィルム

 今年の「イメージフォーラム・フェスティバル2000」で上映されるわたしの新作16ミリ映画『物語以前』のプリントが、昨日4月6日に出来上がって、ヨコシネの田村さんが自宅に届けてくれた。例年だと、今頃ネガ編に出すところだが、今年は招待作品は前もって2月にプレゼンしなくてはならなくなったので、早くでき上がったというわけ。「フェスティバル2000」のプログラムを見ると、相原信洋さん、奥山順市さん、かわなかのぶひろさん、田名網敬一さん、それにわたしが年輩の映像作家で、多分わたしが一番の「高齢」ではないかと思う。若い人から見ると、その「高齢者」が古株の名に任せて面白くもない作品を出しているということになるかも。そう言われたくないなあ、という思いがある。

 さて、今年の新作『物語以前』は、物語という観念を踏まえて、昨年の多摩美でのわたしのゼミに参加した諸君に演じて貰ったシーンを元に、わたし自身が物語が出来ない男であることを述べる作品。ゼミで演じているところとわたしの家の庭の朝顔が主なシーンとなる。ゼミでは、参加した人たちに「話し」をして貰い、それを次の時間までにわたしがペーパーに書き起こして、シナリオ化して持っていき、話した当人たちに演じて貰い、16ミリフィルムで撮影した。わたしにとっては創作、学生たちにとってはシーン作りと撮影・音声合わせの演習ということになる。カメラとフィルムはわたしのものを使って、それがこの新作になるということは言ってある。撮影が終わって、出演料代わりに、近くのレストランでみんなにご馳走した。

 わたしの考えていることは、何で映画を作るというと「物語」を考えるのだろう、ということ。その物語というものは、どこから出発するのだろう。そこで「嫉妬」というところに出発点を置いてゼミを進めてみた。そういう「作話」と直接関係しない日常の情景を並列して、「昨年の夏から秋にかけてのわたしの『物語以前』の物語」としたわけ。次に、よく分からないが「物語の物語」っていうような話を作って見たいというような気もする。今回は「物語以前」で、次は「物語の中へ」とか、面白くないかなあ、なんかその先へ行かれる気がしているのだけど。

   

2000年4月6日

珍しくいろんなことがあった日。

詩集とチラシ
 二冊の詩集と個展のチラシ

 4月5日は、珍しくいろんなことがあった。先ず、午前10時を廻って朝刊を読むのもそこそこに、雨の中、魚眼レンズをつけたカメラと照明用の電球を入れたズックのバッグを肩に出かけた。JR市ヶ谷駅の二階の喫茶店で、読売新聞の前田記者と待ち合わせて、市ヶ谷砂土原町の思潮社へ、思潮社会長の小田久郎さんを「読者百景」に掲載する写真に撮るために向かった。砂土原町には難なく行き着けたのだが、もう二、三十年は訪れたことのない思潮社の建物の在処が分からなくなって、砂土原町を一周する。前田さんが近くの法政大学の校舎の公衆電話で聞いてみたら、そこから数十メートルのところだという。路地を行くと、「現代詩手帖」の編集長の小田康之さんが傘を差して手を振っていた。思潮社の建物は以前来たときのまま、その奥まったところにあった。そして、詩人西脇順三郎が書いた額が掛けてある独特な会長室で小田久郎さんを写真に撮った。

 小田さんは「詩の出版社の会長」で、わたしは「詩人」だから、必然的に詩の話になった。小田さんは、誰もが容易く詩を書いてしまう時代になって、いわば詩が低調になっていることを心配していた。平易な詩を書き始めた昔のわたしがその張本人じゃないの、と冗談も出た。小田さんは「現代詩手帖」や「現代詩文庫」で現代詩を支えた人だ。人の興味を引く詩が少ない現在、彼の「詩が低調」という心配も頷ける。わたしは、「現代詩文庫が詩の読者を大衆化して、現在は詩の書き手が大衆化してきたところで、あと五年もすれば、その大衆化した書き手の中から人の注目を集めるような詩が出てくるでしょう」と言った。とにかく、書き言葉の新しい局面が始まったばかりで、そこからこれまでとは違う「言葉の芸術的表現」が出てくるに違いないと、わたしは思っているわけ。

 話が一段落したところで、小田さんは昨年出た安藤元雄さんの詩集「めぐりの歌」の初版本を「読んでなかったら是非読んで」と前田さんとわたしに下さった。安藤さんの詩集は多分昨年贈られてきたように思ったが、その時読んでなかったので、積み上げられた詩集の中で行方不明になったいると思い、有り難く頂戴した。「あとがき」に「小田久郎さんのすすめと励まし」と書いてあった。そして、思潮社を後にして、四谷の「ビューイングルーム・ヨツヤ」で開かれている若林奮さんの「<森の中の一角獣座>の過程と未来」展を見に行った。この展覧会には、西多摩郡日ノ出町のゴミ処理場に作る作品のイメージスケッチと銅で作られた箱が展示されていた。日ノ出町のゴミ処理場に何度か誘われたが、一度も行ってないので気後れして個展にも行きそびれていたが、前田さんに誘われたのをいい機会に来てみたというわけだった。時間の層を実体化するという若林さんの作品がゴミ処理場と結びつくというは、わたしにとって実に驚異的なことだが、何故か足が鈍ってしまうということもある。この会場には、ドキュメントなどが置いてあったから、もう一度来て見てみようという気にもなった。

 ところが、画廊の若い女性の説明を聞いているとき、もう一人の若い女性が入って来た。なんとそれが数年前に早稲田の文学部の中庭で会って以来会ってなかった詩人の関口涼子さんだった。彼女は今パリに住んでマグレブ(Maghreb)の研究をしていて、先ほど成田空港に着いて、その足でここ若林さんの個展を見に来たと言うことだった。関口さんは最近書肆山田から詩集「発光性diapositive」を出したばかりで、わたしは先月読んで、いいなあ、と思って、この「曲腰徒歩新聞」で紹介しようと思いながらまだ書いてない。いやー、パリにいると聞いていた関口さんと何年か振りで会えるなんて、実に驚き。何か、今日は芸術の点が結びついていく日、という印象だ。家に帰って、小田さんから貰ってきた安藤さんの詩集「めぐりの歌」を読んだ。時間が推移して行く。

 

 

2000年4月2日

「個人の境界」ということ。大木裕之「映像」展を見て。

大木裕之の「映像」展チラシ
 大木裕之の「映像」展「超全体主義的性交」

 3月26日のイメージフォーラムの卒業式で、わたし自身の目元とおでこの辺りのアップで撮った40秒のビデオ映像を、映像作家の大木裕之に渡した。彼の「映像」展に使いたいというので、その朝ビデオカメラを自分に向けて撮ったもの。大木裕之は3月14日から4月9日まで青山のワタリウム美術館で「超全体主義的性交」という映像展をやっていて、それは「1a」から「8h」までの64個の「イメージボックス(部屋)」を設けて、そのボックスの中にいろいろな人の映像を入れて、一本のビデオテープの上で編集を繰り返し、その変化し続ける映像を上映しっぱなしにして置くという、映像インスタレーション作品。

 一つのボックスに一人の人が撮った映像しかなければ、その人の映像だけが流れるが、二人、三人と入ってくると、編集され重ねられ交わり、いわばそこに「映像の性交」が実現され、64回の多数の性交が全体で「イメージの塊」を作るというコンセプトらしい。既に、イメージフォーラムの講師で映像作家のかわなかのぶひろさんや映画監督の金井勝さんにも声を掛けていて、金井さんのところにはわざわざロケに行って大木自身が撮影して、一人の「ボックス(部屋)」にその映像を入れているということだった。

 枠に番号を振った図面を見せて、「どの部屋か選んで」というので、わたしは既に3人が入っているという「3h」の部屋を選んで、40秒しか撮ってない60分のDVのテープを大木裕之に渡した。それが26日。そして29日に、どうなっているかちょっと期待して青山のワタリウム美術館に見に行った。この日は4階のエレベータ前に2台のテレビモニターを重ねて、時間をずらして、異なるヴァージョンの映像を流していた。初めから終わりまでで40分ほどの上映を、作者の大木裕之といろいろ話しながら見たので、楽しかった。上下のモニターに同じ映像がずれて、変わった編集で出てくるので、作者の説明と合わせて、「64回の性交」の意味がそれなりに理解できたと思う。一応見終わってから、階下の喫茶室に行ったら、そこは小沢剛さんの「相談芸術カフェ」というイヴェント会場で、あみだくじで苺ミルクを飲んだ。「相談芸術カフェ」というのは、来客と相談して店内を逐次模様替えしていくということだった。壁に描かれた噴火している富士山の絵を指して、「あの噴火はぼくの希望ですよ」と大木裕之は言っていた。なるほど、苺ミルクもコンセプチュアルに飲まなければいけないんだ、と思った。

 「3h」を選んだわたしの映像は僅かしか使われてなくて、砂浜で人の形の藁か細い木かが燃える映像と、岡山の画廊をやっている中年の女性が話している映像とその他の映像とがランダムに編集されていた。実は、その時大木さんの説明で初めて知ったのだが、その女性というのが、多摩美の、わたしが教えている学生の母親だったのだ。その偶然には驚いた。「この部屋に入っている人たちは強すぎるんですよ」と作者は言っていた。別のボックス(部屋)では、金井さんが自宅で奥さんと並んでいたかと思う間もなく庭の池に飛び込む映像もあった。かわなかさんの顔には、かわなかさんがタイで撮ってきた子供たちが重なるという映像だった。やっぱり知っている人がいると、そこに注目してしまう。大木裕之が道ばたでうんこしていたなあ、品のいいお爺さんにスチルカメラを向けている人もいたなあ、ベッドの上で跳ねている若い女性、町中で歌って歩いている大木裕之、 そういえば炬燵のある部屋で、素っ裸で身体をくねらせている女がいたなあ、雲が流れて行く東京の上空、顔にジェリーを塗る若い女性、何か色々あって全体で40分の上映が終わってテープを巻き戻し再上映が始まるのだったが、その他の多くの映像は忘れてしまった。多分、あと数日したら知っている人の顔はともかく、殆ど全部忘れることだろう。だたし、ワタリウムに見に行ったこと、モニターにいろいろな映像が映し出されていたということは忘れないと思う。

 この64のテープ上のパートの中でミックスする映像の混淆を、大木裕之は「64回の性交」といって提示した。作者は性交という言葉遣いで、イメージの身体性を示唆しているわけで、撮影するにしても映し出されるにしても、そこに「主体」としての身体を持った個人がいることは確かだ。作者が撮影した映像であれば、映像は撮影者の主体と撮影されるものの客体との関係がはっきりしている。しかし、ここでは作者の大木は、他のこのコラボレーションの参加者も主体であるから、映像との関係ではそれらの参加者と同等である。従って、40秒でも、個々の撮った人の作品としての形態が保たれていれば、全体では主体の並列ということになるが、大木裕之と編集マンがそれぞれのパートの中でそれを崩して編集し直してしまうということで、もとの作品の固有性は失われて、新たに共同し一体化した固有性が生まれることになる。つまり、各パートごとに、複数の参加者を超えた映像主体が生まれてくることになる。しかし、この作品では、実はそのそれぞれのパートがかなり似たり寄ったりのものになっている。そのことを彼は結構気にしていた。あるパートは澄んでいるが、あるパートは濁っている、というような言い方をしていた。多分、混交することで、それぞれの主体が消えて、架空の主体がはっきりとした姿で生まれることを期待していたのではないかと思う。似たり寄ったりでは、「全体主義そのもの」となってしまうから、「超全体主義的」として、それを超えた主体の群れが出現することを目指そうとしているのだろう。

 64のパートの混交した大木裕之の作品を見ながら、そういえば先週見た「イメージフォーラム付属映像研究所第23期卒展」の18プログラム95作品を全体で一つの作品として見ることも可能ではないかと思ったのだった。そうすると、一つ一つの作品として評価していたのとは違った見方が出てくるように思えた。一つ一つの作品として見ていくと、いい作品と駄目な作品というように評価する。実際、作品制作の過程で講評するという時点では、いいところはいいと評価し、駄目な作品にはその駄目な点を指摘して、更に良いものするように指導する。それは、作者が表現したいと思っているところをクリヤーに出して、存在感のある作品に仕上げるということである。それでもありきたりで、存在感が薄く、見ても直ぐに忘れられてしまうような作品もある。そういう作品を駄目な作品というのだが、そういう作品はその作品だけでは否定的な価値しか持ち得ないが、95作品全体を一つの作品として見ると、出来てない印象の薄い作品が、全体が持つリズムの中で他の印象の強い作品を浮き上がらせて支えているというような役割を果たしていると見えてくる。そこでは、その作品の価値が変わってくる。つまり、18プログラム95作品の一挙上映ということは、表現の大衆化に於ける価値のあり方の変化を、見るものに求めているのではないか、ということである。一つ一つの作品は個々人が作ったのであるから、作者としての個人の境界ははっきりしている。しかし、全体を一つの作品として捉えて、個としては駄目なものをそれなりに他との関係で評価すると、作者の個的存在の境界は曖昧になってくる。大木裕之のこの作品ような、作者という主体をまぜこぜにした作品のあり方は、その大衆化した表現にあっての作者という個人の境界の問題点を示唆しているように思える。それは、Webでの個人表現のあり方と言うところで、従来の「雑誌」のような明確な枠がないところでは、個人の境界がはっきりしなくなって行くところにつがっていくように思えるのですが、どうでしょうか。  

 

 

   








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